バビロンのレビュー・感想・評価
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天使や亡霊たちと永遠を生きられること
本作を観ていると、タランティーノ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を思い起こす。
時代はずれがあるが、ハリウッドの撮影現場、俳優たちの破天荒な生活、黒い組織との関わりなどなど。
『ワンス・アポン-』も本作も、ブラッド・ピットとマーゴット・ロビーが共演している点も。
ただ、ハチャメチャぶり、エログロナンセンスぶりは、本作が群を抜いている。
特にオープニングのパーティーシーンは、チャゼル監督の底なしの世界観から発せられるバイタリティで満ち溢れている。良くも悪くも。
印象に残ったシーンがふたつ。
老齢の女性記者(ジーン・スマート)が、トーキー映画の変革期の波に乗り遅れたスター(ブラッド・ピット)に言った言葉。
「現世での”時”は過ぎても 天使や亡霊たちと 永遠を生きられるのよ」
この激動の時代を生きるためのバイブルのような言葉に思えた。
もうひとつは、メキシコ→ハリウッド→メキシコと人生が流転し、そしてまたハリウッドの映画館に舞い戻った元プロデューサー(ディエゴ・カルバ)が観賞するシーン。
映画人と過ごした日々が、走馬灯のように繰り広げられる。
このシーン、ぱくりとも思えたが、あの名作『ニューシネマパラダイス』のラストシーンと重なって涙が溢れた。
「現世での”時”は過ぎても 天使や亡霊たちと 永遠を生きられるのよ」という言葉が、再びよみがえった。
芸術(アート)の沼にぶち込まれた感じ
映画というジャンルの華やかだけど汚ならしい部分を見せたいのはわかった。
「イカれた女」役がお得意のマーゴット・ロビーも流石。
「イカれた男」役としてスパイダーマンでお馴染みのトビーマグワイアも少しだけ出演。
特に撮影の感じがなんか「セッション」ぽいなぁと思ってたら、案の定監督脚本が同じでした。
良い役者は使ってるけど話に一貫性は皆無だし、頭に浮かぶのは「退屈」「駄作」「吐き溜め」等の言葉達。
色んな色のペンキを全部ぐちゃぐちゃに混ぜて、キャンバスにバーンとぶちまけて、これが僕の私のアートなので!!
って言われた感じ。
どこが面白いのこれ?
映画は大好きだし一応役者を志してはいるけど、どこも刺さらなかったし、まぁ昔の映画撮影はここまでとは言わないけど無茶苦茶だったよねーとか、そこはわかる。
でもここまで無茶苦茶を見せられても、シンプルに引いただけ。
何を受け取ればいいわけ?
映画はクソだって?
好みの別れる作品で、私は苦手でした。
もしこんな映画を3時間も映画館で見てたら、辛すぎて気分悪くなりそう。
でも絶対途中で抜けたくないし、寝るとかそういうのも絶対したくないから我慢すると思うけど、死ぬほどしんどかっただろうなぁ。
刺さった方々のレビューを沢山読んでも全く共感しかねるので、ほんとに感性って面白いなぁと。
ミッドサマー程ではないにせよ、似たような嫌悪感と虚無感でした。
喧騒と静寂
1926年、サイレント映画の時代。狂乱豪華なパーティーを手伝うメキシコの青年マニーは、映画製作志望。大物俳優ジャックや、パーティーに潜入したネリーと知り合う。女優志望の彼女は、その場でスカウトされ瞬く間に人気者に。しかしトーキーの荒波が、三人を飲みこみ。
タイトルから古代モノかと勘違いしてました。サイレントからトーキーへの変化を描いた作品がいくつもありますが、これは緩急がとても激しいです。サイレント映画の現場で楽団が生演奏をしていることに驚き。その時代の撮影現場の喧騒と、トーキーの静寂の対比が楽しい。そして結末は、幾多の作品と同様に悲しい。
ネリーを演じるマーゴットロビーが、役とちょっと重なる感じです。「ワンスアポンナタイムインハリウッド」や「ロックオブエイジズ」を思い出しました。
良い雰囲気だなー
