正欲のレビュー・感想・評価
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何を持ってノーマルなのか?そんな人居るのか?
こういう題材でこれだけメジャーな人達集めて映画化出来たことは高く評価できる、まあ時代という事かな。 吾郎ちゃんのようにちんぷんな人、まだ居るのだろうか?同性愛は非生産的だって言ってる人が議員やってる国だもんなぁ。きっと閉鎖的な組織や地域に山ほどいるんだよね、そんな人が間違ってこの映画みちゃったらどうなるんだろうなぁ?ぜひレビューを見たいと思う。 少し無理かんじたのは水フェチ、ジャンル的にメッシーかな、、別に何の問題もないのよ、悩みすぎだよ。 ダム破壊して皆んな溺死したなかでセルフしたいとかじゃなけれは大丈夫。まあこれは原作の問題かな。 小児性愛(これあかんヤツ、思っててもやったらダメ)に間違われて捕まった2人の早期釈放をのぞむ。 吾郎ちゃんはよ気づけ。 「無くて七癖」というように誰にでも何らかの癖や拘りはあるもので、それが性癖につながっているかどうか、、またそれに気付く客観性を自身が持っているかどうかが分かれ道。 「一人一人みんな違って皆んないい」どっかの歌にも有りましたが1人として同じ人は居ない訳ですから犯罪になる性癖以外は自分に自信を持って生きましょう。 webが必ず仲間を見つけてくれます。 一人一人が違う事が当たり前の世の中に早くなりますように。集団で助け合い、社会を形成して生きなければならないとしたら、お互い違う事を認め合うしか方法が無い事をはやく皆んな知るといいな。 Yolo.
地球の真ん中にいる感じ
主題が多牌していた。 キレのいいセリフで、ポン。 素晴らしい言葉で、チー。 早々に、 何とかまとめて和了。 半歩踏み込んだセリフ、 殻を破った言葉は、 もう少し時間をかければ、 役満を狙えた。 セリフも言葉もあいまいなままにして終わる類似作品が多い中、うまく言い切った。 セリフはかなりの難産だっただろう。 こちらの正欲を言えば、 こういう言葉を飲み込んでしまう人たちを前半は不器用ながらゆっくり表現していたので、 そこは中編、後編に分けるとか、長いドラマでみたかった。 なぜなら、 生々しいフェチではなく、 性でもなく、 ゆるやかに揺蕩う水に浮きながら地球の真ん中にいる感じを、 体感させてくれそうな作品だったから。
性欲ではなく正欲
いわゆるフェティシズムをテーマにした物語と捉えたが、拡大解釈すれば多様性についての物語、マイノリティの苦しみ、孤独を描いた物語という風に捉えることも可能だと思う。あるいはサブキャラに着目すればまた違ったテーマも見えてきそうである。本作は色々な切り口で語ることができる作品のように思う。 登場するエピソードは全部で3つあり、一つ目は特異なフェチを自認する男女、佐々木と夏月が運命的な再会を果たすドラマである。二人には過去の思い出がありそれが時を経て蘇るという、ややメロドラマめいたストーリーであるが、実際にはそう楽観的に見れる内容ではない。周囲からの疎外感、孤立感に苦しむ両者に焦点を当てながらシリアスに展開されていく。 二つ目は正義感の強い検事寺井のエピソードである。不登校の小学生の息子、妻との冷え切った関係を描くホームドラマを、インターネットの弊害やそれに伴う犯罪を絡めながらシビアに描かれている。 三つ目は、過去のトラウマから男性恐怖症になった女子大生がイケメンのダンサーに惹かれる恋愛談である。 夫々のエピソードは終盤で数奇な結びつきを見せるが、ここで最も重要となるのはやはり一つ目のエピソードであろう。ここを土台にして他の二つのエピソードが展開されており、終盤で夫々が相関することで社会の価値観、既成概念に対する疑念の目が観客に問題提起という形で示される。 それはつまり、世間一般の物差しでいう所の”普通”とは何なのか?”普通”と”普通でない”ことの差にどれほどの意味があるのか?といった問題提起である。 また、本作を観て橋口亮輔監督が撮ったオムニバスコメディ「ゼンタイ」という作品を連想した。そこには全身タイツフェチの同好会が登場してくるのだが、周囲の奇異の目をよそに彼らは仲間同士で案外楽しくやっていた。 