正欲のレビュー・感想・評価
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映画史と人権
本作を見ながら「ああ~、時代もここまで来たのか」って気分になり、「社会は発達するにつれ複雑になって来るのだなぁ」って考えさせられました。
個人的に“映画は考えるためのツール”としての役割を持たせているので、私向きの映画ともいえます。なので感想というよりも雑談をしたくなる様な作品ではありました。
まあ、映画を半世紀以上見続けていると、大まかな映画史というのも自然に頭に入っていて、映画史的な流れで作品を見る習慣も身ついてしまっています。
ある視点から言うと、映画って“人権”を提唱する手段でもあったような気がします。
要するに社会悪を物語として観衆の怒りの感情に訴えかける、良い意味での煽動ツールでもあった訳です。
又聞きですが、元々ハリウッド映画産業を興したのはユダヤ人であり、様々な差別への対抗手段として大衆が理解しやすく社会的効果も得られる映画が有効であるという事から“勧善懲悪モノ”“人情・恋愛悲喜劇”といった娯楽映画を量産したという事を漏れ聞いています。
そして時代が進み、貧富の差、人種差別、男女差別、LGBTQ、ポリコレと問題意識も変化してきて、ついには本作の様な特異なフェティシズムまでに至るのですが、今までの映画が果たしてきた問題提起に対する結果として社会(世界)はどう変化(改善)したのか?という事が一番の問題なのだと思うのですが、本作の場合はある意味その点についての問題提起をテーマにしていた様に感じられました。
なので、本作の場合オムニバス的に登場人物が多くいるのですが、貴方は現実社会ではどの人に一番近いですか?、若しくは一番感情移入出来ましたか?、若しくは誰も全く理解できないし気持ち悪いと感じましたか?それを自覚するための作品なのだと思います。
マイノリティ、マジョリティとは言っても、分類を細分化すれば殆どの人がマイノリティ側にいたりマジョリティ側にいる訳で、もっと簡単な識別法は分類の細分化を理解できる頭脳があるかないかの差でしかない訳です。
世の中がどんなに進歩しても、それの理解できる人と理解できない人の割合は変わりませんので、問題が無くなることは決してありませんし、社会のルールというものは最大公約数(若しくは普通)を基準にして作られる(言い換えるとそれでしか作れない)ものであり、個人的マイノリティの部分は自覚して生きるしか方策はありません。
自分のマイノリティ部分を自覚できる人は哲学者にもなれますが、自覚できない人はただの変人扱いされるだけで終わるのでしょう。
さて、冒頭に書いた映画は絶えず人権と向き合い作られてきた歴史があるのですが、果たして社会は良くなったのか?変わらないのか?は難しい問題ですね。
個人的見解だと、社会は大きく変化しているが、人間の根本は殆ど変化していない気がします。なので悲劇も絶えない。
本も読んだ方がいいかな
上映が終われば自分たちはまた擬態する
原作読了済です。原作が好きだったので、映画化と聞いたとき、
ああ、これも消費されてしまうんだ。。と絶望した記憶があります。
原作はキャラクターの心情が文字に全部書かれていますが、
映画では第三者視点と思っておけば大丈夫です。何個かオミットされている部分がありますので、個人的には原作を読んでから映画を見てほしいです。朝井リョウさんの痛烈なメッセージを浴びてほしい。
結論からすると、「作ってくれてありがとう」と思った作品でした。玄関の向こう側にいながら擬態せずにいられた作品でした。よかったです。
また、認知的不協和を発症させない寸前で描写を止めており、その塩梅も絶妙です。
新垣結衣さんと磯村勇斗さんの演技が素にしか見えなかったです。
気づけば2人の言葉に吞み込まれていました。ああ、この映画が終わるまでは擬態してないでいいんだ、と思うとセリフがまっすぐ心の中に入ってきて、
「ここにいていい」と監督から語り掛けられているような気分になりました。
作中気になったのは前半のダンスシーン。ゲイコミュニティが発祥の振り付けがある、と話していたが、本番の文化祭ではHIPHOP調の曲を流していた。あれは「多様性」への逆説的な皮肉なのか気になる。
歌詞もめでたいものだったので、余計わざとなのか、気になった。既存曲なら批判できないよなあと思ったが…。
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玄関を出ると、勝手に自分の中でスイッチが入る。
