バビロンのレビュー・感想・評価
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全ての映画人に愛をこめて
『デイミアン・チャゼル』の新作は
観終わって、ああ、これは主に二つのテキストに拠っているのだろうなとの感想。
舞台となるのは
「トーキー」の嚆矢とされる〔ジャズ・シンガー(1927年)〕が公開された
前後数年間の「ハリウッド」。
その前では名を売った多くのスター達が、
後ではがらりと様相を変えてしまう。
驚嘆すべき身体性を発揮した『バスター・キートン』はどうなったか。
本作でも名前だけ触れられる『グロリア・スワンソン』が再び
陽の目を見るのは〔サンセット大通り(1950年)〕を待たねばならぬ。
『グレタ・ガルボ』だけは、変わらぬ輝きを見せていたが。
おっと、閑話休題。
1985年生まれの『チャゼル』は当然往時のことを体験するハズは無く
(そう書いている自分も当然知らぬが)伝聞に頼っているハズで、
スター達の乱痴気騒ぎや乱行を知るのに最適なのは
『ケネス・アンガー』著作の〔ハリウッド・バビロン〕。
丘の上に建つ豪邸で
夜な夜なの果てるとも知れぬ桁違いの豪奢なパーティ。
酒とバラの日々こそがスターの証し。
もう一つのテキストは作中でも度々引用される
〔雨に唄えば(1952年)〕で
これも同時代を描いた傑作。
中にはまだ慣れぬトーキー映画を撮るためのてんやわんやのシーンもあり。
発声レベルの大小や、音と動作のシンクロのズレで可笑しく描き出す。
とは言え、同じ手法では監督は善しとしなかったのだろう、
テイクを重ねるとの異なる見せ方に挑んでいる。
一種の繰り返しのギャグも、あまりに笑えぬのはどうにも辛いところ。
サイレント期の大スター『ジャック(ブラッド・ピット)』。
彼が主催するパーティに潜り込んだことがきっかけでスターへの道が開けた
『ネリー(マーゴット・ロビー)』。
『ジャック』に気に入られ、制作会社の重役に上り詰める『マニー(ディエゴ・カルバ)』。
三人の盛衰を通して、同時期の「ハリウッド」の変遷が
喧噪の中に、しかし一抹の寂寥をもって描かれる。
三時間を超える長尺になってしまったのは、
先のパーティの部分は勿論、
撮影現場についても事細かにエピソードを取り込んだことによる。
観ていて楽しいのは論を待たぬものの、
通した時に盛り込み過ぎの冗長さは感じてしまう。
が、各所には、目を瞠るパートはあり。
冒頭の糞尿譚はあまり感心せぬが、
その後の屋敷内でのパーティの場面は素晴らしく
『ラ・ラ・ランド(2016年)』でのハイウエーでのミュージカルシーン宜しく、
綿密な計算のもと、延々とした場面をノーカットで撮り切る。
そして、最後のシークエンスでも提示されるように、
おそらく彼がこれまで影響を受けて来た多くの映画作品と、
その制作に携わった人々へのリスペクトと愛惜に満ちている。
前作、前々作も同様に、
自身が生まれる前のアメリカに
並々ならぬ興味を示し作品化するスタンスには
やや偏執的な気質を感じはしつつ、
その思い入れの深さと表現の強さは並大抵でないのが美点であり才能。
今回は幾多の瑕疵が視られはしたが、
次はそれらをきちっと修正して来るだろうとの期待を込め。
映画の狂気を撮る狂気
2022年。デイミアン・チャゼル監督。1920年代のハリウッド。超大物俳優と新人女優と新人スタッフの3人を中心に、サイレント映画最盛期の狂気の世界、トーキーへの転換と人間関係の変化、求めても求められないものと映画の真実、を大胆に描く。
