The Son 息子のレビュー・感想・評価
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愛ではどうにもならないというのに。
アメリカの精神領域の理解が、こんなに低い?
そのことが衝撃的。
自分の言葉で、自分が今、どんな状態なのか、こどもは説明できているのに、親は過去の楽しかった話ばかりに終始している。
今、ではなく「過去と未来」のみ。
行動に異変があることも、新しい傷を見つけても普通を求め続ける。
国が違っても、親が子に求めるものは同じなんだ。
こどもの声を聞こうとしない。
親の限界を認めない。
医師の言葉すら聞こうとしない。
本当の愛情って、なんだろう。
三世代にわたる確執も垣間見え。
愛だけじゃ人は救えない。
愛を受け取るキャパがないと。
言いなりになるのは愛じゃない。
自分の限界、知らないと。
悲劇で終わらせてほしくない
別れた元妻のもとにいた息子が思春期を迎え、精神的に不安定になったことから、父親として向き合う姿をヒュー・ジャックマンが熱演。
若い奥さん・可愛いベイビー・仕事もキャリアアップのチャンス到来と、絶好調の生活に突如訪れた息子という存在に、徐々にペースを乱され、なかなか上手くいかない苛立ちと葛藤が伝わり苦しかった。
「愛では治せない、これは病気であり治療は医者の仕事です」
そう精神科医が断言したシーンが印象的。親だからという愛情は勿論、責任感からも家族で解決しようとするケースも多いと思いますが、こういったお医者様と出会えたことは彼らにとって幸せだったはずなのに。
ラストは予想通りの展開になってしまったことが、物語としても作品としても残念。悲劇を回避できる道筋と希望をみせてほしかったなぁ…。
エンドロールまでがひとつの映画
「ファーザー」でとても感動したので期待が大きかったのですが、今回は当事者を疑似体験というものではありませんでした。ぐるぐるまわる洗濯機が暗喩的。
鬱がなんたるかではなく、それに寄り添うことの難しさや、(医師たちはnot enoughと言っていたものの)愛情深く支えようとしてくれる数々の手があること、彼らも同じように悩みながら生きていることを示しているのかな、と解釈しています。(それから、医療的措置の重要性も。でもこの脚本に関しては、医療従事者から当人へ同意を得る方法は、もっと別の持って行き方もあったのではと思ってしまう)
悲しい終わり方ではありますが、エンドロールの一番最後のメッセージを読むまで席を立ってはなりません!
あれも日本語訳して出すべきだと思いました(そして記憶しておくには長すぎて、共有できず残念です。。)
子育てって、ほんとうに難しい。
夫婦仲や家庭環境が子どもにあたえる影響って大きいですよね。そして子どもに期待をするあまりに子どもにプレッシャーをあたえてしまったり、親の価値観を押し付けるのも気をつけなければいけないですね。子育てってほんとうに難しい。
「ファーザー」に続き、フレリアン・ゼレール監督の作品はすごく説得力あるなぁ〜。自分ごとのように観いってしまう。
23-049
良き父親であろうとする。
良き男であろうとする。
自分の心に嘘は吐かず誠実であろうとする。
何も間違ってはいないが、
真っ直ぐであろうとすればするほど
歪みが生まれる。
自分の息子女たちはどうなのか、
家族にはどう映っているのか、
後半は我が事のように見入ってしまった😩
思春期+○○=地獄ですな
妻子を捨てて愛人に走り子供を儲けたヒュー・ジャックマン(役名忘れた)の元に思春期真っ盛りの息子が学校行ってないと捨てた前妻が訪ねてきーの、件の息子クンは苦しい苦しい言う割に具体的な原因を言い出せず自分を捨てた父と愛人+腹違い弟家庭に転がりこむも、、、。
急性虫垂炎じゃなくて、急性鬱ってあんのね?
ただでさえ不安定な思春期に加えて急性鬱ってそらーあーもなるわなーと。
最後、ハッピーエンドと思わせつつガッツリ強烈な心の傷を負わされてむせび泣くヒュー・ジャックマン(役名忘れた)に後妻のベス(役名覚えてたw)がそれでも人生はつづくんだからと(オメーも鬱息子キモイとか盗人呼ばわりしてたよな?たしか?)他人事みたく慰めてるシーンに女という生き物の罪深さを味わったw
愛は万能か?