本作の佐々木と夏月も同行の士として関係を深めていく。他人に理解を求めるでもなくひっそりと寄り添って生きていくその姿は実に健気で切なく観れた。 そして、ここが興味深い所なのだが、フェチというとどうしても”性欲”と混同してしまいがちだが、本作の佐々木たちも「ゼンタイ」の人達も性的な欲望を持っているわけではない。彼らは他人とは違う自分の存在意義、アイデンティティを保つために、同じ”癖”を持つ者同士で繋がっているだけなのである。人が生きたいと願う欲望。つまりこれがタイトルにある「正欲」と繋がるのだが、自分はこういう形で嗜好を持つ者もいるのか…と認識を改めさせられた。 岸善幸監督の演出は抑制を利かせたタッチで上手くまとめられていると思った。特に、佐々木、夏月を演じた磯村勇斗と新垣結衣の繊細な演技が素晴らしく、おそらくこのあたりには監督の演出意図も大いに寄与していたのではないかと推察する。 その一方で、ベッドの上の夏月が水に侵食されるシーンなど、陶酔的な映像演出も時折見られ、これも中々面白いと思った。 そして、最も印象に残ったのはラストカットの切れ味の良さである。この突き放すような終わり方は実に潔い。 佐々木と夏月が直に面と向かって再会するドラマチックなシークエンスにも上手さを感じた。その後二人はホテルに入るのだが、この大胆な省略の仕方には唸らされる。 一方、残念だったのは三つ目のエピソードである。他の二つのエピソードに比べると描き方が浅薄という感じがしてしまった。ヒロインがダンサーに惹かれる理由が分からず、その顛末についても今一つスッキリとしなかった。他のエピソードに比べると中途半端な扱いだったのが惜しまれる。
良い映画の条件
レビューで多少辛口コメントもあったので鑑賞が遅くなりましたが、とても良い作品でした。他人には理解できそうもない性癖や嗜好など大小はあれど、ありますよね。検察取調べ等の違和感や不条理はありますが、まあ戦後日本の冤罪事例等を見ていると無実の人を有罪と自供させ最悪は死刑執行までさせている様なあり得ない事例のある国なので、無くはないかなと。感情をコントロールさせるような変なBGMが無く、エンディング曲が素晴らしく、磯村勇斗が出ていれば素晴らしい作品間違い無しですね。ガッキーはとても素晴らしかったです。
生きづらさを抱えて
普通じゃないかもと思い悩むのは、むしろ普通のことかもしれない。メディアで流れているのは大人たちが作ったものだ。それらとズレていても、個性だという時代に段々近付いて来ているのだろうか。「普通」について考えるとき、普通ってなに?ミー坊わかんないってなる。そういえば、そのときのミー坊の友達が出てたな。ガッキーの映画は初めてでした。クセのないゴローちゃんを初めて見たような気がする。
LGBTQという言葉がある限り
個人評価:4.2 LGBTQを描く作品が量産される中、この物語は他のどれとも違うと感じた。 「地球に修学旅行に来ている感じ」。 その台詞が心にトゲの様に刺さり、物語の世界観を一言で表現している。 何者を見た後と同じ感覚になり、朝井リョウの物語は鑑賞前と後では、自分が違う価値観を植え付けられた実感がある。 また物語だけで全てを語らず、余白を残した部分があるので、自問自答ができ、自分自身の考え方の物語がそこから始まる。 ある意味では夫婦や恋人同士では見てはいけない作品でもある。 いや、ある意味ではなく本質か。
苦しい
異性を恋愛対象に見れて、楽しく性行為ができて、結婚して子供産むのが普通とされるのにうんざりする日々。でもそれを否定すると「人類滅亡する」とか「生物としての本能が」と叩かれる。私も何回も言われてきました。 レビューでも「水フェチって死にたくなるレベルのこと?」と言われているが、当事者にとってはそれくらい大きな問題なんですよね。夏月と佐々木くんは分かり合えてよかった。でも現実そう上手くは行かないよなと思ってしまった。アセクシャル同士の婚活アプリとかあったらいいのにな…。諸橋くんはせっかく同志の仲間ができたのにそのせいで取り調べを受けることになって、心を閉ざしてないかな?