「我々はこの罪を通して、何を望み、何を望むか」福田村事件 近大さんの映画レビュー(感想・評価)
我々はこの罪を通して、何を望み、何を望むか
ドキュメンタリー作家・森達也初の劇映画監督。
オウム事件、ゴーストライター、新聞記者…。常に社会に切り込む力作ドキュメンタリーを手掛けてきた鬼才が題材に選んだのは、これまた一筋縄ではいかない。
マーティン・スコセッシがアメリカ近代史の大罪を暴いたのなら、森達也は日本近代史の大罪を暴く。この監督だからこそ…いや、この監督でしか描けない。
福田村事件。
以前からこの事件については詳しくはないが、漠然と知っていた。
その映画化。また、森達也初の劇映画。非常に見たかった作品。
101年前。関東大震災が発生し、日本中が混乱する中、ある噂が飛び交う。
この機に乗じて、朝鮮人があちこちに火を放っている。井戸に毒を流している。日本人を強/姦し、なぶり殺している。…
朝鮮人へ憎悪感情が高まる中、それは起きた。
千葉県旧福田村で、朝鮮人の薬売りの一行が福田村の自警団に虐殺された。15人の内、9人が犠牲に。
が、15人は朝鮮人ではなく、香川県から来た一行。れっきとした日本人であった…。
何故、こんな事が起きたのか…?
流言蜚語、集団心理、差別偏見…。それらが絡みに絡み合って。
ドキュメンタリー作家だけあって、残された資料や証言を基に徹底取材。事件自体が描かれるのは終盤だが、かなり忠実に描かれているようだ。
事件の概要はこうだ。
船渡しの賃金を巡って、船頭と行商団団長が揉め事。そこに自警団が加わり、村人も押し寄せ、場は一触即発の雰囲気に。
村長は場を収めようとする。駐在が本署へ確認しに行く。それまでヘンな気を起こしてはならぬ。が…
讃岐の方言が村人には何を言っているか分からない。やはり日本人じゃないのか…? 朝鮮人じゃないのか…?
“じゅうごえんごじゅっせん”と言ってみろ。“天皇陛下万歳!”と言ってみろ。言えなければ朝鮮人だ。何と馬鹿げた事…。
一行が持っていた朝鮮の扇子。たまたま朝鮮人の物売りから貰ったもの。やはり朝鮮人だ!
一度そう思い込んでしまったら他の意見など耳に入らない。それが多くに浸透する。
村人の中には擁護派もいる。もし、日本人だったらどうする?
日本人のくせに朝鮮人を庇うのか? この売国奴!
行商団も噛み付く。朝鮮人なら殺してもいいのか!
殺気立った異常な興奮感情が頂点に達し…
血は流された。
9人の中には幼い子供もいた。
無慈悲にも子供を殺す描写もある。虫けらでも殺すような、鬼か悪魔の所業。
9人とされているが、厳密には10人。殺された妊婦のお腹の中には間もなく産まれる新しい生命が…。
創作と思ったが、これも史実らしい。
駐在が本署の者と戻るも、時すでに遅かった。
殺された彼らも日本人だと知らされた時、大罪犯した連中は何を思っただろう。
そんな筈はない。あって欲しくない。今更何言う! だって奴らは、朝鮮人だったんだ…。
許し難くもある。愚かでもある。哀れでもある。
辛うじて生き残った6人。余りのショックに地元に戻ってからも、この事件について話す事は無かったという…。
昔の人は馬鹿だなぁ。そんなデマに踊らされて。
そう思う人も少なからずいるだろう。
否! 昔に限った事じゃない。事実、東日本大震災時もデマが飛び交った。
動物園から肉食動物が逃げ出した。物質が無くなるから買い込め。
放射能で汚染されて福島には住めなくなる。
しかも今はSNS社会。瞬く間に広がる。
デマに踊らされる愚行は昔も今も変わらない。
そこに、集団心理だ。皆が一丸にそうと思い込む。決め付ける。
それが常軌を逸した行動へ駆り立てる。
10年ほど前、震撼の村八分事件もあったではないか…。
デマや集団心理の他にも要因はあった。
抑え込まれた感情。
国からのお達しで、朝鮮人を見つけたら各々で対処せよ。
拘束とかではなく、殺せ!殺せ!殺せ!
が、戒厳令が敷かれ、武力行使が解かれる。
この殺気立った感情を何処に向ければ…?
そんな時、村に“朝鮮人”が…。
事件後、自警団の一人が言う。
お国の命令でやった。お国の為に、村を守る為に、同胞を守る為に。
そう言うほとんどが、軍国主義の元軍人たち…。
デマや集団心理、突発的な感情で事件が起こったとは考え難い。
それに至るまでが、前半じっくり描かれる。
村は異様不穏な雰囲気に包まれていた。
創作もあるかもしれないが、
朝鮮に行っていた村出身者が村に帰って来る。朝鮮被れが!
ハイカラな装いのその妻にも批判や陰口が。
戦争へ行っている男の妻が若い船頭と関係を。アバズレ!間男!
デモクラシー? 軍国思想こそ絶対。
自由思想のプロレタリア作家。異端者は罪。罰せよ。
デマや朝鮮人虐殺について取材する女性記者。女の分際で!
余所者、異端者、反思想…。それらに対する差別偏見に火が付き、燃え広がって…。
差別偏見は見る目を曇らせる。
いつもなら監督の演出やキャストの演技について語る所だが、今回は敢えて書かない。
“作品”になってしまうからだ。これをありのままの“事実”として受け止めたい。
勿論、演出やアンサンブル熱演は非の打ち所が無い。
井浦新演じる朝鮮帰りの男。朝鮮で日本軍人による朝鮮人虐殺を目の当たり。ここでもそれに直面する。その時、何が出来るか…?
デマや虐殺の真実を書こうとする女性記者を、編集長は待ったを掛ける。権力に下る。記者が書かずしてどうするんですか…!?
事件後、村長が言う。書かないでくれ。俺たちはずっとこの村で生きていかなければならねぇんだ。
それでも記者は、書きます。
罪滅ぼしの為に。殺された朝鮮人、無念の犠牲者たちの為に。決して、忘れてはならない為に。
事件はその後、闇に葬られたという。
遺体は利根川に流され、加害者は逮捕されたものの、大正天皇崩御と昭和天皇即位の恩赦ですぐに釈放されたという。
この報われない気持ち…。不条理極まりない気持ち…。
半世紀経った1970年代~1980年代になって、やっと事件が認知され始めたという。
被害者を悼む会、慰霊碑なども2000年代になってから。
日本近代史上に残る凄惨な事件として今は記録が明かされ、こうして映画にもなったが、それでもまだまだ知らない人は多いだろう。
忘れてはならない。知らないままでは済まされない。いつ何処でもまた起こり得る。
我々はこの“罪”を通して、何を望み、何を望むか。
この事件、調査会が立ち上がり、野田市市長が個人的見解と前置きして真相究明すると述べたのが、なんと2000年ですからねぇ。
でも、この映画のせいで(多分、観ていない◯◯ウヨが)讃岐は穢多の町だと誹謗中傷を流したりして、愚かな人間は今も昔も生きていますね。