3時間を超える大作のなかで、映画史への大胆な言及が盛りだくさん。サイレント期の撮影現場の喧噪もトーキー初期の現場の無音状態も「狂気」として描くのが監督の真骨頂。まともな人は映画に関われないし、「何か大きなもの」の一部になることなどできないのだ。大騒ぎのシーンがあるかと思えば、人物たちが感慨をもらす静かなシーンもあって、それこそ監督自身が狂気を実践しているので、観る者はいいように翻弄されてしまう。カットでつなぐことができない監督なのだが、ここまで真摯に映画についての狂気を演じてもらえればそれはそれで満足してしまう。
「俺はもう孤独じゃない」
中々の阿鼻叫喚の地獄絵図が繰広げられる群像劇 ネット上では既に考察やネタバレがあるので
大体、そういう話で間違ってはいないし、兎に角品行方正とは真逆の映画に仕上がっている
映画史を紐解くという側面もあり、無法状態がベースでの、映画界とマフィアのアプローチも又興味深い
自分の感想といえば、兎に角今作品、ガラスの割れる音が多すぎる 多分意図的ではあるのだろうが、粉々に砕け散ったガラス片は絶対に誰かを傷付けていることだろう 勿論作品中にそういうシーンは出てこないが、ガラスコップや窓ガラスの破片はそれ単体は美しいと同時に凶器にもなり得る 破裂音も高く、驚きと恐怖ももたらす "映画"という表現方法のメタファー、そのものではないだろうか そしてラストの抽象シーンでのインクの滲みは、フィルムの薬剤、嘔吐、排泄、人間の感情、そしてガラス片や撮影中の事故死での夥しい血が、それこそ"ミソ○ソ"に混ざり合う様を暗喩していると考察するのだが、間違っているだろうか・・・
計画性も何も無い、行き当たりばったりで一攫千金を勝ち獲れた野蛮性をノスタルジーという蜜でコーティングした時代を検証する上でも重要な作品である
100年前のハリウッド大転換期を3時間で駆け抜ける!
大作なのはわかっていましたが、ハリウッドに詳しくないし、予告を観てもそれほどそそられず、スルーしようかと思っていた本作。しかし、公開初日の高評価レビューに誘われて鑑賞してきました。期待以上におもしろくて、睡魔に襲われることもなく、あっという間の3時間でした。
ストーリーは、1920年代、ハリウッドの映画業界のパーティーに潜り込んだ、大スターになることを目ざすネリーと、映画製作に携わることを夢見るマニーが、それぞれ関係者の目に留まり、そのチャンスをものにして着実に成功の階段を上っていくものの、時代はサイレント映画からトーキーへと大きな転換期を迎え、俳優も製作陣もその大きなうねりの中に飲み込まれていくというもの。
まずは序盤、予告で観たエキサイティングでクレイジーなパーティーシーンが描かれます。ネリーとマニーにとっては、目ざすべき場でもあり、挑戦すべき相手でもあり、文字通りここからすべてが始まっていくことになります。しかし、終わってみれば、その刹那的で退廃的な雰囲気は、二人のこの先の運命を暗示するかのようで、本作の象徴とも思えます。
パーティーの翌日、舞台は屋外セットの撮影現場に移りますが、前夜のノリはここでも同じ。いかにもアメリカンな感じの映画撮影は、撮影エリア、スケジュール、真剣と冗談の境界線まで曖昧で、勢いだけで突き進む現場の雰囲気に圧倒されます。そんな100年前のハリウッドの撮影風景はとても興味深かったです。そして、したたかな立ち回りでチャンスをものにして、スターへの階段を駆け上がるネリーの姿が印象的でした。
しかし、時代の流れはトーキーへと移り変わります。ここでも当時の撮影の苦労が偲ばれるシーンが、興味深かったです。素人考えで、サイレントに字幕をつけるよりトーキーの方が楽かと思ったらとんでもないです。当時の機材や技術では、相当な苦労があったのだと勉強になりました。そしてこれが、時の大スター・ジャック・コンラッドやネリーらにとっては、終わりの始まりとなり、徐々に不穏な影が見え隠れします。トーキー撮影の細かい要求に困惑したり、しだいに観客に受け入れられなくなったりと、苛立ちや苦悩の日々が続きます。