それは社会に溶け込ませていただくための擬態スイッチで、自分が不適合と分かっていながら、それがバレないように迷惑かけないように擬態する。
上映が終わったとき、ああスイッチを入れ直さないと。と思った作品でした。
134分間だけ玄関の向こう側にいながら擬態せずにいられた時間は、とてもよかったです。
いなくならないから・・・‼️
ダイバーシティ、マイノリティ、アイデンティティを描いているという事でしょうか。新垣結衣さんと磯村勇斗くんの人間関係構築が不得意な似たものカップル‼️学校に行かないでユーチューバーを目指す小学生の息子と妻から別居される稲垣吾郎の検事‼️自分のアイデンティティーを見失いそうになってる大学のダンスサークル部の学生、佐藤寛太‼️この3つの物語が途中チョコチョコと交わりながら並行して描かれます‼️そして終盤、ある事件をきっかけに、この3つの物語が一つにつながる‼️そして観客に丸投げのエンディング‼️多分、新垣結衣との会話で、稲垣吾郎は磯村勇斗を不起訴にするんだろうなぁと思うんだけど、もうちょっと物語的にカタルシスというか、光が欲しかった・・・。ただ新垣結衣ちゃんは周りに馴染めず、一人浮いてる感の演技はリアルで良かったと思います‼️素なんだろうね‼️
ガッキー=可愛いと消費してきた我々に突きつけてくる
前半説教くさいな〜とか既視感ある雰囲気映画で終わってしまわないかな〜思ったけど、冒頭のモノローグを相槌込みで繰り返すシーン(ここから第二幕と言って良いでしょう)から物語が急加速していき、胸にこびりつくシーンの数々にやられた。誰かと話をすることで世界が広がっていく映画はやっぱり素晴らしいよね。
大変申し訳無いけど、最近「ミッドナイトスワン」を観て激情してこともこの映画をより良く見れた要因の一つだと思う。いわゆるマイノリティーとされてる側の消費の仕方とか、「マイノリティーの人たちかわいそう…こうはしちゃダメだよな…」で片付けない(そういう意味では車の突っ込みまではいらなかったかも)。
多様性って枠組みじゃなくて自然に元々あるべきものだよなという再確認。LGBTQとフェミニズムに触れておけば、多様性を“勉強して”いると思ってしまう世間の浅はかさへのカウンター。やっぱり異性愛前提で会話してしまってるなと自分を省みる。
性的嗜好は、欲望はどこまで許されるのかを突きつけてくる。水フェチに関しては、誰にも迷惑かけてないし、映画的に綺麗に撮れていて受け入れやすい反面、小児性愛は… 綺麗に撮れているからこそ実際水フェチを受け入れられたとしても、多くの場合稲垣吾郎演じる役のように「あり得ない」と無意識に断罪してしまう可能性もある。
今年公開された映画でも「渇水」「波紋」「アンダーカレント」など印象的なものが多いけど、一番水を美しく撮れている。新垣結衣演じる役が寿司屋に行くのも、カニクリームコロッケも水と繋がってきてる??
キャンパスのシーン、「好きだから」じゃなくて「大事だから」で入るの本当に素晴らしい。マイノリティーが分かってもらう側前提でいるのはおかしいというのは、アップデートされてるなとも思う。
マイノリティーの気持ちを「地球に留学しているよう」と良い、分かり合える同志を見つけると「地球の中心にいれる」と表現する美しさ。
稲垣吾郎が急にキレると本当に怖い。
確かに正常位って何が正常なんだ??と思いたくなる擬似性交体験があまりにも滑稽で笑えた。
仕事柄、不登校ユーチューバーに夢見て不登校ユーチューバーになる流れは心苦しく見た。自分も絶対許せないタイプだろうなあ。「普通」に縛られる稲垣吾郎演じる役柄の、分かり合おうどころか分かろうとしないところが他のカップリングとの対比として美しい。
ラストシーンが本当に本当に最高。『普通』に縛られる稲垣吾郎から『世間から“普通”とされない』新垣結衣から『普通のこと』と語られる分かり合えた者同士の強み。
”水“を性的嗜好として死んだ目で自慰(自らを慰めるって凄い言葉だ)行為を嗜むパブリックイメージからはかけ離れた役柄。「ガッキー=かわいい」と消費してきた我々にも突きつけてくる。女優:新垣結衣の代表作の一本に刻まれる。
正しいなんてない何でも良いじゃんと思うと小児性愛者を野放しにしてしまう。法?理屈?結局分からないけど、自らで何もかも枠組みを作って理解できないものを切り捨てるのはせめてやめれる人間になりたいと思った。そして、理解できなくても理解しようとはしていたいし、傷つけたくないと改めて思った。
ガッキーは大画面で
濡れる=水浸しなのかと思いきや
水フェチという(100%ないとは言い切れないけど)架空のフェティシズムを性的マイノリティの比喩として提示しながらダイバーシティをモチーフに描いた話で、見応えがあっただけでなく、鑑賞後もいろいろ考えをめぐらせたくなる作品だった。
