怪物のレビュー・感想・評価
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それは単なる子供同士の喧嘩から始まった…
小学校で起きた単なる子供同士の喧嘩だったが先生が虐待をしたと勘違いで親だけではなくマスコミにもされ騒動となりました。
その後二人の子供が秘密基地(電車)から抜けだし走りゆく姿が衝撃でした。
監督はどんな想いで「怪物」としたのか。それを知った瞬間に注目となりました。
怪物だーれだ。ですね。
子供の悪意のない、恥ずかしさからのウソから発展していく現代の闇を、見た気がします。こうして、祭り上げられてしまった被害者って、リアルにいるんじゃないかなぁーと、だれも、悪くないし、色んなものを守る為に必死になった、結果。子供のリアルが見えなくなる親、悪者に仕立て上げられた先生。学校を守る為に必死な学校。なんとも、哀しいお話でした。人間と人間で話がしたいっていうのは、今の時代とても大事だなぁーと思いました。
映像と、坂本龍一さんの音楽で、とても素晴らしい作品でした。
真実という名の怪物
カンヌはモヤモヤがお好き?
予想外の館内貸切だったので全裸で鑑賞
貸切の時は全裸で挑みたくなります
そんな僕も怪物です
通報しないで
嘘です
是枝作品は「海よりもまだ深く」が1番好き
他は…薄味か、後味モヤモヤか、イラッと後味か…あまり是枝作品とは相性が良くないですが、過去10年の監督作品はほぼ全て観てます
僕の妹も、小学生の時に今作と似たような経験がありました
昭和も令和も学校にまつわる怪物は同じ…
安藤サクラは華は無いけど、リアルな存在感
役に溶け込む自然な演技
ハスキーボイスなので、張り詰めた演技が圧巻
序盤の怒り狂う目が怖い…
夢に出そうなキツネ目の怪物
ハマり役だが少し違和感のある瑛太先生
前半と後半では、完全な別人?
視点を変えただけなのに…
ふて腐れた態度が後半で消えたのは演出効果抜群だが、やりすぎて少し違和感あり
新聞の第一面に暴力教師と掲載されても、書類送検されない、ややご都合主義な展開
昨今の保育士は逮捕までされるのに…
行動が怪しすぎる怪物
色気ムンムン高畑充希
植物図鑑が1番好き
どんぐりまなこの怪物
タイムリーな吸血鬼は怪物なのです
時々魅せる田中裕子ワールド
全部持ってく…
真の怪物女優は貴女なのです
大仏顔の怪物
安定の芸人俳優 角ちゃん
酒乱な怪物
しれっと女優化 野呂佳代嬢
ゴッドタンから出世したなぁ…
結婚したら色気が無くなったのが残念
あまり痩せないでほしい
適度なポチャ感が魅力なのです
成りあがりの怪物
「西田ひかると結婚します」
是枝監督の願望演出ですか?
初めての共感シーン
僕も昔は同感でした
フルーチェのポスター持ってます
カレーマルシェが懐かしい
こぶ平に抱かれた理由が解らない平成アイドルの怪物
こぶ平はアイドルキラーの怪物
消えて無くなれ…土下座しろ!アッチョンブリケ!
ショックでフルーチェやけ食いしたらトラウマに…
そしてフルーチェの怪物誕生
牛乳と混ぜてると脳裏をよぎる こぶ平の顔
前半は胃が痛くなる展開
久々にずっとヒリヒリ…苦痛で見入る
ホラー映画より怖い
中盤から急速に失速感が…
緩やかで、ややくどい伏線回収
穏やか過ぎて集中力ダウン…
色んな事を考えてしまった
旧国鉄時代?の廃棄放置車両って実在するの?
車両基地って広い平地にあるんじゃないの?
終盤は小学性あるある
自慰行為を覚える前の、男子小学生あるある
LGBTとは少し違う気がするが、中性的な美少年2人なので、なんとも言えない…監督の狙いの様な気もする
見終われば、ザ・是枝フィルム
モヤモヤ感が重くのしかかる…
モヤモヤして理解出来ない観客が怪物なのか?
思い込みで決めつけた人物が怪物なのか?
