熊は、いないのレビュー・感想・評価
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彼に真の笑顔が再び灯るその日まで
表現や言論の自由が保証されていないイラン。パナヒ監督はこの国で、体制に対して反逆的な活動を行ったかどで禁固刑や映画製作の禁止を言い渡されるも、その後、制約の中で映画作りを続けている。こういった背景を考慮に入れて本作に臨むと、まずもって冒頭のどこか演劇的なワンシーンと、そこから二重三重の境界を超えてパナヒが映画とつながり合う様に、たったそれだけで観ている我々の胸は強く締め付けられる。映画は死なない。パナヒの情熱も全く死んでいない。本作はこの二つの「不死」を裏付ける作品と言えそうだ。だが、かくも制約下で表現し続ける精神を刻みつつも、パナヒはいつしか二組の愛し合う男女が陥った苦しみと直面せざるをえなくなる。立ちはだかる壁を前に、彼が浮かべる表情のやるせなさ。彼に笑顔が戻る日はやってくるのだろうか。我々にできるせめてもの支援は、何よりもまず彼の新作を待ち続けること。そして劇場で鑑賞し続けることだ。
虚実の曖昧化と穏和なユーモアを武器に権力と闘い続けるジャファル・パナヒ監督
ジャファル・パナヒ監督は今の世界で最も権力と闘っているメディア表現者の一人と言えるのではないか。イランはイスラム諸国の中でもとりわけ報道や表現に対する規制が厳しく、2023年の世界報道自由度ランキングでは180カ国中最下位の北朝鮮から、中国、ベトナム(これら3カ国は社会主義国家)に次いで低い177位だった。表現者にとっても不自由極まりないイラン国内に留まりつつ、権力側から個人への抑圧や暴力、宗教観にも関わる女性蔑視・差別などを題材に映画を撮り続け、政府から上映禁止、映画制作禁止、逮捕・禁固といったさまざまな圧力と妨害を受けてきたパナヒ監督。不屈の闘士と呼びたくもなるが、この「熊は、いない」を含む近年の監督作に本人役で出演している彼の姿を見ると、大柄で小太りの優しそうなおじさん(オバチャンっぽい雰囲気もある)といった印象で、意外に思う人も多いのではないか。
「人生タクシー」(2015)、「ある女優の不在」(2018)と同様、本作も劇映画の体裁でありながら、パナヒ本人が監督として作中に登場することで、ひょっとしてドキュメンタリー的なパートもあるのではと錯覚させる。ひねりの効いたフェイクドキュメンタリーと見なすことも可能だろう。冒頭のトルコのカフェを舞台にした男女のやり取りの長回しショットから次の“種明かし”のカットへの編集が端的に表すように、虚構と現実を巧みに曖昧化することで、観客がそこからさまざまなメッセージを自分なりに受け止められる豊かさを確保しているではないか。現実を描いているようで、寓話的でもあり、その曖昧なはざまにこそ豊穣さがある、とでも教えられているような。
国境に近い村に滞在するパナヒ監督が、村の若い男女らをめぐる諍いに巻き込まれていくさまは、ユーモラスな雰囲気を漂わせつつ、目に見えない何かにじわじわと手足をからめとられていくような恐ろしさもある。
タイトルになっている「熊は、いない」とは、ある村人からパナヒ監督に告げられる言葉。村人たちが“熊”にどんな存在を重ねているのかも、分かりやすく示される。だが映画をラストまで観ると、本当に“熊”はいないのだろうか、さらにはこの現実世界、日本の社会にも“熊”的な存在はいるだろうか、それとも存在するように思い込まされているだけで実在しないのではないか、などと思い悩んでしまうのだ。
閉塞感
熊、やっぱいるじゃん?!
