福田村事件のレビュー・感想・評価
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戦前の日本社会が抱えていた闇
ようやく観ることができました。公開当初から多くの人に勧められていました。ドキュメンタリーであればすぐにも観に行ったのですが、劇映画となるとつい足が重くなります。あまりに目を背けたくなる歴史的な事実なので、エキセントリックな表現になると、原作者や監督の意図しない方向に行きがちです。どのような形であの事件を描くのか、冷静に観ようと思い、鑑賞しました。
なかなか一言では表現できませんが、戦前の日本社会が抱えていた闇(朝鮮人差別はいうまでもなく、被差別部落の問題、経済的な格差、農村社会の封建的体質、日本のデモクラシーの脆弱性、出征兵士やその遺族に与えるダメージ、権利に忖度するマスコミなど)を、見事に描いていました。冷静に、今日本はどうなのか、同じような過ちを起こさないと言えるのかというと、必ずしも否定できない自分がここにいます。
残虐なシーンもありますが、そこは抑制的に描き、一人ひとりに感情移入しすぎないように演出されています。私と同様な気持ちで躊躇している方も、安心して是非ご高覧あれ。
昔の話だと断ずる事のできない、おぞましい史実
レッテル。
関東大震災直後に起こった福田村事件の話。
香川から千葉県東葛飾郡福田村に薬を売りに来た15人の行商人(大人の男女から幼い子供、妊婦)、薬売りの途中、飴を売る朝鮮人の元で足を止め飴を購入…その購入のお礼にと朝鮮人から扇子を貰った行商人の新助(永山瑛太)、その扇子を貰ってしまった事で起こるストーリー。
悲しい事件ですね~この時代ならではの事件って感じですよね。
スマホや何かしらの素早くとれる連絡手段があれば起こらなかった事件なのかな?あと薬売りの行商人が怪しいと疑われて、行商人は日本人と確認とれるまではどの位の時間が掛かったのだろう…作品上は数分だったけど。
それともリアルでは怪しいだけで何の確認もなく殺されてしまったの?あの扇子にまつわる話はフィクション?どこからどこまでが本当か嘘かは分からないけど、貰った扇子を使用して、「この扇子は朝鮮の物だ」で殺されてしまった方達はホント可哀想だし観てて悲しかったです。
上手い脚本と演出による貴重な作品
映画の前半に描かれる、村人たちの関係性。それが、狂気へと繋がる伏線だと最後に分かる構成。
更に、出征中の夫の留守に他者と関係を持ったとされる、コムアイ演じる未亡人と、事実を明らかにしようとする木竜麻生演じる新聞記者への周囲の反応を通して、作中の人種、部落差別と並び、当時の女性差別まで描いた脚本は本当に上手いと思った。
惨劇を眼の前にして、人は立ち竦むだけになるという演出も、ドキュメント出身の森達也だけあって、リアリティを感じさせる。
ただ、外から来て事件を客観的に目撃する役だったと思われる、主演の井浦新、田中麗奈の印象が少し弱かった。
逆に前出のコムアイ、木竜麻生に加え、船頭役の東出昌大、行商団の頭役の永山瑛太らが強烈な印象を残すのは、正直に、必死に生きようとする役柄の為かもしれない。
最後に、惨劇の後、水道橋博士演じる事件の象徴の様な人物が吐露する台詞は、今もネットに蔓延っている、偏った思考の人間たちの愚かさ、卑劣さ、弱さを痛烈に感じさせられた。
日本人なら、一度は鑑賞すべき貴重な作品なのは、間違いない。
タイトルなし(ネタバレ)
大正12(1923年)年の初夏の頃、智一(井浦新)と静子(田中麗奈)の澤田夫妻は智一の生まれ故郷である千葉県福田村に戻って来る。
ふたりは日本統治下の京城で知り合い、結婚したのだった。
村長の田向龍一(豊原功補)は、智一とは師範学校時代の同窓で、龍一は親の跡を継いでの新米村長だった。
一方、沼部新助(永山瑛太)を親方とする売薬行商の一行は、故郷の讃岐を出発し、利根川の先を目指していた。