私が常々思っていること
大切なひとが、怪しい宗教の信者になっても、陰謀論を盲信しても、精神的な病を患っても、愛では解決しない
愛情を注ぐ無知な素人ではなく、専門家に委ねるべき
エンドロール後に、あるメッセージが表示されるが、日本語訳は表示されなかったのが残念
監督が最も伝えたかったのはあのメッセージかもしれない
英文ではありますが、長く表示されますので、是非御覧ください
He is different from the others.
Love is not enough.
A.ホプキンスの存在感がヤバすぎる。
冒頭3分で複雑なシチュエーションを説明してしまう完璧な演出。そのまま2時間、ただならぬ緊張感を保ったまま、「!」なクライマックスに突入します。目の動き、ドアが閉まる音、車窓からの景色。その全てが効果的で、非常に密度の濃い作品だったと思います。特にダンスシーンで曲が切り替わるサウンドデザインは秀逸でした。ただ、経済的に恵まれすぎている登場人物たちに共感できなかったのが残念(私の問題です)。
それぞれの立場によって見方は変わるだろう。
何よりも悲しい結末に父親の無念さは残り続けるのだろう、と思うと切ない。あの時こうしておけば、何度も思い直しては違う結末を願ってしまう。これは観る方もそれぞれの立場によって意見が変わるだろうと思う。母親の立場、父親の立場、息子の立場、新しい妻の立場。わたしは父親の不倫が重きをおく問題のように見えたとしても、それは一つの素因でしかないように思う。
この時期の思春期の子が病に侵されれば、失恋、友人との相違、進路、親との価値観、性に関してなどなど…あらゆることが発端になって発症してしまう。親や環境のせいにすることは簡単だけど、避けられない事態が起こることも人生にはあるのだから。しいて言うならば、私は医療者として「あの対応」はないのではないか?と疑問をもってしまったな。
親に説明を促す時にも、本場の精神科医はあそこまで「感情的」にはならない。あんな風に答えを性急にすることも不自然。信頼関係ない状態で大切な決断をせまらなければならないのであれば、もっと姿勢を低く、穏やかに話し合いに臨むだろう。目の前であんな風に息子を連れ去られれば、どんな親だってああいう決断をするだろうと悔やまれてならない。
「大丈夫」は大丈夫じゃない
The Son 息子
① 「大丈夫」は大丈夫じゃない
② 「大丈夫」と言う理由 ...父の場合 → 自己中心的な親の姿、社会的成功
③ 「大丈夫」と言う息子 →観客を安心させるために、映画も嘘をつく
誰かがあなたのことを心配して「大丈夫?」と声をかけてくれた時、本当は大丈夫ではないのに、「大丈夫」と返答した経験はありませんか?
何か問題を抱えていても、私たちは「大丈夫」と返事をすることによって、他者と自己との間に一線を引きます。あるいは、「外」と「内」との間に線を引くこと。壁を作ること。
私たちが「大丈夫」と嘘をつくのは、問題を自分でコントロールしたいから。あるいは、問題をコントロールできていることを示すため、という意味合いがあるでしょう。
「大丈夫ですか?」と心配している側は、「何か問題があるのか?」「どんな問題が発生しているのか?」「自分にできることはないだろうか?」といった純粋な善意から尋ねています。
一方、「大丈夫」と答える側の心理としては、「あなたの手を借りる必要はない」「あなたの手を煩わせる必要はない」「あなたに問題の存在を知られたくない」といった意図が見え隠れします。
「大丈夫」と返答するのは、本当に「大丈夫だから」なのではありません。
自分で問題をコントロールしたいという意思や、あるいは問題を共有したり相談したりする意思の表れなのです。
(複数人である問題について話し合っている時、無関係な第三者が「大丈夫?」と話しかけてきた時、「大丈夫」と返答して、話し合いに戻る、という経験もきっとありますよね?)
