バビロンのレビュー・感想・評価
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汚ネタの許容度でも評価が分かれる?ちょっとブラックなハリウッド昔話
舞台は1920年代のハリウッド、サイレントからトーキーへの移行期。ブラピやマーゴット・ロビーを起用してデイミアン・チャゼルが描く、スターの栄枯盛衰。これらの要素で私の期待はいやが上にも高まっていた、のだが。
冒頭の猥雑さを極めたパーティーのレベルのテンションが、基本的にずっと続く感じだ。序盤は賑やかな画面が楽しかったものの、3時間という長尺も相まって、見ているこちらがだんだん息切れしてくる。一息つけるシーンは、体感でクロールの息継ぎ程度の短さ。ちょっと、緩急のバランスが偏り過ぎかなという気がする。登場人物にじっくり感情移入するような時間的・映像的なゆとりがない。
それと、汚物の場面を殊更に挿入する意図が正直よく分からなかった。業界のダーティさの暗喩?にしても、冒頭いきなり象の糞(しかもゆるい)、ネリーの嘔吐(何かの仕掛けかCGか分からないけどやたら勢いを強調してた)、マッケイの手下の痰吐き、マニーの失禁、あとついでにネズミを食べる、これ全部必要ですかね。
度が過ぎると、見る側(人によるが)の生理的嫌悪感だけをいたずらに煽る形にならないか。お勧めする相手を選ぶレベル。
ラストのさまざまな映画や色のフラッシュバックも、光の点滅に近いようなどぎつさがあり、その中に「アンダルシアの犬」の目玉を切るシーンが紛れていたりして、久しぶりに映画で生理的に気分が悪くなってしまった。
(手持ちカメラ映画「ブレアウィッチ・プロジェクト」を最前列で観て乗り物酔い状態になって以来。普段は鈍感なのだが、お腹が空いていたのもよくなかったかも)
長いアバンでのパーティーのごちゃごちゃしたハイテンション感自体は華やかで妖しくて、見応えもあって好きだし、テンションを押し上げる音楽の力もすごい。その後屋外で行われていたサイレント映画の撮影風景は当時の様子が分かってとても面白かった。ネリーが泣き方の演技を細かく変えて自分の力量を認めさせる場面は爽快だ。
トーキーになってから、スタジオでネリーが大学生(?)を演じるシーンの撮り直しは、繰り返しがちょっとしつこかった。
雑音が入って何遍も取り直して現場がうんざりする、というのは分かるが、テイクの繰り返しを全部そのまま観客に見せて、観客を実際にうんざりさせる必要はあるのかな?この辺は時間を削れたのではと思う。
マッケイを見ながら「トビー・マグワイアに似てるなあ、まさかなあ」と思っていたらトビー・マグワイアだった。彼の出演作を全部チェックしてはいないが、こんな役やったことあったっけ?とてもいい雰囲気が出ていた。
私が、チャゼル監督の前作までの流れで、人間の内面を描き出すドラマを見るつもりになっていたのがよくなかったのかも知れない。無名の男女が業界で名をあげようとする設定や、一部の劇伴が「ラ・ラ・ランド」に似ていたりしたのでつい引っ張られてしまった。
(ちなみに、ブラピに新進女優役のマーゴット・ロビー、ハリウッド、で「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」も連想した。)
一見映画愛を歌う作品のようにも見えるが、何故か映画への愛が迫ってこない。作中で映画の夢を追いかけた主要キャストがことごとく雑なバッドエンドになっているからだろうか。
本作はいっそエログロドタバタのブラックコメディとして受け止めた方がまだしっくりきそうだ。その中に、流行り廃りに取り残されてゆく業界人の悲哀が、スパイスのように入っているということだ。
演出一流脚本三流デイミアン・チャゼル
デイミアン・チャゼルは画作りは上手いけど人間を描くのは下手。脚本からしてダメ。これはもうデビュー作のセッションからずっとそう。
登場人物は全員「良い人」か「根は良い人」のどちらか。
そして普通は隠したがるトラウマや悩みや弱点を頼まれもしないのにペラペラ喋る。
全員正直すぎてちょいちょいアホに見えたw
過去にトラウマがあるのならセリフで説明するのはダメだろ。同じような状況に陥って、隠そうとするけど否応なくバレてしまうとか、そうであってこそ葛藤は深まる。
ブラッド・ピットが演じたコンラッドにしても、落ち目になったらすぐに悟り開いて静かに自殺するって、いや物分りよすぎるでしょw
みんなが先回りして理解し合ってたら、キャラクター同士の相克は生まれない。
頂点を極めたスターならプライドは簡単に折れないでしょ。巻き返そうとしてあがく姿を描けよ。もしくは若手にポジション奪われて潰される姿を描け。その後で自殺する流れなら納得出来るわ。
黒人のトランペッターは、ただ顔に黒い炭塗るために出てきただけで、全くいる意味なかった。
トビーマグワイアに至っては、ただ老けメイクが哀れだっただけ。
ロバート・アルトマンみたいな群像劇をやりたかったのかもしれないが、足元にも及ばない。
3時間は時間のムダ。登場人物減らして90分で十分な内容だった。
たとえ時代遅れになっても、功績は消えない
無声映画だった頃から、声ありの映画に変わっていく。
激変する環境で
ある者は成功し、ある者は衰退していく。
3時間たっぷりかけて、当時の熱気に放り込まれる映画。
3人の主要人物の人生が、人間くさくていい。
栄枯盛衰を感じるし、ハッピーエンドではない。
時代はどんどん前へと進んでいくし、
それぞれの立場も環境も変わっていくけれど、
自分が無我夢中で頑張ったことは、事実として残るから。
ちょっと泣けるかも。
しかしブラピが大御所俳優の役をやる歳になったんだなぁ。
もう言ってしまうのか❓
当時、映画館で観ました🎬
ハリウッド大作らしいストーリーに、サイレント映画スターのジャックを演じるブラッド・ピットや新人女優ネリーを演じるマーゴット・ロビー、映画業界で名を成したい青年マリーを演じるディエゴ・カルバらが出演してますね🙂
監督はあのデミアン・チャゼルです。
ネリーが行儀の良いパーティーに嫌気が差して、壮大にゲロをぶちまけるシーンはインパクト大でした😅
ジャックがレディ・フェイと交わした最期の会話には哀愁が漂います😔
彼の背中にも雰囲気が出てました。
終盤はトビー・マグワイア演じる裏社会のドンを騙した報いが訪れ、ネリーは殺されマリーは命乞いをして助かります。
この結末はある意味現実的ではありますね。
エンディングでは確かマリーは新しい家族を持ったことが描かれてました。
マーゴット・ロビーは変わらず今作でもチャーミングですし、ネリーが自分への陰口を聞いて落ち込むのも理解できます。
