怪物のレビュー・感想・評価
全918件中、781~800件目を表示
理解できぬ他者は、皆々モンスター
『黒澤明』の〔羅生門(1950年)〕でお馴染み、
主要な三者の視点で一つの出来事を描く。
小学生の息子を持つ
シングルマザーの『麦野早織(安藤サクラ)』。
担任教師の『保利(永山瑛太)』。
そして『早織』の息子の『湊(黒川想矢)』。
夫々の順に語られ、同じ事象であるハズなのに、
度毎に異なる側面を見せ出すのはお約束の流れ。
『早織』にしてみれば息子は被害者で
『保利』は「モンスターティーチャー」。
『保利』にとって『麦野』親子は「モンスターペアレント」と「モンスターチルドレン」。
が、不思議なことに『湊』にとっては
必ずしも『保利』は忌避する存在ではない。
母親との関係も、思春期にありがちな断絶も見られない。
とは言え、母親からすれば、息子の些細な変化にも過敏に思いを巡らす。
傍から見れば、『早織』が贔屓の引き倒しで
不確かな噂や外見に過剰に反応した結果とも見える。
そしてまた、子供は嘘をつく。周囲に流されやすい特性もあり。
勿論、大人もそれは同様。
とりわけ学校を守ろうとする校長の『伏見(田中裕子)』の存在も事態を混乱に導く。
こうした物語りでは、最後は三者三様の混沌になるケースが多いのだが、
本作ではそれを善しとしない。
起承転結の輪郭が次第に明確になり、
最後に鑑賞者は理解し安堵を得る。
久々にぐいぐいと引き込まれるような語り口に
固唾を飲んで観入ってしまった。
「カンヌ国際映画祭 脚本賞」は
伊達ではないとの納得感。
そして邦画には珍しく、子役の男児が二人とも演技が巧い。
『湊』の友達の『依里(柊木陽太)』も含めてのことだが
これは極めて珍しいこと。
もしかして私も怪物なのかも
新しい気付きを与えてくれた重い映画
この映画のような状況はどこにでもあるのではないかと思った。私のことが怪物に見える人もいるのかもしれない
いじめていた生徒や父親、先生の彼女、学校を守ろうとした先生だって、悪い人に見えてもこの映画で描かれたのはほんの一部でしか無く本人の視点になると違った一面があるのかもしれない
怪物だと思われた人はいるが、怪物はいないのだと思う
どの場面で恋心を抱いたのかなど一度観ただけではわからないこともあったので、解説があったら見てみたい
映画は3章だったが、登場人物全てを主役にして章立てて観てみたい
こうやって社会に疑問を投げかける作品を作れる方々を尊敬するし、自分もそうなりたいと思った
世界に自慢したい邦画
映画は3者の視点から描かれます。
序盤は、湊の母(安藤サクラ)の視点から始まります。湊の不可解な行動と、学校側の真実をひた隠しにしようとする様な対応に、観客側をイラつかせます。当然誉め言葉です。それにしても、安藤サクラさんって、未亡人役が本当にはまっていますね。夫死後も気丈に前向きに生きていこうとする姿、目の演技は見事です。
中盤、湊の担任(永山瑛太)視点では、前半は不審の対象でしかなかった人間が、本人目線で描かれています。瑛太も、「悪気はないけれど、ぱっと見はちょっと変な表情」を出すのがうまいですね。
最後、湊の視点。ここで前中盤に描かれていた、諸々の伏線が回収されていきます。