受け止め方は人それぞれ
ほぼ毎回の様にラストで問題定義する是枝監督
数年後の殆ど内容を忘れた頃に、改めて鑑賞したい
脚本は良いんだと思うけど
嵐
吹き荒れる嵐が過ぎ去ったような気持ちになった。
物語が進んでいくたびに、
心を掻き回す。掻き回す。掻き回す。
嵐が過ぎ去った空は、明るく晴れやかで、まるで何事もなかったかのような青空が眩しくて、少し寂しかった。
そして、この物語をもう一度見たいと思った。もう一度見たときに気付いたことが、これからの心の支えになるんだろうと感じた。
そんな作品でした。
インタビューで脚本家の坂元裕二さんが、話していたことが忘れられないんです。
坂元さんが運転をしていて青信号になった。しかし前のトラックは動かない。クラクションを鳴らしてみると、老人が横断歩道を渡りきれてなかったので老人が渡り切るのを待っていたとの事。
この時、人は気付かぬうちに加虐していることが有ると気づいたそう。こういった気持ちを作品にしたかったとの事。
このお話のクラクションを鳴らす事自体は間違いでは無かったと私は思う。それでも大事なのが、そのクラクションが、誰かを気付かぬうちに傷つけているかもしれない、と気づけるかどうか。正しいことをしたなと思っていたことが、足元を掬う事もあるし、大きなクラクションの音が別の誰かを救う事もある。
それに気づくことは難しい。そんな普遍的なことに気づかせてくれる傑作映画になっている事は間違いないでしょう。
素晴らしいキャスト陣の張り詰めていく演技と、美しいカットの数々、細やかな生活音、そして坂本龍一さんの美しい旋律。
特にラストシーンはとても眩しかった。子役の2人は圧巻でした。
こんな日本映画が世界に広がっていくのは、日本映画の良い事に繋がって行くと思う。
良い悪い含めていろいろあると思うけれど、それも含めて2023年の劇場案件ですね。
彼らには”行動”する他なかった
監督が~~、脚本家が~~とか抜きにして予告編が面白そうだったので鑑賞。
映画館のスクリーンで見るべきか迷ったけど大正解。
【あらすじ】
息子が学校の先生にいじめられているという疑惑を持った母親は学校にかけ合うも取り合ってくれない。しかも息子が他の生徒をいじめているとまで言われる始末。
事の発端は、真実はなんなのか、本当の怪物は誰なのか?
全員演技じゃねえ・・・マジもんだぜ・・・
映画館で見ると没入感がえげつない、自分もそちら側にいる気分。
全然物語の趣旨とは違うけど、「本物のサイコパスはだ~~れだ?」って感じで最初は見てたな。
その後作品の主軸に気がついてみる角度を変えたりして、能動的な映画だった気がする。
[羅生門スタイル]という複数のキャラクターの目線からストーリーを紡いでいく手法でした。小説だと「告白」に代表される湊かなえさんが近いかな?
大抵この多角的に物語を進める手法って、”真実”を映しがちなんだけど
今回は全員信用ならない感じがある。
”事実”であっても”真実”が見えてこないので全員疑わしいし、終始不穏な雰囲気。
・子供を信じ、守り抜きたい親目線(安藤サクラ)
・真面目で実直すぎる教師目線(瑛太)
・自分の心と葛藤する子供目線
基本的にはこの3人がメインだが、周辺を取り巻く先生や校長、親や彼女など
が問題を複雑にしていき決して”ただの映画”として見せず、他人ごとではないように感じさせる。
作品自体の構成はもちろんなんだけど、各シーンに”メタファー”的要素が散らばめられているので何度か見ても発見がありそう。
(特に”消す”、”綺麗にする”というアイテムが多い気がした)
それとラストの展開、真実に関しては”オチ”と捉えるにはちょっと雑だと思います。
「怪物」が伝えたかったことってそこじゃない。
いくら優しい人間でも、誰かの人生では悪役になるように
誰しも”怪物”になってしまう(見えてしまう)ってことなんじゃないでしょうかね…
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ネタバレ含むかも
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この作品を通して気がついたことが3つあります。
①人は見たいように見る
[羅生門スタイル]のおかげで自分がいかに一つの視点でしか物事を見ていないかに気がつく。
本来は色々な要素を加味して”真実”にたどり着くべきが、自分の欲しい情報だけを無意識に取りに行っているんですよね…バイアスってやつです。
②子供は行動する他ない
小学生ぐらいの子には、大人の事情や言葉の意味をストレートに受け取ってしまうが故に板挟み状態に陥りやすいように感じた。
なのにその心境を説明する、納得させるほどの言語化能力がない。
その結果”行動する”ことによって感情の発散や整理に繋がるんだなと気がつきました。
③知らずに価値観を押し付けているかも
どのキャラクターも一見普通に真面目でれも”怪物”には見えないけど、
それぞれ深層には刷り込まれた価値観があって、それが子どもたちを圧迫していた気がします。
左派系 母が 闇雲にかき回さねば、もう少しマシな結末になった
是枝監督の新作なので、観ました。
あるあるな教育現場 なのですが、登場人物のそれぞれが それぞれの世界感と価値観で生きている事を
うまく表現できている点が素晴らしかった。
序盤のおぞましいばかりのモンスターペアレントぶりに、僕は幻滅したが、
映画的には母目線で進行するので、鑑賞者の多くは母親に感情移入して
母親を同情し、教育現場を愚弄するだろうが、
これは映画的に解りやすく 切り取り表現している のであって、あえて それに載る必要はない。
しかし中盤からの"先生視点"が加わり、 全鑑賞者の見方が変わる。 とても素晴らしい脚本展開です。
いろいろな視点が映画に加わることにより、単純ではないこの世の"社会構造"を再確認させられ、
けして世には 善・悪人が 存在しない事を知る映画に仕上がっているのは、素晴らしかった。
しかし 鑑賞者に何かを考えさせ
問題定義をされるが、けして結論に導かない是枝監督作品。
そろそろ主張をした映画作りに移行して欲しいと願います。
LGBTQ映画なのかもしれないが、思春期の子供たちの心は いろいろ雲の様に動き回る ので...