同じ大学の八重子は男の人が苦手だけど諸橋くんは大丈夫って言ってたの、諸橋くんが女性に性的感情を抱いてないからなのかな。 矢田部は水フェチでも「服が濡れるのが好き」と言っており最初から人間を通した水フェチ(?)だったんですよね。その時点で怪しむべきだった。小児性愛者=悪とは言わないけど、未成年の買春・ポルノ撮影は違法ですからね。我々が言う多様性とかマイノリティへの理解に「犯罪者」は含まれていませんから。 小児性愛者の取り調べを稲垣吾郎がやってるのなんかヒヤっとしちゃった。某性加害ニュースを彷彿とさせるというか。 でも"正常な人間"が思ってるほど異常な人は多いですよ。子供のYouTuberを性的に見てる人なんか山ほどいます。YouTuberだけでなく子役も。自分の子供が性的消費されて初めて「そんな人間がいるなんて!」って怒るの世の中を知らなすぎでは?と思います。 夏月の職場に来る妊婦の同僚。夏月が彼氏いないって言うと驚いたり出産するの前提で話したり。この女性もやがて親になるんですよね。子供にも同じこと言って育てるんだろうな。子供がマイノリティ側だったらこんな親で生きるの辛そうだな。 まあマジョリティ側のおかげで社会は成り立ってるわけだし、そっちが「正しい性欲」で別にいいよ。どうせマイノリティ側は子孫を残せませんから。私は社会に何も期待してません。こういう問題提起をする作品を見たところでみんな次の日には忘れてマイノリティを見下すんですよ。
ラストシーンは物足りなかったが・・・
アセクシュアル(無性愛者)・水フェチというマイノリティを扱った映画。ガッキーファンの私としてはストーリーはさることながら、まあまあ作品として楽しめた。服を着たままの夏月(ガッキー)の模擬セックスシーンとか、佐々木佳道人(磯村勇斗)の家の窓ガラスとぶっ壊すシーンとか、まずそうにご飯を食べるシーンとか、今までにない彼女の様々な演技を観ることが出来たし、いまの社会に内在しているいろんな問題を彼ら視点で意識させてもらえた。
でも、まあ、いまどきのLGBT問題など、古い頭の私らの世代には少々理解しがたいところもあった・・・。わからないこともないが、私らを含め、おじさん達の代表=寺井啓喜役(稲垣吾郎)の標準思考は古いと説教をされているような映画だったかもしれない。マイノリティに拘りすぎると、標準ってなに?って、悪いこと?って聞き直したくなる世代だからね。とはいえ、やかましいわと切って捨てられない時代・・・。
大学生神戸八重子役の東野絢香(いい味だしていたよ)がアセクシュアルな問題に悩むのはリアルだが、あのガッキーでは少し現実感が乏しいかもしれない。もちろんアセクシュアルといってもいろいろなものがあるようなのだけれど。でもガッキーがヒロインだから映画の興行としては成立するのだろうなあ。
ガッキーの最後の台詞「いなくらないから」が、この映画の肝かもしれないが、それでも、ラストシーンは物足りなかった。この手の、観客に結末を委ねる作品っていうのはエンタメとして不十分だと私は思う。ま、ともかく、ガッキーが頑張っていたので、★3.7あげたい。
秀逸な映像表現と抑制の効いた演技で、原作未読でも十分に堪能できる一作
朝井リョウ原作の同名小説を未読のまま鑑賞した観客による感想です。上映時間の枠に収めるためか、主要登場人物に絡んでくる何人かの人物についての描写を、ある程度省いているんだろうな、と想像する部分もありましたが、作品が投げかける声高でなくても確固とした問いかけは、確かに原作未読の観客にも届きました。 「多様性の尊重」という言い回しがすっかり定着した現在においても、他者とは違う特性を備えているという自覚によって、社会から孤立しているという認識から抜けられない人々は確実に存在しており、本作はそうした「声にならない声」をなんとか描出しようとする試みであると受け取りました。 評価が非常に高い小説を原作にしているものの、本作は一つの映像作品として完結した完成度を備えています。たとえば冒頭、ベッドに横たわる主人公、桐生夏月(新垣結衣)を捉えた幻想的なまでに美しい一連の映像は、彼らが一体どのように社会と接合しているのか(あるいはしていないのか)、何が本作において重要な要素なのかを、映像作品でしかできないような語り方で表現しています。 多様性の枠からもふるい落とされ、決して周囲の人々には理解されないだろうし、それに対して声高に異議申し立てもしないけど、それでも生き続ける、という主人公たちのあり方には、どこか『流浪の月』を連想させるものがありました。 これまでのイメージを覆すような新垣結衣の凄みすら感じさせる演技はもちろん、稲垣吾郎の、社会的正義の体現者のような振る舞いと、一方でどこか弱さを感じさせる立ち振る舞いが素晴らしく、こうした演技面でも楽しめる一作です。