ジャックはトーキー映画に出てみるものの喋りの演技では当たらずに、映画館で自分が嘲笑われているのを目の当たりにした時の気持ちは…いたたまれないですね😥
時代の移り変わりをハリウッドならではの豪華絢爛さで描いた本作、私はなかなか楽しめました🙂
大半下品極まりなく観るに堪えないが、キラリと光る真実もあり魅了される所もあるかな
メッチャ暖かく成ってきて、バレンタインデ-も近し。
劇場は色んなカップルでごった返していた。
そんな中 今日は「バビロン」を鑑賞です。
何故か上映シアタ-は案外空いていた感じ。
多くは鬼滅の方へ行った様だった。
この映画
第80回ゴールデン・グローブ賞(2023年)で
作曲賞受賞:ジャスティン・ハーウィッツ氏
監督・脚本:デイミアン・チャゼル氏
音楽:ジャスティン・ハーウィッツ氏
製作会社:マーク・プラット・プロダクションズ
マテリアル・ピクチャーズ
配給:パラマウント・ピクチャーズ
上映時間:185分
---cast 極一部----
・ジャック・コンラッド:ブラッド・ピット氏
※サイレント映画スター・監督(終盤自殺)
・ネリー・ラロイ:マーゴット・ロビー氏
※女優目指す女。(最後殺される)
・マニー・トレス:ディエゴ・カルバ氏
※メキシコ系アメリカ人の映画AD(ほぼメイン役)
・シドニー・パーマー:ジョヴァン・アデポ氏
※ジャズ・トランペット奏者。(ト-キ-で俳優に)
・ジェームズ・マッケイ:トビー・マグワイア氏
※ハリウッド裏社会の大物(危ねえヤツ)
・エリノア・セント・ジョン:ジーン・スマート氏
※映画界関係大物ジャーナリスト。
・レディ・フェイ・ジュー:リー・ジュン・リー氏
※字幕屋・妖艶な歌手
サクッと感想を言うと、全編ほぼ下品の極致です。
こんな作品製作させられる監督もスタッフもキャストも
ご愁傷様ですね。しかも長~く人によっては退屈かもですね。
察するところ、若いチャゼル監督を利用しようと
媚び売って近づく俳優輩はじめ
エ-ジェント、プロデュ-サ等が もう集りまくって創作された
作品では無いだろうかと伺えますね。
全く 彼が目指す自由なセンスが効いていない感じで
彼の持っていた才能が破綻し、あがき、もがきが
絵を通して感じ取れました。
往々にして名監督に指されて 数作創って来ると
こんな作風に陥ってしまう傾向を感じましたね。
所々キラリと映画に対して魅せている場面もあり
そこは凄くいいのですが。
今作は映画界の映画製作現場の話
(無声⇒トーキー モノクロ⇒カラー)であり
流れ展開もミュ-ジカル調ではありません。
BGMもラストぐらいしか良さは無いでしょう。
(感じたこと)
・開始早々5分後、観客全員 象のビチクソをもろに被る
※監督にファックユ-の声漏れるわぁ。
・序盤、山上の豪邸内映画関係者 乱痴気パ-ティ-で
ボカシあり場面、娼婦?権力ありデブ親父にオシッコ、
乱交、麻薬に酒などなど アフォ場面を堪能し
垣間見れます。
※ここの場面は監督才能が破綻か、または
無理させてる上の重役への当てつけに思えたな。
・マーゴット・ロビーは何かイメ-ジ変わったな。
昔のヘレナ・ボナム=カーターと同じ変遷を感じるよ。
・ト-キ-撮影で、ネリーが数回NG出すところ。
やっと皆の意識が揃って撮れて 成功したと思ったら
部屋に籠もって機器操作してたスタッフが
暑さで死んだ場面ね。
ちょっとクドい演出で あんまり笑えないし、
先が読めてる。監督のセンスが感じられない。
・黒人トランペット奏者のパーマー。
ト-キ-撮影で照明が顔に当たって白人に見えるため
仕方なく説得させられて 顔を塗料で黒くさせられる場面。
疑問を感じながらもトランペットを見事に吹く彼。
唇はめっちゃピンク~。
撮影帰りに守衛に”二度と来ねぇよ”の文句が良い。
・中盤の華やかなパ-ティに、ネリーが綺麗に着飾って
上級関係者の輪の中での展開。
酒を煽って 最後は自身の悪い性格が露出して皆へ悪態を。
そして 玄関口で思いっきり ゲロ~。
大物のおっさんにも ゲロ~ モロかぶり。
※とにかく今作の監督は、ファックユ-の熱量が半端なく
彼の怒りの原点をもの凄く感じるね。
・ネリ-が賭け事して借金8万ドル。スグに金要るが
マニーに泣きつく。ここの会話展開場面 事前に説明あったが、
権利の関係上 字幕表示が一部入ってません。
マニ-がネリ-にスペイン語で激怒して怒るところですね。
日本語で言うと、お前アフォか、オレの忠告聴かんとボケ。
マジうぜぇ。消えろアバズレ~。(多分そん位喋ってる)
でも お前の事 愛してる~って 告白するんだよね。
男は 厄介な女が好きって事なのさ。そう思う。
・反社の奴らに 借金8万を返金するが、実は映画小道具の
ニセ金を親分に渡してしまう。そしてバレて狙われる際
親分の子分を刺して殺してしまい 集団に追われるところ。
ここの偽札が 汗?酒?で滲んでバレるんだけども
当時は小道具で札束印刷していたのかな。OKの時代ね。
日本では現金を銀行から借りたりする場合もあるけどね。
・結局 反社に追い詰められ
マニ-、ネリ-、仲間一人と逃げようとしたが
ネリ-は 音も無く闇に消え行方不明(ここの場面良かった)。
仲間は射殺で、マニ-はオシッコちびりながら土下座で
”撃たないでくれ~” 哀願する。
ヒットマンに 街を出て行けと言われて
ハリウッドを急いで去るマニ-。
ここのオシッコちびる所は 何故か良かったかな。
・ジャックは 色んな女優(美女)等を妻にしては離婚を
繰り返し、最終的に 自分のスタ-時代は終わったと
有名ジャ-ナリストに悟られて 自宅で銃自殺。
ト-キ-時代に成って 昔の仕事仲間のヤツが自殺した電話が入り
凄く落ち込み、3番目舞台系妻?に逆ギレで
映画と舞台はレベルとスケ-ル違うんだぞ!!って
御託を並べて捲し立てるところは良かった。※納得した場面。
・最後はマニ-が NYで別の職業で無事に生き延びてて、
妻子もいて 家族連れてハリウッドに何十年後かにやってくる。
自分のかつて働いていた キノスタジオを訪れたり
映画館で今の映画を観て 過去を回想し涙する~。
ラストは 無声時代から現代映画までのギュッとした
変貌の映像を、代表作を駆け足で流して 監督らしいメロディが
一緒に流れて行く~。
ここまで 長時間観て ホンマに疲れましたわ。
もうちょっと 編集出来ると思うし短く成るでしょうね。
乱痴気パ-ティとか オゲレツ場面をちょっと何とかして
真面な展開にすりゃ 良い感じの傑作と思いますけどね。
※面白みは欠けるカモだが。
長時間ですが、ご興味ある方は
劇場へどうぞ!
