福田村事件のレビュー・感想・評価
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近年で最高の秀作です!
映画「福田村事件」、とても秀逸な映画でした。
関東大震災云々をテーマにした方が一般的には発信しやすいし、記事としても取り上げやすかったんでしょうが、いやいや、それどころではない内容の深さに驚きました。
100年前の未成熟な民主主義での大災害時という状況だからでなく、日々の生活での悩み・辛さがおかしな形で吹き出すことがある怖さや、群集心理、異質なものの排除意識、朝鮮人・部落差別と、日本人の誰もが今でも充分に起こす可能性のあることをわかりやすく表現した映画だと感じました。
加えて、一流の俳優陣による素晴らしい演技や、男女の駆け引きといった人間模様もあり、映画としての面白さもふんだんにあることも特筆すべきと思います。個人的には博士のハマり役には驚きました!
1人でも多くの日本人、特に、「にっぽん大好き❤日本人」にはぜひ見て欲しいですね。
単に「見るべし」ではなかなか見てくれないだろうから、文部省推薦とか、なんとか賞とかがあればそういう人に見てもらえそうな気がします。
ぜひ多くの賞🏆をとることを期待します。
日本の縮図のような村。
千葉県福田村。武器を握りしめた村人達に取り囲まれる香川から来た15人の行商人。ちょうど100年前の日本で実際に起きた悲惨な事件を描く重厚な1本。
集団心理による狂気。その果ての蛮行。抗えない異様な空気感。「朝鮮人ならええんか」なんて重い一言だろう。愛国心、そして戦争。不安定な世の中に追い打ちをかける関東大震災。
そんな中、短時間だけど民主化を望む思想家の姿が描かれていて、当時の価値観を象徴する重要なシーンとなっている。
混乱に乗じて大日本帝国の障害になり得る危険因子は根こそぎ排除する。これが日本という国の本質なのだろうか。そんなはずはないと思いながらも、もし自分があの村の一員だったらと想像すると途端に気が滅入る。
実に見事な配役で、特に水道橋博士が不思議な説得力があって良かった。残酷な映画だけど日本人として観て感じることは多いと思う。
今に警鐘を鳴らす怪作
人は正義にも悪にもなりえるし更にいえば正義という甘美な言葉のもとなら人をも殺してしまう。
それは100年前であれ現在であれ人間の本質は変わらない。
在郷軍人の水道橋博士は悪役を演じていましたが、事件後の慟哭のシーンで自分はも泣いてしまった。「村を守る為だったんだ」と。
この映画には多くの登場人物が居るけど、例えば行商団には朝鮮人差別意識を持ってるいる者もいます。
行商団の親方(永山瑛太)は自分達が部落出身で差別されていることと照らして朝鮮人に対して寛容な意識を持っている。ただそのことが悲劇の引き金を引いてしまうなど、人物ごとに細かな描写があり見事な群像劇に仕上がってると思う。
今の日本人が見るべき必見の映画かと。
空気感と同調圧力に弱い日本人を象徴するような事件
実際に起きた事件をもとに作られたとのことから若干の内容を調べてから観に行きました。※ポスターから何故か八つ墓村のような内容を想像してしまったが、勿論ホラーではない。
事件が起こるまで、長い時間をかけて登場人物を丁寧に描けているので、それぞれのキャラクターに感情移入できました。事件は突然起きるわけではないが緊張感がどんどん加速していきました。
こんな酷い事件が実際にあったのか、という感情と、空気感と同調圧力に弱い日本人を象徴するような事件であると感じました。今日の日常でさえも大なり小なりこのような「日本人の怖さ」を感じた事は誰にでもあると思う。
加害者側、被害者側、双方の立場に立って、もし自分がその場にいたらどのような行動をとればよいか、凄く考えさせられました。
え?!演じてるの?
