怪物のレビュー・感想・評価
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「感動」で片付けてはいけない
まず坂元裕二の脚本が素晴らしい。
第1幕の主人公早織から怪物に見えた保利。第2幕の主人公保利から怪物に見えた湊。そして、第3幕の主人公湊から怪物に見えたのは、自分の知らない自分と、それを誰にも話せない空気を作る社会だった...
怪物に見える対象が次々に変化し、観客の感情移入を手玉に取る構成は見事としか言いようがない。
そして、怪物探しの果ての第3幕にあったのは、2人の少年のかけがえのない時間。ここは是枝監督の手腕が存分に出ていたと言って良いだろう。特に片足けんけんのシーンでは、この映画で初めて「他者を思いやり痛みを分かち合おうとする人間」が映されており、今年ベスト級の尊さを誇っていた。
ラストに関して、彼らが生きているのか死んでいるのか、それはどうでも良いと思う。
問題は、あれが何であれ現実ではないということ。
本当に素晴らしい撮影で、「感動」「美しい」「希望」という言葉でこの作品を締めくくりたくなるが、彼らは現実ではついに受け入れてもらえなかった。
あの美しい光景を、現実世界でも実現できるようにするために、僕たちはどうすべきなのか?何が出来るのか?
それを考えることが、この作品の価値なのではないかと強く思う。
本当に素晴らしい
是枝裕和監督の新作。
是枝作品としては珍しく速度が早い作りでした。
脚本が実に巧みで“立ち位置が違えば見え方も全く変わる”、その3つの視点を組み合わせた作りも見事。
多様性をテーマに、その危うさをじっくり見せてくれました。
導入のエピソードから物凄く不穏で、嫌な気持ちでいっぱいになるんですよ。
怪物。それは誰もが抱えていて、誰もが作り出せるというのがよく伝わってきます。
序盤は安藤サクラの芝居が全部持ってってますが、やはり子役の二人がすごいですね。
瑛太も2方向の教師をよく演じ分けていました。
それと最初こそ怪物そのもののような校長の存在。
怪物にみせてその実、要所要所で物語を動かしているのが、本当うまい位置付けでした。
3月に亡くなった坂本龍一の音楽も、作ったのは二曲だけなのに全ての曲が本当にフィットしているから驚きます。
そうして迎えた物語の終わり。
それは観客に見えている二人とは別に、やはり違う視点から見えている真実があるのだと信じています。
少なくとも二人は自分達を受け入れてくれる希望を見つけ、そこに向かって走り出していました。力一杯に。
そしてこれがとても美しいんです。
本当に素晴らしい作品でした。
ひとつでない真実
この物語で眼中に入ってこなかった人々。
それは、教師の見えないところでいじめを働く子供たち。
自分の子供が他人の子供を傷つけていることを知らない親たち。
体罰や虐待があたりまえだと思っている親、教師。
弱いから、不潔だから、勉強も体育もできないから。片親だから。
そんな理由で、感じやすい子供から大切な学校時代を奪い去る人々。
おそらく、「暗い映画だね」のひとことで、あらぬ噂を立てるだけ。
あの子はもともとそういうい子よ、と決めつけるだけ。
感じやすい子供が、自分を見失うことを恐れて、真実から目を背けることを知る由もない。
そんな人々をあえて無視した、是枝監督の功績は大きい。
それぞれの真実を抱えた、感受性の強い母親、教師、子供だけに人格が与えられた。
そのこだわりの演出と坂元裕二の脚本のなにげないひとことに心が揺れる。
孤独な少年二人が共有する、「怪物だーれだ」のゲームは意味深だ。
彼らが考えた怪物に対して、矢継ぎ早に繰り出されるヒント。
だが、ヒントだけでは怪物の正体を当てることはなかなか難しい。
まるで、真実はひとつという言葉をあざ笑うかのように。
みんなが無責任にヒントを出し合えば出し合うほど回答は遠のく。そんな現実。
「誰にでも手に入れられるものを幸せというんだよ」
孫を失くした傷心の校長の、怪物とは真逆の言葉だけが、なぜか回答に一番近いヒントのように思えた。
タイトルなし
三者視点で物語が違って見える話
こういうのって視点が変わることで、人間の隠された陰湿さとか実はこんな思惑、真実が…とかの展開になりがちだけど、明かされてくほどに誰も悪い人も怪物もいなかった…
母から見た教師はすごくやばい奴にしか見えないけど、不器用な善良教師で
教師から見た生徒は問題児にしか見えないけど、本当はクラスメイトからのいじめをかばう友達同士で
子供視点で本当のことがわかる
自分から見える世界はどれだけ狭く、偏り、見ようとしたものしか見えない、見ようとしても見れないことで溢れてるんだろうか
三者とも同じ時系列なのにまるで別世界だった
そして誰もが誰かを想っていた
なんで髪切ったんだろ?ってことがわかった時、みなとが嘘をついた理由がわかった時なんとも言えない気持ちになった
親に豚の脳みそって言われる理由が頭が悪いことではなく同性愛者だからということに震えた
親視点では殺伐としてた世界は、二人の視点からだととてもキラキラしていた
まぶしくて不自由でくるしくて愛しかった
みなとが最後に「生まれ変わりなんてないよ」って言ったことがよかったな…
親達が必死で捜してる中、子供達二人は二人だけの世界を陽の光のなか走っていて希望に満ちていた
永遠に続いていきそうなくらい美しかったし、二人だけのピュアラブストーリーだった
…えっこれもしかして二人死んでるってことないよね?