この度息子さんがめでたく監督デビューしたジャファル・パナヒ。血は濃しというべきか、ジャファルの直近作も息子さん同様“密出国”がテーマになっている。度重なる干ばつの影響ですっかり農業がダメになってしまった国境近くの廃れた村で、お隣トルコで撮影中の劇中劇(こちらも密出国ネタ)をその村から遠隔操作で指揮をとるパナヒ(本人)だったが、村のしきたりに触れる写真を撮ったと疑われた監督は、ある騒動に巻き込まれる。
Wikipediaで調べると直ぐにわかるのだがこのジャファル・パナヒ、保守的なイラン政府と西側リベラル諸国との政争に長らく利用されてきた経緯があり、イラン政府から海外渡航禁止の御触れも出されている要注意人物。ゆえに“ジャファル・パナヒがトルコ国境付近の村に滞在している”と噂になっただけでもかなりヤバイ状況なのだ。本作は、その自分が置かれた負の状況を、師匠であるアッバ・スキアロスタミよろしく逆手にとったブラックコメディなのであろう。
劇中劇が実際トルコの街中で撮影されていることから察するに、主演の男優や女優が撮影中カメラ目線で監督に噛みついたり、密出国できない男のために女優が○○をはかったりするエピソードは、すべて現実と虚構の境界を曖昧にして真実を明らかにしようとする、これまたキアロスタミ譲りの“メタ演出”であろう。「〔熊は〕いるもんか 俺たちを怖がらせる作り話さ 怖がらせて力を得る者がいる」この村民の言うとおり、バイデン政権時のアメリカ-メキシコ国境なみに国境警備はユルユルなのかもしれない。
じゃあ、駆け落ちしようと国境突破をはかった若いカップルはなぜ射殺されたのだろう?自分はいとも簡単に国境に近づけたのに。そういえば、お世話係のガンバールに任せた撮影中、カメラが回ってないと思った村民が俺のことをスパイと疑っていたな?そして愛想のいい村長が言ってたっけ、この村の主要産業は、農業ではなく密出国業だって。そしてジャファル・パナヒは、道端で三菱パジェロを停めて考えはじめるのである。当初から俺は、密出国目当てで村に長逗留していると思われていたのではないか。
ところが、助監督が金をしかるべき組織に渡してあるにも関わらず、国境を実際に跨いだジャファルは怖気づいて、元の村へと戻っていくのである。これは怪しい、パナヒが村で撮りためた写真を確認しなくては、俺たちがひどい目に合わされる。そこで急遽でっちあげたのが、へその緒のちぎり事件だったのだろう。目付きの悪い男の指図でジャファルの行動を逐一見張っていたガンバールに急かされるように、密出国の意志がないジャファルは村から追い出されたにちがいない。
イラン政府の保守的な圧政を揶揄する映画を撮り続けてきた監督だが、いまやそれを上手く利用して(政府組織と共謀して?)悪銭を稼いでいるギャングがこんな辺境の村にまで進出している現状に、がく然とするジャファルであった。
確かにいない
作家としての覚悟を感じる
イラン政府から国外に出ることを禁じられ、反政府的という理由で収監されたこともある孤高の映画作家ジャファル・パナヒ。彼は様々な抑圧を受けながら、自らを主人公に映画作りを行っている。
本作は、そんな彼が小さな村に身を潜めてリモートで新作映画の撮影をしている…という所から始まる。
映画は、この新作映画の撮影風景と、パナヒが滞在する村で起こる事件。この二つをリンクする形で構成されている。
新作映画の方は、偽造パスポートを使ってフランスへ出国しようとするカップルのドラマである。パナヒ監督はリモートで撮影の支持を出すのだが中々思うようにいかず、最後には思わぬ顛末を迎えてしまう。
この新作映画は一見すると劇映画のように見えるのだが、実は完全なフィクションではないということが後半から分かってきて面白い。こうした虚実入り混じった作風はパナヒ監督の得意とする所であるが、それがここでも確認できる。
また、ここには国外に出ることを許されないパナヒ自身の苦悩も垣間見えて興味深かった。
村の話の方は、古いしきたりに阻まれる若いカップルのドラマである。この村では昔から女性に結婚相手を選ぶ権利は無く、親同士で相手が決められている。若いカップルは、そのしきたりを破って逢瀬を繰り返すのだが、たまたまパナヒ監督がその様子を撮影してしまったことから、彼はこの騒動に巻き込まれてしまう。