ハリウッド版平家物語
バビロンとは昔あったとされる幻の王国。それと音無し映画から音あり映画へと移り変わっていった様子を重ねて描いている。まさに盛者必衰。時間は止まる事なく進んでいきかつて栄華を極めた者はいずれ役目を終える。しかし存在が無くなるわけではなく長い歴史の1ページとして人々の心に刻まれている。
最後が予想と違う所も含めて面白かったです。いつもラストが一ひねりされてる。長いのはこの監督の味なので仕方ない。デミアン作品のすごい所は映画のワンシーンと音楽がセットになって観客の記憶に刻み込まれる点。ずっと残る。そのくらい映画の物語と同じくらい音楽を重要視している。このミュージカル要素を違和感なく取り入れる作りがデミアン監督作品。どの作品も一貫しており本当に素晴らしい。
ハリウッド映画界の栄枯盛衰
"映画"への愛が詰め込まれた作品
黒い虚搭
1920年代後半から30年代前半にかけて、映画がサイレントからトーキーへと様変わりする中で、その壁を乗り越えられず人知れず消えていった、ハリウッドのスター俳優や映画関係者の姿が哀愁たっぷりに描かれている。実在の人物をモデルにした演出は、もはやオスカー作品賞に輝いた『アーティスト』等でもお馴染みで特段目新しくもなんともないのだが、映画の出来そのものはさほど悪くはない。しかし、各国映画祭の主要映画賞からは完全にそっぽを向かれた不思議な作品でもあるのだ。
本作を鑑賞した皆さんは、エンディングの『ニューシネマ・パラダイス』風モンタージュがとても気になられるようなのだが、主人公の元映画監督マニー(ディエゴ・カルバ)がオヤジになったサルヴァトーレのごとく単純に郷愁にかられ涙したとはとても思えないのである。エドワード・マイブリッジの『動く馬』からジェームズ・キャメロンの『T2』に至るまで、映画史をざっとなぞったようなモンタージュは一体何を意味していたのだろうか。そして赤青黄色の水彩絵の具が水に溶け出すカットは何のメタファーなのだろうか。
映画モンタージュシーンの中に、商業映画作品群に混ざってイングマル・ベルイマン監督『仮面/ペルソナ』(66)がしのびこんでいたことにお気づきだろうか。ユング心理学の自由連想を組み込んだ演出が当時話題になった映画である。本編の中にもマーゴット・ロビーのビー○ク?!と思わせる(冒頭のパーティーで成人男女の性器がもろ映りこむ)カットが一瞬紛れ込むシーンがあるのだが、巨匠へのオマージュといっても差し支えない演出であろう。
そんな古典名作の数々に敬意を評し(パロり倒し)ながらも、本作はあくまでもチャゼル本人が手放しで映画愛を語った作品ではないような気がする。それは、象のクソやロビーの出戻りゲロ、ギャングの用心棒が吐くタン等の汚物に加え、映画エキストラやカメラマンの突然死、大物俳優2人そして評論家の迎える悲しい結末がハリウッド栄枯盛衰の象徴として描かれているからに他ならない。“大きなものの一部になりたかった”と語るメキシコ人監督は、映画界の頂点に一瞬立ったと思ったら、スキャンダルに巻き込まれ、あっという間に地下3階?の地獄まで転落する恐怖を実地体験するのである。
トーキー映画に適応することができずB級俳優の座に甘んじる他なくなったコンラッドに、ゴシップ記者がこんなことを言うのである。「(あなたのまじめな演技を見て観客が笑いこけたのは)あなたのせいでも、観客のせいでもないのよ。時代が変わったからなの」まさに狂乱の宴の中で急ピッチでハリボテの虚搭を築き上げたハリウッド。その終末を大袈裟に歌いあげた一種の黙示録なのではないだろうか。飯の種でもある映画文化存続を願う映画ライターの皆さんはこぞって本作の解釈を無理にでもねじ曲げてみせるものの、チャゼルの本意を見抜いていたアカデミー会員は歯牙にもかけなかったわけなのである。