「豚の脳みそ」を告白する 夜の坂道、良いシーンだが 画面端にカメラマンの影が入ってしまっているのが残念。
気にする方がおかしいし、良いシーンだから、別テイクを使うのも もったいないのだが。。。気が付いた 自慢
映画「イングリットバスターズ」の酒場でもやっていた、"誰だゲーム" 面白そうだから、やってみたい。
とにかく 答え合わせばかりの映画なので、
時系列が産雑になりがちなのを、
混乱しないような 道しるべを置いてくれたので、過去と現在の時間の流れを間違う事はない。
脚本家とその編集した編集者は素晴らしい。 「脚本賞」
前夜にたどり着いた後の、ラストシーンなのだから
そういう結末です。 セリフ通り。
こういうラストシーンを描ける監督が、アニメ界以外の日本に居た事に感動した。 「監督賞」
音楽は特記特別記載事項はないが 坂本龍一さん。
次の是枝監督作品も必ず観ます。
映画ではないが、いじめ問題での漫画「聲の形(全7巻)」を読むことを進める。
一番闇ってるのはアノヒトですよね?
是枝監督だし話題作なので正直期待して観てきました。
最初は子供が問題を抱えたシングルマザーに同情しかなくて、でも徐々に担任が気の毒で仕方なくなり、最終的には子供達のスタンドバイミー。
一番闇ってるのは校長ですよね。ヤバいですよ、あの人。こんなアンドロイドみたいな人が校長してていいの?
そもそも、最初からきちんと学校側が真摯に事態を把握していたらこんな事にはならなかったのです。
考えたらすごくシンプルな話。
堀先生が気の毒すぎる。恋人も薄情やし。
そしていつの世も大人に振り回される子供達が不憫だ。
ストーリー展開は思ったよりエモーショナルではなかったけど、子供2人(特に佑里役の子)の演技が素晴らしく、それだけでも観た価値ありでした。
音楽もとてもいいな、と思ったら坂本龍一さん。
ラストシーンでなんでか涙ポロポロ出ました。
子供たちには幸せでいてほしいから。
大人になって、保守的になったかなあ
母の言う家族(子)を持つことが幸せだと言うのなら
なぜ生まれてきたのか?と悩むミナト。
幸せは誰にでもあるもの、が主題なのか...
