あしたの少女のレビュー・感想・評価
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二人の主人公らの名演が胸に突き刺さる
一人の女子高生が学校側からの就職先紹介で足を踏み入れた職業体験。そこでのコールセンター業務は勤務する若者の精神を摩耗させ、精神的に追い詰めていくものだった。冒頭であれほど無心になってダンスに情熱を傾けていた主人公が、徐々に顔をうつむかせ、不条理と闘う意欲すら剥ぎ取られていく前半は、観客にとっても怒りと衝撃がたえず沸き起こる時間帯だ。もしもこれだけで終止していたら、私は絶望的な気持ちのまま立ち直れなかったろう。しかし本作は後半になって視点を変える。ぺ・ドゥナ演じる刑事が社会派ともハードボイルドともいいうる存在感で地べたを這うように闇を追うのだ。悪の糾弾といった分かりやすい手法は採らず、かつて少女が見た光景、感じた無力感を刑事もまた目の当たりにし、事件を点ではなく、社会全体を覆う膜のような「構造」として我々に提示するその試み。一直線に突き進むベクトルが、闇に刺す光のごとく胸をえぐる秀作である。
重かったー。 休みじゃないと無理な程に。 悪辣な体制の救いの無さ ...
右ストレート
カタルシスを感じられない社会派サスペンスの醍醐味
監督と脚本は『私の少女』のチョン・ジュリ
二部構成
前半キム・ソヒ視点
後半オ・ユジン視点
実話が元になっているらしい
粗筋
担当教師の勧めで職場実習は始めた高校生ソヒ
勤務先は大手通信企業の下請けコールセンター運営会社
あの手この手と顧客の契約解消をおもいとどまらせる業務
ブラック企業だった
上司のチーム長が自殺した
ソヒは職場環境や仕事内容が辛くなり会社を無断欠勤
学校と会社の板挟みで自殺した
すっかりクールな刑事役が板についてきたペ・ドゥナ
自分は『吠える犬は噛まない』や韓国版『ドラゴン桜』のようなコミカルな芝居の方が好きなんだが
叱る上司に激しく熱く反論するシーンは好き
でも頭に来たからと言って捜査中に教師を殴ってはいけない
あれはマイナス演出
じっと耐えるべきだった
2人は同じダンスサークルに所属していた
主人公は高校生だが堂々と飲酒をしている
大人は誰も注意しないし普通に提供する
韓国では19歳からOKで高校生でも最上級生で誕生日を迎えると19歳になるらしい
お国の事情が違う
海外の作品は予備知識がないといろいろと強い違和感を感じてしまう
韓国の映画やTVドラマをよく見る人たちにはすっかりお馴染みの「チーム長」という表現だがそれが大きな言葉の壁になっていてわかりにくい
細かい理屈はもういいからそろそろ部長か課長と表現するべきだろう
韓国語の翻訳家は戸田奈津子と違い変な拘りを持っているようだが翻訳を職する者なら「チーム長」こそ誤訳であり誤魔化しである
韓国作品であるよく見かける「クソアマ」っていうのもなんだかなあ
誤訳じゃないのかな
現代の日常的な日本語に訳さないと
自殺を自死と表現しろというと遺族側?の動きも正直かなりの抵抗感はある
言葉をいくら変えてみたところで世間一般の「命を粗末にした」からそれでもって「社会の犠牲者」とか「尊い選択」などに変換されることはないはず
遺族からすれば「なぜ死んだ!馬鹿野郎」が本音だろう
「自死」という言葉を持って特にネット民に釘を刺すつもりかもしれないがそれで遺族が少しでも救われるとは到底思えない
映画.comや映画会社はそっち側のようだ
申し訳ないが自分は協力できない
子供の頃から今でも言葉狩りは嫌いだ
言葉狩りする側が優等生でそれに抵抗する者が劣等生だとしても
抗議する側が必ずしも正しいとは思えない