彼らは、被差別部落の出身で、その素性は固く隠していた。
そんな中、9月1日、関東大地震が発生し、世情が混乱する中、彼らの人生が交差する・・・
という話で、大正デモクラシーの民主主義と明治維新からはじまる帝国主義、さらにはそれ以前から続くムラ社会の因習、民衆の鬱屈不満などが綯交ぜになった力作。
関東大震災の5日後に発生した村民たちによる行商人一行の虐殺事件をタイトルにしているが、事件が起きるのは終盤。
映画は、それまでの過程(というか社会状況)を平時も含めて丹念に描いていきます。
巻頭から、震災→事件の展開を期待している向きもあろうかと思いますが、背景を描かないと、単なるキワモノ映画になってしまいます。
この前半で興味深いのは、殺害される行商の一行を被差別部落の出身としたことで、震災のデマに乗じて殺害された朝鮮人たちとおなじく、同時代において卑賤視されていた立場(かれらからは、鮮人と同等もしくはそれ以上の蔑称も口にされる)。
この設定により、卑賤視され、殺害された側の心情がより深く描かれることになる。
(これは新助の最期の言葉「鮮人やったら殺してもええんか」に色濃く出てている。この言葉には「わしら〇〇も殺されて当然なのか」という意味が隠されている)。
さて、映画を深めているのは行商の一行だけでなく、映画の中心となる人物のほとんどが福田村のムラ社会からみれば部外者、アウトサイダーであること。
澤田智一・静子夫妻は京城からの帰国者、村長の田向龍一も一旦村を離れて大学へ進学している。
かれらは、またムラには存在しないインテリである(付け加えるなら、モダンでもある)。
さらに、東出昌大演じる倉蔵は、隣国とを結ぶ船頭。
彼らは外の世界を知っているゆえに、ムラの慣習や考え方を冷静に第三者的にみることが出来る立場であり、かれらは時代を隔てて事件(及び当時の状況)を目撃する観客と同じ(もしくは近しい)価値観を有している。
しかしながら、ムラ的な既存の価値観と対峙するものはムラ社会からは嫌悪される立場である。
穏当派のインテリふたりは、ムラ社会の理屈からはみ出し(一段上から見下しているように村民からはみえる)、かつ男性性的でないがゆえに、最終的には「軟弱」と罵倒され、静子は、モダンな装いな京城帰り、ということで、「採れないブドウは酸っぱいブドウ、もしくは腐ったブドウ」と評価される。
さらに、倉蔵に至っては出征兵士の妻・咲江(コムアイ)と情交をかわした掟破りでもある。
この第三者的視点は、関東大震災そのものにおいては女性新聞記者(木竜麻生)に引き継がれており、より俯瞰的に事件を目撃することになる。
ということで、ここまでは割とわかりやすい図式なのだが、企画・共同脚本の荒井晴彦らしい視点が含まれており、根っこの部分が事件以上の妙な生臭さを感じます。
(脚本ビリングは、佐伯俊道、井上淳一、荒井晴彦 の順)
福田村事件の直接の口火を切るのは、本所に亭主が出稼ぎに行って待っている、乳飲み子を背負った若い母親。
ムラ社会を震災前から不穏に陥れるのは、咲江と倉蔵の不貞。
さらに貞次(柄本明)を長とする馬喰の井草家でも、亭主(貞次の息子)出征中に不貞が行われ・・・といった具合。
荒井晴彦は、よっぽど女性が怖いのかしらん、などとへんに勘繰ってしまう。
ま、これは個人の勝手な想像。
映画は、傑作と呼ぶに相応しい出来。
本作を観ながら/観終わって思い出したのは、『菊とギロチン』とマイケル・チミノ監督『天国の門』。
前者は本作と同時代を描いたこととキャストが重なる部分があってのことだが、後者はある種の構図が酷似している。
封印された黒歴史を描くだけでなく、インテリは事件を止めることはできず、ただ傍観するだけというあたり(『天国の門』ではジョン・ハートの役どころ)。
どちらも大作だが、見比べると興味深いと思います。
フェイクニュース
自分の弱さは誰のせいでもない