「バビロン」とは映画、「バビロン」とは宇宙
ここ最近「映画愛」をテーマにした映画が続々公開されている。タイミング的に、コロナがあって、撮影がストップしたり、スタッフが揃わなかったり、公開が決まらなかったり、「このまま映画って終わっていくのかな…」なんて感じた人が、メチャメチャ多かったんだろうと思う。
映画の火が消える前に、映画という太陽が沈む前に、自分を魅了してきた「映画」について、どーしても形にしたい!あって当たり前だったものが、当たり前じゃなくなるかもしれない、その危機感が彼らを突き動かしている。
同じ映画愛でも、その表現方法は様々。「フエイブルマンズ」はスピルバーグの半生という形で映画への愛を語り、「エンパイア・オブ・ライト」は映画館に集う人々を通して映画と映画に魅せられる人たちに寄り添う。奇しくも2023年の冒頭に公開される映画愛の映画。
そして本作、紛うことなき傑作中の傑作、10年に1度、いや100年に1度の超伝説級スペクタクル映画「バビロン」である。野心的で革新的、過去を描いているのに斬新。ある所では粗野であり、ある所では繊細。外連味の極地でありつつ、侘び寂びも忘れない。
「バビロン」には映画の全てが詰まっているのだ。映画という名の宇宙、それが「バビロン」である。
ちょっと何言ってるかわからないと思うので、「バビロン」の凄まじさを書ける範囲で書くけど、文字数足りると良いな。
まず1つ目。「バビロン」は5本の映画で構成されている。冒頭のパーティからタイトルまでが1本目、ネリーが蛇に噛まれ、レディ・フェイに助けられるまでが2本目、ジャックの主演映画がバカにされ、エリノア女史と対峙するまでが3本目、メキシコに逃げようとするマニエルの前からネリーが消えてしまうまでが4本目、そして「バビロン」本編。
つまり、本編の中に4つの映画が含まれるのだ。その4本は明確に「キスシーン」で分割される。映画のラストといえばキスシーンだからだ。
そして、「バビロン」本編にラストのキスシーンはない。何故か?「バビロン」は、映画ってもんはまだ終わっちゃいないからさ!
そこで2つ目。「バビロン」は映画の過去だけでなく、現在も未来も描いている。舞台こそ1900年代初めのハリウッド、登場人物たちはサイレントからトーキーへと映画の質が変容していく中で、それぞれに表舞台から姿を消していくが、作品を観る観客たちはいつも必ず存在している。それは今も同じなのだ。映画が全て配信になっても、あるいは脳内に直接語りかけるようになっても、観客は常に存在し続ける。過去も今も未来も。
「バビロン」という映画は一旦189分で終わるが、映画という存在や概念自体は終わらない。形は変わっても、映画を支える技術が変わっても、役者が変わっても、映画は終わらないのだ。
デイミアン・チャゼルは「終わってしまうかもしれない」という危機感に明確にアンサーする。「終わったりなんかしないよ」と。
そして3つ目。「バビロン」には過去の映画作品がこれでもか!と詰め込まれている。ジャックやネリーのネタ元になった俳優たちや、劇中演じられる作品や、劇中流される実際の映像のことだけ話してるわけじゃない。カメオやオマージュの話でもない。
「バビロン」に内包される映画とは、あらゆる映画のあらゆるパーツなのだ。映画のコラージュなんて生易しいものじゃない。映画で構成されたモザイクが滑らかな映像となって飛び込んでくる体験、映画という時間と空間が爆発して膨れ上がる感覚、その中に確かに存在する「観客」という私、それら全てが「バビロン」なのである。
何で読んだかは忘れたが、白石和彌監督は「映画っていかがわしいものでしょ」と言っていた。その「いかがわしさ」を見つける事が出来る。マッケイの話す新作映画のアイデアに、「ベンジャミン・バトン」を垣間見たり、ジャックの映画のエキストラが後ろで走り回っているのを観て「影武者」を思い出したりすることが出来る。
過去の映画体験が一本の映画に凝縮され、一本の映画として存在する。189分を「長い」と言う気持ちはわかるが(大抵116分くらいだからね)、むしろよく189分に濃縮できたな、である。
4つ目。そんな大宇宙「バビロン」だからこそ、ダブルミーニングや暗喩、預言のようなセリフとシーンがメチャメチャ多い。これも挙げてくとキリがないのだが、ジャックが出演交渉するグロリア・スワンソンは実在の女優で、もちろん他にも実在の俳優や映画は山程出て来るのだが、彼女の代表作「サンセット大通り」はサイレント映画のスター女優が過去の栄光に執着して起こる悲劇を描いた傑作だ。
スターダムに駆け上がろうとするネリーや栄光の玉座に君臨するジャックを描いているパートでありながら、既に運命の末路が暗示されているのである。
アイスのトッピングの話題は、素材(つまりネリー)の味がトッピング(洗練された佇まいや言葉遣い)で台無しになることを拒否する話で、エリノアがジャックにかける言葉「20年前とちっとも変わらない」は、「魅力的」と同時に「古い時代の人間」を表している。