さすがの是枝監督×坂元脚本コンビ。映画は終始退屈することなく、人物表現に自然美と考えられた構成で秀逸な映画ですね。ラストシーンの故・坂本隆一の音楽との親和性も素晴らしいです。
「世界に自慢したい邦画」と感じました。
それぞれの怪物
怪物の餌は、対等な人間として扱われない孤独か。
どうして悲劇は起こってしまうのか。
対等な人間として扱われたい。
可哀想だと見下されたくない。
晒し者や笑い者にされたくない。
理解されずに見捨てられたくない。
不幸だなんて決めつけられたくない。
自分の大切なものを傷つけたくない。
人は守りたい何かのために嘘を吐く。
その嘘は自分も周りも苦しめる。
人は守りたい何かのために攻撃対象を探す。
その独善は自分も周りも追い詰める。
生きる術として身につけた生きづらさ。
対等な人間として向き合うことの難しさ。
大人が作り上げた世界に翻弄される子ども。
肩書き、トロフィー、誰かに決められた幸せ。
「そんなの、しょうもない。誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。しょうもない、しょうもない。誰でも手に入るものを幸せって言うの」
湊視点での校長の細やかな心理描写が苦しかった。
対等な人間として認めないと心は閉ざされる。
対等な人間として寄り添えたら心は開かれる。
受け入れてもらえる居場所は誰にも必要だ。
それが家庭にも学校にも無いのが彼らだった。
依里の死生感に触れた湊が「生まれ変わる」と言い出し「出発」に希望を見い出してから、彼らが壁も柵も無い夢のような新世界を楽しそうに駆け回るまで、切なくて涙が止まらなかった。
「太陽が眩しい。海の匂いを胸いっぱいに嗅ぐ。いつもと違う匂いがする。僕は生まれ変わったんだ。僕は誓う。絶対に西田ひかるさんと結婚します。五年二組保利道敏」
胸がいっぱいで思うような文章にならない。
私は二人をジョバンニとカンパネルラに重ねて見てしまっていた。宮沢賢治が書いた銀河鉄道の夜だ。もしや「出発」後に靴が脱げていた依里は既に亡くなっていて、そして湊は意識不明の後に目を覚ますのでは、…などと残酷な想像をしてしまった。その展開があるとしたら、母親と元担任の理解を得られて、家庭に居場所が出来るのかもしれない。「出発」してでも好きな人と手を取り合うこと、好きな人と離別して「生きる世界」に安全な居場所を得ること、私にとっては一体どちらが幸せなんだろうかと考えさせられた。
良い映画でした
視点が変わることにより登場人物の印象がどんどん逆転していくところは圧巻だった。大変面白く観させてもらった。
以下は少し気になった点
ミナトくん、星川くんはまだ小学生で未熟で仕方ないのかもしれないし、性的指向やいじめ、虐待など抱えている問題が大きすぎたのかもしれないが、ホリ先生の人生を狂わせるような嘘を吐いたまま二人の世界に浸って終わっている点がモヤモヤした。
母や教師たちの大人たちもそれぞれ怪物だったが、子供もまた自覚なく残酷なことをする怪物のように感じた。
小学5年生に先生の立場を慮ることは望むべきではなく、子供の気持ちを言わずとも汲んであげるのが親や教師の責務なのかもしれないけど。実際台風の日にホリ先生が二人のことに気づいてくれたし。でも現実の教師に対してそこまでを望むのは酷かなと思う。
3者とも違うように感じている。さて真実は?