突き付けられる事実が心を抉る
世の中で一番恐ろしいのは
今まで4000本近く観てきたと思うが記憶にある限りこんな恐ろしい映画は初めて観た。
「シャイニング」も「ポゼッション」も「女優霊」も確かに怖い。しかし「福田村事件」は、何と言うかその刺さる深度が全く違う。
「黒い雨」がまあ近いのかもしれないが、しかし原爆は我々がほぼお目にかかる事がないのに対して、「人間」は周りにいくらでもいる。なんなら我々は彼らの中に身を投じることでしか生きられない。
そこに「福田村事件」の怖さの逃れられない切迫感がある。
詳しくは言わないが後半30分観たあとは放心状態になった。30分経っだが今も携帯が上手く叩けない。
今年のベストテン、というか映画史上に残る衝撃作だと思う。
しかしこの映画をいわゆる日本の映画界はスルーするだろう。日本アカデミー賞でも単なるキワモノ扱いされて終わると思われる。悲しいかなそれが今の日本の正義感や矜持を象徴している。
戦前の日本社会が抱えていた闇
ようやく観ることができました。公開当初から多くの人に勧められていました。ドキュメンタリーであればすぐにも観に行ったのですが、劇映画となるとつい足が重くなります。あまりに目を背けたくなる歴史的な事実なので、エキセントリックな表現になると、原作者や監督の意図しない方向に行きがちです。どのような形であの事件を描くのか、冷静に観ようと思い、鑑賞しました。
なかなか一言では表現できませんが、戦前の日本社会が抱えていた闇(朝鮮人差別はいうまでもなく、被差別部落の問題、経済的な格差、農村社会の封建的体質、日本のデモクラシーの脆弱性、出征兵士やその遺族に与えるダメージ、権利に忖度するマスコミなど)を、見事に描いていました。冷静に、今日本はどうなのか、同じような過ちを起こさないと言えるのかというと、必ずしも否定できない自分がここにいます。
残虐なシーンもありますが、そこは抑制的に描き、一人ひとりに感情移入しすぎないように演出されています。私と同様な気持ちで躊躇している方も、安心して是非ご高覧あれ。
昔の話だと断ずる事のできない、おぞましい史実
レッテル。
関東大震災直後に起こった福田村事件の話。
香川から千葉県東葛飾郡福田村に薬を売りに来た15人の行商人(大人の男女から幼い子供、妊婦)、薬売りの途中、飴を売る朝鮮人の元で足を止め飴を購入…その購入のお礼にと朝鮮人から扇子を貰った行商人の新助(永山瑛太)、その扇子を貰ってしまった事で起こるストーリー。
悲しい事件ですね~この時代ならではの事件って感じですよね。
スマホや何かしらの素早くとれる連絡手段があれば起こらなかった事件なのかな?あと薬売りの行商人が怪しいと疑われて、行商人は日本人と確認とれるまではどの位の時間が掛かったのだろう…作品上は数分だったけど。
それともリアルでは怪しいだけで何の確認もなく殺されてしまったの?あの扇子にまつわる話はフィクション?どこからどこまでが本当か嘘かは分からないけど、貰った扇子を使用して、「この扇子は朝鮮の物だ」で殺されてしまった方達はホント可哀想だし観てて悲しかったです。
上手い脚本と演出による貴重な作品
映画の前半に描かれる、村人たちの関係性。それが、狂気へと繋がる伏線だと最後に分かる構成。
更に、出征中の夫の留守に他者と関係を持ったとされる、コムアイ演じる未亡人と、事実を明らかにしようとする木竜麻生演じる新聞記者への周囲の反応を通して、作中の人種、部落差別と並び、当時の女性差別まで描いた脚本は本当に上手いと思った。
惨劇を眼の前にして、人は立ち竦むだけになるという演出も、ドキュメント出身の森達也だけあって、リアリティを感じさせる。
ただ、外から来て事件を客観的に目撃する役だったと思われる、主演の井浦新、田中麗奈の印象が少し弱かった。
逆に前出のコムアイ、木竜麻生に加え、船頭役の東出昌大、行商団の頭役の永山瑛太らが強烈な印象を残すのは、正直に、必死に生きようとする役柄の為かもしれない。
最後に、惨劇の後、水道橋博士演じる事件の象徴の様な人物が吐露する台詞は、今もネットに蔓延っている、偏った思考の人間たちの愚かさ、卑劣さ、弱さを痛烈に感じさせられた。
日本人なら、一度は鑑賞すべき貴重な作品なのは、間違いない。
タイトルなし(ネタバレ)
大正12(1923年)年の初夏の頃、智一(井浦新)と静子(田中麗奈)の澤田夫妻は智一の生まれ故郷である千葉県福田村に戻って来る。
ふたりは日本統治下の京城で知り合い、結婚したのだった。
村長の田向龍一(豊原功補)は、智一とは師範学校時代の同窓で、龍一は親の跡を継いでの新米村長だった。
一方、沼部新助(永山瑛太)を親方とする売薬行商の一行は、故郷の讃岐を出発し、利根川の先を目指していた。
彼らは、被差別部落の出身で、その素性は固く隠していた。
そんな中、9月1日、関東大地震が発生し、世情が混乱する中、彼らの人生が交差する・・・