いまだにベイスターズを大洋ホエールズと言ったりヤクルトスワローズのことを国鉄という人は少なからずいるがそれとは違う
ソヒの母が娘の死に文字通り泣き崩れる芝居が印象的
まさしく泣き崩れた
あまりのショックに腰が抜けてとても立ってられない
彼女のあれだけで涙が溢れた
日本の女性俳優がああいう芝居をしているところをあまり観たことがない
シチュエーションとかいろいろと違うが『家なき子 希望の歌声』でバルブランママを演じたリュディビーヌ・サニエの熱演を思い出した
配役
自殺した女子高生キム・ソヒにキム・シウン
ソヒの自殺を捜査する刑事のオ・ユジンにペ・ドゥナ
高校生の過労死
コールセンター研修での過労から自死する高校生ソヒ(キム・シウン)と、その捜査にあたる刑事ユジン(ペ・ドゥナ)の2者視点で構成されている。
実話からインスピレーションを得て書かれたそうだ。
2022年カンヌで上映されて以来、各所で賞をとった。
社会未経験で意欲的な高校生がコールセンターなんかやったらどうなるか。
ひどい労働環境に幻滅することがわかっているのに、期待と不安に胸を高鳴らせている少女の描写がつらい。キム・シウンがじょうずで余計につらい。
一日中座って電話の向こう側の横柄な客を相手にする。
ののしられても低姿勢をとらねばならず成績を競争させられ無給で長時間労働したうえ上司にあたられ心が荒みきってしまえば衝動的に死を選ぶこともあり得るだろう。
前半は見ているのがとてもつらかった。
後半の捜査では調べるほど社会構造の病根が見えてくる仕組み。
学校は就職率をあげるために、劣悪な仕事をやらせる就職先と昵懇になっている。就職率実績がないと助成金がでないからだ。
下請けの親会社は、ストレスフルな競争システムであっても法的介入ができないのを盾に、嫌だったなら辞めることができたと主張する。
監督の省庁もそれらを取り締まる権限がない。あるいは数値によって評価されるので解らない。
問題はあってもそれが隠れる社会構造をしている。こうした構造上の陥穽やブラック企業は日本にだって山ほどあるだろう。
刑事のユジンはそれに直面するが、正義感と少女への憐憫にかられて、学校や企業や監督庁を追求する。
ドゥナの演じるユジンはよく韓国映画ドラマに出てくる上司と衝突するタイプの熱血型刑事である。
が、その正義感はリアルだった。それはイソコ的な自己顕示のための偽正義ではなくほんとの義憤だった。
ソヒとユジンの間にはわずかな接点がある。趣味のダンスクラブでいちどだけ居合わせた。ソヒは利得もないのにおばさん世代とダンスをやっている。あてのない目標へ向かってひたすらダンスの練習に励んでいたソヒ。無欲な少女が負った冷酷な仕打ちが、ユジンには我慢できなかった。
ソヒが自死したこと、それをおこした社会構造は、1刑事の力ではどうにもならないことだろう。だけどユジンはソヒの気持ちに思いをはせて、どうにかしたいという使命感にかられる。
チョン・ジュリ監督はこの映画をつくった動機をこう語ったそうだ。
『誰かに寄り添うことができれば、もしかしたら変わるかもしれないという希望。その希望だけを考えて、この映画を作りました。』──チョン・ジュリ
原題のNext Soheeには、次のソヒが起こりうるという警笛と、次のソヒをだしてはいけないという悲願がこめられていると思った。
監督の前作「私の少女」(2014)にもぺ・ドゥナがでており、虐待に遭っている少女と少女を引き取る警察官の話で、今作と通じるものがあった。
ペ・ドゥナはクールだが熱い信念がある雰囲気。私の少女、あしたの少女、ベイビーブローカーは同キャラクターのように感じられた。いるだけで絵が安定する女優だと思う。
あしたの少女?
