ウィッシュのレビュー・感想・評価
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願いは生きる原動力
109シネマズプレミアムにて鑑賞。
ディズニーは私が生まれた時からずっと好きで、長い付き合いと言ってもいいぐらい大事な存在です。そのため、100周年記念作ということですごく楽しみにしていました。
3DCGなのに昔の手書きをイメージした絵柄がすごく新鮮で、これまでの伝統と最新技術を融合させたディズニーの凄さに驚きました。今作の挿入歌も素晴らしく、「ウィッシュ〜この願い〜」は「レット・イット・ゴー〜ありのままで〜」のように周りに流されず、自立していこうとする力強さが込められた楽曲になっていました。また、過去のディズニー作品のオマージュも多く、特にエンドクレジットではファンへの感謝を伝える内容に感動しました。
登場するキャラクターはどれも印象的でした。主人公のアーシャはジャスミンのように自ら行動していく前向きな姿勢が共通しており、彼女が必死で行動していくところから勇気をもらいました。相棒のバレンティノはこれまでの動物キャラを、スターは初期のミッキーマウスを彷彿とさせ、どちらとも表情豊かに動いて可愛かったです。マグニフィコ王は自分の欲望に取り憑かれ、願いの力で暴走する姿はマレフィセントとジャファーを組み合わせたようなインパクトある悪役になっていました。
そして何よりも一番感心したのが、「なぜ人は願うのか」という素朴な疑問に一つの答えを出していた点でした。アーシャが「願いはみんなの心なのよ!」と何度も言っている場面から、願いは人間が生きる原動力なのではないかと考えました。多くの人は王にそれぞれの願いを差し出しますが、そのほとんどが叶えられないどころが、逆に利用されてしまいます。それに気づいたアーシャは、願いは他人に叶えてもらうのではなく、自分で叶えるために行動を起こすようになりました。ここから夢を実現させるためには、世間の風潮に惑わされないことも大切なんだと実感しました。
今回は、子供のころから大好きな山寺さん目当てで日本語吹き替え版を鑑賞しました。アーシャを演じた生田絵梨花さんは、前向きさと力強さを持ち合わせた歌声に惹かれました。山寺さんのバレンティノは野獣のようなイケメンボイスが子ヤギと自然にマッチし、本作でも彼の気合いが入った演技になってきました。他にも、ディズニー作品に出演経験のある声優も多数参加しており、オールスターのような豪華さもありました。
創立100周年という記念すべき年の中で自身が生きていることが奇跡だと思えるぐらい最高に満足できました。また機会があれば、もう一度英語版で観ようと思います!
なんだこれ・・・って、なんだこれ? なんじゃこりゃ!?
って、一人ではしゃいでしまったのは、「ウィッシュ」本編ではなく、前座にして同時上映の『ワンス・アポン・ア・スタジオ -100年の思い出-』の方。
この短編で共演しているのは、ディズニー100年のキャラクター達だけではありません。それぞれ歴代のアニメーションテクノロジーまでもが共演している、正に驚異の短編アニメーション。技術的なことは判りませんが、それぞれのキャラクターがそれぞれ当時のアニメーション技術で動いているんです。昔の人は凄かった。予算の都合とかもあるのでしょうか、アニメによってはチープなデッサンや動きになっちゃうけど、当時の技術そのままに、ミッキー・ミニー・シンデレラなど、由緒あるディズニーの滑らかなアニメーション技術が忠実に再現され、しかも最新のCGアニメと見事に共演を果たしている凄まじさ。昔からのトムとジェリーのような戦前から続くカトゥーンアニメなんかも含めて大好きな人間にとって嬉しい短編でした。
そして本編。どんなお話なのかよく知らないで映画館に飛び込みましたが、まさに「ディズニー100年」の記念作品という以外、何者でもありませんでした。
「星に願いを」というテーマを踏まえ、「鏡よ鏡、世界で美しいのは」だとか判りやすいパロディーやオマージュが目白押し。ついでにカービィのゲスト出演!(なのかな?)という、ディズニーの記念すべきエンターテイメントと言えるかと。
でも、そうですね。「雪アナ」「ラプンツェル」「アラジン」だとか、お話そのものがテーマの作品と思って期待してしまうと、マイナス点を付ける人も多いでしょう。見に来ていた子供達とか大丈夫かな?
