「怪物は〝そこにいる〟のではなく、自分なのかもしれない」怪物 グレシャムの法則さんの映画レビュー(感想・評価)
怪物は〝そこにいる〟のではなく、自分なのかもしれない
なるほど❗️
この脚本の着想は、〝モンスターペアレンツ〟という言葉からきたのですね、たぶん。
一口でモンスターと言っても、そう呼ばれる親が本当にタチの悪いクレーマーの場合もあれば、純粋に子ども思いだからこそ、心ない教師の側から見ればモンスターに見える場合もある。
湊の母にとって一番重要な論点は、事実はどうであったのか、湊がどう心と身体に傷を負ったのか、それらを明らかにしたうえで、どう恢復を図るのか。
そんな前提は、確認するまでもない。
相手が人間であれば。
そう思って乗り込んできた母からすれば、彼らはモンスターにしか見えない。
姿かたちは同じ人間でありながら、〝異界〟に住むモンスター。
特別ではなくても、どちらかと言えば、良心的に子供達と触れ合おうという意欲を持ち合わせた新人教師。
彼から見ればトンチンカンな理屈にもならない理屈で動く先輩教師たち。
実社会でも。
経済合理性の観点からは、明らかに無駄と分かっているのに、ある上席者の面子(メンツ)や形を残すためだけに実務上必要のない説明資料を作らされた、なんて経験はありませんか?
昭和や平成一桁くらいまでは、それも仕事の一部としてなんとなく認められてた部分もありますが、今、それを強要する上司がいれば、理解不能なモンスターでしかありません。イジメなどに比べれば大したことはないように思えますが、その手の理不尽さを耐え難い(常識の範囲でごく普通に合理的な)人にとっては地獄です。メンタルが原因で療養を余儀なくされている勤め人が後をたたない一因でもあります。
怪物だーれだ?
その人は時に手を上げますか?
親ですか?
上司ですか?
先生ですか?
なにが起きていても見て見ぬふりをしますか?
理屈に合わないことを強要しますか?
もしかして、それって、私のことですか?
誰もが誰かにとっての怪物になり得る。
ふたりの子どもたちや陽光燦く緑などがとても美しいだけに、余計に怖さを覚えます。
この映画、ヒューマンミステリーのような体裁なのに、実はヒューマンホラーなのではないでしょうか。
(追記)
湊くん?
この作品の登場人物のしれっとした怖さ(相手が陥る不幸について同情的な共感を持たない)、『母性』のような視点の違い。羅生門よりもかなり恣意的な捉え方。
着想は、モンスターペアレンツからではなく、湊かなえさんの小説かもしれないですね。
中村獅童のロクでも無い、学生時代はラガーマンでもやってだろう体育会系高学歴父親が、短い出番ながら強烈。
キャバレー通いで本道名乗らずムスコの担任の名前使ってたんだな。
嫉妬からミナトを陥れようと教師に嘘をつく美少女同級生も怖い。
誰も自分のことを怪物だなんて思う人いないのに、怪物と呼ばれてしまう人が居るというのは、やはり誰もが怪物なんでしょうね。という事は、怪物なんてホントはいないのでしょうか。
野球の例で申し訳ないですが、
江川や松坂、イチローや大谷は、好き好んで怪物と呼ばれてる訳では無いでしょう。
コメントありがとうございます。
確かに、見る側の立場などによって相手が怪物か否かという見え方が変わるなら、自分自身が他人の目からは怪物に見える瞬間もあり得ますよね。
クィアという言葉での括り、観た後の感想としては、必要ないかなと思います。少年たちの気持ちはもうちょっと曖昧で確立されていないものに見えたし、作品の主題はそこがメインではない気がしました。クィア・パルム賞を取ってしまったので、世間的にはイメージがそっちに引っ張られてしまいそうですが。