「名作ではあるが……完成度の高い映像美の向こう側に置き去りにされたもの」ゴジラ-1.0 らりほーまさんの映画レビュー(感想・評価)
名作ではあるが……完成度の高い映像美の向こう側に置き去りにされたもの
白組による映像表現の数々は目を見張る。ハリウッドで評価されたのも頷ける。
この作品は間違いなく名作なのだろう。
ただし、怪獣映画としての部分だけを見れば。
本作の脚本は、言ってみれば人々の罪悪感や善意、義務感を人質にとったものだと思う。
第二次大戦という人類共通の徒花。
特攻兵という不条理と、それを臆病な嘘で回避した主人公。
義務感や使命感という、「誰かの尻ぬぐい」を言い換えたに過ぎないことで命を落とす人々。
心を動かすなと言われても不可能に近い、そういったノスタルジックで感傷的な、日本人のみならず多くの人間が抱くであろう、戦争や災害に対する根源的な恐怖を利用したのが、本作の脚本の特徴だ。
つまりは理不尽。
ゴジラという理不尽以外にも人間社会の抱える理不尽を利用し、人間の中にある感情を揺さぶる脚本だ。
それを体現したのが主人公であり、彼は正義や情けを貴びながらも、自分の抱える罪悪感……ほとんどは自業自得のそれに苦しみ、しかし、頼りになる仲間や力強く叱咤してくれる女性に奮起させられる。
これほど、ちっぽけな人間に都合の良い脚本があるだろうか?
彼は一時の勇気で活躍したと思った直後に、他人のより大きな勇気や思いやりによって救われることを繰り返す。
そればかりか、彼のせいで地獄を見たかつての戦友を徹底的に貶める手段でおびき出し協力させる姿は、唾棄すべき邪悪だ。それでも彼の行動は、何故か正当化されるし、周囲は彼を生かそうと手を差し伸べる。
まるで成長期の子供が親の庇護のもとでやんちゃを繰り返すかのようなこの主人公の姿は、世間の厳しさに疲れた人間にとっては、反感を抱きつつもどこか羨ましく感じさせるのではないだろうか。
平成ゴジラは別として、初代ゴジラやシン・ゴジラは、ゴジラという理不尽な超自然的存在に人類が成すすべなく蹂躙されつつも、個人の矜持や人間の社会性で乗り越え、あるいは教訓を残しつつもゴジラに去ってもらう、ある種の人間賛歌だ。
だが本作では、初代やシン・ゴジラが描いてきた「結果として人間が沢山死んだ」という婉曲表現を使わず、ゴジラによって直接的に人間がかみ殺されたり踏みつぶされたり投げ飛ばされたりと、徹底的に人間的尊厳を無視した死が描かれる。
ゴジラという社会的な災害=マクロの視点を、一人一人の無残な死というミクロな視点でもって徹底的に描いている。
これは、言ってみれば「社会的・世界的な悲劇」を「可哀そうな私」という個人の感傷に寄り添わせる為の演出であり、個人的には眉を顰めてしまう。
それはある種、悲劇や災害の矮小化であり、観た者に自分が主人公、あるいは犠牲者であるかのように錯覚させる毒だ。
等身大と言えば聞こえは良いが、私は本作の脚本の中に、「失敗続きの自分でも主人公になれる」という多くの人が抱える暗い欲望を刺激する要素を感じてやまない。
個人としてのヒーロー性を強調することは、ゴジラ=理不尽な災害や戦争のメタファーに立ち向かうシリーズとして相応しくない。どころか害悪だろう。
優れた誰かに仮託することでは、ゴジラに本当の意味で勝つことはできない。そういったメッセージを無価値にしたのが本作の物語だったと、私的には感じてしまった。
ゴジラ討伐作戦の説明会で、最後に残った人々が悲壮感ではなく勇猛感で決起するくだりに、そういった危うさが顕著に表れている。
ノスタルジーで理不尽に勝てるのなら、人間には知恵などいらないはずだ。
本作は全編にわたってそういった、最も大事なものに後ろ足で砂をかけるような気持ち悪さが横たわっており、私的にはゴジラ以上の理不尽に感じてしまった。
最後のシーン及び某人物の体に現れた異変についても、蛇足というか、冷笑的な気持ち悪さを感じてやまない。