理念を掲げて王様になったは良いけど、夢を叶えて上げる代わりに、夢を取り上げる。その矛盾が行き過ぎて、まるで情報統制された国家の独裁者に! そんな王様相手に「星のカービィと愉快な仲間達」が立ち向かい・・・って、こんな理解で良いのかな。だとするとシンプルで判りやすいけど、シンプルすぎて物足りない人もいるのかも。
でも大丈夫でしょう。相変わらずの凄まじいカット割りにアニメーション、迫力のある歌と音楽。見応えは十分。
最後のスタッフロールは、ちょっと地味だけど、よく見ていると歴代のディズニーキャラクター達が星の輝きと共にゲスト出演。『ワンス・アポン・ア・スタジオ -100年の思い出-』の始まりに対する括弧閉じの役割を果たしていて、同時上映ではなく、丸々一本の映画としてみるべきだと、感じた次第です。
スタッフロールを最後まで観た人のご褒美、老人にして習い始めたギターで奏でる「星に願いを」――この意味は深い。
メモリアル要素は隠れミッキーのように散りばめられた過去作オマージュ
ディズニー作品は有名どころしか知らない私でも、「ん、これはアレでは?」と思う箇所がぽつぽつとあり、ちょっと調べたら結構な数の小ネタがあったようでびっくり。100年の歴史へのリスペクトということだろう。
タイトルはディズニーを象徴する楽曲「星に願いを」からであることはわかりやすい。アーシャの7人の仲間(7人のこびと。名前の頭文字も一致)、魔法使いである王マグニフィコに弟子入りするアーシャ(ファンタジア)、空を飛びたいという願い(ピーターパン)、鏡よ鏡(白雪姫)、などなど。他にも、「衣装や行動がそれっぽい」みたいなレベルを含めるとかなり仕込まれていたようだ。
監督2人はインタビューで、「チャレンジしてほしいイースターエッグ」として、森のシーンの背景に登場する「柳の木のおばあさん(ポカホンタス)」を挙げている(私はポカホンタスを観ていないので当然分からず)。
絵柄はアナ雪などで見たようなやたらリアルな質感のものとは違い、あえて絵本っぽくしたような温かみのあるタッチだ。パンフレットによると、水彩画をイメージしたとのこと。
パッと見てディズニーキャラとわかる個性を持つキャラクターが並ぶ中で、スターのデザインだけがちょっと浮いて見えた。ああ見えてミッキーマウスに着想を得たキャラらしいのだが、巷で言われる通りどう見ても星の◯◯◯ィの……ゲフンゲフン、日本のゆるキャラにいそうなルックス。さすがに動きはディズニーっぽかったが。
映像の美しさや歌と動きの調和はディズニーらしいハイクオリティ。
ロサス王国では、18歳になったら「願い」を王に預け、王は魔法の力で預かった願いを叶えてくれるという。しかし、アーシャの100歳になるおじいちゃんサビーノの願いはいまだに叶えられておらず、願いを預けたばかりのサイモンは早速生気が抜けている。ここで、「そういうケースがままあるのに、どうしてみんな王様に預けるの?」という素朴な疑問が湧いてしまい、今ひとつ感情移入出来なくなってしまった(野暮なことは百も承知)。
何年も待たされて叶えられないことに疑問を持つ人が出てくる、というバグを防ぐためなのか、預けたこと自体を忘れてしまう、という設定。でも、サビーノの預けた願いが長年叶えられていないことをアーシャが知っていたように、預けた願いが何年も叶えられないことがあれば本人以外の周囲の人間にはわかるのでは? アーシャ以外誰も疑問を持たない様子なのが不思議だ。
こういった不自然なルールの説明を序盤のナレーションや台詞に詰め込んでいたことも、世界観への没入を妨げた。
王の作為に気づけない民衆の願いを救うため、真実を知るアーシャが奔走する。さながら目覚めた活動家のようだ。