栄光と没落、それは役者に限ったことではありません。いみじくも、コンラッドに向けられたエリノアの言葉が、時代も国もジャンルも超えて突き刺さります。時代の流れは、誰のせいでもなく、どうにかできるものでもありません。それを知りつつ、現状からの脱出のため、自らを断ち切る者、別の道を模索する者、最後まで抗う者と、それぞれの方法を試みますが、そこに正解はありません。それでも、その証は残ります。そんな思いを込めてか、ラストで映画を見ながらマニーが流す涙がとても印象深かったです。
キャストは、ネリー役にマーゴット・ロビーで、ハーレイ・クインを彷彿とさせるキュートでクレイジーな感じが魅力的でした。マニー役のディエゴ・カルバは知らない俳優でしたが、映画とネリーにすべてを捧げる青年を好演しています。この二人の憧れとも言える大スター役はブラッド・ピットで、ハリウッドの顔として本作の象徴的存在となっています。
自分のような映画知識が浅薄な人間でもこれだけ楽しめたので、ハリウッドに精通したかたなら鳥肌ものの喜びを感じられるのではないでしょうか。とはいえ、上映時間が3時間というのはやはり長く、必要以上にグロ描写を入れたり、移民や貧困や人種差別的な問題を中途半端に入れたりせず、本筋だけで描ききったほうがシンプルでよかったのではないかとも思います。
古い映写機のフィルムから繋ぐ現代へのエンターテイメント
映画の映画は、こうでなくっちゃ!
本国では非難轟々らしいけど、ハリウッドで期待され続ける数少ない監督デイミアンにこんだけ金を預けてみると、これほどまでにブッチギリで楽しめる作品が作れるもんなんだー、と感服しきり。
相変わらず起承転結はこれまでの作品同様、ひねりもせず、わかりやすく配置されてるものの、不思議に3時間超の時間を感じさせないのは、その境目がシームレスにつながり続けているからなんだろうと思う。ただ個人的に嫌気が刺したのは、センチなシーンで流れるテーマ曲のピアノバージョン。ララランド汁が溢れまくるメロディラインは、さすがに頂けない。しかも何度も(-0.5点)。
映画の世界(に限らないけど)は、残酷なほどに流行り廃りが激しく、気づいたら賞味期限が切れていたなんてことはザラにあるわけだけど、過去作品の4Kリマスターをスクリーンで観る幸せを噛み締めている自分としては、ジャックがエリノアと面会したシーンの台詞に、映画が永続的に続く娯楽であることの、決意みたいなものを感じてグッときた。
ジャズが効いてる
根底にある映画愛にアドレナリンが出まくった
「セッション」「ラ・ラ・ランド」「ファースト・マン」と好調が続くデイミアン・チャゼル監督による「映画に愛を込めて」。
これは大好きだった。
舞台は1920年代後半から30年代のハリウッド。映画は隆盛を極め、1927年の「ジャズ・シンガー」を機にサイレントからトーキーへ移行しようとしていた。
思えば1910年代に何となく形成されたハリウッド。短期間で恐ろしく成熟した。スターが生まれた。これは正に「映画の力」によるものだろう。
今作はそんなハリウッドで夢を叶えようとする人々のスケールの大きな群像劇。根底にある映画愛にアドレナリンが出まくる189分だった。
オスカーを取るか否かは別として今年のベストの一本だろう。
やがて歴史の一部へ
冒頭、丘の上の屋敷で夜な夜な開かれる泥酔とエログロナンセンスの狂宴。「ガルボも来るらしい」の一言で全てが不問になる特権的空間。それは1920年代映画産業のひたすら夢と欲望に満ちた未来への展望を端的に示している。