ここから分かってくるのは、女性差別的な風習に対する批判である。パナヒ監督は過去にも「チャドルと生きる」や「ある女優の不在」といった作品で、女性差別の社会に強い批判をしてきたが、ここでもその主張が繰り返されている。
最終的に新作映画の方も、村の話の方も悲劇的な結末を迎え、何ともやるせない思いにさせられる。しかし、最後にパナヒ監督が”ある決断”を下す所で映画は終わっており、そこに自分はある種の頼もしさを覚えた。
今目の前で起こっている理不尽な現実から決して目を逸らさないという思い。作品を通してこの現実を世界に伝えるという作家としての使命。そんなパナヒ監督の強い信念が感じられた。
もう一つ印象に残ったのは、中盤でパナヒが助監督から隣国トルコへの越境を勧められる場面である。ここで彼は国境を超えるかどうか迷うのだが、ここにも彼の強い信念が感じられた。結局国境を越えなかったということは、おそらく彼は今後もイランに留まりながら映画を撮り続けるのだろう。その勇気は感嘆に値する。今後も彼の作品は追い続けていきたいと思った。
演出はドキュメンタリータッチを基調としており、時折目を見張るような長回しも見られる。特に、虚実を往来するオープニングシーンは正にパナヒ監督の真骨頂という感じがした。
尚、タイトルの「熊」だが、これは動物の熊に例えた暗喩である。パナヒ監督は村人から「この通りには熊が出るから注意するように」と警告されるが、その意味については色々と解釈できよう。自分は一種の「脅し」と捉えた。
「脅し」は実際に危害を加えなくても、すると思わせればそれだけで効果的である。つまり、実際に「熊」がいるかどうかは問題ではなく、いると思わせればいいわけである。力の強い者が弱い者を支配する常套句。昨今のモラハラ、パワハラ問題に通じるものを感じた。
熊とは…?
絶対好きだ好きなはずだしかしぐっすり寝ている
自分が分からなくなった。眠たいとにかく眠たかった
国外へ出ることが正しく生きる道でもフランスに行っても本当に幸せになれるのだろうか イラン→トルコ→フランス
イラン人は恰幅が良くて立派大昔この地域はシルクロードの真ん中世界で一番文明が栄えていた所 トルコイランペルシャの今と暮らしへの興味、彼らに対して尊敬の念が芽生えた
密売などであればトルコと自由に行き来できるのだが
個人の幸せを求めて移住するのは許されないようだ
村の掟伝統守られなかったと主張し戦う男 大学を出て彼女を見つけ二人で生きるため国外へ出ようとする男 村にいる男たちはとにかく群れる
世界から取り残されているイランだからこその現代で起きてる問題
国境線を踏んでいる トルコとイラン
彼らの家は中国の田舎のようで砂だらけ土を固めた家に住んでいる
潜行パナヒ
劇中劇をトルコで撮ってリモートで指示しているのは、パナヒ監督がイランで映画制作を禁じられているのと、なおかつ出国もできないからだと思うが、実際にはイランの国境付近の村のシーンも撮っているわけで、結構な数のイラン人が監督に加担していることになるが、その辺の事情はどうなのだろうか(似たような事例では収監中に刑務所から指示を送って映画を完成させたトルコのユルマズ・ギュネイがいる)。
イランの映画監督と言えば、独自の切り口で人生の不条理を描くアスガー・ファルハディがいるが、彼には制作上の障壁はないのだろうか。どういう基準でどのあたりまで政府の介入があるのかが知りたいところである。
因襲にとらわれた田舎の人々の無気味な怖さというのは、イランに限ったことではなく、アメリカ映画でも日本映画でもたびたび見てきた。理屈の通じない暗黙の圧力というのは、じわじわ腹わたに効いてくる。昨今のどうにも理不尽なニュースの数々に接していると、地球全体が大きな村のようにも思えてくる。
いろいろめんどくさい
君は行く先を知らないに続いてまたイラン映画。なんか似たような内容だなと思ったら監督親子だそうで イランの閉鎖的な現状を描く、こちらの方がちと分かり易い
田舎は確かに変わったしきたりが多い、すぐに噂になるし、砂で何処に行ったかバレるなんて良いんだか悪いんだか...映画を撮るのも命懸け、それでも撮り続けるのは映画がやっぱり救いだからかな
こんな映画の作り方があるんだと感心した。
設定の面白さの裏にある現実
23-119
命懸けの映画撮影🎥🎤
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