無理解も、定型に押し込めようとする善意も同じ穴の狢
横浜に暮らす検事の寺井啓喜は、息子が不登校になり、教育方針を巡って妻と度々衝突している。広島のショッピングモールで販売員として働く桐生夏月は、実家暮らしで代わり映えのしない日々を繰り返している。ある日、中学のときに転校していった佐々木佳道が地元に戻ってきたことを知る。ダンスサークルに所属し、準ミスターに選ばれるほどの容姿を持つ諸橋大也。学園祭でダイバーシティをテーマにしたイベントで、大也が所属するダンスサークルの出演を計画した神戸八重子はそんな大也を気にしていた(公式サイトより)。
たった二文字のタイトルだが、造語の意味は意外に深い。「正」は移ろいゆく世の中に左右されやすい相対的な尺度であるのに対して、「欲」は腹減ったとか、眠いとか、ヤリたいとか、当人が感じる絶対的な希望である。本作はその相対的な「正」と絶対的な「欲」の狭間に生まれた群像劇である。
作中、当事者でない方々が、理解ありそげな解釈を、善意かつ無自覚にLGBTQやダイバーシティという定型に押し込めようとするシーンが何度か登場する。並行して、多様性に一切理解を示そうとしない検事の家庭も底糸として描かれる。SNSによる情報発信が容易になり、本当に理解・共感しているのか、あるいは別な目的を含意するのか、とても曖昧になっている現代の言説空間をシニカルに描く印象的なモチーフである。テレビを見ながらぼそっと呟く桐生の母と、意識の高い学園祭実行員の彼女と、一切理解しようとしない検事はある意味で同じ穴の狢と言える。
生まれ持ってしまった「癖」そのものではなく、そこに起因する「孤独」が人が苦しめるという文脈は、無味無臭無色不定形な「水」を通して鮮やかに暗喩される。水であっても、器があれば留まることができるし、繋がることができる。桐生と佐々木のベッドの上での真似事がそんな邂逅を思わせる。
ワンショットで無音のシーンが多い磯村勇斗と新垣結衣の生気を失った、世の忍び、嫉みながら生きていく前半部分と、徐々に人間としての水分を取り戻し、血色が良く、笑顔が多くなっていく後半部分の対比的な演技はお見事。「正」の権化である検事役を稲垣吾郎が好演。存在感抜群の東野絢香は本作が映画初出演というから驚く。
拗らせてるガッキーが良すぎた。
多様性であったりSNSだったり、現代社会において考えるべき問題に触れられた作品でした。 結局その人の価値観が普通かどうかって自分じゃわかんないんですよね。 人から見て普通に見えたら普通だし、異常に見えたら異常なんだなと思います。 やっぱり人は、人がいないと生きていけなくて、周りからそこにいると認めてもらわなければ社会性がなくなる。 異常としてみられてしまったら関わり合いたくないからそこにいないものとして排除したくなる… そうすると社会から消されてしまって自分の生きてる意味がわからなくなるんですよね。 ガッキーの『うるさい…』はすごく良かった。自分もあんなこと常日頃から言われたら頭がおかしくなりそうだから。
多様性
自分たちの生きている社会は、多様性を持っているはず。 でも、だいたい普通とか、当たり前という事で、答えは大抵決められている。 そこに外れれば、他人に色々言われてしまうから。 似たような人の生きる狭い場所で生きている私には、この映画は理解しにくい事も多かった。 でも、どれが正しいというのはない。 映画の中では、稲垣吾郎が息苦しいほど、正しさを振りかざしていた。 多様性を当たり前のように開示して、お互いつながり、認められるようになるといいな。
非常に良い作品だった。原作を読んでいたので、映像化が難しいのではと...