メキシコ系移民のマニーとホワイト・プアのネリーは共にその宴のパワフルなアトモスフィアに魅せられ、『ラ・ラ・ランド』ばりの運命論的予定調和で映画界に巻き込まれてゆく。サイレント映画界きっての売れっ子作家であるジャックのもとで敏腕プロデューサーとしての仕事ぶりを発揮するマニーと、代役で参加した作品でセックス・シンボルとしての才能を惜しげもなく開花させてゆくネリーの姿が小気味のいいモンタージュで重ねられていくシークエンスには、彼らの全能感が、ひいては20年代映画産業の全能感が滲み出ている。
ただ、それが蜃気楼に過ぎないことを我々は既に知っている。トーキー、恐慌、ヘイズコード、20年代の栄華はそう長くは続かない。あらかじめ衰退の宿命を背負った物語の上で、彼らがいかにして生きていく、あるいは死んでいくのか。そこが本作の眼目だ。
サイレント映画の巨匠・ジャックは1927年公開の『ジャズ・シンガー』が切り開いたトーキーという新潮流の前に挫折を味わう。落ち目の彼に対する評論家のエレノアの言葉は救済であり同時に死刑の宣告でもある。「時代はやがて終わる、あなたは忘れられてゆく、でも100年後にあなたのフィルムを誰かが映写機にかけたなら、あなたはいつでも甦ることができる」。その通りだ。今や倉庫からフィルムを引っ張り出してくる必要すらない。アプリを開き、再生ボタンを押すだけで亡霊たちは鮮やかに踊り出す。
ただ、ジャックはそれに耐えられなかった。彼は通りがかりのホテルマンに100ドルを渡し「これからは君の時代だ」と嘯き、それから自室で命を絶った。
ネリーもまた30年代の腐臭に耐えることができない。サイレントからトーキーへの過渡期においては、作中に示される通り、録音機材に合わせて演者が事細かに動きを合わせる必要がある。豪放磊落でアドリブ主義的なネリーがトーキーに挑むというのはトラを犬小屋で飼うような錯誤に近い。ワンカット撮り終わるだけで大歓声が上がるような現場にやがてプロデューサーは辟易し、彼女は映画スタジオから緩やかに放逐されていく。
一方プロデューサーとして順調に成り上がりつつあったマニーは、彼女をトレンディな(つまり30年代的な)映画女優に生まれ変わらせるべく、彼女を映画人たちの集うパーティーに招待する。冒頭の混沌としたパーティーとは打って変わってスノッブで衒学的な緊張感が漂う会場にネリーはどうにか馴染もうとするが、当然ながら上手くいかない。パーティーの参加者たちがハロルド・ロイドの話題に興じているのは言うまでもなくネリーへの遠回しな嘲笑だ。ロイドはサイレントからトーキーへの転換に失敗した代表的俳優である。結局彼女は我慢し切れず半狂乱で会場をメチャクチャに荒らし、罵詈雑言と吐瀉物を吐きつけ立ち去っていく。
いよいよ女優生命を絶たれたネリーはドラッグとギャンブルに溺れていく。マニーはそんな彼女を最後まで見捨てられず、メキシコへの逃避行を打診する。しかしアメリカン・ニューシネマの純粋な若者たちが「自由」の理想郷としてメキシコを目指しながらもその途中で破滅的な死を迎えたように、純粋なネリーもまたメキシコには決して辿り着けない。彼女は車を降り、闇の中へと静かに消えていく。そして数年後、ハリウッド全体がカトリック由来の禁欲主義的な自主規制要綱(=ヘイズ・コード)に包まれていく中、新聞の三面記事に彼女の死が報じられる。