それらダブルミーニングと暗喩は「バビロン」というタイトルからしてそうだ。古代都市バビロンは多様性の象徴でもあり、奴隷都市でもあり、資本主義的享楽の源でもあり、知識と科学の楽園(つまり映画そのもの)でもあるのだ。
5つ目。動から静、光と闇、ハレからケの切り替えが凄い!1本目の映画撮ってるパートからしてそうなのだが、とにかく派手さ喧しさからの静謐、その緩急が凄すぎる。踊り狂っていたネリーが一転して涙を流す演技、サイレント映画の混沌とした撮影とトーキーの時計さえ許されない撮影の落差、夜通しパーティで踊り狂って、トランペットを吹きまくって、自宅では粗末なベッドや椅子にもたれて眠る夜と朝の差。
映画全体では、裸体や死体や汚物を徹底的に見せるところでは見せていくのに、ジャックやネリーが退場するシーンでは彼らの最期を全く見せずに観客の想像に任せる「演出の足し引き」がある。ただの露悪趣味ではなく、計算された演出なのだ。
その押しては引いていく波が、映画全体を進行させる波力発電となり、観客を映画の一部として引き込んでいく。もの凄いパワーが炸裂して一気に引きずり込まれ、あとは為す術もなく慣性の法則で流されていくだけだ。
6つ目。結局ここまで書いてきたことは、デイミアン・チャゼルの「映画愛」とその表現についてなのだ。ここから「何を受け取るか」は、受け手である観客に委ねられる。映画という存在の、「ねぇ、私のこと愛してる?」にどれだけ応えられたか、が「バビロン」観てどうだった?の答えになると言っていい。そういう意味では、「バビロン」が人生初映画の人にとっては「ねぇ、私のこと愛してる?」はかなりハードな質問かもしれない。
本編のラスト、マニエルが映画館で体験したことはマニエルの人生が確かに映画の一部だった、ということだ。映画作品だけでなく、映画製作に携わったすべての人たち、すべての観客、未来に映画を観る人たちも含めて、「映画という大きなものの一部」だ、という壮大な世界観。その世界観では、モノクロ映画も、サイレント映画も、役者がとっくに天国へ旅立っていても、そんなことは何の関係もない。
彼が最初に望んだ通り、自分は既に「映画っていう大きなものの一部」なんだ、という気づきの時なのである。しばらく映画から離れていても、一度映画を鑑賞すれば、「おかえり」、と温かく迎え入れてくれる。
それを目にした時、どう思った?
私は「まるで青い鳥じゃないか」と思いつつも、自分が映画の一部として存在していることにとても満足して幸せだった。一緒に観た旦那も「俺たちみんな巨大な映画の一部なんだ、俺も仲間なんだ」と思って感動したそうだ。
もう一度聞こう、「自分が映画の一部だと知ったとき、あなたはどう思った?」
時代に踊らされる…
Hollywood映画の歴史に興味ある人には良いかもしれないが、当初は2時間経っても、あまり次の展開が見たいと思えなかった。田舎から出てきた女優志望のマーゴット・ロビーがサイレント映画ではその美貌と派手な振る舞いが映画界の人々や観衆に受け、一気にスターダムにのし上がるが、トーキー映画になった途端、演技力の無さ、彼女の出自までが馬鹿にされ、酒やドラッグに溺れ、自暴自棄になっていく。一方、スター俳優であったブラット・ピットは名声を欲しいままに私生活でも幾度も結婚離婚を繰り返し、正に昔の大物俳優あるあるを地で行く生活を送っていたが、トーキー映画へ時代が変わる中で、サイレント映画の俳優と観衆から古い俳優、オワコンとされる。他方、メキシコ移民で映画の仕事に就きたい夢を持ち続けたディエゴ・ガルバは時代の変遷を上手く捉え、自暴自棄になっていたマーゴット・ロビーを救うべく、再び映画界に引き戻そうと奔走する。3人のそれぞれを捉えてストーリーは進んでいくが、昔のHollywood、煌びやかでありながら、何でもありの世界観を演出したいのか、無駄なシーンも多く、あちらこちらに話が飛び散らかってる感が否めない。荒削りながら、その美貌を如何なく発揮する、それでいて内面は繊細の部分も持つというマーゴット・ロビーの奮闘は見れるが、ストーリーとして深みが無く、既視感さえある。ところがラスト1時間弱、ある意味、時代に踊らされた形となった3人の終焉は物悲しく感じられ、次第に先の展開が見たいと思うように。映画館でのラストの涙はかつての仲間たちを思い出しながらも、涙から笑顔に変わったのは、この時代には無い映画、映画界の革命的な名作を流すシーンに、監督の映画愛が込められており、それでも今後も映画は変わっていくという未来に期待する監督自身の笑顔に感じた。
こんなに味変するとは思わんかったー!
正直冒頭のはちゃめちゃは少し、肩に力入ってるなあ、★4かなあ、と思ったけど、序盤のスピード感はすごく好み!まあ、ブラッドピットとマーゴットロビー出ててあのCMなら好きな路線とわかってたからね。
中盤、主要キャストの凋落ぶりを描くストーリーパートは少しテンポ感落ちたけど、ここが第一の味変。正直このままなら長いなあと思ったけど、終盤ギャングが絡むパートで今度はエログロアングラ感!第二の味変!そしてラスト。
ニューシネマパラダイスのハリウッド版?