ある1つの出来事を3人の当事者が各自どのように感じたかを心象風景として描写する。同じことを体験し見てるのに、違って見えたり感じたりする。しかも各自の感じたものが、事実より強調して描かれる。また曖昧にしたままの部分もある。だから3人(+校長)の視点の描写を全部合わせても1つの真実にはならない。脚本の妙である。僕は脚本のことなんか全く分からないのに思わず「上手い」と上から目線でうなってしまった。
母親にとっての怪物と、教師にとっての怪物は明らかだが、さて息子から見て誰が怪物なのかは僕には分からなかった。レビューがたくさんあるので誰か書いてると思うから教えてもらおうと思う
最後の場面はどちらなのだろう? 僕は、まあ、どちらでも良いかなと思う。
さっき「海街diary」がテレビでやっていた。「怪物」公開記念らしい。4人が今より微妙に若い。
怪物探しというミスリード
「羅生門」を彷彿とさせる保護者、教師、子ども達、それぞれの目線から語る三者三様の一つの物語は、"怪物"というタイトルによるミスリードにより意外な着地を見せる。
また、子供は純粋無垢であると信じて疑わない親にとってはボディーブローを喰らうような話となっている。
とある1日をベースに3章仕立てになっているのですが、ナレーションや字幕などの補足はせずに街の俯瞰ショットで「あ、視点が切り替わったな。」と映像で分からせてくれる演出はスマートだし、2章までは"怪物探し"="犯人探し"という語り口で3章が真実。同じく「羅生門」をベースにしたリドリー・スコット監督による「最後の決闘裁判」と似た構成になっていて、現代における社会的なテーマを盛り込む構成としてはこのスタイルはバッチリ合うのかもしれない。
"怪物"とはどこかに犯人がいるに違いないと犯人探しを止められない私達ではないか?と我々観客側に投げかけてくれるようなテーマで、よくある教師による暴力事件に収束していく第2章の終盤まで弱者(子供達)は"被害者"に違いないと思い込み、分かりやすいよくある教師による暴力事件に収束していくこの不毛さ。人間とはそんなに分かりやすくないはずだ。一筋縄ではいかない、複雑だからこそここまで沢山の映画が作られている。この役回りは田中裕子さん演じる校長先生が担っている。
彼女の抱える闇は舞台となる街の中心にある夜の湖のように深く、底がわからない。
この映画はネタバレを伏せながら感想を書くことはとても難しい。良い意味で期待を裏切られる作品だ。是枝裕和監督の真骨頂でもある3章はとにかく子役の2人が最高の演技。ラストシーンに消えていたあるものが暗示するものをどう捉えるか。受け手に投げかけてくれる。まさしくアートのカタチをとった映画。
今の日本を代表する監督になりつつある是枝裕和監督と、超売れっ子脚本家の坂元裕二さん、そして坂本龍一さんというすごい企画で、さすがの川村元気さんプロデュース。
坂本龍一さんの遺作となってしまった本作ですが、体力の限界もありピアノ曲2曲のみの書き下ろしなってしまったようですが、この2曲のハマり方の精度も素晴らしいし、撮影もかなり凝った撮り方をしている箇所がいくつもあり(1章終盤の一連の車のシーンや2章終盤の土砂に埋もれた電車の窓のシーン3章ラストなど)、良い!!!
事前の調査不足があまりにもひどい…
今年178本目(合計829本目/今月(2023年6月度)3本目)。
学校内で起きた「とされる」とあるトラブルを、三者三様の立場から描くタイプの映画です(よって、映画内では明示的に出ませんが、第1章~3章まであると考えたほうがよさそう)。
また一方でこのような放送形態を選びつつ、例えば「第2の視点での描写」のシーンで、はじめて第1の描写からはわからない(または気が付きにくい)ところの描写があるなど、なかなか「手ごたえ」がある作品で、1度見るだけではなかなか苦労するのではなかろうか…と思えます。
本作品に限っていうと、何を持って「怪物」とするかは議論の余地があり(極論、程度の差はあれ全員が「怪物」という見方は可能)、ここは「各自で考えてね」タイプになるかと思います。またそのような関係で、「真にこの事件を起こしたのは誰か」等の部分はいわゆる「ミステリーものの犯人捜し」をテーマにしている映画と趣旨を同一にする部分があり、そこのネタバレは難しいです。