彼女は17歳なので、まだ願いを預けていない。「この願い 諦めることはない(So I make this wish to have something more for us than this)」と歌いつつ、アーシャの個人的な願いについてはほぼ語られず、彼女の行動原理はおじいちゃんや他人の願いの奪還。このように、個々の欲求がテーマに据えられながら、主人公の個人的欲求がぼやけている点も物語の引力を減じたような気がする。いっそ、預けてしまった自分の願いを取り返す、みたいな設定で自分ごととして動いてくれた方がパワフルな話になったかもしれない。
しかし、自分の願いを王様に預けて叶えられるのを待つ(そして自分では何も努力しない)ことが現実の何を暗示しているかよく考えると、目標のための努力を先延ばしにしてしまう、明日から本気出すメンタルとよく似ているような気がしてきた。我が身を顧みてその点は反省しきりだ。ロサスの市民を笑えない。
3DCGを再考する機会
ディズニーにも手描き感ある3DCGの波が押し寄せてきた。輪郭線を描いている。「スパイダーマン:スパイダーバース」がアメリカの3DCGアニメーション界にもたらした影響の大きさを物語変化だと思う。
絵のようなテクスチャーに寄せたのは、ディズニー100周年という理由もあったかもしれない。昨今のフォトリアル3DCGだけでなく、かつての手描き時代の作品も思い出させるようにしたかったのだろう。
ちなみに、同時上映だった短編では実写空間に歴代ディズニーキャラクターが多数同じ画面に共存しているのだが、やっぱり昔の手描き時代のキャラクターの方が生き生きとしている。デザインのシルエットがすごくいいから、同じ画面にいるとそっちに目がいってしまい、3DCGキャラは目立たなかった。
話を戻して本編の話。願いを奪うヴィランの動機がやや不透明で、役割ありきな感じが否めないのだが、願いを込めた歌の力で倒すという展開はちょっとマクロスみたいで熱いと思った。アリアナ・デボーズの歌唱力は素晴らしい。このレベルで歌って踊れて演じれる役者がいるというのがすごい。
ディズニーの中では変わりダネ
設定が…
魔法使いが王様で、民の願いを預かり、定期的に選抜し、それを叶えるシステム…? ふつう、願いなんてひとつだけじゃないと思うけど。それにみんなの願いを見てると、病気を治して欲しいとか、失くしたものを取り戻したいとか、切実なものがない。この国の民は、満ち足りた生活をしてて、不幸ゆえの渇望とかがないみたい。また、王様に願いを差し出しても、具合が悪くなるわけでもないし、何年も叶わなくても頭がおかしくなるわけでもない。でも、自分の願いを自分に戻さないと、何かが欠けるんだね。なんとビミョーな。
100才のおじいちゃんの孫が17才、ってことは、お母さんが35才で娘を生んだとして現在52才、さらにお母さんはおじいちゃんが48才の時の子供になる。なんと晩婚一家なんだ。100才にこだわるなら、ひいおじいちゃんって設定にすれば良かったのでは。しかし、100才のおじいちゃんがボート漕いだり、楽器演奏したり、年の割に元気過ぎないか。
なんか、ディズニー100年記念にこだわるあまり、企画会議が紛糾したのでは、と勘ぐってしまった。あちこち破綻したまま、後戻りできず作った作品に思えて仕方ない。救いは音楽かな。生田絵梨花の歌は良かった。福山雅治は歌が下手なわけではないが、ミュージカルには合わないと思った。
日テレ金曜ロードショーを鑑賞。
前作主人公VS今作主人公
壮絶な過去を経験した男が必死の努力の末に魔法を獲得して理想郷を築き「誰も傷つかない世界」という願いを自らの手で叶えた前作主人公と、理想郷の歪さに気づき「みんなの願いを解放したい」という願いを偶然手に入れた力で叶えた今作主人公の闘争の物語。