皮肉にも感じてしまう私は、子供のまっすぐさを忘れてしまったのかもしれない。
忘れてしまった子供の頃の秘密基地を覗き見させてくれる本作。
是枝監督の撮る情景が好きな者としては、坂元脚本は脳フル回転でちょっと疲れる笑(ミステリ好きにはむしろいいのかも)
怪物は噂のことかな。
ずっと胸が締め付けられながら観た。「藪の中」とは作りが違う。元気なときに見に行って下さい
誰かの嘘、誰かの憶測、誰かの噂、誰かの保身、誰かの憂さ晴らし、そういった大きいものから小さいものまで、色んな人の色んな闇がどんどん、どんどん積み重なって、怪物をつくって行く。誰の中にもあるそういった闇が怪物なのかもしれない。その怪物は弱い人、少数派を追いやっても行く。ずっと胸が締め付けられながら苦しく見た。うつ映画なので、元気なときに見に行った方が良い。
序盤に展開するストーリーから、これは何があったのだろう、誰が何をしたのだろうと、一種のミステリーになって真実は何なのか気になってしょうがない。見終わった瞬間は星4.5かな、と。ただ、思い返すと気になるところが出てきて、少しマイナスしました。
誰かの目から見たらこうです、ある人の目から見たらこうです、真実や如何に?という「藪の中」とは異なり、後半、徐々に見えていないことが明かされて分かる1つの真実。認識の違いというより、人間には見えていないことも多い、そして、それは捉え方を一変させることもある。
「藪の中」「羅生門」とは異なり、誰かの語り、つまり主観が入った状態で話を知らされるのではなく、観客は客観的な事実として話を追っていくため、前半と後半のある人物の違いは、ミスリードを狙い過ぎではないだろうか。他の方がコメントされていたが演出ミスではとも思えた。
また、真実が分かったときに、それぞれの事情から、そうかあの行動はこういう理由だったんだね、それはやむを得ないよね、と思えるところと、その部分が弱いところがあり、少しマイナス。もっとピースが全部カチッとハマり、おおお、さすがカンヌ脚本賞!と思いたかった。特に校長は、人物造形に一貫性が感じられず、田中裕子さんのぬめっとした演技に寄りかかってるところが大きい。まあ、現実、そんな貫通行動で一貫性のある人はいないから、リアルなのかもしれません。
子役の2人はとてもとても良く、次代の柳楽優弥さんを期待させました。
日本映画らしさ
「出発するのかな?」「出発の音だ。」
監督はまた、家族の話を作り上げた。同じ時間を三つの視点で展開していく物語。その視点は、ときに本人の思い込みも激しく、まったく別の印象となる。黒澤映画「羅生門」のように。劇中、子供をバケモノと表現する場面があるが、安藤サクラも永山瑛太も二人の子役も、バケモノと呼んでいい演技力だった。さらに伏線がいたるところに張り巡らされて考察が尽きない。「豚の脳」「虐待」「廃線」「二人の関係」や、そして「出発の音」の意味するところ。結局、この映画の中の「怪物」は誰だったのか、何だったのか。鑑賞後の感覚は、是枝監督の「三度目の殺人」の時のような、煙に巻かれたような有耶無耶にされたような、つかみどころがない。だけど裏返せば、「怪物」は誰の中にも潜んでいるとも思える。善人とか大人しいとか思われていた人間が、なにかの拍子に急に豹変してしまうような。自分が正義だと信じる者は暴走してしまうことや。ありもしないことが噂となって、さも真実のように捏造され歪められて事実とされてしまうことや。平穏だと呑気にしている日常にこそ、得体のしれぬ怪物は潜んでいるよとでも言いたげな。
ああそうだ、窪田空穂の短歌を思い出した。
「哀しみは身より離れず人の世の愛あるところ添いて潜める」
胸が痛くて蹲る。
三つ子の魂。
鑑賞しながら最初に浮かんだのが
この言葉だった。
幼い頃の環境、佇まいがいい年に
なっても影響を及ぼしていると
この頃思う。
でも、それがどんな環境だったかは、
視点次第で、がらりと姿を変える。
映画は三部構成で見事に真実のあやうさを
伝える。
若くて軽い先生が、息子をいじめてることに
気づき、猛然と抗議するシングルマザー
(安藤さくら)。
観客も感情移入し、学校に怒りを感じる。
これが一部。
ところが二部はがらりと変わり、先生にどうやら
罪はなさそうだと思わせる。
悪いのは子どもか。
そして三部は子どもの闇と光が描かれ、
怪物というのはいったい誰なのか、
幻惑されていく。
謎が謎を呼ぶ脚本の妙味と、真摯なテーマ、
役者陣たちの見事な演技。
あまり好きな言葉じゃないけど、
ここには弱い立場の人たちのどうしようもなさと
哀しさ、切なさを、肯定する懐の深い世界観が
ある。
映画で行間を読ませるというのは、
一歩間違えば芸術的になって、
エンタメ性に欠けるのだが、
この作品はちゃんとそこにも到達している。
是枝さんの中でも一番じゃないかな。
あと、2回は観るつもりです。
観たい度○鑑賞後の満足度○ 日本映画で恐らく初めてこのテーマに切り込んだ先進性と挑戦意欲は認めるが、それを描くのにこの演出と脚本で良かったのかは疑問。と云うことで、も一回観ようっと。