一番大事なのは人の命
知れば知るほど苦しくなるけど、知るべきなんだ
誰もが、「問題児」扱いした高校生を、
ぺ・ドゥナは知ろうとする。
自らの心の痛みを伴いながら。
そして、やるせなさを抱えながら。
どうすることも出来ない現実に頭を抱えながら。
だけど、この作品が劇場で公開されること自体に意味があると思いたい。
本当に胸がキリキリするような痛み。
誰のことも軽視しちゃいけない。
それは勿論のこと、誰かの言葉も涙もすべて
見逃してはいけないし、溢れ落としてはいけない。
『アシスタント』や『ポエトリー』を彷彿としました
が、この作品には悲しみの先には何もない、
むしろ、どうにもならない現実が広がっているだけ、
ってところに、現在進行形で続いている社会に嫌気が指すし、
フィクションとも他人事とも思えないんです。
聞くことの困難さ
人の尊厳と未来を奪う社会システム。
「私の少女」のチョン・ジョリ監督待望の新作。ぺ・ドゥナが今回も本庁から左遷された刑事を演じてるのでまさかの続編かと思ったが役名が違ってた。
前半は高校生ソヒを、そして後半はソヒの死の真相を探るユジンの視点から描いた二部構成。
高校卒業を間近に控えたソヒは学校の紹介で大手企業子会社のコールセンターに実習生として働くことになる。
本来実習生にとってそこは職業訓練の場であるはずが実際は即戦力として社員同様のノルマを課され、その内容も顧客の解約阻止というストレスのかかる業務内容だった。
職場は入社した人間が一定期間でほぼ全員入れ替わるような離職率の高い会社であり、管理職の人間も常に本社からプレッシャーをかけられ精神的に余裕のない状態だった。
そんな職場でも負けん気の強いソヒは食い下がって徐々に仕事をこなし成績も上げてゆく。
しかし、いくらノルマを達成しようが給与は実習生ということで正当に反映されない。
仕事のストレスやそれに加えて上司が自殺し、会社は上司が告発しようとした不正を組織ぐるみで隠蔽する。
次第に追い詰められてゆくソヒだが、経済的に困窮している両親には相談できず、学校からもプレッシャーを受けて仕事を辞めたいと口にすることもできない。
そしてついに限界を迎えた彼女は隙間からこぼれる眩しい陽の光に誘われるかのように自らの命を絶ってしまう。
ソヒと同じダンススクールだったユジンは当初ソヒの死をただの自殺として処理するつもりだったが、調べてゆくうちにこれは労働災害であることに気づく。
会社は顧客の解約阻止というストレスのたまる仕事を実習生にやらせてノルマ達成のための超過勤務は常態化、それに見合う報酬も支払わずに私腹を肥やしていた。
支援金目当てに就職率にこだわる学校も企業から足元を見られてその実態を知りながら学生を企業に供給し続けていた。
監視すべき省庁も中央の言いなりで数字しか見ておらず、ソヒのような個人の被害に目を配らせることもしなかった。
ソヒが勤めていた職場、学校、そしてそれを管理するはずの省庁を調べてゆくうちにユジンはソヒの死の根底にはこの国の社会構造に問題があることに気づき愕然とする。そして自分一人の力では到底どうすることもできないと自分の無力さを思いしらされる。
見つかったソヒの携帯には彼女が一心不乱に楽しそうにダンスの練習をする姿が収められていた。未来が嘱望され希望にあふれた十代の若者がなぜこうも無残に命を奪われなければならなかったのか。
そんなソヒの姿を見ながらユジンはただ涙するだけであった。
実際に韓国で起きた事件をもとに作られた本作は世界中で共感を呼んだ。これはけして韓国だけの問題ではないからだ。
新自由主義的経済政策により格差が広がった世界では企業が利益を上げるために人々が労働力として搾取され使い捨てられている実態がある。
それは「トリとロキタ」で描かれたような外国人に限らず、搾取されるのは自国民でも同じだった。
韓国は通貨危機をきっかけにアメリカが主導するIMFから支援を受けるために新自由主義を受け入れざるを得ず、格差が広がった。
日本は通貨危機を経ずともアメリカの意向に沿うように構造改革がなされて格差社会となった。非正規雇用率は韓国以上だ。
本作を連想させるような大手居酒屋チェーンや広告代理店での過重労働が原因での若者の死が日本でも相次いだ。
先進国で新自由主義の国はアメリカ、イギリス、日本とどれもが貧困率はトップクラス。それらの世相を反映したジョーダン・ピール、ケン・ローチ、ポン・ジュノ、是枝監督らの作品が作られたのも自然な流れだろう。
この事件をきっかけにして、実習生の待遇を改善する法案が韓国で可決されたという。当初は少女の自殺は注目されずそのまま問題は葬られるところだったが、この問題を調べて声を上げた人間がいたことから社会を動かすこととなった。