と思わせるようなハートフルな終わらせ方というね。俺はマニーがLAに戻ってきて殺されるんじゃないかとヒヤヒヤしてた😅ちなみなネリーが車から降りて闇に消えて行く時も「横から車バーン」を警戒してドキドキしてたんだけどね。
ジャックのラストは予想できたなあ。あのカメラアングルは死亡フラグだしね。
「セッション」「ララランド」の監督だけあって音楽はバッチリ!でも「10クローバーフィールド
レーン」の監督でもあるわけでしょ?賞とっただけだと思って観ると予想外かも。
ブラピとマーゴットロビーで、雰囲気も少し「タランティーノ風」なのかな?意識したかはわからないけど。でも最近タランティーノ作品に影響受けたんじゃないの?って映画増えてるような気がするな。好きなジャンルだから嬉しいけど。
でもラスト「チャゼル版ニューシネマパラダイス」風にしても、その前にあれだけエログロやっておいてラストで感動でもないけど、、、
😅嫌いじゃないけどね。
栄華と狂乱迸り、昔も今も我々は映画を愛す
デイミアン・チャゼルが再びハリウッドを描く。
夢を見、夢を追い…って所は『ラ・ラ・ランド』と通ずるが、あのロマンチックでファンタスティックで切なさも織り交ぜた作風とは全く違う。
それは開幕シーンから明白。『セッション』で音楽映画をサスペンスフルに撮ったとは言え、チャゼルはこんな作品も撮るのかと思うくらい。
とあるパーティー。さぞかし優雅でゴージャスかと思いきや、いきなり象の糞尿、乱入。集った皆々が踊り狂い騒ぎ、アルコールにクスリとやりたい放題。しまいにゃ本当にあっちでこっちでヤリ始め、飲尿などモラルが崩壊。乱痴気狂騒の宴に驚愕唖然。
呆気に取られるのは映画撮影が始まってからも。カメラは故障、音楽はオーケストラが現場で同録、怪我人続出、役者は泥酔、さらには死亡者まで…!
時は1920年代、サイレント時代。
本当に当時のハリウッドはこんなカオスだったのか…?
確信犯的創作もあるだろう。が、全てが創作ではなく、こんな風に描かれるという事は…。何か、見てはいけない“暗部”を見てしまった気がする…。
しかし見る側は困った事に、これでもか!…と見せ付けられるイカれた世界に高揚。
チャゼルの演出は才と狂気の入り乱れ。
チャゼルとは名コンビのジャスティン・ハーウィッツの胸躍る音楽が拍車をかける。
ゴージャスな美術や衣装、ハイテンポな展開…もはや“見る”のではなく、トリップ体験。
が、3時間という長尺、ずっとそうではない。さすがに3時間ずっとこうだったら疲れてしまう。
この狂乱が“陽”なら、個々のドラマの末路は“陰”。
当時のハリウッドの栄光と闇…。
タイトルにもなっている古代都市“バビロン”の繁栄と悪徳の如く。
開幕のパーティーで出会った3人の男女のドラマが交錯。
映画スターのジャック。ハンサムでダンディで、多くの女性と浮き名を流し、公私共に派手。社の看板でもあり、一時代を築いたが…。
新進女優のネリー。田舎からやって来て、呼ばれてもいないパーティーに出席するなど怖いもの知らず。その度胸と自由奔放な唯一無二の性格が目に留まり、スターになっていく…。
メキシコ系青年のマニー。映画製作者を夢見る。パーティーや撮影現場の雑用から入り、ジャックに気に入られ、助手となる。チャンスや才を活かし、頭角を現していく…。
アンサンブルに徹したブラッド・ピットの円熟の味わいもさることながら、実質の主役はこの二人。
セクシーで破天荒で、劇中の言葉を借りるなら“野生児”。大ハッスル&ハイテンションで場をさらうマーゴット・ロビー。
真面目で平凡な青年からキレ者の映画製作者へ。本作は彼のサクセス・ストーリーでもある。それを体現したディエゴ・カルヴァ。
ジャーナリスト、ジャズ・トランペット奏者、字幕製作者兼歌手、スタジオや業界関係者、ギャングまで…一癖も二癖もある登場人物を、豪華キャストが好演、快演、怪演。
極上のアンサンブルがかつてのハリウッドの熱狂を高める。
往年の名作群にオマージュが捧げられ、フィクションとノンフィクションも交錯。
実在の人物やモデルにした人物も。
奇しくもブラピとマーゴットが共演したタランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を彷彿。
ここで興味深いのは、ブラピ演じるジャックとマーゴット演じるネリー。
性格は違うが、スターとして栄光に輝き、やがて没落していく様は何処か似通っている。
二人にはモデルあり。ジャックはダグラス・フェアバンクスやジョン・ギルバート、ネリーはクララ・ボウ。
いずれもサイレント時代にスターとして君臨するも、トーキー到来と共に失墜し…。
1920年代後半と言えば、映画界の大変革。サイレントからトーキーへ。
それまで音の無かった映画から、音や声が溢れる。娯楽と芸術を兼ね備え、映画がさらに巨大産業に。
だが、誰にとっても喜ばしい事ではなかった。日本でも活弁士が失職。
サイレント映画のスターにとっては死活問題。
ジョン・ギルバートはそのイメージに合わない甲高い声で失笑を買い、人気が低迷。アルコールに溺れ、哀れな最期を遂げる。ジャックは彼そのもの。
クララ・ボウもトーキーで品のない喋りが急所となり、加えて乱れた私生活も露に。彼女もまた哀れな最期を…。言うまでもなくネリーは彼女。
ぶっちゃけサイレント映画は台詞を喋らず、演技が出来なくてもいい。スターとしてそれらしく振る舞っていれば、字幕や音楽で創り上げてくれる。
が、トーキーはそうも言ってられない。台詞を喋り、それを表す演技も要求される。
実力や本性が暴かれ、虚像や偶像から実像へ。各々のキャリアも大きく開く事に。
失墜していったサイレントのスターたちが皆、見合った実力や魅力が無かったという事ではない。
サイレントからトーキーとなり、どれほどのものを得、失ったか。
トーキー撮影の悪戦苦闘。あのシーン、笑えるシーンでもあるが、修羅場でもある。当時、どんなに大変だった事か…!
喋る映画を低俗と見なし、演劇とは格が違う。演劇は限られた定員数のお上品な連中を満足させるが、映画はその何倍も、世界中で成功させなければならない。それでも映画を低俗と見下すのか…?
マニーの支えで、ネリーは心機一転。下品な振る舞いから淑女になろうとするが、出席したお上品なパーティーに息が詰まり、腹の底では嘲笑う上流者様どもにイライラが募る。遂にプッツンブチギレ&ゲロゲロお見舞い! 過ち繰り返し、愚かで哀れだが、気取った連中どもに本音と本心をぶっちゃけて、スカッともした。
当時のハリウッドや人々を何も茶化しているのではない。寧ろ、チャゼルは郷愁と思いをこめて。
一時代を駆け抜けたスターたち。
製作者も光と陰を目の当たりに。
才能と手腕を発揮し、このまま映画製作者として成功していくかに見えたマニーだったが…。
スタジオからの要望で、黒人に黒人塗料を。築いた友情や尊厳を黒く塗り潰す。
ネリーのトラブルでとんだ事態に。映画界追放どころではなく、命の危機レベル。
全てを捨て、出会った時から抱いていた愛に生きようとする。
が…
圧倒的な熱量、理想に溺れ、あれは夢か幻だったのか…?