非常に良い作品だった。原作を読んでいたので、映像化が難しいのではと思ったが、良い演出で、伝えたいポイントが無駄なく入っていて、よく出来ていた。良作!
正欲とは
多くの人は、自分の全てをオープンにしてはいないし、何かしら隠したい部分はあると思う。 でも、多くの人が言う普通というしがらみに生きづらさを感じている人は、みんながオープンにできていることですら、隠してしまう、隠す必要がでてきてしまう。 その普通というのはこの作品では、性的趣向を主に取り上げています。 人ではなく水に魅力を感じるというのは、私にとって大きな衝撃でした。もちろん水の音や映像は綺麗だと思うことや癒されると思うことはあっても、それらが興奮の対象になったことがないから。 でも、世の中にはそれが普通な人もいる。その人たちには、人を興奮の対象にすることに違和感を覚えている。 何の悪気もない一言一言が誰かを苦しめているかもしれないと思うと、何とも言えない気持ちになりました。 だれもが自分の中の欲を正しいと思っていいと思うし、誰かにその正しさを決められる必要はないと思う。 この作品では、新垣さんが今までのイメージとは違う普通で陰なオーラを纏っていて、感情を爆発させたりするシーンは非常に圧倒される演技でした。 桐生が寺井にありえないって簡単に片付けられたことありますか。って言った時のシーンはこの映画の全てが詰まっていたと思います。 うまく言葉でこの映画の良さを伝えられないからこそ、観てほしい映画です。
期待度○鑑賞後の満足度◎ 水フェチばかり強調してテーマがボヤけているし人物の描き分けもも一つなので映画として成功しているとは言えないけれども、久しぶりに自分に向き合わせてくれたので点は甘くなってます。
①(原作未読)原作を読んでから観ようと思っていましたが間に合わず。
②ダイバーシティという言葉が独り歩きしているのは確かですね。うちの会社でも「ダイバーシティ、ダイバーシティ」と二言目には言っているけど、社員はどこまで分かっているやら。
ダイバーシティとはマジョリティーがマイノリティーに対して違いを認めてあげるよ、という上から視線のものではなくて、すべての人はみんな一応ではないのだから(自分の物の見方が正しいと固執するのではなく)個々の違いをお互いに認め合おうよ、というものの筈。
③私もフェチがあるし(でも何のフェチもない人って世の中にいるのかしら?)今まで殆ど人に言ったことのない性癖もありますけれども、これまでの人生でそれほど生きにくいと思ったことはありません。
だって結構擬態って簡単なのです。そんなことあり得ないと自分の考え方・見方に捕らわれ自分の世界の外に有るものが見えていないということは其だけ想像力がない・鈍いという事で、鈍いゆえに周りにそういう人がいるのに気付かないのだから仮面を被っていても分からない(こんな言い方すると悪辣だけど)。
ただ、「一人くらい分かってくれる人がいるとホッとする」、「そんな自分が嫌になる」、「時々ウソを付くのが嫌になる」という気持ちはよく分かります。
勿論、人間は一人一人違うので「自分は周りの人とは違う」「社会の中で異質な存在だ」「いわゆる“普通”に生まれてきたかった」という孤独感や疎外感、絶望感、マジョリティー(映画のなかでは「当然の様に“明日が来る、明日も生きている”と思う人達」と形容されている)の無神経な言葉による心の傷、そういう事にもっと敏感な人達がいるのはよく分かります。特に若い人に多いんじゃないかな。
最近はSNSとかで人と常時繋がることがすぐ出きるし(させられるし)当たり前みたいだから、私の若い頃より確かに生きづらいかも知れません。
④私は基本的に一人が好きだし(他人といると自然とその人に合わせようとするので疲れます。会社では勿論協調性が重視されるし、仕事をスムーズに進めるためにとても愛想よく上司・同僚とも仲良くしていますけれど、家に帰るとなるべく一人でいたい)、“一人でいると寂しい”という気持ちがハッキリ言ってよく分からりません。
歳を取る程(若い頃は自分は結構普通の善良な人間だと思っていましたけれども)、「自分って変わっているよな」「良い人間とは必ずしも言えないな」と思うようになっできました。でも、ハッキリ言ってもうどうでも良い感じ。