二人が二人なりに生きていくこと、二人の絆を再確認した、もしくは親の呪縛から逃れた描写かと思ったんだけど、ワンチャン二人が逃れるにはこの世界からいなくなる…とかじゃないよね?信じてる…
でもそれすらもわからないんだよ、いっそ
自分の見たい世界しか見ないし、見れないし、わからないんだもの私達は
だから無理解が生まれて、分かり合えなくて、人の数だけ踏みこめないその人だけの世界があって、なのに私達は知らない人間の事件を、だれかの噂話を、さも自分は真実を知ってるかのように何もかもわかってるかのように語る
私達は何もわかってないこと、誰かの全てを知りえないことを、そしてそれを忘れて全て見えてる気になってることを優しく突きつけられる映画だった
もう一度観る!
なんて美しいんでしょう
予告見ただけで事前情報入れずに鑑賞して正解。1回目見て、その次の回で2回目も見てしまった。
前半は社会派サスペンスなのかなと思いきや後半は純粋な愛(愛と表現するのも違う気がするが)
母親視点50分、保利先生視点25分、湊視点50分でした(時計見た)
母親から見た保利は態度最悪、面談中に鼻噛むわ飴舐めるわ、シングルマザーがどうこう言うわ。後に保利は何も悪くないと分かるが、何故こんな態度悪くしてたんだ?と消化不良だったが2回目見て理解。駅で恋人からシングルマザーだと過保護になるとか飴口に入れられて「そんな深く考えなくていいんじゃない?」と言われます。それをそのまま実行したのだと。
それにしても保利って変な人ですよね。自分が体罰教師と書かれた週刊誌見てニヤニヤしてるんですよ。付箋貼って。これはきっと誤植を見つけたんでしょう。恋人にも「誤植見つけて出版社に電話入れる」って言われてたし。でもこれが伏線となって、依里の作文のトリックに気づくんですよね。
湊は最初は自分の気持ちを認めなくなかったんだろうね。だから依里に触られた髪を切ったり、クラスメイトに「好きなの?」って揶揄われたとき依里を攻撃したり。苦しかったんだろうな。
でも私は、母親に「普通に結婚してくれたらいい」って言われて車を飛び出したときに「あ、そうかな?」って思いました。もう本当これ言われるの嫌ですよね。分かる人にはもうここで分かっちゃうというか。
そして湊の隣の席の女の子は多分私と同類。BL本みたいなの読んでるし、先生に「麦田と音楽室行け」って言われた時「星川くんも音楽係です」って二人で行かせようとするし、悪ガキたちが依里の雑巾投げて遊んでる時に、湊にパスするし。「お前なんとかしてやれよ」って目してたし。でも謎なのは何で保利先生に「麦田くんが猫で遊んでた」って言ったの?あの証言になんの意味がある?そのせいで保利先生に湊が猫殺す子だと誤解されちゃったし。
それにしても依里くん、身体と声は幼い子供なのに、思考が達観しすぎてて何とも言えない魅力があるなぁ。ナマケモノのことを「攻撃されても力を抜いて感じないようにする」って言って「それは星川依里くんですか?」って湊が言ったシーン良かったなぁ。いじめられてもニコニコ笑ってるのが彼なりの自衛だったんでしょう。あと、もう一つ良かったのが「花の名前知らない男はモテないってお母さんに言われた」って言われたシーンですね。その後に「暗いところ怖がる男はモテないよ」って言ってトンネルに湊を誘うんですよ!ここ、なんかすごかった…そりゃあ湊は依里くんにモテたいからトンネル入りますよね。人生何周目ですか。