もし記者が書かなかったら、もし身分確認がさらに遅れたら。もし関東大震災が起きなかったら。この事件は伝われないままに終わる。事件が怖いのではなく、また同じようなことが起きるほうが怖い。
生活の為に必死な行商団、権力がない村長、事件を防げたが記事を書かせてくれなかった記者、止めることができなかった村人、国を守る為、村を守る為に戦う軍人、警戒命令を出した国、その場で確認できなかった、周りに衝動を伝達した女性。この事件は誰の責任なのか。誰の責任でもなく、人の弱さによって起きた事件。冷静になろうともっと勇気なある人が増えればもしかしたら事件が起きていないかもしれない。
福田村については前半に書かれているが、このような集団心理になった理由がはっきり見えていない。行商団の描写は詳しく書かれたと思います。
クラウドファンディングによってたくさんの方の支援によってできた映画であり、一人でも多くの方に知ってもらえればと思います。エンドロールに一人一人の名前があったのは良かったです。みんな一人一人にしっかり名前があります。
衝撃!!
島国根性まっしぐら。
明治、大正、昭和の歴史を考えさせられる作品でした
福岡市で森達也監督と田中麗奈さんの舞台挨拶付きで観てきました。
私は東京都本所の生まれで、父が1歳の時に関東大震災があり鉄橋を渡って逃げたと聞きいています。3年前に父が亡くなり、父が生まれた大正時代を調べる機会が増えてきた中で映画「福田村事件」を知りました。
福田村事件の10日後に大杉栄、伊藤野枝の虐殺があり、伊藤野枝の出身地、福岡市西区での100年プロジェクトに9月15日参加してきました。また、部落解放運動の水平社が設立100周年として2022年に制作した映画「破戒」を9月14日に観てきましたので、明治、大正、昭和の歴史を考える日々です。
1903〜1904年日露戦争、1910年韓国併合、1917年ロシア革命、1919年大韓民国三一独立運動、1923年関東大震災という歴史の流れを知っていなければ、この映画は理解出来ませんし、その後の昭和、平成、令和に続く歴史の理解と、私たちの将来の行動を考える時に必要な情報が福田村事件には含まれていると思います。
舞台挨拶の後で制作の裏話を聞き、映画の印象がだいぶ変わりました。役作りに長い時間をかけること、監督の演出を含むこだわり、企画を持ち込むが殆ど断られたこと等、色々聞くことが出来てとても楽しい時間でした。素晴らしい映画、本当にありがとうございました。
100年の時を超え人は変わったか
無力感の共有
井浦新氏演じる智一と田中麗奈氏演じる静子の夫婦が主役級なのに、観ている限りではなかなか行動のつながりの理解ができなかった。進行上、大きな役割を果たしているようにみえるのは、智一の友人である豊原功補氏演じる龍一と水道橋博士氏演じる秀吉と、永山瑛太氏演じる新助で、さらに東出昌人氏演じる倉蔵とコムアイ氏演じる咲江が、主役級の夫婦と対抗したカップルながら、それぞれ夫婦の生活に関わりができたり、虐殺事件への対応で静子と同様、止め役を果たそうとするところが鍵処だと感じた。集落において茶色の軍服を着ているのは憲兵かと思っていたが、在郷軍人会の制服だということがわかった。映画『キャタピラー』でも、よくみられていた。村長が民主主義思想をもち、理性的に行動したとしても、暴走を止めることができない無力感が漂っていた。