ただ、今現在現役で社会のなかでイヤでも他人と関わって生きて行かねばならない若い人はそうそう達観出来ない、というかまだ感性がビビットで繊細なので傷付きやすく苦しいんでしょうね。
新垣結衣演じる桐生夏月の職場(イオンモールらしい)で声をかけてくる徳永えり演じる腹ボテの同僚は完全に自分は勝ち組意識で“いつも一人で可哀想だから声をかけてあげてるのに”とまさに上から目線。典型的なマジョリティータイプで(自分がやってることの方が遥かにハラスメントなのに、ハラスメントという言葉を自分の都合の良い様に使ってるし)夏月ならずとも「うるさい。ほっとけ」と言いたくなりますが、実生活の私はついつい合わせてしまい心にもない言い訳・お追従をしてしまう小心者です。
⑤という訳で敢えて自分から人と繋がりたいとは思っていない人間だと思っていましたが、本作を観ているうちに、こうやって映画が好きで観ているという事によって本当は自分は社会や世界と繋がりたい、と思っているのではいか、と気付かされたように思います。
(だから鑑賞後の満足度◎にしています。)
⑥本作のことではなく自分の事ばかり書いてしまいましたが、この映画を観ながらこんなことばかり考えていたので、ヘンテコですがレビューには間違いないのでは、と言い訳しておきます。
⑦人物の描き分けがも一つと書きましたが、新垣結衣演じる桐生夏月と礒村優斗演じる佐々木佳道とはよく描かれているように思います。だから余計水フェチが強調されちゃたのかも。
新垣結衣は一度もてはやされていた時は、どこが良いのかな、と思っていましたがしっかりした演技で夏月というキャラクターをキチンと血肉化しています。
礒村優斗くんも、『月』では殆ど感情移入出来なかったのですが今回はとても感情移入できる役でした。
二人がセックスの真似事をするシーンはとても切ない。
⑧ただ、あれだけのことで佐々木君や諸橋君を逮捕することはないでしょう。
証拠が上がっているわけではないし、先ずは参考人として呼ぶのでは?
ラストの稲垣吾郎演じるマジョリティーの権化みたいな検事の価値観を揺さぶるための、検事と夏月とを対決させる為にムリクリ設定したんでしょうね。
⑨稲垣吾郎は今までになく大人っぽく男っぽい風情でしたが、類型を演じているだけで内面までは描き切れていない。演出の責任かも知れませんけれど。
⑩映画としては成功していない、でも問題提起という点では及第点、というところでしょうか。
「待ってるから…」ではなく「いなくならないから…」
今、セクシャルマイノリティの存在を社会は認知し、それを理解して受け入れることを我々は課されている。 性的“指向”や性同一性障害については理解が深まり、これを否定することは愚かしい行為・考えだということが社会通念となった。 しかし、性的“嗜好”についてはどうか、と本作は投げかける。 性的嗜好にも色々なものがあるのだろうが、その嗜好の対象が人間ではないケースをとりあげている。 元来、性に関する嗜好は秘事として他人には明かさないものだ。だから、人間関係においてお互いの性的嗜好など知らないまま周囲の人たちと生活しているのだが、少なくとも人間が性の対象だと勝手に思っている。 そうではないと説明されると、理解が及ばない。その理解できない者として検事の寺井啓喜(稲垣吾郎)が登場する。 しかし、ここまで頭の悪い検事がいるのだろうか。あまりに作為的で時代錯誤も甚だしいキャラクター設定に辟易としてしまった。 これを市井の視点を象徴しているのだと言うなら、ナンセンスだ。 朝井リョウの原作は未読だが、おそらくこんなに薄っぺらに無理解な男として書かれてはいないのではないか。分かりやすくするための脚色が短絡的になりすぎたのではないかと思う。 映画の前半は、横浜、福山(広島県)、千葉を舞台に主要な登場人物が群像劇的に並行して紹介される。 横浜の会社員 佐々木佳道(磯村勇斗)は、明日も生きていたいと思う感覚が持てないでいる。ある日突然両親を事故で亡くすが、それによって楽になったと感じている。 