映画文化は昨今の配信サービスの盛り上がりの中で、近い将来コンテンツの一ジャンルに落ちぶれると噂される。若き映画監督デミアン・チャゼルはその変化を、誰にも逆らえない時代の流れと見ているに違いない。『セッション』でスターを夢見てドラム修行に明け暮れる若者を悪意たっぷりに描き、『ラ・ラ・ランド』ではショービス入り一歩手前の若者たちの明るい希望を、本作『バビロン』では栄光の座から一気に転げ落ちるスターたちの姿を、(映画そのもののストーリーとして)哀感たっぷりに観客の前にさらしてみせたのでる。
ブロードウェイをはじめとする様々なエンタメのいいとこ取りをして、市井の人々にも手が届く独自文化を築き上げてきたハリウッド。しかし...下流の野生児ネリーがなじめなかった上流階級の皆さんのように、あんたら気取っちゃいるけど歴史を紐解けば同じケツ穴の💩じゃないか。何がダイバーシティだ?LGBTQにフェミニズム?笑わせんじゃねえよ、マイノリティを散々差別してきたのはあんたらの方だろうが。赤青黄色、(人種の)多様性を重んじるあまり色々なカラーを混ぜ込んで映画を作った結果、結局は(あらゆる意味で)真っ黒でつまらなくならざるをえない昨今の映画作り事情を嘆いている作品なのかもしれない。
趨勢がきちんと描かれていない気がする
ハリウッド映画界の光と闇
ハリウッド版『蒲田行進曲』?
<映画のことば>
映画は低俗なものか。
映画は大衆の心に刻まれる。
演劇を観る金や教養のない人々はボードビルや町の映画小屋に通ったんだ。
そこには、夢がある。銀幕に映る世界は意味を持つ。
「象牙の塔」の君たちはどうか知らんが、市井の人々は映画に深い意味を見出だす。
君には分かるまい。
ブロードウェイで10万人が見れば世紀の大ヒットでも、映画なら大コケ。
<映画のことば>
「セットに行ったことは?」
「ないです。」
「楽しいぞ。世界で最も魔法に満ちた場所だ。」
「そう聞いています。」
もちろん、映画は観て楽しむもので、製作する側の立場ではない評論子には推測でしかないのですけれども。
しかし、芸術の一つの分野として「真」とか「美」とかを追求する映画製作の世界は、決して「ありきたり」なものではなく、混沌としたものなのだろうと思います。その混沌の中から(自分なりの)「真」とか「美」とかを見いだし、つかみとった者だけが、名優・名監督・名プロデューサーとしてのしあがることが出来るのかも知れません。
そうして、その混沌は、映画作品が追い求める「真」とか「美」とかが深ければ深いほど、またいつそう混迷の度を極めるのではないかと想像します。
まして、サイレント映画からトーキー映画への過渡期という混乱も重なる中で。
本作は無声からトーキーへと映画製作のスタイルが変わる時代を背景に、そういう映画界の有り様を描いた一本ということなのだと思いました。
地元では大手の興行会社から独立して長くミニシアターを経営していた館主さんによれば、映画館の経営を含めて、映画を取り巻く世界は、ほとんどオタクでなければ立ち行かない世界とおっしゃられていたことが、評論子の記憶には、ずっと残っています。
きっと、製作の現場だって、そんな世界なのだろうと推測します。本作が、その全編を通じて漂わせているような。
本作の題名は、古代メソポタミア地方の都市・バビロニアの栄枯盛衰(歴史的な混沌)をなぞらえるものでしょうか。
ハリウッドの時代の流れ・変遷を大きな背景としてオーバーラップさせながら、そんな混沌(無秩序?な)世界を生き抜いてきたマニーやラロイ。その生きざまが、心に刻まれる一本でした。
そういうことでは、映画を愛して、その愛情で映画を一本の育んで(作って)いく人たちの生き様を、声高に主張するのではなく、何気なく…反面、余すところなく描いているという点では、同じく「映画讃歌」としては素晴らしい出来だった『蒲田行進曲』を彷彿とさせる一本でした。評論子には。
佳作であったと思います。
疲れる
狂騒的で山あり谷あり。過剰だし回しすぎだしわざとらしいしもったいつけるしフラグもがっつり置くしこんな疲れる映画もめずらしかった。