絵と歌は凄くいい。でも脚本は微妙。なんていうか、しょぼい戦争映画見てる感じ。ディズニーでなくても良い脚本。
ー以下はこの作品を見た後のもやもやの棚卸し文ー
この作品のテーマは「願い」。でも願いって叶えたら現実になる。
最後に出てきた、空を飛びたいと願った女と空を飛べる技術を開発したいと願った男は、願いを叶えるだろう。その後誰もが飛べるようになる場所を提供するために共同体(会社)を作るだろう。その共同体(会社)を維持するために対価を取るだろ。他の人は、対価を払えば空が飛べるようになるだろう。でも、対価を払わずに空を飛びたいやつ人も出てくる。そんな人が自分で夢を叶えるには2つの道しかない。ひとつは自分で作ること。もうひとつはその共同体や技術を奪うこと。前者はいい。ディズニーの目指すところだ。でも後者は?後者も同じ夢を叶えること。だけど叶えた先には、何かを失う人がいる。誰かの願いが踏み躙られることになる。これが本当にいいことか?
誰かの願いを叶えることは、誰かの願いの妨げになる。だからこそ願いを叶えるためには、別の誰かを犠牲にしないといけない。
願いというの欲だ。その力は人間に文明を与えて、技術を向上させて、生活を楽にした。一方で、誰かを害し、何かを壊して、人々を苦しめた。
だからこそ人々は願いに方向性を設けた。誰かの迷惑にならないようにしようとした。(隣人愛、慈悲…)
人の願いが無秩序だとしたらどうか?
「殺人はダメだ。人が死ぬと悲しいからだ。」という願いは、「俺はあいつを気に入らない。だからこそ害したい。」という願いと衝突する。そしてどちらかの夢は叶えられない。そのときその願いを叶える手段が強い人が願いを叶えられる。
夢を叶える。それはとてもいい響きだ。
でも、夢には善も悪もないことを理解しないといけない。
勝った方が正義なのだ。勝った方が夢を叶えられるのだ。そこにはただ叶った後の世界があるだけ。そんな当たり前のことをただ当たり前に見せつけるのは凡庸な作品。
でもディズニーに求めてることってこれか?
誰かの夢と誰かの夢のただの闘争か?そんなの現実でどんな場所でもやってることだ。ディズニーにやって欲しいのはそんなことじゃない!
誰もが平等に自由に夢を叶えて欲しい。いい奴もわるい奴も夢を叶えて欲しい。でも誰かを害するのは誰かが傷つくからダメだ、だからこそ誰も傷つかない夢を叶えて欲しいんだ。
王が疲れてるなら国民が手助けすればいい、夢を返して欲しいなら返して欲しいことを別の手段で言えばいいし、自分で叶えられる夢なら別の国に行って叶えればいいし、みんなほんのちょっとの努力で出来たことをなぜ誰もやらない?結果王を1人悪者にして、良かったふりだけしてる。スターというなんでも願いが叶う手段を手に入れて、自分たちの願いを無秩序に叶えるだけ。そんな先にあるのは無秩序な世界だけ。だからこの国はあと数年で滅びるだろう。でもみんな幸せだと思う。だってみんなの願いが叶うんだもん!もちろん悪人の「誰かを害する」願いもね。
誰かの願いを踏み躙って、叶える映画なんてクソだ!って叩きつけてくるような、善人も悪人もみんなが本当に夢を叶える、そんな大円団の作品をディズニーには求めてる。
食べ物粗末にするの許せないマン
マグニフィコがかわいそうだとかアーシャの方が独善で無責任だとかロサスが愚民過ぎるとか王妃の手のひら返しが酷いとか色々言いたいことはあるけども
やっぱり食べ物を粗末にする描写(それも善人・正義として描かれているであろう側)があったのが本当に無理だった
自由だの願いだのどんなにキレイなお題目を並べようともさ、それはやっちゃいけないだろ?