福山のショッピングセンターで働く女性 桐生夏月(新垣結衣)は、親が「結婚ばかりが幸せではないから…」と気を遣って言うほど浮いた話から縁遠いようだ。職場で親切を押し売りしてくる同僚(徳永えり)に酷い態度をとったりする。 ベッドの上で水に包まれていく自慰行為の場面が、演じているのがガッキーだけに衝撃的だ。 佳道は福山の高校で夏月と同級生だったことがやがて分かる。 この二人と、千葉の大学生 諸橋大也(佐藤寛太)には共通の性的嗜好があった。 千葉の大学で大也と同学部の神戸八重子(東野絢香)は、彼らとは別次元のトラウマに悩む女の子だ。男と触れあうことができないのだが、大也に対してだけは拒絶反応が現れない。 大也は周囲の人に迎合せず距離をおいている。八重子の距離のつめ方に我慢ならないでいる。 検事の寺井は、10歳の息子が不登校児なのだが、それを甘えと決めつけるような固定観念の男。妻(山田真歩)が板挟みで苦しんでいる。職場でも事務官(宇野祥平)の助言に耳を貸さない。 ただ、独善的ではあるが正義感は強い。 そんな登場人物たちが交錯しはじめて物語は転換点に至るのがセオリーだと思うが、この映画はそれほど劇的に展開しない。別々の物語が割と長く続くのだ。 自分が普通ではないと自覚していて、普通のフリをして生きている佳道、夏月、大也の卑屈さばかりが際立ってしまって、生き辛さがぼやけてしまってはいないか。 個々のエピソードに拘りすぎて迷走した感が強い。監督の岸善幸は、前作『前科者』でもテーマを見失っていた。 佳道と夏月は世間をはばかる究極の決断をするのだから、彼らの関係を丁寧に描くことは必要だ。 寺井の家庭の事情を描くことも、彼の状況を示すために必要だったかもしれないが、冗長な気がする。 最も割愛すべきは、大也と八重子のエピソードではないか。大也に八重子との関係から変化が訪れるワケではないし、八重子は佳道とも夏月とも寺井とも接触がないのだ。 これらを整理することで佳道と夏月に物語を絞り、核心を示唆するエピソードを織り込んだ方が良かったのではないかと、残念だ。 だが、全編を通して削ってよさそうな上記の箇所に、印象深いシーンがあるのだから、困った。 寺井の妻を演じた山田真歩と、八重子を演じた東野絢香の迫真の演技が、心に残って離れない。 映画やTVドラマで脇のキーポジションを数しれず担ってきた山田真歩が、息子の望みを叶えてやりたくて夫と息子に会話をさせようと努力する母親を演じて、さすがの技量を発揮している。 息子は父親の無理解のほどを知っていて期待をしておらず、父親は寄り添う気がない。父親=夫は家庭に興味がないくせに、妻と息子が他人に頼ることに怒りをあらわにする。 そんな夫に対して沸点に達した山田真歩の叫びは、稲垣吾郎の横暴男ぶりが腹立たしいほどハマっていることもあって、耐え続けた者の渾身の反撃を迫力満点に表している。 映画初出演という東野絢香は、オドオドした内向的な女の子を実にリアルに演じ、本作で最も強い印象を残す。 大也がアルバイトをしているホットドッグのキッチンカーを訪れた八重子に、大也が辛辣な言葉を投げる場面での八重子の狼狽。 意を決した八重子が大也に告白しようとする二人きりの講義室の場面では、大也が八重子に嫌悪感を示していると分かっても必死に心からの言葉を発し、大也の心が氷解すると同時に、彼が求める相手は自分ではないと悟る。そして「よかった…」と言う切なさ。 東野絢香の抑制した演技が素晴らしい。 と、これらを削るのは忍びない…。 クライマックスは、寺井検事と被疑者の家族である夏月の対峙だ。 ただ、このクライマックスで夏月が寺井に突きつける“否定される者からの問い”は予告編に織り込まれていて、その先があるのだろうと思っていると肩透かしをくう。 そもそも寺井の言動に共感できないから、夏月の訴えは単に頭が悪く妻に愛想を尽かされた検事個人に向けたものだと感じる。さらに、前述のように夏月たちの生き辛さは彼等の卑屈さで相殺されてしまっているから、同情心を抱かないわけではないが、私の胸には迫ってこない。 この映画は、性的嗜好も多様性だと言いたいのか、逆に多様性尊重主義に疑問符を打ちたいのか、あるいはその両方を観客に問題提起として示したいのか、いずれも寸足らずだ。 