ネリー・ラロイ(マーゴットロビー)の中枢神経がダイナミズムへの渇望に侵犯されている。そんな太く短く生きろと強迫されている薬中女とトーキーへの転換期に居合わせたダグラスフェアバンクスタイプの老優と映画を夢見たメキシコ移民の話。
昔ティントブラスのカリギュラという映画があった。レンタルVHSで見たことがあるがぼかしだらけでなにをやっているかわからない。つまりローマ帝国とは日毎乱交パーティーをやっているところだという話だったが、Babylonの中のハリウッド黄金時代はカリギュラのローマ帝国以上だった。それはあるていど現実でもあったのだろうが扇情的に描かれ個人的には興味深さよりも持て余すところが大きかった。
撮影シーンではアスベストが降ってくる。
カメラマンが熱さと窒息で亡くなるトーキー撮影シーンは過剰で、色の浅い黒人奏者に靴墨をつけろという場面は感傷しすぎだった。(1930年代に黒人が黒く塗れと言われたら概況からしてハイわかりましたと即答するのではなかろうか。)
コンラッド(ピット)の自死はフラグを立ててたっぷり長回しするのがあきらかに冗漫だった。伯爵の地下牢もそこからの脱出劇もやりすぎで、ネリーの失踪は感傷的で、結末のコラージュは総括しすぎかつ引っ張りすぎだった。
とはいえDamien Chazelle。腐っても鯛というかやりすぎが凄みになっている──と見ることもできる、とは思った。
Imdb7.2、RottenTomatoes57%と52%。
評は完全に二極化していて反発する批評家はすごい剣幕でこきおろしている。なんか辟易するタイプの映画で、酷評には首肯するところもあった。が、嫌だったが底力もあった。
労作なので賞レースには好かれている。
好かれすぎマーゴットロビーがさらに株をあげたしDiego Calvaは強い目力をしていた。ピットはなんとなくわざとらしかった。
個人的にルーカスハースとエリックロバーツに感慨があった。どちらもB級常連でメジャー映画に出なくなった古い名前だが、旧世代なら刑事ジョンブックのアドラブルなルーカスハース、コカコーラキッドの変なエリックロバーツを覚えている──のではなかろうか。ふたりとも重要な役で出ていたのは小さな驚きだった。
ララランドに感心したじぶんとしてはDamien Chazelleらしくないと感じるところが大きかった。洗練からわざと外しているような人物づくりや絵づくりをしている。それをどう見るかは人それぞれだが、とりあえずあきらかに三分の二に短くできる映画ではあった、と思う。
今なお続く栄枯盛衰
前半はなんでもありのサイレント時代のハリウッドを、対照的な二人の若者のサバイバルを通して描く。のし上がるためにはセルフイメージもコネの作り方も問わないネリーと、大物の付き人から始め地道にステップアップしていくマニー。
ネリーの盤外戦術の中に○営業的な要素が無かったのが意外だった。登場人物には複数のモデルがいるらしいのでそちらへの配慮か、Metoo的な配慮か。
後半は映画がサイレントからトーキーに移行し、サイレント界の大物であるジャックやネリーが時代の変化に翻弄される様子が描かれる。声の演技の有無でこれほど命運が分かれたことに衝撃を受けた。おそらく現代でも、特撮やCGの発展に伴って消えて行った才能は少なくないのだろう。
映画の位置づけが大衆娯楽から文化の一角へと変わり他分野への影響力が大きくなるにつれ、業界に厳格なクリーンさが求められるようになるのも現代の芸能ジャンルと変らない。
過去のハリウッドのダーティーさを露悪的なまでに描いており、そちらに目が奪われがちだが、映画史を一つの視点からまとめた一本として楽しめた。出演者が他の作品では見られないようなキャラクターを演じているのがもう一つの見どころと言える。
本作は1920年代が舞台。あと100年したら現代の映画業界を描いた「バビロン」が誕生するのかも知れない。
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