・・・・
誰と問題を共有するのか。自分1人で問題をコントロールするのか。他者には頼らないのか。他者に頼れないほどに追い詰められているのか。
「大丈夫」という返答ひとつで、「その人は今誰に心を開いているのか」それとも「誰かに頼れないほど追い詰められているのか」という心理を察知することができます。
・・・・
ヒュー・ジャックマン演ずる父親が、家庭に問題を抱えているにもかかわらず「大丈夫」だと応えるのは、家庭の「外」の世界に浸っていたいからです。
彼は、大統領選に出馬する議員から、選対チームの参謀という仕事をオファーされています。
彼は弁護士として優秀さを示してきましたし、その姿を世間に示し続ける必要があります。そうすることが彼の生きていくすべだからです。
それは単に「生活のために必要な最低限の賃金を稼ぐ」という枠を超えて、彼の社会的成功という「+α」の領域にまで及んでいます。
彼は「自分の成功」という欲を生きがいとしており、弁護士として得られる利益を守り、さらなる仕事を獲得するために生きています。
(その結果、家庭を犠牲にしているのですが、その姿は、『ゴッドファーザー』を彷彿とさせます。主人公マイケルは、家族を守るためにマフィアのボスとなりますが、敵と戦い、自らの名誉や利益を守るうちに、いつの間にか家族を犠牲にし、孤独を深めていきました。最初は父を守り、汚職警官と戦っていたのですが、地位を手に入れた彼は"ファミリー"を守っていたはずなのに、いつの間にか本当の家族を傷つけていたのです)
弁護士としてやりがいのある仕事に、高額な報酬。社会的な成功。世間からの評判。安定した地位。「いい人だ」と思われたい。そういった「+α」を守るために、彼は、息子に問題があることを隠して、「大丈夫だ」と世間にアピールするのです。
家庭に問題を抱えていることがわかったら、「あの人、本当に大丈夫なの?」「家庭のことを無視して仕事をしているの?」「仕事をしている場合なの?」という指摘に耐えることができません。
彼の生きがいである仕事と報酬を守るために、彼は「問題がないフリ」をしなけれなならないのです。
しかし、「問題がないフリ」をして仕事を継続することは、本当に問題が存在していないかのように振る舞うことにつながり、彼は問題と向き合う機会を逸してしまうのです。
(出産・育児と仕事の両立の困難さとも共通点がありますね。性別役割分業が徹底された社会・共同体においては、子供の問題は女性に一任されますが、男性は仕事に集中できる反面、育児を放棄し、それが理由で家庭内における立場を失う、という姿がよく見られました。「本当は子供の面倒を見たいのに、仕事が大変だから子供と向き合う時間がない」という人もいるのでしょうが、「男性は子供の面倒を見ることを免除する」という役割に甘えて楽をしているだけの場合もあるのです。)
男性である主人公は、自らの利益を守るため、家庭の問題が存在しないフリをします。
このような行動の背後には、「競争社会において一度存在感をなくしてしまうと仕事が回ってこないかもしれない」というリスク管理の側面があります。
家庭の問題と両立するために小さな仕事を継続する、というライフスタイルもあり得るのですが...
現在の社会は、共働きを前提とし、家事・育児を分担するor役割分担をそれぞれの忙しさに応じて負担する、という、個々人の事情に応じて最適化されたあり方を推奨する方向へと転換を図っています。
彼が大統領選のチームに所属したまま息子の問題にも向き合う、というライフスタイルもあり得たと思いますか?
また、彼が自分の成功と育児とを両立できるかどうかは、単に「世間にどう思われるか」「世間がどう受け止めるか」(彼に両立を許すかどうか)の問題だと思いますか?
