「プルースト効果でタイムリープ! 母と叔母と街に隠された過去に迫る、幼い少女の冒険の旅。」ファイブ・デビルズ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
プルースト効果でタイムリープ! 母と叔母と街に隠された過去に迫る、幼い少女の冒険の旅。
何だよ、けっきょく全部お前のせいじゃねえかよ、とちょっと思ってしまった(笑)。
映画としての完成度は高かったし、出演陣はみな芸達者だし、社会派映画としても考えさせられるところは多かったが、基本設定と語り口に、自分にはどうも合わない部分が多かったかも。
ネタに触れずに話をすることの大変に難しい映画だが、
本作のおおもとの発想源は、いわゆる「プルースト効果」である。
香りには、過去の記憶や感情を呼び覚まさせる力がある、というアレだ。
マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』(「スワンの恋」)では、主人公が紅茶に浸したマドレーヌの味と香りをきっかけに、幼少期の家族の思い出を蘇らせる。これには科学的根拠もあるそうで、なんでも嗅覚は五感の中で唯一、嗅細胞、嗅球を介して大脳辺縁系に直接つながっているので、記憶と連動しやすいらしい。
これまでも、ふとした香りが過去の回想のきっかけになる、という物語は山ほど書かれてきた。歌だと昨年ヒットしていた瑛人の『香水』もそうだ。
本作では、この「香りで記憶を蘇らせる」という現象を、そのまま「実際のタイプスリップ」に結び付けてみた、ということになる。
そういえば、『時をかける少女』でも、ヒロインを過去にいざなうのは、「甘くなつかしいかおり」だった。
ヴィッキーは白人でエアロビ・トレーナーの母親と、黒人で消防士の父親のあいだに生まれた8歳の少女だ。利発で賢い子供だが、小学校では独特のアフロヘアのせいで「トイレブラシ」とあだ名をつけられていじめられている。
彼女には、においを嗅ぎ分ける特殊な能力がある。
あの映画『パフューム』の主人公みたいに、極端に鼻がきくのだ。
彼女は、いろいろな物体や動物、人物の「におい瓶」を作って、コレクションしている。
ある日、ヴィッキーの父親が、「叔母」だという黒人女性ジュリアを連れて家に帰って来る。
ジュリアがヴィッキーの母親ジョアンヌと会うのは10年ぶりだというが、どうも様子がおかしい。
三人には、過去に街で起きた事件とかかわる、何かの因縁があるらしい。
子供心に警戒心をつのらせたヴィッキーは、ジュリアの「におい瓶」を作って、様子を探ろうとする。
ところが、ジュリアの「におい瓶」を嗅いだとたん、ヴィッキーは突然昏倒する。
気付くと、彼女は過去に飛ばされていた。
それは、ジョアンヌとジュリアがまだ女子体操をやっている学生だったころの過去。
こうしてヴィッキーは、「におい瓶」を何度も嗅ぐことで、当時の母親と叔母に何が起きたかを断続的に「目撃」することになる……。
パンフなど見ると「母親と叔母の記憶へと入り込む」って書いてあるけど、モノを持ち帰ったりしてるから、100%「記憶」ではないよね? 基本はタイムリープしてるんだけど、世界線が違うから向こうの世界の人間にはヴィッキーは見えないってことだろう(ただジュリアだけは「少女の影」に気づく)。
SF設定としては、タイムリープが特定の時期に「時系列」で順に発生するなど、かなりご都合主義的で、どちらかといえば、母親の過去を作中で平行モンタージュを用いて明かしてゆくための、一種の「口実」ととらえたほうがいいだろう。
その他、ネタバレになるので詳しくはかけないが、ヴィッキーが過去に飛んだこと自体が大いに過去の出来事に影響しているとすると、その出来事がなかったらヴィッキーは産まれていなかったかもしれない事実とお互い思い切り干渉しあっていることになり、あれ?これでいいんだっけ、とちょっと思ってしまった。
それと、「極端に鼻が利く」ということと、「においに反応して過去に飛ぶことができる」ということと、「カラスを煮て嫌なにおいを作り出して相手を攻撃する」ことは、それぞれ大分次元の異なる話である気がするのだが、なんとなくごっちゃになっているのは気になるところ。
あと、現代篇を観ると例の人物がタイムリープ能力について何か知っていることは明らかなのだが、だとすると過去にあんなに動揺していた理由がよくわからない。