上映後に田中麗奈氏と森達也氏による舞台挨拶があり、田中氏は、覚悟をもって引き受け、参考文献に挙げられているものをできるだけ入手しながら役づくりに励み、森氏が監督になったことで、同じ所属事務所の井浦氏とも、ドキュメンタリー作家だから、自然に撮り進めるのではないかとも話し合っていたけれども、画をきっちり決めて撮影を進め、演出の意見もよく出されたという。森氏は、この作品はあまりヒットしないのではないかと心配していたけれども、NHK『クローズアップ現代』で取り上げられ、これだけ多くの観客が来ているということは、現代の時代の動きに危機感をもってこの作品に重ね合わせて注目している人がそれだけいるのだろう、初めての劇映画だけれど、プロデューサーの荒井晴彦氏等の企画も進んでいて、故若松孝二氏の関係者が集まって、主演に井浦氏がすでに決まっていて、そこに転校生のように自分がはいっていって、大集団スタッフのなかで初めて仕事をすることになった、脚本の歴史考証は、佐伯俊道氏がかなりやっていた、群像劇なので、観客がそれぞれ自分に重ね合わせて観ることができ、何度でも観返してほしい、田中氏からの配役の質問には、恋愛のような直感だと答えていた。
これまでの自分自身が直面してきた様々な理不尽においても、結局力及ばず無力感に苛まれることはよくあったし、ましてや異性から愛想を尽かされることもありがちだったので、智一の立ち位置が自分には相応しいのであろうし、研究者としても、様々な壁に阻まれて断念してきたことがたくさんあるので、これだけのエネルギーをかけて実相に迫ろうとした努力には敬意を表すべきであろう。
突発的に広がる狂気と悲劇
事件が起こる物語の後半までは、本当に何の変哲もない、ただ、どことなく危うい人間関係や、差別される生まれの上に生活している人々の日常が描かれる。
四国の行商が震災後の緊張状態になっている福田村を訪れ、訛りや態度が反抗的なことから村人に朝鮮人ではないかと詰め寄られるが、行商のリーダーの対応がケンカ腰で、見ているこっちとしては、そんなに煽ったら余計揉めるのにな~朝鮮人ではないことをちゃんと言って、大人しくしておけばいいのにな~という心理になる。しかしそれこそが、無関係を装い良くないことを放置してしまう心理ではないかとハッとさせられた。
部落出身者である行商の人々が村人に縛り上げられ、逃げ出した仲間の死を見ながら殺されようとしているとき、念仏の横で水平社宣言を唱えるシーンに心を揺さぶられた。
水道橋博士の、おどおどした自信なさそうな、「こうであるべき」と思い込んでる感じの軍人キャラがすごくはまっていた。
今の時代がどこへ向かうのか考える契機とすべき作品
高い期待を持って鑑賞いたしましたがその期待を十分クリアーする作品でした。正直見ていて涙が出ました。
映画レビュー初めてですのでネタバレになったらすみません。
「鮮人」と間違われて虐殺された事件ですが、「朝鮮人なら殺していいのか」という発言が虐殺実行のきっかけとなるところ、幼い子供が初動に及ぶところなどメッセージが込められていると感じます。
ラストシーンの船上からの問いかけも、簡単に解釈するのではなく、その深い意味をじっくり受け止めたいと思います。
久留米在住です。田中麗奈さんを今まで地元出身のかわいい女優さんと認識するだけでしたが、今回舞台挨拶もお聞きして、役作りに対する真摯な取り組みとそれが確かに作品に活かされていたことを感じ、今後の作品にも継続して注目していきたいと思いました。
森監督の今後のご活躍も期待いたします。
人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ
福田村事件と同じ事が、明日、日本のどこかで起こったとしても少しも不思議はない!と思った。
今、皆様のレビューをざっと流し見て、同じように考えた方が思いのほか沢山おられて、なんというか安堵した気持ちになった。日本もまだまだ大丈夫かもしれないな、と。
人は100年経っても大して成長していないらしい事は非常に残念だ。
コロナワクチン、イベルメクチン、超過死亡数、マウス治験のみで接種される新薬、マスク警察、有機型・無機型の内部被曝差を無視して含有量のみで語られる安全、トイレを用意出来なきゃ飲食店営業は保健所の許可が降りないが、地球上のどこにも安全なトイレ(放射性廃棄物最終処理場)が見つけられない原発を何故作るのか、ゲノム編集にコオロギ食、種子法は何故廃止された?