マニーはジャックやネリーと異なり、サイレントからトーキーへの過渡期を乗り切ってプロデューサーとしての存在感を強めていく。かつて丘の上の屋敷での狂宴の向こう側に夢見た、カオティックでパッショネイトな映画世界はもはやそこにはなかったが、彼はそのことから巧みに目を背けながら淡々と仕事をこなす。しかし彼の20年代への憧憬はネリーへの不変の恋慕として尾を引き続ける。結局彼はネリーがギャンブルでこさえた借金を肩代わりし、ギャングの追走を逃れるべくネリーにメキシコ亡命を打診する。こうして「時代遅れの映画人」の馬脚を現してしまったマニーは、ギャングに「L.Aから出て行け!」と銃を突きつけられ、ジャックやネリー同様にハリウッドを去る。かくして20年代の耀いは完全に消滅する。
数十年後、妻と娘を連れたマニーがハリウッドを訪れる。昔ここで働いていたんだ、とマニーは感慨深く呟くが、娘は「飽きちゃった」と興味さえ示さない。トーキーが飽きられる時代、モノクロが飽きられる時代を経て、映画は遂に「映画それ自体が飽きられる時代」に差しかかりつつある。時は1952年。ジョセフ・マッカーシーが先導し、エリア・カザンがその片棒を担いだ「赤狩り」によってハリウッド自体が疲弊していたこともあり、アメリカ人の週末の娯楽は既に映画からテレビへと少しずつ移行しつつあった。
マニーは失意に暮れながら近所の映画館に入る。そこで彼はハッと目を瞠る。上映作品はジーン・ケリーとスタンリー・ドーネンの『雨に唄えば』。本作が優れたミュージカル映画である一方で優れた「ハリウッド内幕モノ」でもあることは周知の事実だ。そこではマニーやネリーやジャックたちが人生を投じた青春時代が、すなわちサイレントからトーキーへの過渡期のハリウッドの光景が映し出されていた。途絶したかに思えた20年代の耀いは、今まさに鮮やかなテクニカラーに彩られ現前していた。ただし、否定的な意味合いで。カメラは愛憎入り混じった様子でポロポロと涙を流すマニーを離れ、観客の一人一人を、ほどなく全体を俯瞰で映し出す。客席はほとんど埋まっている。
やがてマニーの自省的独白とともに、無数の映画史の断片が矢継ぎ早に明滅する。リュミエール兄弟『ラ・シオタ駅への列車の到着』、ジョルジュ・メリエス『月世界旅行』、カール・テオドア・ドライヤー『裁かるゝジャンヌ』、ルイス・ブニュエル『アンダルシアの犬』、ウィリアム・ワイラー『ベン・ハー』、スタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅』、スティーブン・リズバーガー『トロン』、ジェームズ・キャメロン『ターミネーター2』『アバター』…。映画史の100年が怒涛のモンタージュとなって画面に押し寄せる。
それはジュゼッペ・トルナトーレ『ニュー・シネマ・パラダイス』の再奏と呼ぶにはあまりにも性急で病的だ。そして最後にマニーが言う。「いつまでも長く続くものの一部になりたい」。
この一連のシークエンスには、単なる映画讃美的な射程をゆうに超越したアンビバレンスがある。マニーたちの終ぞ実らなかった夢が遥か未来の映画にくっきりと彫琢されているということ、すなわち「映画史」なるものの強靭な歴史性。一方でたかだか数分のモンタージュによってその全史を語り尽くせてしまうというフラジャイリティー。100年という長さ、あるいは短さ。目の前の映像が自分の人生と繋がっているという興奮。自分が今そこにいないという落胆。映画は夢だ、いや幻想だ。許せない、ありがとう、殺してやる、愛してる。
しかしその愛憎の果てに、我々はやはりこの赤いシートに戻ってきてしまう。呆けた顔で銀幕を見上げてしまう。ウディ・アレン『カイロの紫のバラ』で凄絶に映画から裏切りを受けてもなお懲りずに映画館へやってくるシシリアのように。たぶん、映画にはある種の魔性があるのだと思う。それが何なのかはわからないし、わかるのならもう映画を観る必要はない。