そして秘密基地で湊が依里にぶつかって怪我させちゃうシーンですよ。その後に廃電車の中で手当てしてる最中に転校を告げられます。その時の湊の「やだ!」って感情の露呈でもう涙。その後に抱き合って依里が「みなと」って下の名前で囁くんですよ。え、これどういうこと???そしてその後に突然湊が「はぁ?そういうんじゃないから」みたいに怒って依里が「大丈夫。僕もそうなることあるから」って…。"そうなる"って何ですか!??考えすぎだったら申し訳ないんだけど身体的な変化があったのかなって。それを認めたくない感じもあったし…
そして許せないのは依里の父親とクラスの悪ガキたちですよね。この二人にも罰当たってほしい。台風のシーンで依里の父親がすっ転んでる場面はありましたがそれだけでは足りないですよ!最初の場面で見ていたテレビも伏線というか暗喩というか。まずは「ドッキリ」と「お肌もちもち〜」のオネエタレントね。クラスの悪ガキたちは「これドッキリだから」と正当化して依里をいじめます。更には女子の味方をする依里に「お前女子なの?お肌もちもち〜」って馬鹿にするんですよね。これ、実際のいじめでもこういうことあるんだろうな。メディアの悪影響ですよね本当に。
そして何故湊は保利先生を悪者に仕立て上げたのか。最初の火事を母親と二人で見てるシーンで豚の脳がどうこういって「それ誰に言われたの?」って母親が聞くんですけど、おそらくここで依里の名前を出したくなかったんでしょうね。とっさに「保利先生」と答えてそこから戻れなくなってしまったんだろうな。まぁ子供なんて自分を守るためにいくらでも嘘つきますもん。私も自分で汚した服を母親に「クラスメイトに汚された」って嘘ついてしまったこともあります。
校長先生はなんだったんでしょうね。湊とトロンボーンとホルンを吹くシーンはとてもいい先生に見えました。言えないことはこれに吹く、ってところで涙が出ました。その後のすっきりした湊くんを見てよかったねぇって。孫を轢いた件については回収されないままだったし謎。
モヤモヤしたままの箇所もありますがとても良い作品でした。一つだけ嫌だったのは保利先生の彼女のゴムがどうたらって直接的なワード。これがなければ親と観れるのになぁ。是枝作品ってちょいちょいこういうの入る気がする。
誰のために怪物になれるのか
あまり前情報を入れないで観ようと思っていたのに、クィア・パルム賞受賞で壮絶なネタバレに…
何も知らない状態で観ていたらどの時点で気づいたのか気になるところ。
周りの人が「この人は良い人」と言うからそういう人なのだと思っていたら、めちゃくちゃ嫌な奴だった。人は良くも悪くもその人の側面しか見れないし、どの側面もその人の一部であることに変わりはない。
大切な人や物を守るために、どうでも良い人を切り捨てる。保身のために少しずつ嘘を積み重ねる。
子供は周りをよく見ている。
自分達と少しでも違うところを見つけ攻撃する。大人が思うより事情を察し気を使える。
しかしやはり子供、思慮が足りずホリ先生が可哀想なことに…でも何であの場で飴舐めたんやホリ先生…
お話は、母親視点→先生視点→子供視点と切り替わっていく。普通こういう展開だと最後に全部の視点が合わさって大円団というのが定石だけど子供視点で終わる。
子供達は無事に帰れたのだろうか?
ホリ先生の名誉は挽回されたのか?
いじめはなくなったのか?