中世の魔女狩りだって、福田村事件だって、いつだって歯止めの効かない集団加害は「自分が正義の側にある」と盲信する方から起こる。
大義名分があるから周囲も止められない。自分が被害者にならない為に同調する。
「権威」が、「国家」が、真実の情報を流している確証はあるか?
山田昭次「関東大震災と自警団」によれば関東大震災当日・翌日に「朝鮮人が〜」と流言蜚語を撒き散らしたのは警察だと言う。
自分の目で見たもの、自分の耳で聞いたことでなければ鵜呑みにするな!
安易に他者を断罪してはならない・・・。
相手の言葉を理解出来るだけの多様な知識を深めよう。
自分自身の目でものを見よう。
目に映るものだけでなく、背景や経緯、状況や情動にも心を傾けよう。
映画(群像劇)としての出来はなかなか良かったと思う。
ドキュメンタリーではないのだから、「これを描いて欲しかった」「これを掘り下げて欲しかった」という思いは本作に求めず、自分でとことん調べようではないか。
観客の知識・経験によって本作から受け取る情報量はまったく違う。
隣の席の観客の情報量は自分とは違う。おのおの、それぞれが「何か」を受け取ればそれでいい。
水平社宣言、本作では「にんげん」で読んでいたが、永六輔先生の話を聴きに行った時「じんかん」だと永先生から教わった。人間個別に光が当たる事ではなく「人と人の間に(ある万物に)」光が当たる事を願っているのだ。
コミュニケーション、繋がり、交流、心通わせること・・・。
優しく温かい光と熱は人と人との間から生み出されるではないか。
小舟に揺られるにも等しい不安定な危険の中にいる私たち人類。
ラストシーン、澤田夫妻が呟く「どこにいこう?」は、クォ・ヴァディス?(quo vadis?)と聞こえた。
行き先は「万物に光が当たる世界」だと強く信じたい・・・
※同じ制作スタッフで「三里塚に何が起こったのか」についても真実を描いて欲しいと思った。
エンタメに振られたとはいえ骨は十分にある
1910年に併合し、太平洋戦争の敗戦までの36年間、朝鮮/韓国を植民地とした日本。「我々日本」が当時行った蛮行は長い間封印されることとなった。歴史の授業で習うことはなかった。
思えばそれらを映像化して提示したのが映画だった。但しミニシアターでの上映がほとんどで、観る人は限られたのだが。
今作は日本を舞台に関東大震災(1923年9月1日)前後の狂乱を切り取った。
朝鮮人の反日感情が高まる中、反鮮人感情を高めんと偽りの情報で日本国民を操作する国家。震災を機に戒厳令を敷き多くの朝鮮人、そしてどさくさに紛れて社会主義者たちを排斥した。
そう、日本国家は朝鮮人を殺すことを正義とした。
千葉県の福田村では朝鮮人と疑われた日本人が確証もないまま虐殺された。
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豪華キャストで思いのほかエンターテイメントに振られていたのに驚いたけど、国家の犯した罪をしっかりコミットし、さらにSNSの情報に踊る100年後の我々へ辛辣なメッセージを送る骨のある作品だった。
馴染みやすいので多くの人に届くことを祈る🙏
てか、名古屋でも上映館が増えてる😱🙌
キツイ
こう言う映画だって事は覚悟決めて見に行ったつもりだった。
キツイ・・劇場出て直ぐ喫煙所で心落ち着かせたけどキツイ。
なんだコレは?人はあんなにも愚かであんなにも悲しいのか、コレが本当に有った事なのか。
実際に逮捕者も出て法的には裁きが下ったらしい、でも刃を振るった者だけが悪いのだろうか、本作でも描かれてたけど差別や偏見の目を持っていた者もそこに大きく加担してたんじゃないだろうか。
そして主犯格に当たるだろう水道橋博士も法的には殺人犯なんだろうけど、あの時代のあの立場ならそう判断しちゃうんだろうな、軍服に着られてしまった彼の姿には哀れみすら感じてしまった。
あの時代あそこに居たら僕もそこに加担していたかも知れない、いや、あの時代じゃ無くても学校や職場、SNS上でこんなの聞いたり見たりするんじゃ無いか?