ラストシーン。
ハリウッドを離れ、メキシコに戻ったマニーは、家族を作り、ごく平凡な幸せを。久方ぶりにハリウッドを訪れる。
かつて働いていた会社、世界。
それは今尚さらに、発展し続けている。
久しぶりに映画を観る。
そこに映し出された物語やスターの輝きに、観客は虜。
かつて一時代を築いたスターたちは、映画の中で生き続けている。
映画は創り上げられた夢や虚像ではない。今見る人々にとって、全てがリアル。その興奮も、笑いも、恐怖も、幸福も…。
自分が携わっていたのも、夢や幻ではない。そこにあり、そこにいたのだ。
溢れる涙がそれを表す。
昔も今も、これからも、我々は映画を見続け、愛し続けていく。
ひとことReview!
なんだか「ぶっ壊れた」感じで、掴みどころが分からない作品。サイレント時代からトーキー時代へとなった映画作りの苦悩は感じるけどねぇ。映画は駄目だけどサウンド・トラックは欲しい。
無題
糞尿セックスドラッグアルコールまみれと聞いていたのでびくびくしながら見に行った。
ジャンプスケアは何箇所かあるものの、怖い話ではない。
視覚的には奇をてらった、というかナンセンス路線の表現が多かったが、話の筋はとっても素直。
最序盤で「この物語はこう位置づけてくださいね」(ナイルの川の一滴)が示されるので、見やすい。
あらすじを知らなかったが、たまたま「雨に唄えば」アダム・クーパー来日公演を一緒に見に行った友人と鑑賞できた。
「雨に唄えば」で描かれた、短すぎる映画界の「過渡期」を基本的に踏襲しつつも、正反対といっていいえぐみのある今作。しかし、リアルな人間のグロテスクさも、銀幕に映ることで「映画」になる、ということが、奇妙な爽やかさをもたらしている。
だからこそ、トーキー映画の登場で、「映画の中の人」はますますリアルな人間のように感ぜられるようになり、同時に、リアルな人間とは乖離していく、という事象が、味わいを増すのだ。さらに、それらすべてを超越した、「映画が大衆に愛される」という不変の真理が、ますます輝く。
こぎれいな話ではないが、きれいな話。
てかブラピかっこよすぎ、ジャックの人気落ちるわけなくて草。
ジャックがジョージを心底愛しているのも美しかった。
過日
ハリウッドの転換期を舞台に栄枯盛衰のようなものを描いちゃいるが…「人生」を肯定されてるような気になってきてる。
どんな「人生」をも一生懸命、がむしゃらにに直向きに突き進め、と。
この転換期が舞台なのも抜け目がなくて…冒頭の乱痴気騒ぎなんか良く出来てて、中身はキ○チガイばかりだ。そもそも特殊なヤツしか居ないのだ。いや、生き残れないといおうか…見てる分には楽しいが、個人として付き合いたくない連中ばかりが描かれる。
マーゴットロビーもブラッドピットもヤバい奴なのは間違いない。だけど、何かを持ってる。
ただ一つ、重要な何かを持ってたからソコに居続けられた。それがたまたま映画業界だった。
それ以外の世界では、生き辛すぎるのではなかろうかと思う。
最高で最強のバカ騒ぎから本編は走り出す。
一夜明けた後の生活との対比が強烈だった。
「映画の神様」なんて価値観が生まれたのは、この時代なのだろうなぁと思う。とてつもなく自由だ。意図しない偶然に「神」の存在を当てはめてしまうのも頷ける。未熟と呼ぶのも憚られるくらいの撮影環境で、とんでもない。
実際のエピソードもあるんだろうが、人が死ぬ。
撮影中に、だ。
皆、その事を歯牙にもかけない。日常茶飯事で、今回はどうやって揉み消そうかなんて具合だ。それほどまでに無秩序で、粗野な環境だ。
ただ、当時としては莫大な金が動く。
見る側の熱狂も凄まじかったのだろう。夢を売るその価値は、とてつもなく巨大なのだ。
その幻想に憧れを抱いてしまった主人公。
彼が担うの理想と現実、だろうか?
「映画」というものの成り立ちを理解した時、彼はそこに何を見つけたのだろう。
おそらくなら幻滅も大きかっただろう。
彼が頭角を表すのは旧体制を破壊する「トーキー」が生まれてからだ。
その新たな潮流で加速する者、過去にしがみつく者、振り落とされる者、様々な思惑が絡み合う時代。
スタッフの描写が最高にイカしてた。
熱狂を制約で抑え込まれ不自由に擦り潰されていく人達。監督の意気消沈ぶりったらない。感性を約束で縛られる女優。責任感で発狂する助監督。
そして、死ぬカメラマン。
ここでもまた人が死ぬ。
数多の失敗を経て、新たな産業は拡大されていく。
秩序と引き換えに失われていく発想。
引き金に向かうブラピの背中が物語るのは、予測された未来への絶望感なのだろうか?
暗闇に踊りながら溶けていくマーゴットには忘却を感じたりする。
数年を経て、当時の映画を観て涙する彼の胸中には何が蠢いていたのだろうか?
悔しさだろうか?
もう戻れない寂しさだろうか?
悔いは、ずっとあったのだろう。
情熱を昇華しきれず、リタイアした無念なのかな。
だけど、最後に微かに彼は笑う。
なんだかんだと、全ては虚空で正反対の内面であったとしても、それでもその魔力にほだされてしまうのだろう。時を経てもその本質までは変えられない。
いいラストだった。
なんか、儚いものだなと思った。
爽思うと、映画館の帰り道で、ほろ酔いのサラリーマンとか、呼び込みで生気なく佇んでる黒服のお兄ちゃんとか、自分も含めちっぽけでろくでもない人生を一生懸命生きようと頑張ってる隣人を愛おしく思えた。
バビロン
滅びゆく都市って印象が強いけど、この映画にはもってこいの題名に思えた。
栄光も挫折も「今」を生きてきた産物でしかなく、何がどうであろうとも、唯一無二の自分の人生を誰もが歩いてんだなぁ、なんて事を感じたかなぁ。
作品はとてつもないスピード感と、鋭角な緩急に満ちていて飽きなかった。
大好き!でもプロデューサーの編集権限、わたしにちょうだい!