2023.06.09. 2回目の鑑賞。
で、1回目より評価上がりました。★★★★にしても良いかな。
どこに伏線があったかを確認するために、犯人とトリックとを知ってしまった推理小説を再読する感じ。で、推理小説ついでに言うと、ダブルトリックみたいな構造にしてあるんだね。
実際は単に子供の嘘に大人が振り回されるだけの話に(こういう映画でしたら『落ちた偶像』とか『噂の二人』とか沢山ある)、『羅生門』的構造を乗っけて、如何にも一つの出来事が人によって見方が変わってくる話という体裁を取っているだけ。
ただ、どうしてこういう構造にしたのかはやはり疑問が残る。
真相の意外性を強調するためか、あまりこういう構造の話はなかったので一回使ってやろうと思ったのか。
それに母親編、教師編はやはり違和感はそんなに薄れなかったけれど(もっと練った方が良かったかも)、1回目の鑑賞では気づけなかったが、子供編は素晴らしいと思う。
ここだけ抜き取れば佳作と言えるかも知れない。
①「カンヌでクィアパルムを取りました」、なんてポスターにデカデカと書いたらどういう映画か分かっちゃうじゃない。
と思うが、大多数の日本人はそれでも分からなかったりして…
②全作品を観た訳ではないけれども、これまで是枝裕和演出の映画で感心したことはない。
演出力はあると思うし画作りも上手いと思うのだがいつもピンとこない。
特に社会性のあるもの、現代日本の持つ色々な問題を取り上げて描くものは設定が極端すぎて外国人には受けるかもしれないけれど、日本人としては「だからどうせよ、というのよ。そんなこと、わかってるよ。」と言いたくなる事が多い。あざといというのかしら。
かえってあまり問題意識のない『海街diary』みたいな作品の方に上手さを覚える。
(2回目の鑑賞時:子供編ではやはり演出力には唸らされる。)
本作は脚本が『花束みたいな恋をした』の人ということで期待したが少々期待外れ。
「怪物」という題名にしたのも、これまたも一つ?何かみんな「怪物」探しが主体になってしまうし。
もっと「人間」探しに必死にならなくちゃ。
この世の中には人間だけしかいないんだから、悪いものはみんな「怪物」にして魂鎮めすれば良いと思うのかなぁ…
ネタバレを言えば“怪物、だーれだ?”は二人の恋人たちの遊びの一つに過ぎなかったのだ。
③私は親ではないし子供がいないので、偏った見方なのか中立的な見方なのかわからないが、いろんな現代の子供を廻る問題があちこちに置かれているけれども、どれも中途半端か尻切れトンボの感あり。
現代は情報過多の時代であるが、本作も情報を盛り過ぎた感もある。
④母親、教師、子供達…と主役が交替する度に話の形相が変わってゆくという、ある物事が人の視点や角度によって見え方が違うということであれば古くは黒沢明の『羅生門』をはじめ似た作品には事欠かない。
しかし、本作は最後に判明した事実でそれまでの出来事の意味が理解できるという一種のミステリーである。
それからすると前半の学校の対応とか無駄に尺を取っている感がある。それともred herring か?
⑤各登場人物の視点によって話が変わってくる、という構成に目を向ける人が多いが、みんな大人の目線・立場からばかりだから違うのはある意味当然で、私達は一番肝心な子供達の視点・立場・想いに目を向けなければならない。
そういう意味では最後に子供達のそれらを持ってきた脚本の構成は、初めから大人の観客の反応を計算に入れていたとしたら、結構巧妙であながち的外れなものではないとも言える。
⑥湊くんがいなくなって探しだした(後からすると星川くんとの逢瀬を邪魔したのであったことがわかる)佐織が、帰りの車の中で“お父さんにね、約束したの、湊が世界で一番の宝物である家族を持つまでは頑張るって(だったかな?)”と言った時、(真相を知る前でも)「うわっ、うざ!」と思ったが、湊くんにしてみたら「うざ」どころか存在を否定されたようなもので、車から降りたくなったのも分かろうというもの。
ただ、佐織を一方的に責めるのも可哀相で、本人は一生懸命シングルマザーとして頑張って、息子を父親みたいなマッチョな男(ラガーマン、ラガーマンにもゲイは多いようですが)にしなくちゃと思っていて、でも父親が浮気中に事故死したから息子には幸せな家庭を持って貰いたいと思っていて、それにまさか息子がゲイだとは普通思わないだろうし(でも親には分かるともいうけれども)。
まあ、あの台詞と対比する形で、後に校長先生が湊くんに言う「限られた人にしか掴めないのを幸せというんじゃないのよ。誰にでも掴めるものを幸せというのよ。(だったかな?)」という台詞が本作でのほぼ唯一の救いになっているんだけれども。
⑦ほんでまた、この佐織もある意味常識がない。
いくら子供が体罰にあって(誤解だったけど)腹が立つとはいえ、噂に過ぎないのに「ガールズバーに入り浸っている」だの、証拠もないのに「放火したのはアンタじゃない?」とか、侮辱罪に問われるぞ!