知らない、考えない、正しさを見ない は愚かで悲しいんだと思う。
僕は昔TVで見たザンボット3に不条理な差別意識は持っちゃいけないと学びました、今もそれは正しい事と信じて疑って無いですよ。
この福田村事件を見た事も人生に必要で、正しい事だと信じてますよ。
善悪含めて人間は人間でしかない
少し前にNHKで関東大震災100年目の特番で、当時の記録映像を鮮明に処理しカラー化したものを見ていたのですが、その中で流言飛語による朝鮮人虐殺事件の話題もあり、本作がそれを基にした作品だという事で評判も良かったので気になり見に行ってきました。
鑑賞後思ったのは事件そのものにスポットを当てるというより、当時の人達の気質であったり当時の社会の空気感をより強調して描いた作品であって、個人的にはこちらの方が好みなので良かったです。
しかし、作品タイトルから事件そのものを丹念に描いた作品を予想した(期待した)人は、毎回ですが作品の質とは関係なく期待したものと違うというだけで文句が出ているようですね。
私自身勉強不足で、朝鮮人虐殺事件を描いた作品だと思っていましたが、作中に出てくる朝鮮人は朝鮮飴を売る女性(少女?)一人だけでしたし、本作の核にあるテーマは流言飛語による集団心理の怖さであり、人間の根本にある差別意識の複雑さを描いた作品だったように思えました。
本作の事件は後半の見せ場ではありましたが、前半から中盤まで複数の登場人物のオムニバス的な人間ドラマが並行して描かれていて、上記した様にどちらかと言うと当時の日本の“時代の空気観”を描くことを主体にした作品だった様に思います。なので、(一つ前に書いたレビューで)私が昔見た『ソルジャー・ブルー』という作品とジャンルも国も全く違うのに構造的にはそっくりの作品でした。
で、ここからは少し作品の話から脱線しますが、私は戦後生まれの戦後教育を受けて育った人間なので、一応建前的には「差別は悪い事」として教えられてきた世代でありますが、それから私が高齢者になった今も差別が無くならない現実も見てきたし、本作でも“差別”という根幹の部分はありますが、流言飛語・集団心理・パニック・ヒステリー・正義悪・(若しくは)偽正義、といった様々な今の社会問題とリンクする要素の詰まった作品の様に思えました。
上で『ソルジャー・ブルー』と似ていると書きましたが、アメリカの映画産業というか、アメリカ映画はずっとこれらの問題を手を変え品を変え、娯楽作品の中でもこれらをメッセージとして作ってきたように思え、だからこそ私たちが子供の頃に憧れたのは、上記した流言飛語・集団心理・パニック・ヒステリー・正義悪・(若しくは)偽正義に惑わされず(陥らぬ)自分自身を失わない人間をヒーロー像として描き続けてきた様に思うのです。だから、その逆の性質を悪として人々は考えられるようになった気がします。
しかし統計的にどうなのかは分かりませんが、現実は映画のメッセージは届かず、むしろ今の世界のネット社会を見る限りその思いは逆行して悪い方向に向かっている様な気もするし、今も昔も人間の本質は何も変わっていない様な気もするし、いやいや亀の歩みの様に物凄くゆっくりではあるが少しずつは良くなっているという見方も出来ます。
私たちの様に戦後教育を受けた人間でもそうなのですが、私たちの親世代の明治後期・大正・昭和初期生まれの戦前の教育を受けていた人達はどうだったのか?日本映画ではあまり描かれてこなかった部分を本作では描かれていて結構考えさせてくれることが多く勉強になった作品でした。
残念ながら失敗作
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