・・・・
父と同様に、息子も「大丈夫」と嘘をつきます。
少年は、「学校へ行っている」フリをして、「もう自傷はしない」と嘘をつき、本当は大丈夫ではないのに「退院させてくれ」「家族で一緒に居させてくれ」と訴えたことが、結果的に彼の自殺を許してしまうことになります。
しかしこれらはいずれも、親を安心させるためです。
親が自分に期待しているイメージ通りにいるために、彼は嘘をつくのです。
同時に映画の中では、まるで「幸せな家庭」を期待する観客を安心させるかのように、父は理想的な親を演じ、親子の涙ながらのぶつかり合いがあり、最終的には離婚した両親と息子とで「安定」を象徴する三角形の構図が形成されます。
この「三角形」の構図は、ルネサンス絵画以降、安定感を演出されるために多用されてきたもので、聖母子像や聖家族像などの宗教絵画をはじめとして様々な作品の中で用いられているものです。
けれども、この「安定」を象徴する三角形の構図も、観客を安心させるために、映画がついた嘘です。
親を安心させるため。親の視界に入る自分の姿が、両親が息子に対して抱くイメージ通りであるため。親の理想でいるために、息子はその場しのぎの嘘をついたり、「ふり」をしたり、演技をしたりします。
それと同じように、映画自身が、心のどこかで理想的な家族像を願う観客のイメージ通りでいようと、その場しのぎの「ふり」をするのです。
父のいないところで、ふとした瞬間に息子の見せる本性。演技をやめた息子の姿には、どす黒い闇が感じられます。
そのドス黒さが、もはや虚言癖の域にまで達した彼の言動と相まって、物語は緊迫感をはらんでクライマックスへと向かうのです。
けれども、嘘に嘘を重ねるたびに、息子の心は傷つき、彼の「本当の姿」は押し潰されていきます。
「見せたいけれど隠したい」、そんな自傷の痕は、親から見える自分のイメージに付け加えられた傷であり、押し潰される内心への配慮への願いでもあります。
しかし父が、そんな息子の内心を配慮することはありません。
父にとっては、自分に見える息子の姿だけが全てです。
「外の世界」に適応し、内心を押し殺しても強くあることができる父は、「外の世界」を内面化し、それをそのまま息子にも適用しようとします。
けれども、息子の内心は、「外の世界」の重さに圧迫されています。
内面を「外の世界」(社会的成功)でいっぱいにした父親の中では「本音」がぺしゃんこになっていて、無視されています。父は、自らの「本音」、不安や心配、弱みを無視して「強さ」だけを見せており、それと同様に、息子の内面を回顧することがないのです。
父は、自分を眺める自分自身のあり方そのままに、息子を見ようとします。
それ自体が、「外界」と言うプレッシャーにより息子の本心を殺すことになります。
「外界」を内面化した父。
それは、かつて「なりたくない」と願った祖父の姿そのものでした。
男性性を象徴する、狩猟。
そこで使用される猟銃は、外界・外敵へと向かう男性の警戒心や闘争心、危機意識、暴力性の象徴でもあります。
(テロリストが学校を襲撃し、立ち向かう妄想をしたり、「護身用」と称して刃物を所持した経験が、あなたにはあるでしょうか)
祖父から父へと受け継がれた「猟銃」は、やがて息子へと受け継がれて、息子自身の身を滅ぼしてしまうのです。
ここに、脈々と継承されてきた男性の病を子供にも複製してしまうこと、そしてそんな男性の功名心や警戒心に基づいて形成されてきた競争社会のあり方、家族や自らの心をも犠牲にしてまで成し遂げられる「社会的成功」のあり方すら、見直しを迫られます。
あまりに表面的で、息子の本心が見えてこない。
息子に共感できない。息子の本当の問題が手にとるようにわからない。
それは、目に見えているだけの映像が、父の理想の世界であり、観客の期待に沿うハートウォーミングなドラマの「フリ」をした映画の姿です。
パンフにも書かれているように、帰ってきた息子の自殺がクライマック...