総括すれば、本作は「それでも俺は映画が好きなんだ」というディミアン・チャゼルの捻転した愛情を、コメディとシリアス、過去と現在、愛と憎悪を往還しながら複層的、立体的に浮かび上がらせた歴史映画あるいは内幕モノあるいはメロドラマあるいは映画の映画だ。
『バビロン』というタイトルには、チャゼルの20年代ハリウッドへのノスタルジックな憧憬が滲み出ている。しかし遠い未来、監督も演者も観客も土の下で眠る頃、この作品もまた新たなバビロンとして同様の視線を注がれることになるに違いない。D・W・グリフィスやセシル・B・デミルと同じようにディミアン・チャゼルが名画座にかかる日がきっとやってくる。
いつまでも長く続くものの一部になるのだ。
乳首ドリルするーんかーい‼️❓
何かあるのか、何が起こるのか、期待していたら、とうとう最後まで驚きや感動はついぞ訪れることはなかった。
酒、薬物、差別、は古今東西の映画界、芸能界では珍しくない、ハリウッドは一つ抜きん出てるが。
アカデミー賞だとゆうが、美術、衣装、作曲の三部門、のみ、内容は❓
コメディやミュージカルとしてところどころで見どころがあるので退屈はしない。
その分、マーゴツトロビーの姿に釘付けだ、特に貧乳に立つ乳首、大きなお尻、目に焼きついた。
ところで、象のクソやロビーの吐くところは意外と汚くない。
なんだかブラピが精彩を欠いているような気がして寂しい。
メキシコ人役の彼が目立っていた。
コマーシャルに煽られたので残念感が残る。
ハリウッドの恥部を晒しても、アカデミー賞をもらえる、そんな懐の深さを示されているようで少し興醒めした。
暇ならどうぞ。
とにかく映画が好き!
ハリウッドの栄枯盛衰
1920年代から50年代のハリウッド映画・黄金時代を舞台に、その時代に生きた映画俳優の栄枯盛衰を描いたヒューマン・ドラマ。サイレント映画で一世を風靡した映画俳優が、トーキー映画の繁栄に伴う大改革の波に呑まれ、俳優としての存在意義を失い、映画界から取り残されていく物語。
監督は、『ラ・ラ・ランド』で、エンターテイメントの世界を描いたデイミアン・チャゼル。当時の華やかなハリウッドの表舞台の裏で行われていた、狂気的なパーティーに明け暮れた、映画界の影の部分から、俳優人生にスポットを当て描いている。こうしたハリウッドがテーマとなる作品は、いかにもアメリカ好みの作品とも思える。
サイレント映画の大御所・ジャックが、毎夜、派手にパーティーを繰り広げる中で、ハリウッドでの成功を夢見たマニーは、ジャックの元で、映画の「いろは」を学んでいく。そして、こちらもハリウッドに憧れた粗野な女優の卵のネリーは、マニーと運命的な出会いをする。マニーは、その気後れしない演技が人々を魅了して、スターダムを駆け上がっていく。
しかし、やがて、サイレントの時代からトーキーの時代へと映画作りが大改革していくと、新しい映画作りに対応できないジャックやマニーは、世間から見放され、窮地へと陥っていく。
本作の目玉は、何と言ってもブラッド・ピットとマーゴット・ロビーが、サイレント映画で活躍した俳優として共演している事。鑑賞前は、この2人がもっと絡み合っていくのかと思ったが、それぞれ独立したストーリーとして展開していく。その2人の間を埋めるのが、本作で大抜擢の主役となったメキシコ出身のディエゴ・ガルバだが、これまで自分も全く知らない俳優だ。
マーゴットは破天荒な役から、清楚な女性まで、どんな役柄も演じる素晴らしい女優だか、本作のような役の方が、彼女らしさが輝くと思う。その他には、『スパイダーマン』を演じたドビー・マグワイヤアが、猟奇的なマフィアのボスを務め、これまでにない怪演振りをみせていた。