気になるところはたくさんあるけど、観たいような、観るのが怖いような。
さすがと言う作品です。特に子供たちが素晴らしい。
やられた
やられた
ラストも完ぺきだった
あぁ 坂本龍一が音楽だったんだ 今思い出した
ひとりひとりが主人公
同じ事象に対して それぞれの見え方とか感じ方がある
・安藤サクラ
・瑛太
・みなと
・田中裕子
現代版羅生門(藪の中)
瑛太がそんな悪いやつだとは思わなかった
というオラの感覚はまんまと裏切られた
いろいろと思い出してあれはどういうことだという場面
腑に落ちない箇所もあるがむしろ心地よい
行間を埋めるパズルの楽しみ
・中村獅童の行動原理
・2年生の時の担任の作文への評価
・火をつけたのは誰か
・父親は浮気相手と事故にあったのか
・田中裕子の夫は拘置所に入っているのか 何ゆえか
・水筒の泥… あ これは 分かった
・台風の日にみなとはなぜ友だちの家に向かったのか
重層的なストーリー 伏線回収
テレビドラマ全盛期に視聴者を引き付けるために
しのぎを削った人のストーリーテリングはさすがだ
花束みたいな恋 を見るまではちと低く見ていたのだが
今回是枝監督と組むと そしてこの内容 あっぱれだ
なんか日本の繊細できめ細かいストーリーは
海外では受け入れられないと思っていたのだが
むしろこれから評価される気がする 素晴らしい
是枝監督はこれまでは自分が脚本を書くことにこだわっていたように思う
今回の坂元裕二とか前作の韓国のスタッフとか
組むことコラボレーションに喜びを見出している印象を受ける
前作ではソンガンホが主演賞を獲っていたし
今回は脚本賞 組む相手の良さを引き出す才能があるのだろう
田中裕子が校長 さすがにこれは年齢的にチト…
でもこれは減点対象にはならない
このタイトルには唸るしかない
(ここから映画と無関係)
オラは今日誕生日で55歳になった
イオンシネマは1100円で観られると
早速権利を行使したのだが月曜日はハッピーマンデーで全員1100円だった
終了後は駅前の公園で昼間から③ビール×2とポテトチップ コンソメ味
いい天気 その後のラーメンも美味かった いい休暇だった
当事者から観た怪物とは
怪物の啼き声
冒頭、火事を見てはしゃぐ麦野母子に軽く嫌悪感を抱く。
学校側とのやり取りでは正しくも見えるが、その違和感が頭の中に残り続けた。
保利も校長も依里くんも、最初に各々の異常性を見せた後に善性を提示してくるのです。
そういった奥行きと反転が非常に上手い。
安藤サクラの自然さ、瑛太の絶妙に怖い笑顔、田中裕子の生気の抜け方、何より子役2人、特に依里くんが抜群。
身近にも覚えのある女性的な男子で、しかもいじめに(我慢でも諦めでもなく)頓着しない難役を見事に演じていました。
屋根の上で保利が聞く(後に校長と湊が奏でていると分かる)管楽器の音が、怪物の啼き声に聞こえる演出は最高。
しかし、そもそもの発端である湊が「保利に豚の脳と言われた」と騙った理由が分からない。
保利が飴を舐めたのもやりすぎだし、校長が失意の中とはいえ学校の対応があまりに杜撰。
子供の行動に逐一理由はないし、湊と依里の友情は二人にしか分からないものでもいい。
だが誰も見ていないトイレで助けなかったのはサスガに解せない。
物語としても、事態の真相に気付き、最後の“転”に入ったところで梯子を外されてしまう。
湊と依里の生死をボカしたかったからその後が描けなかったのだろうか。
更に、制作陣の意図とは別に、クィア問題を絡められると「またか」と辟易してしまう。
物事を一側面から見る危うさは手垢がついているが、悪意すらなく噂や嘘を流す罪深さも含めて印象的。
女子生徒の件は、「猫(の死体)で遊んで」たけど「殺してはいない」ということかな。
是枝監督が撮る日本版ジョーカー
この映画は[怪物だ〜れだ]の一言で表されているなと感じました。
見る人によって、受け取り方によって[怪物]の定義は変わってくると思います。
個人的には「是枝監督が日本を舞台にジョーカーを撮ったらこうなりました」といった感想で、
監督のこれまでの作品[誰も知らない]や[万引き家族]などで描かれた「あなたの隣で起こってるかも知れない出来事、あなたの近くにいるかも知れない人達、明日は我が身かもしれない。」よりも更に踏み込んだ「あなたがそうかもしれません、今のあなたはどうでしょう?」と問い掛けられる感じで、