地下のフリークスのシーン、ラストの映画のフラッシュバックはカット、嘔吐のシーンは演出の差替え、パーティシーンは半分、で2時間に収める!
そしてラストにこの映画の本筋となるハートフルな「どんでん返し」が用意されていればさらによかった。わたしがプロデューサーならそうさせた。
躍動感と映画の歴史の過渡期
良かった点
・音楽と映像美の融合
・映画製作の困難さが垣間見える
悪かった点
・テンポの良かったストーリー展開が終盤にかけてやや悪くなっていく
・ストーリー中身もわりとありがちな展開
(ただ、無秩序で幻想的な世界観と時折見せる血なまぐさいリアルさの併設は評価すべき点)
本作はハリウッド「映画村」を舞台に無声映画から有声映画への転換点における群像劇。
インスピレーションで当時の映画業界に革命を起こしていく「シンドバット」ことプロデューサーのマニー。
恐れ知らずだという周囲の評価とは裏腹に常に頼れる「何か」を求め、彷徨いながらスターダムへとのし上がる「マイフェアレディ」こと女優ネリー。
サイレントからトーキーへの転換と共にもはや自分の時代ではなくなったことに直面し、苦悩する
「はだかの王様」こと俳優ジャック。
この3人の主人公の視点を中心に、妖艶で聡明なチャイニーズ系アメリカ人の字幕製作者や音楽家としての確かなブライドをもち、乱痴気騒ぎな宴会でも平然と演奏するジャズトランぺッターなどを巻き込み、映画の歴史の転換点を観測できる良作。
進歩を妨げるべきではない
前情報をあまり仕入れずに鑑賞したので
いきなり象を運び出してびっくりしました。
まぁ入れててもびっくりしたかも。
個人的にはエログロというよりは、
『汚い』という感じ。あと人がたくさん死ぬ。
マニーがパーティーでネリー、
ジャックそれぞれと出会い、
酔い潰れたジャックを送り届けたら
アシスタントとして働くことになり、
いろいろ経験を積んでいって
シドニーをメインに録るあたりまでは
わりかし観やすかった。
よくあるサクセスストーリーみたいなかんじで。
そのあとサイレントからトーキーへ、
技術が進み、客の求めるもの、時代が変わっていく。
それぞれの人生の雲行きも怪しくなっていく。
サイレントでスターに上り詰めたジャックは
トーキーに求められる『声の演技』に苦戦する。
(愛を囁くシーンで笑いが起こる)
サイレントでチャンスを掴んだネリーは
トーキーの『自分の声(ロバみたい)』そのものと
『録音(細かい立ち位置と緊張感)』という現場に阻まれる。
『自分の時代』はいつの間にか終わっていた。
時代が変化していること、自分がそれに
『ついていけていない』ことを自覚するのは
かつて時代を築いてきたジャックと、
センセーショナルにデビューしたネリーからしたら
一体どれだけの絶望なんだろうか。
『進化を妨げてはいけない』と言いつつも、
置いていかれる焦燥感、絶望感、消失感を抱えて
それを打ち明けられる友も妻も
もういなかったんだろうな。
裏方のマニーはそこそこ成功してたようにみえたけど、
シドニーに『黒塗り』を提案したり、
レディ・フェイを切ったあたりは、
良い方向にも悪い方向にも、彼の成長なのだなと。
『50年後に生まれた子どもたちが、
あなたを友人のように感じる。
自分が生まれる前に死んでいるのに。』
ジャーナリストのエリノアが言っていたこの台詞に、
映画業界(あるいは芸能界すべて)の醍醐味と
呪いが詰まっているような気がしました。
音楽と、音の緩急がすさまじくて
そこはとても良かった。おもしろい。
ただ人にはあまり勧めないであろうし
全体的に長すぎたかも。2回目は観ないです。
NHKの「映像の世紀」で放送された20世紀初頭の「狂乱の時代」そのもの
まるでおもちゃ箱をひっくり返したような内容だった。
前半は、NHKの「映像の世紀」で放送された20世紀初頭の「狂乱の時代」そのもの。エロ・グロてんこ盛り。長回しワンカットによるシーンが多いのも、チャゼル監督らしいといえばらしいか。
主演のマーゴット・ロビーは、DC映画の「バットマン」シリーズに出てくる悪役「ハーレ・クイン」のぶっとんだ役柄が固定化されてしまったように感じられる。この作品でも頭のねじがどこかに行ってしまった女優を演じている。ロビーもいい加減、このイメージから脱却させても良いのじゃないか。
サイレントからトーキーに映る頃の米映画業界の闇の部分を、忖度するところなく描いている。えげつなかったり、汚らしい場面も沢山でてくるが、それを耐えて、後半まで見てくると、今度は映画好きなら誰もが見たことのあるようなシーンの連続。「エンドロールの後で」にもちょっと似ているかも。★3.5
メッセージ
さて、この胸騒ぎをどう表現したらいいのか…
何日も迷っていたら、噛み砕くことを急がず、うけとった感覚をそのままにしてみていいんじゃないかと、芯を震わすリズムの余韻が言ってるように感じた
眩いライトが交差するなか
トランペットが叫ぶ
ドラムが猛る
サクスフォンが唸る
男と女も、男と男も、女と女も踊り叫び 騒めき弾ける
アドレナリンの噴出は高級な酒に似た琥珀色の艶めきのように融合し、富裕の煌びやかさを惜しげもなく纏い次々に独特な空気を創り出す
五感の全てか、それ以上のなにかであらゆる快楽の限界を試され、やがて、誰もさわれぬところを易々と越えていく花めく堪能のるつぼがそこにあった
1920年代のハリウッドを忠実に再現したという追随を許さない雅やかさは、圧倒的な力と権威とプライドそのものだった
そんな〝別世界〟に映像と音楽で閉じ込められたあと、ふとおもったのが冒頭に書いた印象だ
知ってることばのいくつかをどうつなげようとも到底届きそうにない
もうこれは何かまとまり無くちぐはぐになろうとも、自分にのこった感覚に自由にしゃべってもらうしかないなと思ったのだ
それほどのインパクトを与える堂々たる魅せ方に、ため息って自然な生理現象なんだな〜とあらためて実感