という話で、大正デモクラシーの民主主義と明治維新からはじまる帝国主義、さらにはそれ以前から続くムラ社会の因習、民衆の鬱屈不満などが綯交ぜになった力作。
関東大震災の5日後に発生した村民たちによる行商人一行の虐殺事件をタイトルにしているが、事件が起きるのは終盤。
映画は、それまでの過程(というか社会状況)を平時も含めて丹念に描いていきます。
巻頭から、震災→事件の展開を期待している向きもあろうかと思いますが、背景を描かないと、単なるキワモノ映画になってしまいます。
この前半で興味深いのは、殺害される行商の一行を被差別部落の出身としたことで、震災のデマに乗じて殺害された朝鮮人たちとおなじく、同時代において卑賤視されていた立場(かれらからは、鮮人と同等もしくはそれ以上の蔑称も口にされる)。
この設定により、卑賤視され、殺害された側の心情がより深く描かれることになる。
(これは新助の最期の言葉「鮮人やったら殺してもええんか」に色濃く出てている。この言葉には「わしら〇〇も殺されて当然なのか」という意味が隠されている)。
さて、映画を深めているのは行商の一行だけでなく、映画の中心となる人物のほとんどが福田村のムラ社会からみれば部外者、アウトサイダーであること。
澤田智一・静子夫妻は京城からの帰国者、村長の田向龍一も一旦村を離れて大学へ進学している。
かれらは、またムラには存在しないインテリである(付け加えるなら、モダンでもある)。
さらに、東出昌大演じる倉蔵は、隣国とを結ぶ船頭。
彼らは外の世界を知っているゆえに、ムラの慣習や考え方を冷静に第三者的にみることが出来る立場であり、かれらは時代を隔てて事件(及び当時の状況)を目撃する観客と同じ(もしくは近しい)価値観を有している。
しかしながら、ムラ的な既存の価値観と対峙するものはムラ社会からは嫌悪される立場である。
穏当派のインテリふたりは、ムラ社会の理屈からはみ出し(一段上から見下しているように村民からはみえる)、かつ男性性的でないがゆえに、最終的には「軟弱」と罵倒され、静子は、モダンな装いな京城帰り、ということで、「採れないブドウは酸っぱいブドウ、もしくは腐ったブドウ」と評価される。
さらに、倉蔵に至っては出征兵士の妻・咲江(コムアイ)と情交をかわした掟破りでもある。
この第三者的視点は、関東大震災そのものにおいては女性新聞記者(木竜麻生)に引き継がれており、より俯瞰的に事件を目撃することになる。
ということで、ここまでは割とわかりやすい図式なのだが、企画・共同脚本の荒井晴彦らしい視点が含まれており、根っこの部分が事件以上の妙な生臭さを感じます。
(脚本ビリングは、佐伯俊道、井上淳一、荒井晴彦 の順)
福田村事件の直接の口火を切るのは、本所に亭主が出稼ぎに行って待っている、乳飲み子を背負った若い母親。
ムラ社会を震災前から不穏に陥れるのは、咲江と倉蔵の不貞。
さらに貞次(柄本明)を長とする馬喰の井草家でも、亭主(貞次の息子)出征中に不貞が行われ・・・といった具合。
荒井晴彦は、よっぽど女性が怖いのかしらん、などとへんに勘繰ってしまう。
ま、これは個人の勝手な想像。
映画は、傑作と呼ぶに相応しい出来。
本作を観ながら/観終わって思い出したのは、『菊とギロチン』とマイケル・チミノ監督『天国の門』。
前者は本作と同時代を描いたこととキャストが重なる部分があってのことだが、後者はある種の構図が酷似している。
封印された黒歴史を描くだけでなく、インテリは事件を止めることはできず、ただ傍観するだけというあたり(『天国の門』ではジョン・ハートの役どころ)。
どちらも大作だが、見比べると興味深いと思います。
フェイクニュース
自分の弱さは誰のせいでもない
もし記者が書かなかったら、もし身分確認がさらに遅れたら。もし関東大震災が起きなかったら。この事件は伝われないままに終わる。事件が怖いのではなく、また同じようなことが起きるほうが怖い。
生活の為に必死な行商団、権力がない村長、事件を防げたが記事を書かせてくれなかった記者、止めることができなかった村人、国を守る為、村を守る為に戦う軍人、警戒命令を出した国、その場で確認できなかった、周りに衝動を伝達した女性。この事件は誰の責任なのか。誰の責任でもなく、人の弱さによって起きた事件。冷静になろうともっと勇気なある人が増えればもしかしたら事件が起きていないかもしれない。
福田村については前半に書かれているが、このような集団心理になった理由がはっきり見えていない。行商団の描写は詳しく書かれたと思います。
クラウドファンディングによってたくさんの方の支援によってできた映画であり、一人でも多くの方に知ってもらえればと思います。エンドロールに一人一人の名前があったのは良かったです。みんな一人一人にしっかり名前があります。
衝撃!!