貧富の差を大きくし、環境も破壊し続ける新自由主義政策は明らかに失敗している。これに声を上げない限り悲劇は繰り返されるのだろう。
前作に引き続き現代社会が抱える問題を鋭く描いた力作。
隣国の話ってわけじゃなし
ブラック労働現場の闇は調べてみれば一企業の話に留まらず、世の中の制度や構造全体へと広がっていく。高校生なのに酒飲みすぎのソヒの心の傷みはアルコールに漬けたぐらいじゃ止まらない。
組織や社会の側がさまざまに個人を抑圧し、人の命を前にしてもことなかれ主義は貫かれ、目標やら成果やら「漁師とビジネスマン」のジョークのように、みんながなんのために数字を追いかけているのかよくわからなくなる。ペ・ドゥナが本庁の事務方から所轄警察の刑事課に異動させられたのは、警察内部の同様の何かが理由であり、それゆえ執拗に事件を追いかけているのだろう。
読んだばかりの太田愛の新作『未明の砦』も労働問題の話で、希望をもって物語は終わる。本作は残念ながらファンタジーとはならず、ダンスのキメで必ず失敗していたソヒが完璧に踊っているのが過去の動画の中というのが悲しい。
辛いときは誰でもいいから話す
職場でみんなで見るべき映画ですね。
ダンスが好きな正義感が強い少し不器用な高校生ソヒ、担任の先生からコールセンターの仕事を紹介させられる。高校の担任の先生からは夢のような職場と聞いていましたが、現実はお客様の意向を反する解約阻止でした。元上司が自殺に追い込まれ、やがてソヒも遺体として見つかる。
前半はソヒが自殺までのストーリー、後半は刑事ユジンの捜査によって明らかになってきます。
ソヒのことを知らないソヒの両親、ソヒが一番辛いときに喧嘩してしまった親友、事件当日に迎え行けなかったソヒの好きな人、ノルマの為に自分たちの仕事を守るために適当に実習企業を選んだ担任教師と教頭、会社も学校も官公庁もノルマな社会。自分の命を経つまで告発を選んだ元上司であったが、示談になってしまい、2つ目の事件が起きてしまった。
呆れた世界になりがちな中でも戦い続ける刑事ユジン。実際の事件をモチーフにして作られたということもあり、ユジンが戦わなければ、映画となっておらず、映画を観た方に「辛いときは誰かに話す」ということを伝えられなかったと思います。
間違いを否定する世界で戦い続けることを恐れずに、辛くなったら遠慮なく話すことが自分の命を守ることになります。
予想外の展開に思わず泣けました。
レビュー評価が高いのと、公開日も残り少ないと思ったので鑑賞。
予備知識もなく見ましたが、後半の展開にただただ驚くばかり。
ダンスが好きで少し短気な女子高生ソヒが就職担当の先生から大手通信会社の下請け業者に実習生として
勤め始まます。てっきり主人公の少女が様々な苦難の後に何かしら救いのあるラストで終わる青春物を想定してましたが、
韓国社会は全く甘くなく、どこもかしこも生き残りの競争と激しい罵り合いでソヒの精神が削られていきます。
ここで細かくストーリーは書きませんが、たぶん韓国の労働環境の現実を描いている良心的な作品だと感じます。
全く救いはなく後半苦しい展開が続きます。エンディングでソヒが一人で楽しそうに踊る姿が脳裏から離れませんでした。
公開日も残り少ないですが少しでも興味があれば見てほしい作品でした。
ペ・ドゥナ
あしたへの光
コールセンターで働く人たちは本当に心身にかかるストレスが大きいと思う。
大体において電話をかける顧客側が既にストレスを抱えた状態であることが多い。
電話が繋がらない、そもそもどこにかけたら良いのかが分からない、繋がってもたらい回しにされ、同じ内容を何度も説明しなければならない。
このシステムがもっと分かりやすい形であれば良いのにといつも思うのだが、企業側からすればそう簡単に契約に取り付けた顧客を手離したくないだろうし、なるべくならトラブルに関わりたくたいだろう。
だから敢えて窓口を分かりにくくしているようにも感じる。
そしてその被害を被るのはいつも末端で働く人たちだ。
どこの国でもシステムは違えど、不当に安い労働力で搾取しようとする企業の問題は常にあるのだと感じた。
正直、観ていて心が苦しくなる映画だった。
職業学校に通うソヒはダンスが大好きで、責任感が強く自分の意見をはっきり言える強い女性だ。
彼女は担任教師から大手通信会社の下請けのコールセンター運営会社の紹介を受け、実習生として働き始める。
顧客のサポートが主な仕事だと聞いていたソヒだが、ほとんどがクレームの電話で、さらに会社側は解約を申し出る顧客を何としてでも阻止するように指示を出す。