田中裕子演じる校長先生に「最近お孫さんを事故でなくされたんですってね。苦しいでしょう?辛いでしょう?私の今の気持ちもそうです(だったかな?)」って、比較のレベルが全然違うぞ!
⑧子供に奇態な振る舞いがあれば、今時の親はすぐ学校で何かあったのか?と学校のせいにするのだろうか。勿論その場合も多いだろうけど、先ずは子供自身に問題はないか、家庭に問題はないか、と考えるのではないだろうか?親になると自分の子供は絶対に正しい、おかしくない、と信じ込んでしまうのか?
⑨子供がいないので現代の学校がどんな実情か分かっていないけれども、本作で描かれているレベルの苛めであれば、50余年前の私の小学校でもあったぞよ。
教師が親に気を遣いすぎているのは当時と大きく違うところだが、現代の学校・教師は本当にあそこまで卑屈なのだろうか。
是枝監督作品によくあるようにややデフォルメし過ぎに思う。
それとも母親編は母親を一見正義に見せるために敢えてああいう演出をした?
⑩校長先生もキャラが振れ過ぎて不自然。
流石の田中裕子も上手く具現化出来なかったか、流石の田中裕子も肉付け出来ないほど脚本に上手く書けていなかったのか。
⑪中村獅童扮する、自分の息子がゲイであることを受け入れられず“脳ミソが豚の脳ミソ”と言い放ち酒に溺れる父親像は、多様性を受け入れられない人間を代表するキャラとして登場させているのだろうけどやや陳腐。
本作は結構陳腐なキャラや設定が多いけれども、陳腐と捉えるか、“あるある”と頷くかは個人の好みでしょうね。
⑫遥か昔、50余年前、私が小学生の時にもクラスに一人苛められっ子がいた(しかも女の子)。
確かに汚い子だったけれど、「さわると汚れる。その子がさわったところは汚いから手を触れない」なんてクラスで平気で言ってた。今から思うと随分酷い話だけど。
後年、大人になって再開したら結構たくましいお母さんになられてました。
⑬星川くんは見た目も可愛いし小綺麗だし何で苛められるのかな、と思うくらいだが、父親に「脳ミソが豚の脳ミソ」と言われている事がクラスメートに知れわたっていたりゲイであることをクラスメートがそれなりに感じていたからか?(子供って案外敏感で残酷だから)
湊くんは、最初から星川くんを意識していたのは2回目の鑑賞でハッキリ分かった。
星川くんを人知れず見つめる目の演技が宜しい。あの歳で意味を分かっていたのなら大したもの。
星川くんを守ってあげたい。でも星川くんの側に立てば彼も苛めや冷やかしの対象となってしまう。父親のDVや同級生の苛めをやり過ごすために何も感じないやり方を選んだ星川くんの心情を考えれば切ない。本人は表面だけかも知れないが飄々としているが。
ただ、机に絵の具を塗りたくられているのを発見した時の表情には胸をつかれる(昔、自分が加害者側だったことを考えると更に)。
湊くんは学校とプライベートで社会的上っ面と素の顔とを使い分ける。星川くんもそれを受け入れる。
誰かに見られたと思ってカモフラージュで触られた部分の髪を切ったのか、自分の想いを封じるために切ったのか。
星川くんへの苛めを直接的には止められない。だから自分が暴れて注意を自分に向けさせる。
雑巾を星川くんに返したことで(恐れていた)冷やかしが始まる。だから星川くんと喧嘩しているように振る舞う。星川くんもそれに調子を会わせる。
でも午後二人きりでいる時は本当に楽しそうだ。
二人が二つの顔を使い分けて日々をやり過ごす姿は本当に切ない。
ただ、二人が嘘を突き通す、芝居を見破られない為には誰かをスケープゴートにしなければならない。ここはまさに子供ならではの残酷さだが、スケープゴートになった保利先生が二人の真の関係に気づくという皮肉な設定にしてある。
何故子供達は嘘を突き通さねばならなかったのか。その理由を特に子供達をクィアにすることに求める必然性はなかったとは思う。
脚本家の小学生の時の出来事がベースにあるそうだか、子供達が自分が周囲とは違う異質な存在と思い込むには確かに二人をゲイにするのが現代的ではあったと思う。成人はもとより少年少女の同性愛を描く映画は邦画でも増えてきたが、日本で児童の同性愛に踏み込んだのは本作が初めてだと思うから。
「男らしさ」が現代でも子供達を縛り付けているとは思わなかった。私達の世代ならともかく、「結婚」「家庭」「家族」=「幸せ」という概念も。
「将来」という事にも周囲との同一性を見いだせない彼らは「生まれ変わり」にしがみつくしかない。
クライマックス、地滑りの音を発車の音と捉える二人がまたも切ない。
私としては二人は地滑りに巻き込まれてしまったのだと思う。
何とか二人だけの世界で“幸せ”を掴みかけたのに土砂崩れが社会のように、それこそ“怪物”のように二人を呑み込んでしまった。