重要なのは、夏月が参考までにと寺井から訊かれたことに応えた最後の台詞だった。 夫が我が子を虐待するのを見て見ぬふりをした過去を持つシングルマザーの新人刑事。 自暴自棄になる少年少女に電話でカウンセリングを行いながら、無力感に心を痛める沖縄の女医。 明るくカワイイ女性像からの脱却を図るかのような最近の新垣結衣は、本作でもその美貌のオーラを殺して演技者のスキルを示している。 磯村勇斗の昨今の活躍ぶりは、語るに及ばずだ。 この二人が演じた夏月と佳道の秘密の関係は、人と人との繋がりの捉え方に一石を投じている。 男女間の友情とか、恋愛のない夫婦とか、古今東西で検証が重ねられた男女の関係に、想像もしなかった新たな、異質なものを持ち込んでみせている。 お互いが異性への性欲を持たないからこそ成立する、肉体関係がなく、お互いを尊重する男女愛。 「いなくならないで」と佳道に懇願した夏月が、会えなくなった佳道に伝えようとした言葉…。 生来孤独感の中で生きてきて、ようやく結びついた二人。支え合う相手を得ることは、生きていくエネルギーとなるのだろう。 この二人にハッピーエンドが訪れることを願わずにはいられない。
スッキリしない
役者たちと語り口は興味をひくが、どのキャラも好きになれない。せめてガッキー位は好きにならせてくれ〜!
水フェチは居場所がなくて死にたくなるほどのことなのか。アセクシャルと水フェチを両方もつ美男美女が同じクラスにいた、ガッキーはとはいえ佐々木くんにストーカー的に執着。むむむ。
あとたとえカムフラージュだとしても互いを確信的に受け入れられる二人が同居していたら自然に愛情が芽生えるんじゃないかな。あの辺はホンワカして、この線で終わればと思ったのだが。
やめジャニのCULENが製作に名を連ね一時は筆頭グループに属していた稲恒メンバーが小児性愛を口汚く罵るという構図、面白いというかあなたたちも知ってたでしょう!などと脳の一部が要らぬ反射。念の為、稲垣吾郎のことは好きである。
多様性と言われる時代でも生きづらいと感じる人はいる
気になっていた映画でやっと観に行けました!
主な登場人物は5人です。
それぞれが生きる上で問題を抱えています。
検事である寺井啓喜は不登校の息子が原因で妻とは喧嘩ばかり。
桐生夏月と佐々木佳道、大学生の諸橋大也は水フェチ。
神戸八重子は男性恐怖症を患っています。
夏月と佳道は生きづらい世界で生きていくために手を組み結婚することに。
ありのままを理解してくれる人がそばにいることでやっと安息の地を得ることができました。
啓喜は息子が配信する動画サイトが停止されそのことで喧嘩になり別居状態になります。
フジワラサトルの名のアカウントを使用していたのは諸橋大也でした。
八重子から男性恐怖症の苦しみを告白されるも不快な表情をします。
八重子は大事だからこそ理解したいという切実な気持ちを必死に訴えます。
自分も今、繋がれそうな人がいるという大也の言葉に
よかった、1人じゃなくてと安堵をみせる八重子でした。
佳道と大也は連絡取り合い同じ動画サイトで知り合ったコバセという人物とともに水の動画を撮ることに。
公園に集まった3人は、居合わせた子供たちと一緒に水遊びの動画を撮ります。
コバセは水フェチの他に小児愛者でもありました。
ある日、夏月が帰ってくると家の前にパトカーが止まっており、家から警察官と一緒に佳道が連行されていきます。
コバセこと矢田部の家から証拠となる映像が押収されており犯罪は間違いないものの、佳道と大也はただ水が好きなだけだと言っています。
啓喜は佳道の妻である夏月と面会することに。
最後に伝言を頼むも調停中なのでできないと夏月に言います。
ですが何を言おうとしているのか聞くと
私はいなくならないからと伝えてくださいと。
夏月は部屋を出て終了。
いろいろ考えさせられる映画でしたね…
多様性と言われる時代でも理解されない苦しみに生きづらさを感じてる人もいるし水フェチなるものもあるんですね🤔
勉強になります!
いい映画をありがとうございました😊
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