「普通」というぼんやりした枠の外側にある多様性を想像しつつも「多様性」という枠組みを作った時点で、そこからもはみ出す外側があるわけで、そこにいる夏月や佳道や諸橋らの孤独感は想像するだにしんどいし、だからこそ同じフェチを有する人間を見つけたとき心の高揚は計り知れないのだろうと思った。終盤の展開は、怪物だーれだのマイノリティの悲劇的ファンタジーな結末とそれへの批判を想起させるが、今作では「普通」を強調する寺井検事の家庭状況と対比させながら、夏月の「いなくならない」というラストの一言が救いをもたせていた。
…と、しかし。そもそもこれはマイノリティとマジョリティ、多様性と画一性、アブノーマルとノーマルとかの話なのだろうか。たとえ相互の理解は望めなくとも、大切なのは相手の気持ちに向き合うという、実は人と人とのコミュニケーションの話なのではないだろうか。
寺井が家庭不和に陥ったのは、妻や息子に普通を押し付けたからではなく、不登校の息子やそれを案ずる妻の話に耳を傾けなかったからなのであり、その意味でラストの、質問はするけど夏月の問いには答えないという一方通行の質疑応答は象徴的だ。また、夏月や佳道は特殊な性的嗜好もあって人との交わりを忌避していて、それゆえさらに自らの孤独感を増幅させていた。他方、取り付く島がなく拒絶を続ける諸橋へ、男性不信の八重子がそれでも素直に思いを伝えることで、孤独に閉ざしていた諸橋の心はわずかに開き、ありがとうという言葉が引き出される…。そのように見ていくと、他人との濃厚なコミュニケーションであるセックスを起動する性欲を話の中心に据えているのはなるほどと思えた。
映画としても、ベッドルームが水で満たされていくシーンなど邦画にはないレベルの演出はよかったし、いずれの俳優も役にぴったりとハマっていたと思う。元J案件の吾郎ちゃんが児童買春事件を担当するのはたまたまだろうけど、東野絢香のおどおどキョドった演技は特に見事だった。人々を結びつけるのがYouTubeというのも今時だし、中学生のガッキー役(つーより小松菜奈風味)の滝口芽里衣も目をひいた。
そんなわけでオレもガッキーと模擬性交をして一緒に回転寿司が食いたいと思える(そこか?)見どころの多い作品だった。
正癖
言葉足らず…なんかじゃなかった。
傑作だった。見てよかった。観るべきものだった。
物事は自分基準のモノサシでしか考えられない。なぜならそれ以外の考え方を構成するためのパーツが足りないから。
新しい考え方を受け入れるのにも時間がかかる。練習しないとそれを習得出来ないように。
世界は、明日も生きる人のための物で溢れてるなんて、どんな生き方をしたらその視点が当たり前になったのか、私が知らない、それか見えてるけど見ようとしなかった世界線なのか。
この映画を見てから考えが溢れて止まらない、つまりたくさんのパーツが落ちていた映画だと私は受け取った。
序盤は言葉足らずではないか?と汲み取れていなかったのだが、物語が進むにつれ、その少ない中で発せられた言葉だからこそ一言一言に価値があったのだと気付かされた。
エンドロールではVaundyの「呼吸のように」久しぶりに映画の余韻に浸ることができた主題歌だった。
朝井リョウのファンとして
朝井リョウさんのファンとしてみにいった
学生時代はとことん受け入れのキャパのあった社会とずれている自分という感覚も
社会人になると生きづらさの塊である
直視できないほどの自分の殻に閉じこもった感覚は
何度も体験したが深くはまってもいいことはない
もはや朝井リョウさんの書く暗い青い色のような感情を受け入れるだけのキャパがなくなったのかもしれない
明日生きていたくないという気持ちは持っていてもいいが
表に出すべきでない
一人で抱えるべきものだと思ったりする
でも自殺せずに済むなら出してよかったよな
登場人物たちに言いたい
自分だけじゃないこの感覚、別に特別じゃない
ただ周りが迎合できないのは直視したら生きづらくなるのを何となく知ってるから
その人たちの事を明日も生きたいと思ってる人たち、と一括りにしてはいけない
何故なら自分は少なからず
明日死んでも後悔したくないからこそ
殻にこもっていたくないなと思うから
学生時代朝井リョウさんに大共感だった自分は
昔とちょっと変わっていたな
苦しいくらい気持ちは分かるけどそれじゃだめなんだよな
ただ登場人物たちの気持ちを理解できないと否定する人たちに言いたい
否定はするなただそれだけでいい
ビジネスダイバーシティになってないか?