この映画の製作陣は「飢え」とは無縁で、「飢え」に対して共感の姿勢すらないんだろうねと思ってしまう
思想のために食べ物を踏みつけるのが、富裕層というか、要は意識高い系の人たちの傲慢な思い上がりとか特権意識が透けて見えて…なんだろうな……とにかく嫌だな
どうしてもクッキーを砕く描写入れたいならさ、せめて歌って踊りながらケーキやタルトに調理し直したりとかすればよかったじゃんディズニー映画なんだから
クッキーに洗脳効果があるとかアブないお薬入ってるわけじゃないんでしょ?
食べ物を踏みつける人間が「正義」として描かれるの、本当に嫌悪感が半端ない
マグニフィコが愛嬌たっぷりで親しみやすい王様なのが唯一の魅力
福山ボイスの「無礼者たちへ」はいいね
本当に無礼者たちだよ……
願いって何?
過去に盗賊に襲われ家族を失ったマグニフィコは、守りたいものを守るために魔法を学び、妻アマヤと共に皆が平和で安心して暮らせるロサス王国を地中海に浮かぶ島に建国する。どうみても見あげた国王でしょう。それが何故か途中から敵役に・・。
国王は国民の願いを吸い上げ私物化しているがそれが国王にとって何のメリットがあるのだろうか、確かに願った人々は国王が願いを叶えてくれるのを待ち望んでいるから従順、ただし、国王の本心は叶える気が乏しいことに気づいたお城で働く17歳アーシャは叶える気が無いなら本人に願いの魂を返すべきと対立。
アーシャがディズニー映画らしく星に願いをかけると星の聖、光るミッキーみたいなスターが舞い降りてきて島の動物たちに言葉を授けアーシャを助けます。ここからミュージカルの感じで進みます。
国王はスターや他の願いを全て吸収し、全ての国民を支配しようとする。それでも自分自身で願うことを諦めない主人公。呼応する国民。全ての国民の声が国王の力を凌駕する。国王は禁断の魔法の代償で杖に封じられてしまう一方、国民達に願いが返る。王妃が新しく国王と認められ、物語は幕を閉じる。
確かに権力を手にすると人は変わるものかもしれませんが、マグニフィコは根は悪い人でもなさそうなので残念、第一、魔法使いと言えど神ではないのだから全ての願いを叶えるなんて無理、国王を神格化した国民の方も甘いでしょ、アーシャの叶えられないなら本人に帰せという主張はもっともだが、返したところで本人の努力程度で叶う願いなら大騒ぎするほどでもないでしょう、ディズニーなんだから、もう少しまろやかな解決方法を考えて欲しかった。
味わい深いヴィラン、もしも続編があるのなら
なんでも願いを叶えてくれる王国の真実を知ったアーシャが不思議な星、スターとともに自由のために立ち上がる、そんなお話。
水彩画のようなテイストは個人的には好み。とくにヴィランであるマグニフィコ国王と王妃のマントの刺繍は綺麗だった。
ただしこのテイストがややスモーキーで主人公を活かしているかというと疑問。アーシャの髪や肌、服の色は画面に埋没してしまっている。黒髪の有色人種の主人公はこれまでもいて魅力的だったのに、アーシャは髪が重苦しく肌を輝かせない色の衣装を着ている。
この作品の大きな魅力はヴィランのマグニフィコではないだろうか。強盗に家族を奪われた過去を持つ努力家の魔法使いマグニフィコがいちばん恐れていたのは「喪失」だったように思う。
自身が経験し辛かったからこそ二度と同じ思いはしないように、そして誰にもしてほしくないという願いから作ったのがロサス王国作り上げた。しかし「喪失」への過度な恐れが逆に国民に「喪失」を与えてしまった。
マグニフィコがスターの出現で禁書の魔法に手を出してしまうのも、もう何も失いたくない恐怖や焦りもあっただろう。努力してきたからこそ、積み上げたものが一瞬で水の泡になる絶望も嫌と言うくらい味わったはずだ。