ラスト、生まれ変わった二人は、星川くんの「僕たち変わったかな?」という問いに、湊くんが「いや変わってないよ(変わらなくても良いんだよ)」と答え、二人で新しい世界で自由を満喫するイメージで終わる。
子供達が(クィアであろうがなかろうが)ありのままの自分を隠し嘘をつかなければならない、どんな人であれ「幸せ」になれると思えない(だから校長先生の台詞が活きてくる)、そんな社会こそが「怪物」なのではないだろうか。
これが現在私たちが生きている社会というのなら、私たちはずいぶんつまらない(しょーもない)社会に生きているんだな、と思う。
それを弾劾したかった、というのなら成功してますよ、監督。
二面性を持つピースどうしの複雑な関係性から浮かび上がるもの
ちょっとした何気ない一言や仕草が、妙に何十年も心に残っていて、『あのとき大丈夫だった?』当時のことを聞いてみると、『そんなこと言ったっけ?』と本人は何も覚えていないといった反応を示されることがたまにあります。
当たり前ですが、多分同じ事でも感じ方や受け止め方は千差万別で、その千差万別が少し通常とは違う形で、増幅されたときどのような物語が生まれるのだろうか。そんな一つのシュミレーション実験のような印象を受けました。
物語を構成する一つ一つのピースは、それぞれが別のピースと複雑にいりくんでいて、かつそれぞれのピースの全てが、一見悪のようでいて、実は悪ではない。強いようでいて実は強くない、黒のようでいて、実は白でもある・・・そんな二つの相反する性質が同時に存在しているような不思議な二面性をもっているような印象を持ちました。まるで量子系のように。そのことが徐々に明らかになる過程が実にスリリングであり、一時も目が離せませんでした。
そしてなおそれぞれのピースは互いに依存関係を結び、他のピースの弱い部分を互いに補い合っていたような印象を持ったのです。儚い夢のように、微妙なバランスのうえに成り立っているその関係の全体像が見えたとき、浮き彫りになっていたのは・・・・人が生きていくことの哀しさと微かな希望の光でした。
誰もが見えない戦いをしている
前情報ほぼ無しで観てきたので、"怪物"というタイトルをみて、サイコスリラー映画だと思って観た。結果的に予想が大きく裏切られた。心揺さぶられる良い映画だった。
本作は怪物の正体を問い続ける、心理的な要素が深く込められている作品だ。一見平凡な母子家庭の麦野家の日常が描かれた序盤から、徐々に息子が抱える問題に焦点が移る。彼の学校での苦境、そして友人である星川君の問題、これらが複雑に絡み合った関係性が見事に描かれている。
衝撃的な展開は序盤から終盤にかけて見事に配置され、視点の変化とともに怪物の正体を明らかにする。特に、星川君が虐待を受けていること、そして彼が同性愛者であることが明らかになる場面は、その衝撃度合いを一層引き立てる。
映画の中盤では、星川君と息子が秘密基地で過ごす場面が長めに描かれ、映画全体の緊張感を一時的に緩和する休息的な時間となっている(これが若干中弛みの要素にもなっていると感じた)。
しかし、その穏やかさは一瞬にして消え去り、衝撃の結末へと導かれる。彼ら二人の運命とそれを取り巻く大人たちの反応が心に深い影を落とし、映画が終わった後も、考えさせられる。
この映画は、性的マイノリティを描きつつ、全ての人が怪物性を持っている可能性を示唆している。モンスターペアレントで息子に普通を押し付ける母、友人を助けられずいじめを見て見ぬ振りをする息子、同性愛者の息子を蔑む星川父、異質さを持つ星川君、男らしさを無分別に押し付け、ストーカー的な傾向を持つ担任教師、孫を轢き殺したと噂される校長、無関心な態度をとる他の教師たち。
この映画は性的マイノリティの問題だけでなく、人間性そのものを大きな視点で探求している。
そして、それぞれの登場人物が直面している独自の"怪物"は、我々自身が経験する可能性のある現実の反映とも言える。映画を観ることで、我々は自己内部の”怪物”と向き合うことを迫られる。
また、叙述トリックを巧みに駆使した物語の構成も見事で、観客の先入観をうまく利用していて見事だった(しかし、クィア・パルム賞の受賞情報が解説などに添えられている為、物語の核心に対するヒントとなっていて、トリックを台無しにされている感は否めない)。
全体的に見て、“怪物”は感動的な展開を持ちながらも、人間の心理と社会的な問題を深く探求した作品だ。序盤から終盤まで一貫して感情移入することが可能で、その過程で感じる怒りや衝撃を通じて、映画の世界に深く引き込まれ、時間を忘れてしまう。この映画を観た人は、その強烈な印象が映画鑑賞後も心に残り、しばらく思考を強く刺激し続けるだろう。
余談。息子と星川君はどうすればよかったのか?
