「高評価ばかりなのが怖い」福田村事件 mdさんの映画レビュー(感想・評価)
高評価ばかりなのが怖い
香川県在住。森達也の映画、本が結構好き。
制作を知った公開2年くらい前から気になっていた。
予告を観たとき「テレビの再現Vみたいなクオリティになっているのでは…」と大いに不安になった。
しかし、事前に武田砂鉄のラジオでの監督インタビュー、水道橋博士と町山智浩の監督インタビュー、好きな町山智浩さんの紹介情報などでテンションを上げ、鑑賞。
感想は、「テレビの再現Vなら良かった」である。
この歴史的事実、朝鮮人虐殺の事実にスポットが当たる事には大いに意義がある。
だが、映画の出来は最低。思想ではなくクオリティの話。日本映画の悪いところが詰め込まれている。
さらに、SNSでは絶賛の嵐、町山さんや宇多丸さんも絶賛。柳下毅一郎だけは映画の出来には直接触れずに、脚本家の色が強く出ていると言うに留めていた。(ドミューン出演時。この時その場に水道橋博士も居たので言いづらかったのかもしれない)
批判レビューにはイチャモンコメントまで付いている。まるで言論封殺。
この映画を一ミリでも批判してはいけない雰囲気が漂っている。
それはこの事件が内包する「集団心理」「言論封殺」と完全に印象が重なる。
(ただ、この事については、東京都の対応など朝鮮人虐殺がなかった事にされそうな風潮の中、この映画を批判する事でそれに加速がかかってしまうのではないか…という心配から、皆あえて言わないのでは…という事も考えられる)
繰り返すが、この歴史的事実をピックアップする事は意義があるし、私は森達也のドキュメンタリーや著作、考えにかなり共感している贔屓者だ。
しかし映画のクオリティは酷い。どう酷いかは他の低評価レビューを見ると概ね同じだ。
何故こんなに出来が悪くなってしまったのか。
柳下毅一郎さんのコメントからいろいろ考えてみた。
まず、脚本が最大の要因である事は間違いないだろう。(批判の多い説明的なセリフ…エロシーンなど)
そして、森達也監督は役者に自由にやらせて、演出をほとんどしていなかったのだと推察する。脚本を読み、役者が各々考えて作ってきたのだろうその演技は、全体の統一や自然さからはかけ離れていった。監督は役者に自由にやらせ、それをドキュメンタリー撮影時と同じように、「目の前で起こる事」を忠実に追いかけて拾っていったのだと思う。
結果、脚本に引っ張られて出てきた役者の自意識や過剰さ、クセ、統一性のなさなどがそのままカメラに納められてしまった。監督の目の前で起こっているのは役者の「演技」であり、それは舞台を撮影しているようなものになってしまったのだ。ドキュメンタリー監督としての性質が物語作品では裏目に出たのだと思う。
映画に映し出される演技は、役者への演技の付け方だけで決まるのではない。優れた監督は役者の自意識を編集でコントロールすることができる。ほんの一例だが、スコセッシの「沈黙」では、窪塚の癖のある演技や前のめりな自意識を、編集と演出でここまでコントロールできるのか…と感心した。
インタビューなどの発言から、森達也監督は、脚本も、役者の演技も、往々にして受け身だったのではないかと推察する。しかし監督とは全体をコントロールしするものではないのか。だから映画は「〇〇監督作品」と冠するのではないのか。
もう一度言うと、この事件にスポットを当てた事には大きな価値がある。
ならば、この事件を調査したドキュメンタリーを作るか、いっそテレビの再現ドラマのように、事件の概要を丁寧に説明するくらいが良かった。アンビリバボーなどの再現ドラマは面白い。そのように作れば良かったのだ。
コムアイなど役者は良かった。彼らの演技が不味く見えるのは、脚本家と監督の責任である。
舞台と映画は違う。映画は編集によってまずいセリフも、下手な演技もうまく処理できてしまうのだ。それが劇映画の醍醐味だ。そして、森達也はドキュメンタリーにおいて「映画は嘘をつく」という事にこれ以上ないくらい自覚的であったはずだ。しかし、大嘘をつかねばならない劇映画では上手く行っていないのだ。
今回の劇映画の下手さ=監督の「嘘のつけなさ」はやはり森達也はドキュメンタリー監督として優れているのでは…などと思った。