最終的にマグニフィコ王は守るべき国民を傷つける悪だが、魔法使いを目指した動機や邪悪な魔法を使うまでの経緯には同情できるし理解もできるものがある。とても味わい深いキャラクターだと思う。
そして、この作品の致命的欠点は主人公のアーシャが精神的成長する描写がほとんどないので共感を得にくいことではないだろうか。
アーシャがマグニフィコの弟子になろうとするのも魔法使いになりたいからではなく、祖父の願いを叶えるための裏道のためと仲間に指摘されている。もちろん一人で魔法の勉強をしている場面もない。実際に祖父の願いを見つけて早々に叶えてくれとマグニフィコに言っている。祖父サビーノが高齢でその日に100歳の誕生日を迎えるのだとしても少し図々しく、マグニフィコも戸惑うくらいである。
マグニフィコや家族に自分の言い分が通らないと家を飛び出し、心の内を歌いながら星に願うとスターが落ちてきて、不思議な力を持つスターとともにマグニフィコに立ち向かう。
一応、最後には彼女も願いは自分で叶えるものだと反省らしきものはするのだが、結局、アーシャはスターに魔法の杖をもらって魔法を使えるようになる。マグニフィコの過去を考えるとアーシャはうまくいきすぎていてバランスが悪かった。また、アーシャの長所という優しすぎるところ、というのもあまり描写されてなかったと感じる。
ラストはマグニフィコが鏡の中に閉じ込められたまま地下牢に保管される。アーシャに協力した王妃が女王になり、めでたしめでたしとなる。が、後味が悪い。
アーシャに言われるまでは王妃も国民も願いのルールに何の疑問も持っていなかったはずだ。しかも強制ではなく任意だったのにもかかわらず、まるで国王が無理やり奪ったかのような雰囲気になってしまったのは疑問だし、国民が国王の悪口を言っている姿も不快だった。他所から来た人も快く受け入れ、住まいを与えて豊かな国にしていたのは間違いなく国王だったはずである。アーシャが禁断の魔法から国王を解放して過ちを諭す、そういうラストであればこれからアーシャが国王の右腕になって、国民が願いを自分で叶えられるように導く、見守るより良い国の未来が見えただろうにと残念だった。
続編があるのなら、アーシャや王妃のいない何百年後の世界で目覚めたマグニフィコが主役で観てみたいと思う。
楽曲が最高。今のディズニーの思いが伝わる作品。
5歳の子供が大ハマり。何度も歌を歌いながら視聴しています。
私は、ディズニーが100周年なので100歳になったおじいちゃんが今のディズニー自身なのかなと思いました。
願いを他人に預けてしまって、その手に戻すことも強く拒否する。そこに主人公アーシャが願いをわすれないで!と勇気を与えてくれる物語という見方をしています。
マグニフィコ王が敵側になっていますが、彼にも彼の願いがあって、国民と一見ウィンウィンな関係を築くという大人な対応です。契約で動く会社のような国家です。
しかし、国民が王の要求に疑問を持ち、欲を見せただけで契約で繋がっただけの関係性が崩壊してしまいます。王は闇堕ちし、国民の信頼を失います。
それを救うのが願いを捧げていない子供たち。それぞれの願いをぶつけて国をかけて戦う。まさに革命の構図だなと。
この物語のあとは崩壊した国の中できっと大人も子供も苦労するでしょう。
それでも、願いが戻ってきた世界で100歳のおじいちゃん(ディズニー)は歌って暮らし、皆の心を少しだけ明るくするのです。
楽曲の力の入れようも納得です。
マグニフィコという、正真正銘の極悪人。
自分で言うのもなんだが、恐らく私のこのレビューは荒れると思う。
なぜかと言うと、本作のヴィランであるマグニフィコ王を擁護する圧倒的多数の意見に対して、真っ向から反論をするからである。(一応言っておくが、逆張り等では決して無い)