10年のあいだいろいろ考えた末に、自分に備わっている「何か」に鑑みて、「きっとこういうことだったに違いない」と、なにが起きたかに確信をもったということか。
まあ、蓋を開けてみれば、バリバリにポリティカルなLGBT映画なんだよね。
明快に主張したいことがあって、それを作中の登場人物に仮託している映画。
その意味では、つい先日観た『ドント・ウォーリー・ダーリン』とよく似た立ち位置の作品といえるかもしれない。
女性監督による女性映画。
ネタ映画の皮をかぶった政治的映画。
「黒人であること」が重要な役割を果たす映画。
母親との関係性を探って記憶をさかのぼる話と、黒人少女のアンデンティティ追求がかけ合わさってるという意味では、セリーヌ・シアマ meets ジョーダン・ピールみたいなところもある。
あと、「魔女」テーマのヴァリエーションってことでは、『ヘレディタリー/継承』とか。
ただ、『ドント・ウォーリー・ダーリン』よりは、直截的で主張が強いし、語り口が明らかに女性寄りなので、たとえば黒人の旦那さんの扱いとかは、かなりひどい気がする。
少なくとも、常に冷静であることを、あんなネガティヴな言われようしたら、やってられないよね……。
監督のレア・ミシウスは、パンフで彼を「実態のない人物として存在し続ける」と分析している。差別と闘うためには「いわゆる冷静なスピーチや、嫌なものを笑いでごまかすような『ジョーク』に魅せられてはいけないのです」とも言ってて、根底の部分でこういう「ドント・ウォーリー・ダーリン」の姿勢で穏便にすまそうとするキャラクターが嫌いなんだろうね。だから、こういう描き方になるのだと思う。
パンフの監督インタビューを読むと、デヴィッド・リンチの『ツイン・ピークス』に大きな影響を受けていて、「語りすぎない」ことで「謎を残す」手法を採用し、完成したフィルムから編集作業を通じて徹底的に「情報を取り除いて」いったことが書かれていて興味深い。
いわく、「私たちも、小さな木の板で塔をつくったあと、その板をひとつひとつ取り除いていくカプラゲームのように進めていこうと試みました。編集中はまさに、塔が崩れないようにできるだけ多くの情報を取り除くような感じでした。」
ただ、その結果として、多くの観客にこの映画の肝要なポイントが伝わっていないとしたら、本末転倒だと思う。
とくに、なぜヴィッキーが産まれたかって話で、今の旦那さん(ヴィッキーの父親)が、●●●の役割を果たしたとか、パンフに書いてあるのだが、みんな普通に観ていて気づくもんだろうか?? 言われてみれば「なるほど、そうだったのか!」と得心がいくのだが、たいがいの人はえらいことになったドタバタでつい慰め合ってるうちに孕んで出来婚したくらいにしか思わなかったのではないだろうか……。
あと、ヴィッキーが過去に遡行して、車のなかの母親と叔母を見かけるシーンが、「象徴的な●●のシーン」だと書かれているのだが、あれを観てそう気づく人はそんなにいないと思う……(笑)。
まあ、フランス国内なら、誰か目端の利く人がSNSで流して、「ああそうだったのか!」ってふうに流布していくのかもしれないけど。
でもこうやって観ていると、最近の「ネタ系映画」ってのは、リベラル系の価値観をもつ若手監督たちの「社会派映画」の実験場と化している感があるなあ。
「世界観の反転」や「タイムリープ」という、「既存社会の裏を覗く」ギミックそれ自体が、じつは今の社会の変革もしくは転覆を求めるメンタリティと意外に相性が良いということか。
映画として成功か失敗かと言われると、成功の部類に属する映画だとは思うのだが、結局のところ、ヴィッキーを演じるサリー・ドラメの説得力と演技力ですべては許されている感じもある。
それくらい、この子役の老成した哲学者のような風貌には、人を惹きつける力がある。
愛されたいいたいけな子どもとしての側面と、能力をふりかざすアンファン・テリブルとしての側面が同時に表現され、愛くるしさと小憎たらしさが同居するクセの強いキャラクターを好演している。
依怙地で妥協を許さない偏屈ものの側面(ふつうあれだけいじめられたら、髪型くらいは変えると思う)。慈母のごとく父親を赦し、包むこむ情け深い側面。これを体感的に感性で演じ分けているとすれば、本当に立派なものだ。
監督がこの娘のことを、『ブリキの太鼓』のオスカルみたいって褒めてるのは、女の子に対する誉め言葉としてはどうかとも思うが(笑)。