は行の嵐みたいな連続が、たまにちいさな雑音になってしまったが、雪になりそうな雨の日の場内にただひとりと言うまさに贅沢なラッキーで満喫し、かなりの長尺に見入りながら変則的な呼吸の一部になっていった
そんな状態で、私の目はネリーを追い、マニーを追う
すり抜けていく猫の動きでネリーは焦らし、マニーは翻弄されながら囚われた鳥のように固まる
マニーが文字通りの〝釘付け瞬殺〟されたわけがわかるあの魅力がとどまることをしらず炸裂しまくり、マーゴットの天性がこれ以上ないはまり役なのだとしらしめる
器用なだけではできない、視線のずらしも、指先のしなりも、首筋の傾きも…
ギラギラな躍動感が、フル装備のpassionからもったいぶることを知らずに溢れだしている
只者ではない野望がのぼりつめようとしているのを見事に具現化していたとしかいえない
(もう、ここまで書いて血圧があがりそう。)
とにかく、ここまでみせてくるイマジネーションと演出、演技に脱帽し、それをこうして深い椅子に腰かけたまま味わえることに感謝もした
その黄金時代、すでにスターの座に君臨していた大御所のジャック(俳優)と、才能を見出されるチャンスを待ち運を掴んでいく若者3人=はげ落ちた寒色の壁の脇においたくたびれたベッドで寝起きしながら出演を狙うネリー(新人女優)、メキシコ生まれの青年で映画作りへの熱い夢を持つマニー(映画制作)、ちいさな舞台で音楽活動を続けている黒人青年シドニー(トランペット奏者)の4人のストーリーを軸に交え、サイレントからトーキーへと変遷する映画界の時代背景をみせながら、物語はだんだんとダークな世界を取り込みシフトチェンジしていく
夢+浪漫+野望+栄華に強烈な熱量を掛け合わせ、絢爛の世界に誘って天井近くに舞い上がらせ、暗闇+欺瞞+隠蔽に時代の推移と衰退をみせて落とし込み、どんな繁栄も逆らえない流れがあることの悲哀を炙り出していくのだ
人類は、この数年の未知のウィルスの猛威に晒されて、文化や芸術、娯楽などから否応なく距離を置かざるをえない境遇にも見舞われた
また、国同士の争いも絶えず、不安の渦に明日飲み込まれても不思議ではない今、文化や芸術の立ち位置は揺らぎやすく、ためらいに似た向かい風が吹きやすいのも事実なのかもしれない
だからこそ本作は立ち上がり、弱音を吐いている場合ではないと映画界を鼓舞し、逆境に抗いながら前を向く彼らの精神を、ラスボスのようにこだわり抜いた切り札の光で目を奪い、相反する影で心を奪いに来たのではないか
そして、世界中で待つ映画ファンと、なにより制作者側が熱意を絶やさぬように、強烈な栄華を怒涛の迫力でみせ、叱咤激励のメッセージを込めた愛の鞭として映画界にふりかざしたようにおもえてならないのだ
修正済み(5回も^^;)
ハリウッド版『ブギーナイツ』……あれ?
冒頭の狂乱パーティシーンでロスコー・アーバックル似のデブが女優をオーバードーズさせ、なるほどタイトル通り『ハリウッド・バビロン』をやるのだなと、純粋な映画ファンの気持ちで鑑賞に臨みました。
しかし、混沌とした撮影風景などはまあ盛り上がるものの、ジョン・ギルバートそのまんまなブラピ、カエルのような声と揶揄される女優、ガルボとかタルバーグとかスワンソン等々、映画の教科書1ページ目に書かれているような捻りのない古いエピソード(というかゴシップ)の羅列ばかりで、なんだか下敷きにしている『雨に唄えば』よりも狭い世界に感じてしまいました。
そして2時間以上経過しても狂騒が終焉を迎えることは分かるものの、物語が何に向かっているのかサッパリ分からない。(おそらくチャゼルもよく分かっていないので)唐突にヤクザと揉める展開になりますが、これは杜撰ではないですか。
百歩譲ってハリウッドアンダーグラウンドを垣間見るスリラーとして楽しめれば良いけれど、禁断の最深部でマッチョがネズミをかじるだけという……
『雨に唄えば』はもとより『スタア誕生』『イナゴの日』『アメリカの夜』など参考作品は数あれど、ドラッグ描写やスピーディなカットバック、Fワード連発する台詞回しなど、一番影響受けているのは『ブギーナイツ』だと思います。ただブギーナイツは豪華絢爛な映画業界に逆立ちしても敵わない、ポルノ業界の栄華と衰退をミニマムに描いたから美しかったのであって、それをスター満載の大作でやるのは成功者の欺瞞というか、先祖返りにしかなっていないのでは。
ハリウッドの黎明期群像劇。ちょっと長い。
予告でハリウッドの黄金期の話、みたいなのを観てたから「華やかなスターたちが輝いていたオールドグッドデイズ」みたいなものが描かれるのを想像してたのけど、製作現場の大味さや出演者たちのアンモラルさのようなリアル(?)さが全面に出ていて、割とドン引いてる私がいた。笑
当時の映画製作の現場ってあんな場当たり的で、関係者みんなキレてて、危険で(リアルに死人が出る)、滅茶苦茶な感じなの?
当時の時代背景を考えると仕方ないのかもだけど…。
メインの登場人物はジャック、マニー、ネリー。なんだけど、割と3人ともどうしようもなくて、魅力的かと言われると個人的に「??」だし、感情移入もしづらく、群像劇型で視点がよく移り変わるので、「このエピソードはどこに繋がるの?この作品の中の地点なの…?」と途中ちょっと困惑しながら観ていた。
なのでどうもいまいち楽しみきれず…。
ネリーが数十年後に映画館で過去を思い返すシーンがあるから、輝く過去への懐古や郷愁が一つのテーマなのかと思ったけど、その割にその過去が割とどうしようもないエピソードばかりになってるので感情が迷子なのよな…。あとちょっと長い…。
ラストの色んな映画につながる演出は良かった。
監督、映画というコンテンツが大好きなんだろうなというのは伝わってきた。
色々な映画をオマージュしてたのだろうか?と思ったら実在の人物をモデルにしてるのね。
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