そんなお門違いのような見解が大多数を占めている事に驚きを禁じ得ないし、
ましてや、こんな最低なキャラクターを賢王呼ばわりなどヘソで茶を沸かす。
確かに、平和を目指して、たった一代で国を築き、独学で魔法を勉強するという立派な面はある。
しかし願いの全てを叶えるわけではなく、国を守るためのリスクヘッジで、叶える願いは厳選している。
しかしこれは要はただの保身であろう。
しかも、こその叶えられなかった願いを持ち主に返しもせず、それどころか願いを忘れさせてしまう。
誰にでも叶えたい願いがあり、その願いを叶えてくれるという人が現れたら、そりゃあ欲が出るのは当然というものだろう。
そして、もしその願いを叶えてもらえないと知った時は、クレームが出るのも当然だろう。浅ましいことだが。
そうやって期待を持たせてぬか喜びさせてしまうのだから、そもそも、マグニフィコがしている行いは、結局は破綻するのが目に見えているのである。
ましてや、この叶えられない願いがあるという件を公表していない時点でダメだろう。
クライマックスでは、マグニフィコは、魔法で全国民を拘束してしまう。これは即ち、彼らの自由を全て束縛するというメタファーにも思える。
こんな暴君のような奴のどこに擁護する価値があろうか。
最低最悪の卑怯者。ディズニーヴィラン屈指の極悪人だろう。
入り込めない
感動して泣いてしまった、、、 自分たちで気づいて行動し始める姿が刺...
ディズニーの限界=人々が見れる夢の限度がこれ
皆に見て欲しいオススメのディズニー映画です。ディズニー100周年記念作品というのも頷ける。
評価したいところは悪役が王妃じゃなく王だったこと。(王妃は主人公を助ける良い人でした。)それは今の現実の社会に即してると思います。
ですがそれは白雪姫やシンデレラからは脱却してるけど、この枠組みではディズニーは皆が憧れる夢を描けないんだと思う。
それはディズニーに力がないからでは決してなく、人々が多様性的価値観に傾倒し、今そういう状態なんでしょう。
ディズニーの解答がこれだということは、世界の幸せな夢の上限がこれだと言われてるみたいだった。
一方で
人々が立ち上がりそれが集まって権力(王)を倒すというレ・ミゼラブルのような胸熱感があります。
This Wishの歌は理由もなくこみ上げるものがある。
スターはものすごく愛しくて可愛くて、ディズニー社が引き継いでいる精神そのもののようだった。
間違いなく魔法は描かれていました。
無理矢理の押し込み
私たちは希望を持ち続けることができるのか?
為政者が権力を欲しいままにすることで人々から希望が失われていく。そして、人々の希望が失われていくことで国がおかしな方向に進んでいく。ディズニー・スタジオのある国でも、その対岸にある国でも、ここしばらくの間見て取れる状況。そして暗澹たる状況を打破するのに必要なことは一人ひとりが希望を捨てずに立ち上がること。
Rosasという国名を聞いて、古いディズニー・アニメの『美女と野獣』で希望を象徴しているのが薔薇🌹だったことを思い出した。
そして、ディズニー100周年ということで、エンドロールでは、『美女と野獣』を含めた、これまでの多くの人に夢と希望を与えてきたディズニー映画へのオマージュが示される。しかし同時に、この画面を眺めながら、白雪姫やシンデレラなどの王子様と結婚したらずっと幸せ的な話から今回のような話になるまでの時間の経過と社会の価値観の変化にまで想いを巡らせていた。
吹替版は未見だが、マグニフィコ王の吹替えを福山雅治が担当しているのは、格好つける部分とコミカルな部分を併せ持つキャラクターには適役かも。
マグニフィコが優勝!
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