まだ実習生のソヒにも重いノルマが課せられ、従業員同士の熾烈な競争を煽られる。
芯が強く誰にでも意見を言えると思っていたソヒだが、次第に会社の圧に押され萎縮していく。
会社側は成績の悪い社員を見せしめのように吊し上げる。
過度なストレスをかけられ、人格を否定され続けると人は逆らう気力がなくなり、従順にならざるを得なくなる。
このあたりの人を洗脳する術をブラック企業はよく心得ている。
ソヒは次第に心を病んでいくが、学校の友達は事情も知らずに連絡のつかない彼女を責める。
そして両親も何らかの問題を抱えているようで、虚ろな目をしながら娘に気を配る余裕がなさそうだ。
心身的に疲れたソヒはついに悪質な要求をする顧客を電話口で怒鳴り付けてしまう。
しかしそんな彼女のことを指導役の若いチーム長は責めなかった。
酷いことを言われたのだろうと彼女の心に寄り添う彼もまた、この仕事に疑問を抱き続けているようだ。
そして雪の積もった車の中で、チーム長は練炭自殺をしてしまう。
彼は不当な労働環境を遺書の中で告発しようとしたのだが、会社側は揉み消してしまう。
彼の死にショックを受けたソヒだが、人が変わったように仕事に励み、成果を出すようになる。
この会社で成果を上げることは人としての心を麻痺させることでもある。
息子が死んでしまったことで契約を解除したいと涙ながらに電話をしてきた父親にも、彼女は新しいプランの提案をしてしまう。
しかしどれだけ頑張っても会社側は実習生という理由で彼女に成果給を払おうとしない。
これは完全な契約違反であり、会社は実習生という名で不当に安い労働力で彼女をこき使おうとしているのだ。
ついに彼女は我慢の限界を迎え、新しいチーム長を殴り付けてしまい、謹慎処分を食らう。
彼女の心の苦しみを知る者は誰もいない。
責任感が強いからこそ、彼女は人に相談することが出来ない。
思わず酔った勢いで手首を切ってしまう彼女だが、会社を辞めたいという言葉は母親には届かない。
さらに追い討ちをかけるように、担任が今回の謹慎によって学校に損害を与えたとソヒを責める。
友達と昼から飲み歩くソヒだが、彼女の心はどこにあるのか分からない。
一人になった彼女は真冬の貯水池に向かって歩き出す。
場面が切り替わり、ソヒの遺体が発見されたことが分かる。
ここから視点はこの事件を捜査するユジンに切り替わる。
実は憔悴したソヒがダンススタジオに見学に訪れた時に、黙々とダンスを踊っていたのがユジンだった。
この映画の場合、冒頭にソヒの遺体が発見され、捜査を進めるうちに事実が浮かび上がってくる構成にすることも出来ただろうが、なぜ時系列通りのシナリオにしたのだろうかと思った。
観客は既にこれまでの過程を知っているから、ユジンが調書を取る場面は二度手間になるように感じてしまった。
しかし物語が進むにつれて、この映画はこの構成が正解だったのだと気づかされた。
客観的に描かれることで、ソヒがどういう人物であったのかがより深みを持って感じられるようだった。
そしてユジンが動くことで韓国が抱える社会の闇が浮き彫りになっていく。
学校側は就業率が悪くなると補助金を貰えないために、どんなに過酷な労働条件だろうと生徒を送り出さない訳には行かない。
ユジンは仲介手数料を貰っているのではないかと教頭を責めるが、彼らは不正を働いているのではなく、やむ無くこのシステムを受け入れてしまっているのだろう。
では問題はどこにあるのかとユジンが教育庁に乗り込めば、地方の教育庁には何の権限もないのだと居直られてしまう。
問題の根元がどこにあるのか分からないのがこの社会の恐ろしさであると思った。
教育庁にしても、学校側にしても、そして悪質な会社にしても、それぞれに自分の立場を守るためにもっともな理由をつけて正当性を主張する。
そして被害を受けるのはやはり末端で働く労働者であり、未来を担う若者なのだ。
彼らの姿を見て自己責任だと突き放す者もいるかもしれないが、これは韓国に限らず日本でも現実に起きている一面であることに目を向けなければいけないと思った。
ソヒが死ぬ間際に足元を照らす一筋の光を見て何を思ったのだろうかと考えさせられた。
そしてその同じ光をユジンも目にする。
それが仄かではあっても明日へと続く希望の光であって欲しい。
結局ほとんどの人間は使われるためにある道具でしかないのかもしれない。
しかし道具なら乱暴に扱えば壊れるに決まっている。
そのことを上に立つ人間は改めて考えるべきだ。
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