「怪物=人の深層は必ずしも見えないことによる認知の「歪み」のこと?」怪物 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
怪物=人の深層は必ずしも見えないことによる認知の「歪み」のこと?
映画作品としては、時間軸を前後させながら、少しずつ真相を明らかにしていく手法が、面白いと思いました。
そして、切り継ぎされる関係者の供述は多岐に別れて、容易に真実が浮かび上がってこない-その意味では、本作も、いわゆる「羅生門形式」の一本であるのかも知れません。
作中では「かいぶつ、だ~れだ。」という湊川と依里との歌声が、折に触れて繰り返されるのですけれども。
そして、本作に登場する主な人物では、
○いわば「独り取り残されて」、湊との関係性だけに生きているかのような早織
○一見すると「能天気」にしか見えないような保利先生
○実のわが子を「病気」と決めつける依里の父親
○妙に世慣れていて、学校の体面や保身しか考えていないような伏見校長
「個性の重視」というのか「個人主義」というのか、それの行き過ぎというのか…「他者との関係性を築けない」というのか…「他者との関係性を理解できない」という人は、いつの世にも、一定割合では、存在するんだろうなぁとは思います。(そういえは、「縁なき衆生は度しがたし」という言葉もありましたっけ。)
そう思いました。評論子は。本作を観終わって。
それらを「怪物」と言うかどうかは別として。
否、むしろ、そういうものとしてステレオタイプに決めつける方が、よっぽど「怪物」もどきだと思うのは、評論子だけではないことと思います。
結局のところは、本作の登場人物の、誰の、どこが、どのように「怪物」と一概に決めつけることはできないと思うのですけれども。
あえて「怪物」というならば、受け止め方の多様性ができないこと…人の心理の深層を人は必ずしも認知できないことからくる認識の「歪み」を理解できないことは、「怪物」に見えるのかも知れないと思いました。
評論子は。
そして、まるで「荒波の海の上を漂う小舟」のように、そういう大人たちのせめぎ合いに翻弄される湊と依里の姿も、胸に痛い一本でもありました。
本作は、2022年間に札幌地方で公開された作品から、評論子が参加している映画サークルで、年間ベストテンに選ばれ、また同サークルの「映画を語る会」でもお題作品として取り上げられた一本として観賞することとしたものでした。
上記のような人間関係を浮き彫りにしようとした一本としては、充分な佳作であったと思います。
評論子は。
(追記)
人との心の中にあるもの―否、むしろ明確に外部には析出はせず、本人も意識はしていないが、人の心の奥底に潜んているもの―「人の心の闇」を描いたという点では、『福田村事件』と同一事案を角度を変えてみせたのが、本作」という、評価子が入っている映画サークルの先輩会員の評は、外れてはいないのだろうと思います。
(追記)
いわゆる「羅生門構造」で、登場人物のセリフだけからは、容易には真相に辿(たど)り着けないような感じが、作品の全体を通じて漂います。
その点が、本作を通底する、ある種の「不気味さ」になっているのではないかと思います。評論子は。
そして、火災のシーンや、現場に急行する消防車のサイレンも、本作を通底する「不安」の、一つの要素として、効果的にも使われていたと思います。
(その意味では、安藤サクラも田中良子も、けっこう不気味なキャラクターで、ちょっと怖かったのは、評論子だけだったでしょうか)。
(追記)
「…してくれなかったら、お母さん、暴れるよ。」
あまりに単純(単細胞?)で、直情径行的で、お世辞にも「思慮深い」とは言えないところをみると、豚の脳と入れ換えられていたのは、案外と早織の方だったような気がしないでもありません。評論子は。
(追記)
湊と依里との関係性も、微妙でしたね。本作では。
いわゆる「LGBTQ」の「Q」は、最近は、不明(Question)を表すのではなく、もともと「不思議な」「風変わりな」「奇妙な」などと訳される「Queer」(クイア)(を意味するものだという考え方もあるようです。
かつては同性愛者への侮蔑語だったということですが、現代では、規範的な性のあり方以外を包括する言葉としても使われているとのことです。
湊と依里との関係性も、そんな関係性だったのかも知れないと思いました。評論子は。
(追記)
是枝監督は子役の使い方が上手いという、多くのレビュアーのご意見に、評論子も賛成です。両手を挙げて。
そして、子供には「自分の証言(発言)」が、どういうふうに事態に影響を与えるかを正確に判断することがまだできないので、重要な事実を言い漏らしたり、未熟なな表現で断定的な物言いに受け取られてしまったりもする。
そういう判断能力の充分な大人からみると、子供は嘘つきに見えたり、反面、真剣に訴えているのにいい加減な受け答えをしているかのように受け止めてしまう。
湊と依里と、他の大人たちとの関係性については、そういう問題もあり、それが本作のストーリーを混迷させている―そういう要素は、あったのではないかと思います。評論子は。
(追記)
本当に、余談の余談ではありますけれども。
本作の中に「豚の脳を移植された人は、人間か豚か」というセリフが幾度となく出てきますけれども。
ヒトに豚の脳を移植するかどうかは別として、ヒトに豚の膵臓(正確には豚のランゲルハンス氏島)を移植する臨床研究(ヒトを対象として行う医学研究)が始まると、今日(令和6年4月10日)付けの読売新聞で報じられていました。
豚の膵臓を移植されたヒトは…ヒトであることには間違いはないのだろうと思います。
レビュアー諸賢のトリビアまで。
『白鍵と黒鍵の間に』に共感いただきましてありがとうございました😊
豚の膵臓移植の話、外国でしたね。結局駄目だったようですが。
里織に豚の脳ですか?
勝手に豚を持ち出しさも劣っている代表格みたいにして作品中でも何回も出て来ましたが、
勝手な作り話、息子を馬鹿にする父親の常套句に思えます。
ヨルゴス・ランティモス監督の『哀れなるものたち』ですね。
トミーさん、情報ありがとうございました。
まだレンタルで出回っていないようなので、地方に住む私にはすぐは観られませんが、気をつけていたいと思います。
「ヨルゴス・ランティモス監督」…一筋縄ではいかない作品のようです(汗)。
トミーさん、いつもコメントありがとうございます。スマホやSNSの普及などで人と人とのつながりがダイレクトになったせいか、その関係性の築き方も難しくなってきているのかも知れないとも思います。
昔むかしの「グループ交際」(もはや死語)で、少しずつ人間関係の幅を広げていた時代とは隔世の感があります。
さて、「ヤギの脳」をモチーフにした作品があるのですか。
よかったら、詳細教えてください。
よろしくお願いします。
共感ありがとうございます。
もう1年前の作品なんですね、ブタの脳・・ヤギの脳みたいな作品も有りました。今、印象に残るのは二人の男の子たちの中から湧き出す性衝動。思わず身を離してしまう動揺、未だにおかしくないんだよとは言い切れない社会ですね。