普通とは?普通じゃないとは?
鑑賞してから一週間、ようやくレビュー書きます。
一言でいえば、ダイバーシティ、多様性なんでしょうけど。。。
難しいテーマでしたね~。
登場人物のもつ性的嗜好、欲望について、パラレルに描き、
それが他人に理解してもらえず、「普通」の人として生活する息苦しさ。
「地球に留学しているみたいな感覚」という言葉が物語っていた。
でも・・・
人はそれぞれであり、それを分かり合える人と出会えることが大切さ、
偽装かもしれないけど、それでお互いを支えあう、夫婦という形。
改めて、今の世の中の難しさ、多様性について考えさせられる作品でした。
稲垣吾郎さん、映画は初めてでしたが、登場人物の中では唯一のマジョリティ、
「普通」の検事のはずなのに、家庭は崩壊、調停中。。。
ガッキー、映画やドラマはあまり観たことないけど、大ファン笑
でも、イメージと違う役で大変だったかな、と。
最後のシーン、セリフは、びしばしと検事さん、そして観ている方に
突き刺さったのでは。
磯村勇人さん、いろいろな映画で拝見していますが、
今回もなかなか難しい役どころでした。
でも、ガッキーとの絡みは、役得としか言えません。ずるいです笑
映画を観終わって、そのまま舞台挨拶の中継を観ました。
そして、家に帰り、特典でもらったしおりを見ると、
「(ab)normal desire」とタイトルにこっそり書かれていることに気づいた。
(アブ)ノーマル・・・どれが普通で、どれが普通じゃないのか。
ホントに、難しいテーマでした。
言いたいことはわかるのだけどこう何というか伝わらない…。
今年389本目(合計1,039本目/今月(2023年11月度)21本目)。
(参考)前期214本目(合計865本目/今月(2023年6月度まで))
11月3週は異様なまでに数が少なく、2週より前の作品の「未視聴の回収すらできる」というラインナップです。
さて、こちらの作品なのですが、「感想が書きにくいなぁ…」というのに大半つきます。
結局「特定のものへのこだわり」という論点や、LGBTQほかの論点があるのだろうということは多くの方がわかるのではと思うのですが、一歩進んで「映画の主義主張は何か」という点がいまいちはっきりしない(というか、実際には存在しない?)のがかなりつらいです。おそらく「性的マイノリティ」問題を「間接的に」描いた結果こうなったのではなかろうか、と思えるし、一応その「特定のものへのこだわり」も理解はしなくはないですが(実際、程度の差はあっても何かへの「こだわり」はあるんでしょう)、結局多くの方が触れているように「一歩進んだその先にある、映画の主義主張」がはっきりしない点などはどうしてもあげられます。
さらに輪をかける事情が、実はこの映画は「ご当地枠」であり、具体的には「広島県福山市」です(広島市ほかはほぼ出ない)。一方で福山という地名は明示的に出るし広島弁ほかもでる一方で、広島文化もほぼ出てこず(お好み焼きすら出てこないという状況)、「ご当地枠」で見るのもつらく(いわゆる「映画に出てくる場所の巡礼巡り」すらできない)、その観点でもかなりきついです。
※ しかもその割に、なぜか協力地に久留米市が出てきたりと無茶苦茶がすごく(広島弁は明確にわかるので広島の成分があることはわかっても、なぜか久留米やら栃木やらなにやら無関係な場所がエンディングロールで次々出てくる)、どう見たらよいかがかなり謎な作品です。
ただ、「多くの方に伝わるように描くと3時間コースになってしまう」のも確かで(この映画自体も2.5時間コース)、時間調整などもした結果こうなったのでは…とも思え、積極的に無茶苦茶というシーンまでもはないといったところです。
採点は以下のようにしています。
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(減点0.2/ラストの警察が出てくるところの逮捕状の読み上げ)
・ この「罪名」は慣用的に使われているのみで正式名称でも何でもないのでややまずいです(読み上げ時には正式名称が必要)。もちろん各都道府県、市町村ほかの条例で「その名称」になっていることはありますが、「法違反」と「条例違反」はそもそも違います。
※ 条例違反に対しても懲役刑を課することはできますが、2年以下という縛りがあります(地方自治法)。
(減点0.2/結局何を述べたいのかがいまいちはっきりとしない)
多くの方が書かれている通りなので省略します。おそらくマイノリティを扱った結果こうなったのではなかろうか、と思えます。
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マジョリティである稲垣検事の方にも不幸があるのが、現代の問題だと思った。