トット・フィリップス監督のジョーカーでの「誰もがジョーカーになり得る」と言ったメッセージを、日本のありふれた日常の中にある、ありふれた家庭からの目線で伝えてくる、
ある意味ジョーカーよりもエグくてグロい内容なのに、映像としては一切のグロさが無い(それが余計にグロい)。
人によって特定の人物を怪物としたり、登場人物全員を怪物としたり、怪物なんていなかったと思う人もいるだろうし、受け取り方が多様に出来るのが面白い。
ラストシーンも、単純に何にも起きなかったでもいいし、実は死んじゃってあの場面は死後の世界でもいい。
そして視点が変わるだけで登場人物に対する感情を違和感や嫌味無く変えさせてくるのは凄い表現の仕方だと思いました。
[本当は何の事件も起きてはいない物語]とも取れるし[本当はとんでも無い事件だらけの物語]とも取れる。
とんでも無い怪物みたいな映画でした。
瑛太演じる教師は個人的な解釈としては‥
という幅のある読み取りの余地が残されているぐらい、物語上の真実 を意図的にボカすような語り口であった印象。そしてそれこそこの映画が浮かび上がらせようとする 怪物 の正体であったのかなと‥
日本最高峰の監督と脚本家によるタッグなだけあって
一筋縄では行かない、しかし流石な一本であった。
・怪物とは‥
本作はいわゆる 羅生門スタイル の構造で、一つの事柄を視点を移して何度も描いていくが、この物語が浮かび上がらせようしている 怪物 の姿とはこの羅生門スタイルを通して描かれる 「各々の視点から見た他者全般」、もっと言えば個人が他者(時に自分自身も含め)を理解した気になろうとする過程で生じる無理解 の事を指すのでは?というのが個人的な解釈。
この映画はそんな他者という存在の 怪物性 を突きつけるが如く、おそらく意図的に登場人物の心情の動きを空洞にしている節があり、画面上で描かれる事柄だけでは全てが繋がらないようになっている。
そこを わかりにくい と分類してしまうとそれまでなのだが、まさしくそれこそ現実の 他者=怪物 の姿ともいえるのが現実であり、この羅生門スタイルだからこそ描ける物語だと考えると 流石 な演出と脚本構成の手腕である。
そして それぞれのパートで薄く伏線が張られる 音 にまつわる描写について、後に正体が判明するときの感動と快感もこの構造ならではだろう。
・空洞になっている部分の個人的解釈の一つ
個人的に 大きな空洞 があると感じた箇所の一つは、瑛太演じる先生の心情の部分。
特に なぜ彼は大雨の中謝りに来たのか という部分ははっきりとは特定されていないと感じたが、ここについては 麦野君の抱える痛みが自分のうちに潜む痛みと同じだったことに気がついた=彼も性自認を巡る葛藤を胸に秘めていたが故に、自分や周囲が彼を傷つけていたことに気がついた というのが個人的な解釈‥(本当に 一つの例として)
彼のパートの冒頭、高畑充希演じる彼女との一連のやり取り(雑なプロポーズ、避妊をめぐるやり取り)は捉え方によっては 男女的な関係に早く結論を出したがっている=目を背けたがっている というふうに見えなくもない。また、組体操の練習中等時折生徒たちに 男らしさ めいたものを求める言動も垣間見えており、彼の中にある 痛み を匂わせる描写と見えなくもない。
※反転文字だけでそこまで気がつけるのか? と言われるとどうなんだろうかとは思うが‥
あとは 何故か急に手のひらを返したように見えるクラスメイトの女の子、この子は麦野君が河川敷を歩くシーンでうっすら後ろで何か話していると思しき描写はあったのも何かの演出意図なのか‥等、とにかくこの作品は 描写されないが何か背景がある と思われる登場人物達の心情が多く、そしてそれらは結論 わからない というのが大きな味噌なのは間違いない。
そうした 自分が気がつけない他社の中の痛み に思いを馳せたくなる本作はやはりまごう事なき 是枝裕和映画 なのだろう。
・少しだけ気になったところ‥
東京03角田のハマりっぷりもありあまり気にならないと言えば気にならないが、 学校の隠蔽体質 みたいなものにややステレオタイプというか 決めつけめいたものも感じなくはなかった。あそこまで酷いことは無いだろう‥ と信じたい‥