島国根性まっしぐら。
明治、大正、昭和の歴史を考えさせられる作品でした
福岡市で森達也監督と田中麗奈さんの舞台挨拶付きで観てきました。
私は東京都本所の生まれで、父が1歳の時に関東大震災があり鉄橋を渡って逃げたと聞きいています。3年前に父が亡くなり、父が生まれた大正時代を調べる機会が増えてきた中で映画「福田村事件」を知りました。
福田村事件の10日後に大杉栄、伊藤野枝の虐殺があり、伊藤野枝の出身地、福岡市西区での100年プロジェクトに9月15日参加してきました。また、部落解放運動の水平社が設立100周年として2022年に制作した映画「破戒」を9月14日に観てきましたので、明治、大正、昭和の歴史を考える日々です。
1903〜1904年日露戦争、1910年韓国併合、1917年ロシア革命、1919年大韓民国三一独立運動、1923年関東大震災という歴史の流れを知っていなければ、この映画は理解出来ませんし、その後の昭和、平成、令和に続く歴史の理解と、私たちの将来の行動を考える時に必要な情報が福田村事件には含まれていると思います。
舞台挨拶の後で制作の裏話を聞き、映画の印象がだいぶ変わりました。役作りに長い時間をかけること、監督の演出を含むこだわり、企画を持ち込むが殆ど断られたこと等、色々聞くことが出来てとても楽しい時間でした。素晴らしい映画、本当にありがとうございました。
100年の時を超え人は変わったか
無力感の共有
井浦新氏演じる智一と田中麗奈氏演じる静子の夫婦が主役級なのに、観ている限りではなかなか行動のつながりの理解ができなかった。進行上、大きな役割を果たしているようにみえるのは、智一の友人である豊原功補氏演じる龍一と水道橋博士氏演じる秀吉と、永山瑛太氏演じる新助で、さらに東出昌人氏演じる倉蔵とコムアイ氏演じる咲江が、主役級の夫婦と対抗したカップルながら、それぞれ夫婦の生活に関わりができたり、虐殺事件への対応で静子と同様、止め役を果たそうとするところが鍵処だと感じた。集落において茶色の軍服を着ているのは憲兵かと思っていたが、在郷軍人会の制服だということがわかった。映画『キャタピラー』でも、よくみられていた。村長が民主主義思想をもち、理性的に行動したとしても、暴走を止めることができない無力感が漂っていた。
上映後に田中麗奈氏と森達也氏による舞台挨拶があり、田中氏は、覚悟をもって引き受け、参考文献に挙げられているものをできるだけ入手しながら役づくりに励み、森氏が監督になったことで、同じ所属事務所の井浦氏とも、ドキュメンタリー作家だから、自然に撮り進めるのではないかとも話し合っていたけれども、画をきっちり決めて撮影を進め、演出の意見もよく出されたという。森氏は、この作品はあまりヒットしないのではないかと心配していたけれども、NHK『クローズアップ現代』で取り上げられ、これだけ多くの観客が来ているということは、現代の時代の動きに危機感をもってこの作品に重ね合わせて注目している人がそれだけいるのだろう、初めての劇映画だけれど、プロデューサーの荒井晴彦氏等の企画も進んでいて、故若松孝二氏の関係者が集まって、主演に井浦氏がすでに決まっていて、そこに転校生のように自分がはいっていって、大集団スタッフのなかで初めて仕事をすることになった、脚本の歴史考証は、佐伯俊道氏がかなりやっていた、群像劇なので、観客がそれぞれ自分に重ね合わせて観ることができ、何度でも観返してほしい、田中氏からの配役の質問には、恋愛のような直感だと答えていた。
これまでの自分自身が直面してきた様々な理不尽においても、結局力及ばず無力感に苛まれることはよくあったし、ましてや異性から愛想を尽かされることもありがちだったので、智一の立ち位置が自分には相応しいのであろうし、研究者としても、様々な壁に阻まれて断念してきたことがたくさんあるので、これだけのエネルギーをかけて実相に迫ろうとした努力には敬意を表すべきであろう。
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