価値観がどんどん多様化するということは、物事の善悪の判断もどんどん変化するということか。
子供が学校に行かずに、ユーチューバーを目指す。ユーチューブを始めた子供はイキイキとして、それを母親も応援する。
検事の父親は、子供の将来への不安、不特定多数の大人と関わる危険から、それに反対する。
そのせいで家族の中が悪くなり、離婚裁判まで行ってしまう。
稲垣検事は正しい事、当たり前の事をしているはずなのに、作品中の誰とも意見が合わずに孤立して、疑問を抱えたまま映画は終わってしまう。
水が好きな人達は捕まった者もいるが、息苦しい世の中に希望を見つけた形で終わった。
どっちが正しいのだろう?どっちが幸せなのだろう?と疑問を投げかける作品だと思う。
どうでもいいけど、今年広島を舞台にした映画が多いのはG7のせいなのかな。
自分が広島県人ですが、夜景の中途半端な街並みがちょっと恥ずかしいですね。
つめたい世の中
誰だって人に言えないことはある。
人それぞれだよね、っていう本当にシンプルな事がどんどん複雑に大袈裟になってきてるような気がする。
普通であることこそ健全だという人。普通になりたいと思いながら生きる人。他人を理解することはとても困難だけど、それでも誰かとなんとか繋がって生きている人。登場人物達は一様に自分の事なんて誰も分かってくれないと思っている。実はここがこの映画の本質であって決して性的嗜好の物語ではない。
エアバッグを外さなくても、ガムテープで隙間を埋めなくても、日々なんとか生きてはいけるし、無理して居なくならなくてもその日は勝手にやって来る。最後の夏月の一言は印象的な言葉で良かったけど、全体的に細かいとこがなんか気になった。とりあえず皿をスプーンでカンッカンッしながら食べるのはやめて欲しいし、子供には学校とか配信うんぬんの前に自分で散らかした物の片付けくらいしっかりさせて欲しい。で、佐々木君がなんで連れて行かれたかもよく分からなかった。
普通じゃないとは
な、なんだろう...。言いたいことは分かるし、この手の映画を見た後は胸にグサッと刺さって何日も考えることなんてざらなのに、全くと言っていいほど心が動かない。体感時間3時間越えの驚異的な居心地の悪さだった。性的マイノリティの人々は常にこんな気持ちなんだよ、と上手いこと片付けようと思えば出来るけど、そうじゃない。演出が淡白過ぎてとても見入れなかった。
稲垣吾郎の役回りがまるで極悪人のように描かれていることがすごく違和感。自分に正直生きているのは彼しかいないし、魅力的な登場人物と言えばこの検事しかいなかったのに、なんでこんな扱いされなきゃならない?この人は言い方に問題があるのであって、本質的にはそこまで変じゃない。そりゃ子どもの今後を考えれば学校に行かせたいし、それほど親しい仲でもない男が家を出入りしているのは誰だって腹立つ。妻の私は分かってますよアピールがマジでムカつく。
自分では理解できない人がこの世には多くいて、彼らのことを除け者扱いするのではなく、そういう人もいるんだと受け止めて尊重することは大切だ。LGBTQや人種、障がい者差別なんてあってはならない。当たり前だ。だが、異性に恋をしたり、結婚して子供を産んだり、父親として母親として生きる人が全体の多くを占めていることだって現実だ。大幅に変更したアカデミー賞の基準やポリコレは、マイノリティの人々を理解しよう、尊重しようとしすぎるがあまり、彼らを間接的に差別することに繋がったり、これまで俳優として生きてきた人が用無しになったりと、悪循環に繋がっている。
以前話題になった男女で分けるトイレの撤廃問題。それは、誰のためにあるのか?私のようなマイノリティに属さない人間は気持ちよく利用することが出来るのか?いや、出来ない。出来たもんじゃない。ようは、ひとつの物差しじゃ全てを測りきれないということだ。稲垣吾郎演じる検事は、法律という物差しで物事を判断している。無情のように思えるかもしれないが、彼のような人間は絶対的に必要だ。犯罪がマイノリティだからと容認されるような世の中になれば、それを利用した事件が横行するに決まっている。それは私のような人間にも、マイノリティの人々にとっても損しかない。全ては不可能なのだ。
ただ、日本の法律や風習、人々の考えは彼らに厳しすぎるというのは100%賛同する。なぜ同性婚が許されていないのか、何度考えようとも理解できない。でも、犯罪を犯罪といえなくなっては世は崩壊してしまうし、検事は決して間違ったことはしていないと思う。だからこそ、この映画は私には響かなかった。なんかこう、すごく違和感。色んな人の意見聞きたいな。
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