「気楽に観ればまぁ、面白い…か?」近江商人、走る! 福島健太さんの映画レビュー(感想・評価)
気楽に観ればまぁ、面白い…か?
農民の子の主人公が親切な商人に助けられたことがきっかけで米問屋で丁稚奉公をするという流れは、まぁ別にいいと思います。
機転と知恵で数々のトラブルに立ち向かうというのも、嫌いじゃありません。
何も考えずに気楽に観れば、それなりに面白いと思いました。
米相場で1000両稼いでいい感じになったところまでは。
殿様が出てきた最後の場面で「え?マジ?その終わり方にしちゃうの?」って思いました。
いえ、江戸時代なら御奉行様の上には藩を取りまとめる大名のお殿様がいるのはわかります。
わかりますが、それまで姿を見せないどころか、誰かのセリフにさえ語られることのなかった、映画の物語としては存在していなかったじゃありませんか。
一介の商人が権力を笠に着た御奉行様を倒すには、もっと大きな権力を持った殿様を出すしかないのはわかります。
例えば、『超高速!参勤交代』のように、悪い老中のせいで参勤交代をさせられることになったとして、「武士の務めである参勤交代をしました」の報告で将軍に会えるから、そこで意見を申し立てる、将軍の元へ行くことが勝利条件になっているのなら、最後に将軍が力技で丸め込んでハッピーエンドにしたっていいですよ?
でも、それまで無かった殿様が、その力技のハッピーエンドのためだけに、ポンッと湧いて出てくるのは、いくらなんでも乱暴です。
許せません。
だいいち、米相場で1000両稼いだのは大津奉行の悪いはかりごとにハメられてできた借金を返済するためであって、殿様の登場で借金の元になる奉行のはかりごとが裁かれるのなら、そもそも1000両稼ぐことに失敗したとしても、事件は解決したじゃありませんか。
殿様の登場が、この映画の見どころだった「1000両稼ぐ」という部分を全て無意味にしました。
更に、殿様は大善屋の主人に、1000両はお前に返すから世間のために使え、近江商人の三方良しだ、みたいなこと言ってひとりでご満悦だったけれど、その三方って、何を指しているのですか?
この映画の公式ウェブサイトでは、イントロダクションの一番上の、つまりは結構重要な位置に「三方よし。売り手よし、買い手よし、世間よし」って書いてあります。
でも、元の1000両は借金を押し付けられたもので、商取引が存在しないから売り手も買い手もいません。
米相場で稼いだ1000両は、押し付けられた借金を返済するために、「とにかく1ヶ月で1000両稼げ」という条件のもとに稼いだものです。
例えば工場に設備を売るとして、買い手には必要のない過剰な設備だったら、売り手の業績になるだけで買い手に得がない。
買い手がその設備によって業務効率が改善されるなどして、それまで抱えていた問題が解決するとか、買い手にとってもプラスになる、売り手も買い手も得をするのが、いわゆるwin×winの取引でしょう。
この「売り手も買い手も」に世間をくわえて、取引が広く社会の役に立つのが三方かと思いますが、米相場で儲けることに、三方があるのかっていうと、無さそうです。
この映画の最後の結末は、ポッと出の殿様がひとりで悦に入っているだけで、米相場で1000両稼いだことも、三方よしも全部無視していませんか?
それに、薬売りの喜平さん。
大善屋の主人が銀次君のことを、喜平さんからの手紙で話を聞いているといって、丁稚にしてくれました。
でも、幼少期の銀次君が丁稚になってから、「5年後」としてこの映画のお話があったはずなのに、なぜ銀次君は殿様と一緒に助けに現れた喜平さんに、「生きていたんですか?」なんて尋ねたのでしょう?
つまり5年間、手紙も無し、大善屋を訪ねてもこなかったということでしょう。
「子供ひとり押し付けておいて、5年間も音信不通だなんて失礼な話があるか!」と、もしも僕が大善屋の主人だったら、怒ります。
それも、銀次君のことを頼むのさえ手紙ではなおさらです。
たしかにこの映画はフィクションでしょう。
でも、フィクションでもありそうな話だから面白いのであって、誰も信じないような荒唐無稽なお話は人々から支持されないものではありませんか?
それなら、喜平さんは都合よくヒョッコリ出てくるべきではないと思います。
殿様でも喜平さんでも、映画の制作者が出したいから都合よく出す。
出すことについて映画の物語の中で納得のいく合理性なんか完全無視。
それはいくらなんでも、メチャクチャだと思います。
僕は江戸時代の文化なんかよく知らないので、素人が気軽に観ている分には、「ああ、わりと楽しめるなぁ」と思ったのです。
最後に全部をぶち壊してくれました。
とてもとても、残念です。