内容的には、まぁ予想通りの展開。とにかく3時間を超える長い作品であり、お尻は痛くなった。
時間を感じさせない
ケネスアンガー
評価が分かれるかもしれないが私的には満足
ハリウッドがちゃんとして行く様
乱痴気パーティ、裸、ゲイ、ドラッグ、排泄物、死人をバンバン映し出す下品で悪趣味な描き方ではあったが、面白ければ何でもありだった時代から白人知識層が幅をきかせ優等生のようになって行く映画業界を、サイレントからトーキーに移り変わる端境期のハリウッドを舞台にメジャー俳優とダイナミックな音楽で演出した意欲作で、時代の変化や見えない何かへの配慮に対応できずに歴史の裏で消えて行った者たちのお話。
少し大げさとも思える自主規制により、面白みやリアリティがなくなった最近のテレビ番組とダブって見えたが、監督のデイミアン・チャゼルもそういう風潮への皮肉と反発からエゲツない映像を敢えて見せたのではないかと勝手に思ってる。
ピンクのレインコート着て歌わされるジャックや顔を黒く塗らされるシドニーは見ていて辛かった。
下品で奔放なアバズレのネリー役はマーゴット・ロビー以外にはない程ハマってたと思う。
ラストでマニーが映画館に入り、当時の最新映画を見ながら過去を思い出し泣くシーンは、しっかりとした助走が足りなかったためか共感までには至らなかったのが少しだけ残念だった。
著作権の関係上?消されてしまったマーゴット・ロビーのセリフが何だったか気になった。
栄枯盛衰、諸行無常…
(途中、若干ネタバレっぽい内容を含みます。)
アバンタイトルで描かれる、100年前のハリウッドにおける映画業界の暴走バブルっぷり、そこで何とかしてチャンスを掴んでやろうと野心を燃やす人々やそのおこぼれにあずかろうという人達を描く乱痴気騒ぎの30分が、とにかく圧巻。まさに「バビロン」。
(この冒頭の下品さは、最近のメディア作品では敬遠されるタイプのものなので、印象は様々になるんだろうな。あと、私が観に行ったスクリーンがたまたまそういう設定なのか、音量レベルが前半は弱く感じたのはすごく残念。できればドルビーの劇場がオススメ。)
しかし、その黄金時代がいつまでも続くことはなく、映画業界に「トーキー」が出現したことによって大きな変換期を迎え、適応できない人々は徐々にその中心にいられなっていく。
一時の栄華を極めた彼らも、結局は「淀みに浮かぶうたかた」。
後半は、虚勢を張りつつも厳しい現実に飲み込まれていくその切ない姿、それでも、それぞれが自分の人生を賭けて過ごした「生き様」であることに違いはない。
私はいち映画ファンとして、彼ら「中の人」達が、楽しみに待っている観客を意識して作品を送り出してくれているのならば、と素直にグッときた。
あのラストを観るとおそらくこの監督も、『トロン』に始まり、『ジュラシック・パーク』『マトリックス』『アバター』に代表されるCG技術の躍進を「トーキー」登場に並ぶ映画業界のエポックメイキングな出来事として捉えているということなのかな。
糞尿やゲロ、セックスや野心や強欲って「下品」の象徴ではありながら、「人間」であってこその特徴であり、すべての人間の一部なのに、それを排除し、ついには人間を使わずに人間を描こうとすることの滑稽さ。
技術革新の向こう側にある皮肉な結末。
映画自体も、当時の狂乱ぶりを重ねているので非常にテンポが速く、3時間以上という上映時間は、それほど気にならない。
まあ、どこでトイレに行ってもそれほど支障ないと思うけどね。
音楽が良いのは相変わらず。
テーマ音楽は前作の『ラ・ラ・ランド』っぽい雰囲気。
個人的には後半の哀愁を含んだ展開はすごく良かった。
全386件中、321~340件目を表示