パンフにも書かれているように、帰ってきた息子の自殺がクライマックス。帰ってきた家庭での様子でほぼ予測できてしまう。あんなふうに現実を封印すれば、子どもは逃げ場がなくなり、その幻想の中で死にたいと思うはず。それに気づかない親だから、息子を失ってしまうのだと言うのはきつすぎるだろうか。
しかも、ごのケースは山程あるということ。
元妻には間違いなく問題がある。未だに夫を諦めきれず、夫との喫茶店での話し合いでは真っ赤な衣服を。今でも夫を誘惑している。ローラは、この病的な役をあまりにうまく演じている。そして、夫の感情もふらふらしている。
IPという考え方があるけれど、息子はその犠牲だ。母が諦めてなければ、息子も立ち直れない。
元妻が現実を排除しがちだからこそ、今の妻に彼が惹かれたのはよくわかる。
ファーザーのホプキンズが、父なのは素晴らしい。80になっても力がある。
嫌ってた父を反復してしまう、反復強迫の表現はよくできている。
海のシーンは素晴らしい。映像的にも美しい。
そこから確かに彼は変わっていったのだろう。
登場人物とともに迷い、惑った後で、やりきれなさをかみ締めました。
前作「ファーザー」に続き、フロリアン・ゼレール監督が、ふたたび「家族」に向き合いました。「家族3部作」の2作目で、前作と同様、自身の戯曲を映像化したものです。前作となる『ファーザー』(2020年)は初長編監督作でアカデミー賞2部門に輝きました。
タイトルはズバリ「息子」です。作品同様に思春期のお子さんをお持ちで、どう接していいのやらお悩みの方なら、どうしても父親の視点で見てしまうことでしょう。
特に世代間の確執がいや応なく示されるあの一言を巡る応酬。それは困難を前にした息子に対し、その手を取り、「乗り越えろ」と期待する言葉でした。親として息子を鼓舞し期待することは罪なのでしょうか。ついつい当然のことと思って、「励ましてきた」のだったら、本作の驚愕すべき結末に触れて、それが本当に親だから当然なのか?と答えのない質問を出された気がしました。
舞台はニューヨーク。優秀な弁護士のピーター(ヒュー・ジャックマン)は、再婚した妻ベス(バネッサ・カービー)と生まれたばかりの子供と忙しいながらも幸せな毎日を過ごしていました。ある日、離婚した元妻ケイト(ローラ・ダーン)が来訪。ケイトと暮らす17歳の息子、ニコラス(ゼン・マクグラス)が学校に通っていないと知り、息子と久々にと面談することになります。そして、ニコラスからいきなり父親の家に引っ越したいと懇願されます。かつて妻と息子を捨てた負い目もあったのか、ニコラスを引き取り同居生活が始まります。実はニコラスは心に病を抱え、絶望の淵にいたのでした。そのため望み通り自宅へ引き取っても、ニコラスは学校に通わず、おまけに自傷行為をやめられなかったのです。そんな息子のことを理解できないピーターは、例の「乗り越えろ」という言葉を連発し、それに反発したニコラスと激しくぶつかりあうのでした。
ここで傑作なのは、ピーター自身、子どもの頃、家庭を顧みない横柄な父親(アンソニー・ホプキンス)から、「乗り越えろ」と打ちかつことを強要されていたことが、父親とのやり取りで明かにされることです。
わだかまりを抱え、自分はそうならないと思っていたのに、同様のことを息子に求める自分がいることを思い知らされます。父と息子、互いに愛しているのに気持ちがどうにも伝わりません。そんな八方塞がりの状況を、端正な映像で示されました。
ままならないのが人生ですが、「子育て」はその最たるものでしょうか。ピーターのように大統領選挙の選挙参謀に抜擢されるほどの立派な社会的地位も、その困難さを前に人は無力であることが痛烈に描かれます。「家族映画」は数あれど、子育てに対する敗北感は、あまり語られぬ負の感情。そこに果敢に切り込んだ異色作です。
「ファーザー」ではアンソニー・ホプキンス演じる認知症の父親は、迷宮にいるかのように、自らの思考の中をさまよいました。出口が見えないということでは、本作も同じく迷宮の中にあります。
本作はタブー視されがちなメンタルヘルス不調の問題も堂々提議。コロナ禍で若者の心の健康が危機的状態の今こそ、積極的に光を当てるべきテーマでしょう。
登場人物とともに迷い、惑った後で、やりきれなさをかみ締めました。爽快さとはほど遠い、衝撃的な苦い結末。これも映画の醍醐味なのでしょうか。この結末には、無性に誰かにネタバレして、話しかけたくなりました。
子供は親を選べないから。
まぁ…この親(ピーター)に育てられたら、子供(ニコライ)はこうなるだろうなぁ、という見本のような作品。
そう思っていたら、その親(ピーター)も、また同じような親(アンソニー)に育てられていたことがわかった。
これじゃあ、是非もないや…というのが、偽らざる感想。本作を観終わって、評論子の。
結局は、子供は親を選べないからなぁ。
そう思うと、観終わって、とてもとても切ない一本になってしまいました。評論子には。
きつかった
自傷・自殺衝動のある鬱病になってしまった息子と、親はどう向き合えばいいのか?というテーマゆえ、けっこうきつい。
ニコラス役のゼン・マクグラスの不安定な少年の演技はよかったものの、鬱の描写が少し昔のイメージで、医学監修が入っているか疑問を抱きました。