映画から読み取れる麦野母のキャラクターは、「普通」という価値観を子供に押し付けるものの、それは彼女の無知から来るもので、悪意があるわけではない。彼女は子供のことを真剣に考える人物であり、適切に話し合いを行えば、理解を示し、息子たちのサポートに回ってくれただろう。
また、担任の先生は一見奇人に見えるかもしれないが、心無い言葉を使ってしまうのは無知や思慮の欠如からで、必ずしも差別意識からではないと考えられる。
だからこそ、息子が最大に失敗したのは、自分たちの味方になり得る二人を諦めてしまったことだろう。
麦野母のすれ違いもまた痛ましい。彼女は自分が子供に寄り添っていると思っていたが、実際には寄り添えていなかった。息子が一足の靴で帰ってきたとき、水筒に砂利が入っていたとき、トンネルで一人になっていたとき、何度も問題の兆候は現れていた。それでも、理解ある親の振りをして子供の本心を見逃し、学校対応に時間と労力を注ぐことに一生懸命になってしまったのは痛恨の極みだった。
余談その2。この作品は要所要所で認知を歪ませるトリックが使われていて、観客は何度も騙されている。つまり観たままの映像は、イコール真実ではないということだ。なので、最後の子供二人死亡エンドはトリックで、全員生存ルートのハッピーエンディング説を私は支持いたします!
今年観た映画の中で一番
今年観た映画の中で一番面白かった。大人は勿論、子役の2人の演技が上手い。特に依里役の男の子の演技は素晴らしいと思った。自分は最後は死んでしまったのだと解釈した。
かいぶつ、だれだ。
怪物とは、我のことなり。
人はそれぞれに先入観や思考や想像や信じてしまうこと考えてしまうことの癖があり、それゆえに誰もが誰がに対する加害者や害悪になってしまう。お前は怪物だ、という私こそが怪物。
結婚して普通の家庭を、
とか、
男ならできるだろ
とか、
プロポーズは夜景の綺麗なところでするものでは
とか、
母子家庭だから、
とか、
生徒の親=モンスター
とか、
なんでも良いのだ、人の心に浮かび人の口から出たことは、なんらかの形で悪意を持ち誰かを傷つける、
それぞれの視点視野から見えたもの。だから嘘ではないかもしれない。その角度からの事実が次々と明らかにされる。
自分が嘘をついたとわかればそれは嘘。
堀先生も、湊くんも。依里くんも。嘘がなさそうな子ども2人も気遣い、空気読み、保身してしまうのだ。
存在感を薄めよう、としてより一層際立つ田中裕子の存在感に全てかすんでしまうところがあるが、
誰にでも手にはいらないようなものは幸せじゃない
一部の人にしか手に入らないものは幸せとは言えない
と年老いた田中裕子校長は小学生の湊くんにいい、ホルンやトロンボーンに、そんな時は
フーッと、フーッとするのだ とおしえる。
子どもたらちは台風のビッグバンを経て怪物ではなく人間としての自分を生きるだろう。生きようとして挫折するだろう。
森の中の秘密基地とか、火遊びとか、遊び方は昭和なところがあり、今の子どもにはなかなかできないこと、子どもっぽい遊びがができて羨ましいと思うけど、親だから気を使うという気持ちは今どきな感じの会話で、それはまた真実の子どもの気持ち。
押し付けがましいところが全くないのがよい。
万引き家族とはまるで逆。なにも押し付けてこない。淡々と凝り固まりがちな視座を動かし我にかえり、という作業。
諏訪湖もまた、海のようにとてつもない大きさに見えたり箱庭の、子どもらの秘密基地のなかの池のように見えたり。そんなところもよかった。
最後の映画音楽作品なのか坂本龍一の音楽も、押してこないところがよい。しずかに自らの怪物性を顧みる。誰もが手に入れるような幸せじゃないとだめなんだ、幸せじゃないんだ。
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