※写真の角度まで調整するところは笑ったが
「怪物だーれだ」同士のみが共有できる密やかなジョーク
「怪物」って何だろう。
能面のような校長か、息子を盲信するシングルマザーか、子供を虐待する父親か、何の考えもなくいじめをする子供たちか。
事なかれ主義の学校と戦うシングルマザーが主人公の話かと思いきや、二転三転する。
実は、主人公は彼女の一人息子の湊のほうだった。
「羅生門」のよう、と聞いていたがちょっと違うかな、と思う。
羅生門は「ある事実」がそれぞれの視点で違う内容になり、真実は藪の中、という話と記憶しているが、本作は、関係者がそれぞれ、自分が見聞きした「事実の一部分」しか知らない。彼らは事実の欠片からそれぞれの解釈で事態を類推して「こういうこと」と思い込んでいただけ。だれも全容を知らないのだ。
全容はやがて、当事者の子供二人の立場から明かされ、ようやくすべてが繋がる。
観客と大人たちはここで初めて真実を知ることになるのだ。
そして、些細な描写の積み重ねから、LGBTの話だったか、と分かるようになる。
湊は変声期を迎えているようだ。
第二次性徴が始まる、この年ごろから他の人と違うセクュシュアリティを持つことを知りはじめるのだろう、それは自身の存在に関わる、一人では抱えきれないほどの悩みと思う。
親にも打ち明けられない。「想い人」依里はそれが故に「病気」として、矯正という名のもとに父親から虐待されている。なにより自分自身が「病気」と言われるほどの異常者なのだと感じる。これは地獄だ。
依里の方は心は女の子、という感じで、その傾向を隠さない。男子に虐められるが女子に味方されて仲間になって、そこそこうまく生きているたくましさがあるが、これは虐待されている子供が身につけた処世術から来ているかも。
湊の傾向とはまたちょっと違うようで、彼らの個性も一言でLGBTと言えない多様性があると思う。
湊と依里の心中が、セリフで説明ではなく行動や、短い言葉、仕草等で丁寧に描かれて、その深刻さが伝わってきて胸が苦しい。
「怪物」とは、湊が自分自身をそう感じ、恐れたのだと思う。
「怪物だ~れだ」お前と僕!
これは、「同士」のみが共有できる、密やかなジョークに聞こえる。
最近、「結末は観ている方の想像にお任せ」な映画がトレンドなんだろうか。
私は結末はきっちり描いてほしい。観客の想像にお任せ、は作り手の逃げのように感じてしまいます。
とにかく二人の子役が素晴らしい。
演技派の大人の俳優女優揃う中、彼らと互角かそれ以上に、主役にふさわしい堂々たる演技力で、映画を見せる。
是枝監督作品の子役の良さには定評があるが、作品はこのところ今ひとつだった。
今回脚本を坂元裕二に任せたのが良かったのでは、と思う。
理不尽と嘘
映画の中で様々な問題が起きる。そしてその問題に対する
受け止め方が人によって違う。確かなことは悪いことをする
人間と嘘をつく人間がいてそのとばっちりで災難に遭う人が
存在することだ。映画ではそんな理不尽なことが描かれる。
誰が悪いのか?誰が嘘をついているのか?本当の被害者は?
映画の終盤まで種明かしがないのだけれど伏線を張って徐々に
核心に近づいて行く。立場が違う登場人物それぞれの事情と
伏線とが絡まって構成される上手い脚本だった。
人によって主張が違うとき、何を信じたら良いか分からなくなる。
自分にとって都合の良いことしか言わない人がいるからだ。
映画はフィクションだけれど、現実世界でもよくある話。
巷に流れるニュースを見ていても、どちらか一方の主張だけを
広めようとしたり、言葉の切り取りや印象操作によって
誰かが悪者に仕立て上げられていることもある。そんな
怖さも描かれていた。
2023年・第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門の
脚本賞を受賞し、またLGBTやクィアを扱った映画を対象に
贈られるクィア・パルム賞も受賞しているとのこと。
海外の映画祭で絶賛というのを鵜呑みにはしない自分だが
自分の目で確かめて今回の作品については妥当だと思う。
良い映画と認めつつケチを付けるなら125分の上映時間は
もう少し詰められなかったのか?と思った。
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