精神疾患にも様々な種類があるので、鬱とひとくくりにしてはだめだし、対処法が多岐にわたるんですよね。
離婚して母子家庭ゆえに母親は働きづめで家にいない。
代わりにと預かった男親は、仕事人間でほとんど家にいない。
真面目で優しい人間ほど、自分が悪いんじゃないかと自らを追いつめ、孤独感に苛(さいな)められる。
「生きている状態がすでに最大限頑張っている」という状態だと理解し、寄り添い、そばにいることが重要で、一瞬でも目を離してはいけないし、それが無理なら医師に全面的に任せるしかない。
なのに、これだけは「やっちゃダメ」「言っちゃダメ」ってことがあるんですけど、これをヒュー・ジャックマンが演じる父親が繰り返す。
「できて当たり前」「学校に行っていい人生を歩め」「なぜできない?」「頑張れ」
など追い詰めていく。
父親のきつい言葉は愛情の裏返しではあるのだが、それによってどんどん症状が悪化していく。
それを観客として、なにもできず見てるだけという体験を味わう羽目になるという。
うわーーーって叫んで席を立ちたい衝動を、このクソ親をウルヴァリンが切り裂いてくれるに違いないという妄想で乗り切りましたが、気持ちのいい内容ではなかったな。
絶対絶望
「ファーザー」の監督にヒュー・ジャックマンが主演…躊躇うと事なく鑑賞しました。サービスデーという事もあり、結構混んでいました。
いやはや心にずしっとくる映画でした。「ファーザー」とはまた違う考えさせられる作品でした。
2つの観点から観ることができました。客観的に観るとどうにもやりきれない気持ちになるんですが、実の親だったらという視点で観ると辛い気持ちになるのが不思議でした。
ヒュー・ジャックマン演じる父親は決して悪い父親ではなく、子供のために尽くそうとはしているけれど、とにかく自分を良く見せようとしてしまうがために、色々なものを追い込んでしまう性格上、とにかく息子との会話がタジタジになってしまうところが多く見られました。自分の父親と自分を重ねて後悔したりと、改善の傾向を見せつつもどうにもなりきれない、未熟な父親そのものを体現しているようでした。
息子もまた、とんだドラ息子だなとは思いました。学校に行きたくない、それに理由なんかはいらないと思いますし、それに親は真っ正面から向き合わないといけない場面に直面してしまいます。ただ息子はワガママを通り越して学校に行かなかったり、義母にも冷たい態度を取ったりと険悪なムードを自分から作りに行ってしまうので、そこはこの息子の性格上の問題でもあるなと思いました。甘ったれではあるので、イライラはしましたが、演じたゼン・マクグラスの演技に魅了された結果なのでそこは良い収穫でした。
洗濯機の後ろにある猟銃、ズームアップで映される洗濯機、壁に頭をぶつける様子、虚ろな状態で弟の面倒を見ようとして、フラグビンビン立てて風呂場に行き自殺。これまで自分を傷つける行為は風呂場でやってきていましたが、最後を迎える場所も風呂場。メンタルが本当に弱くて、助けの手を施されてもプツンと切れてしまったがために真っ先に楽になる選択肢を選んでしまったというラスト。自殺で最後を迎えてしまう作品は「ミッドナイトスワン」でもあったのですが、あちらは軽快に死んでしまったのでその重みが感じられなかったのですが、今作はその重みがズシンと感じられました。
最後、息子の幻想を見て項垂れる父親、新たに作った家庭すらも壊してしまいそうな危うい状態に、観ている観客側の自分ですらもハラハラしてしまいました。なんて悲しく寂しい終わり方なんだと。
役者陣の演技力はとにかく素晴らしく、物語の完成度も高かったです。エンタメとして観ると「ファーザー」には敵わず、少し都合の良い場面も見られたのが残念でした。3部作の最終作、一体どうなるんでしょう。ペース的には再来年公開なので首を長くして待ちます。
鑑賞日 3/22
鑑賞時間 12:30〜14:45
座席 H-11
家父長制的男性性の悲劇
テーマは明確で、「男らしさ」の世代を超えた呪縛のもたらす悲劇です。
それをジェンダー論的な言葉をまったく出さずに描き切っていました。
主人公とその父、おそらくさらにその父、その父、その父……から続いている「男ならばこうあれ」という男性性の皺寄せが若い息子にのしかかっていくという物語です。
ですから、息子の苦悩を息子自身はどうすることもできませんし、明確に言葉で表現することもできません。それはそうです。彼の内部にあるように見える問題は、実は社会が抱えている問題ですから。
父親も自分がそれに囚われていることに真の意味では気づいていないので(たぶん最後まで)、息子への対応をほとんど全部間違えています。もう、ことごとく、「それやっちゃダメ」ということばかり息子にしています。
それはこの父子関係だけの話ではなく、今でも多くの国の社会が囚われているものです。
結末からすると、監督はそれが変化していくような希望を今は見出せていないのでしょうね。
「愛では救えない」
この場合はまったくその通りでしょう。男性が「男らしさ」から解放されることしかありません。しかし、アンソニー・ホプキンスの演じる主人公の父親のような人がそこに思い至れるか?