映画としては高く評価できるし、複数回見に行っても良いかな(上記の事情上、一度ですべてを理解するのは難しい)タイプの映画ではあります。一方、資格を持っている立場ならすると、「新人監督さんでもないのだし、もっと調べようよ」という点は顕著に感じられ(正直、何も調べていない?が正解?)、「何を言いたいのかよくわからない点」も随所に見られます。
作品としては決して駄作ではないのですが、これほどまでに知られる監督さんになったからこそ、「作品作成にあたり、関連する諸法律のごく最低限の調査はしてほしい」という点にほかなりません。
評価は下記の通り、3.4を3.5に切り上げています。過去、3.5評価をしたのは数えるほどしかありませんが、本作品は監督がいろいろな賞を受賞したりと「他の一般の映画の監督さんとは違う」点は明確に言え、「ごく最低限の調査もしなかったのか」というため息しかでないです(私人は対等とはいえ、カンヌ祭で取り上げられる映画のレベルであれば、「通常の映画」よりもちゃんとした裏付けがないと意味がわからなくなってしまいます。
--------------------------------------------------
(減点0.8/「避難命令」とは何なのか)
・ これらは、災害対策基本法(ほか、一部の派生する法律)に定めがありますが、日本においては「避難命令」というものは発出できません(そのようなことを容認する条文は存在しない)。
※ ただし、東日本大震災のときのように、「相手方(要は、住民)に「わかりやすく」避難の必要性を説くために、「あえて」このような使い方をされたケースはあります。
この「避難命令」とは一体何なのでしょうか…。
(減点0.8/「避難命令」から生じる行政上の強制について)
・ そもそもそのようなものがないので論じても無駄ですが、主に考えられるのが「直接強制」(検疫のための強制隔離等。人権侵害の疑いが強いため、限定的に運用されています)、なのか「即時強制」(違法駐車をしている車をレッカー車で移動させる等)の区別は誰にもできません(そもそも「避難命令」という語句がないのだから当たり前)。
※ 直接強制、即時強制とも、法(条例でも構わない)による条文上の根拠を必要としますが、そもそも「避難命令」という語がない以上、それを論じても意味がありません。
怪物は人の心
是枝監督はいつも世相を
写し出している
今回は子どものいじめ
父親からの虐待
学校側の揉み消しなど…
母親の安藤サクラから
校長の田中裕子を追い込む所から
オモシロく始まった
暗くなく重くならずコメディでもなく
そこにLGBT を入れてくる
余りにも作り込み過ぎている
…感じがした
湊が好きな子がいることを校長に話し
校長と二人で楽器を鳴らすところは
和やかでとてもいいシーン
…見ている側の状況が違うと
見え方がぜんぜん違ってみえる
ある意味担任役の瑛太は滑稽にみえる
瑛太の恋人役の高畑は…
・・怪物・・って何
一方的な見方で思い巡らし
妄想を膨らます心
学校守るために
揉み消そうとする心
人が窮地になると
そこから離れていく心
差別や傷つける言葉、態度、
種々のモンスターがいる
くれぐれも怪物にはならないように
と自戒をこめて。
…でもやっぱり
怪物はあの○○○かな
自分も怪物かもしれない
予告編を見て抱いていたイメージとはだいぶ違いました。
いくつか???と思う部分はあったものの、最後までしっかり鑑賞。
「怪物だーれだ」の意味を考えさせられます。
登場人物は皆一生懸命に生きている。
それゆえに、守りたいもの、愛するものへの想いの強さから、相手にとって、時に怪物と化してしまう。
そしてまたある時は、誰かの「怪物」に苦しめられる。
男の子2人がなんとも自然体で良かったです。
難しい役どころを見事に演じ切っていました。
大人の俳優陣が実力ある方ばかりの中、まったく見劣りしませんでした!