これはかなり絶望的でしょう。
長い時間がかかりますが、世代が変わることで改善に向かうことを祈るばかりです。
もう一人の息子が成長する時に間に合うどうか?そうしたことも考えたせる巧みなドラマ作りです。
役者さんがみんな素晴らしい。
なお、ヒュー・ジャックマンの演じる主人公の二人目の妻や子育てへの関わり方の細部をよくみてほしいですね。実はすごく古臭い、つまりヤバい相当に人なのでは……というのがわかると思います。
たとえば「小児科」という語が出ているのにスルーするシーンで私はゾッとしました。
寅さんみたいな伯父さんがいたらよかったのにね
スターリン政権下でのウクライナに対するジェノサイド(ポロドモール)を描いた映画、「赤い闇」に出ていた女優のバネッサ・カーヴィーがべス役で出演していたので、悲しいストーリーとわかっていながらも朝イチから鑑賞。
ヒュー・ジャックマン演じるピーターは先妻とその間にできたひとり息子のニコラスと別れて、若い嫁べスとの間の赤子(なかなか大きくならない)と暮らしているやり手の弁護士。ポールの父親役はアンソニー・ホプキンス。神殿のような玄関の立派な家に住んでいました。
主役の息子ニコラス役はいかにもナイーブな少年でとても痛々しかったし、恐ろしいことしそうだった。
先妻ケイト(ローラ・ダーン)はニコラスがリスカしたり、自分をかえりみなかった父親と暮らしたいと言い出すほど悪~い母親には見えなかったのと、ニコラスを立ち直らせようとする二人がとてもラブラブで、昼間から酒飲んだりのんびりしていたのは大いに違和感。最初の設定に無理があるような気がした。別に離婚してなくても、この父子三代にはそうなる必然性があった。プライドが高いので、自分達の異常性に気がつかないことが悲劇。手遅れになりやすい。
こういう時は寅さんみたいなダメな伯父さんに相談するのがいいんだよね。
若い嫁のべス(バネッサ・カーヴィ)も育児にもっとイラついたり、ニコラスを誘惑するような人物設定にして欲しかったなぁ。折角、バネッサ・カーヴィなんだから。
洗濯機のなかのベビー服が映った時、ニコラスが赤子を放り込んで脱水ボタンを押したのかと思った。
オイラのほうがずっと病んでるな。
急性うつ病にしてはニコラスは病院でも、帰って来てからもハイで元気だった印象。悪徳病院だったかもしれないけど、懸念は的中。
子育てって、ボタンを掛け違うと修復困難になることを痛感。しかし、若い人はこの手の映画は観ないから、その効力は極めて小さいと言わざるを得ない。
この俳優陣なら期待値高めちゃうよね
悪くないけど すっごく良いわけではない…
A.ホプキンス ズルいよー ほんの数分だけ 少ないセリフで 全部持ってく あの風貌。
The Son 自分の息子であり、息子だった自分であり
自身が子である目線、親となって子を見る目線、親となって親を見る目線と視点を変えることで、いくつもの思いが巡る。誰が悪いとこ良いとかではないし、何が正解で不正解かも分からい。
ただ、親より先に子が亡くなる事ほど切なく感じることはない。
急性うつより人格障害か?っ感じ。
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