(田中裕子さんはやっぱりすごい)
また緑豊かなロケーションと、坂本龍一さんの優しい音楽が調和しているのも素敵でした。
さて今回の真相の核は、男の子2人のクィアな関係性でした。
ただ思春期の頃を思い返すと、同性・異性かに関わらず仲が深まることに心が踊ったし、二人きりが良いな、と思う場面も多々あったように思います。
それをどう定義付けるかは別として、こんなに心が通じ合う相手が、学校という狭いコミュニティで見付かったのは充分幸せなことだ、と本人たちが感じられる環境があったらどうなってたのだろう、、とないものねだりをしてしまいます。
また大人になった今、自分は子どもの心の成長を破壊しうる立場にいるのだ、ということを忘れずにいたいな、と思いました。
。・゜・(ノД`)・゜・。小さな恋のメロディ。
ああああ、このラスト。ダメでした。涙腺が決壊した。
『小さな恋のメロディ』って映画、昔見た覚えがあります。ラストはトロッコでどこまでも2人で逃げるシーン。あれはよかった。あれに重なってしまって涙腺決壊です。
彼らは目的の場所に行けたのだろうか?というより彼らは命を落としているんでしょうね、、、、。だから余計泣きが入りました。
おそらくこの映画の論評には視点を変えると様々な見方があるだとか、LGBTの生きづらさとかがクローズアップされた映画だとかの論評が多いんだろうけど、後半の彼らの演技は上質な恋愛映画でしょう。結ばれない物達。本当に切ない。家に帰ってもじんわり切ない。
怪物が住みそうな湖のほとりの街の出来事、怪物とよばれた物達の叫びがこだまする街。
またすごい映画を観ました。
タイトルなし(ネタバレ)
麦野くんと星川くんがお互いに想う感情は廃線となり山に置き去りにされた一両の列車であり、途中映し出される多両編成の貨物列車が、麦野母親や保利先生が無意識に刷り込む一般的なジェンダーハラスメントを揶揄しているんだと思う。
最期、2人は死んでしまったと解釈したが、生まれ変わってもきっとまた一緒に遊んでいるはずだ。
怪物 誰ですか
先に小説を読んでいた。映像化されたら見に行こうとは想ってたけど、封切り前にカンヌで脚本賞をとったとのことで期待は高まり、すぐ見に行った。
誰の主観で、時系列はどう映像化するの?と思ってたが、小説そのまんま。そうか…この小説(と思ってたけど脚本か!)が賞をとったのかね。そのまんま映像化されてたよ。監督もすごい、息ぴったり!
本では、ラストシーンの少年たちが生きてるのか死んでるのか分からなかったけども(分かったけど信じたくない)、映画を見て分かってしまったよ。あと切ない想いが、脚本より伝わってきた。
お母さんやホリ先生の達のアンコンシャスバイアスが少年たちを追い詰めてしまったね。今後はその辺も気をつけて子供に接さないといけないのかなぁ…
と自分の中のアンコンにも気づく。
怪物だーれだ?
これぞ是枝作品という現代社会に斬り込む一作。観了後に得られるのは、何本もの作品を観たかのような満足感だ。なぜなら、親/教師/子どもそれぞれの視点から描かれる三部構成だからである。
序盤に描かれるのは、早織(安藤サクラ)の息子湊(黒川想矢)をめぐる不可解な行動だ。得体の知れぬ不穏さを充満させ、謎解き要素を強める。第2章までは、保身や駒として使われる社会の構図など大人目線で描かれる"怪物"が目につく。
しかしこれらは、クライマックスに向けたカモフラージュだと感じる。なぜなら、最終章で張本人の立場から、本作の主題であり"怪物"の正体と言える性的指向を浮かび上がらせるからだ。
素直に受け入れられず悩み偽り苦しんできた気持ちに、楽器を通じて吐露するのが非常に印象的。その手助けを、"あの"校長がする設定も大変興味深い。
衝動に駆られた末でのラストカットは、一皮剥けた新たな自己で突き進んで行く希望を感じさせる。
時系列を整理するために、各章で共通する天気や音を散りばめているのが巧みである。
また坂元脚本は、「皆が手に入れられないものを幸せとは言わない」など、今回も数々の名言・掛け合いを残してくれた。言わずもがな最高である。
ここまで制作者目線を中心に記したが、是枝/坂元作品の常連であり、今クールの連ドラ主演も含む豪華キャストの表現力ももちろん見事。しかし今回は、ミスリードを含め複雑で多面的心情を表現していた2人の子役が主役だろう。
上記はあくまで主観、怪物は一体誰(何)なのか、ぜひ劇場で確かめていただきたい。
怪物だーれだ
全918件中、781~800件目を表示