熊は、いないのレビュー・感想・評価
全33件中、1~20件目を表示
混迷と絶望。
パナヒが祖国イランを捨てることなく、国内に居続けながら、弾圧の中で映画を作り続けてきたことは偉業だし、本作も現実を反映した歪な寓話としてみごと。しかしパナヒがゲリラ的な手法で作り続けてきた近年の作品の中でも最もどん詰まりを感じた。
現実の厳しさ、辛さ、映画で世界は変えられない絶望、といった負の側面が本作のユーモアを凌駕して、途方もない圧迫感がのしかかってくる。映画作りが突破口にならないのなら、一体なぜこの映画を見ているのかとつい自問自答してしまうが、そもそも映画が答えをくれるなんて幻想が間違っているのであって、この映画が描く混迷はそのまま受け止めるべきなのだろう。パナヒが自国と自分と観客に突きつける刃は深くて鋭い。
この映画の後、パナヒは逮捕され収監され(この映画が直接的な原因ではないので日本の宣伝はミスリードだとは思うが)、ハンガーストライキを宣言した後に釈放された。パナヒを取り巻く状況は多少なりともいい方向に変わっているのかも知れないが、この映画が描いている閉塞感は解決してはいないだろう。同じ国境越えというモチーフを描いた息子パナーの『君は行く先を知らない』は興味深い良作だったが、父パナヒが描く多層的な底なしの閉塞感にはまだまだ太刀打ちできておらず、越えるにはあまりにも高い壁でしょうよと、こんな父を持ったパナーについ同情してしまった。
彼に真の笑顔が再び灯るその日まで
表現や言論の自由が保証されていないイラン。パナヒ監督はこの国で、体制に対して反逆的な活動を行ったかどで禁固刑や映画製作の禁止を言い渡されるも、その後、制約の中で映画作りを続けている。こういった背景を考慮に入れて本作に臨むと、まずもって冒頭のどこか演劇的なワンシーンと、そこから二重三重の境界を超えてパナヒが映画とつながり合う様に、たったそれだけで観ている我々の胸は強く締め付けられる。映画は死なない。パナヒの情熱も全く死んでいない。本作はこの二つの「不死」を裏付ける作品と言えそうだ。だが、かくも制約下で表現し続ける精神を刻みつつも、パナヒはいつしか二組の愛し合う男女が陥った苦しみと直面せざるをえなくなる。立ちはだかる壁を前に、彼が浮かべる表情のやるせなさ。彼に笑顔が戻る日はやってくるのだろうか。我々にできるせめてもの支援は、何よりもまず彼の新作を待ち続けること。そして劇場で鑑賞し続けることだ。
虚実の曖昧化と穏和なユーモアを武器に権力と闘い続けるジャファル・パナヒ監督
ジャファル・パナヒ監督は今の世界で最も権力と闘っているメディア表現者の一人と言えるのではないか。イランはイスラム諸国の中でもとりわけ報道や表現に対する規制が厳しく、2023年の世界報道自由度ランキングでは180カ国中最下位の北朝鮮から、中国、ベトナム(これら3カ国は社会主義国家)に次いで低い177位だった。表現者にとっても不自由極まりないイラン国内に留まりつつ、権力側から個人への抑圧や暴力、宗教観にも関わる女性蔑視・差別などを題材に映画を撮り続け、政府から上映禁止、映画制作禁止、逮捕・禁固といったさまざまな圧力と妨害を受けてきたパナヒ監督。不屈の闘士と呼びたくもなるが、この「熊は、いない」を含む近年の監督作に本人役で出演している彼の姿を見ると、大柄で小太りの優しそうなおじさん(オバチャンっぽい雰囲気もある)といった印象で、意外に思う人も多いのではないか。
「人生タクシー」(2015)、「ある女優の不在」(2018)と同様、本作も劇映画の体裁でありながら、パナヒ本人が監督として作中に登場することで、ひょっとしてドキュメンタリー的なパートもあるのではと錯覚させる。ひねりの効いたフェイクドキュメンタリーと見なすことも可能だろう。冒頭のトルコのカフェを舞台にした男女のやり取りの長回しショットから次の“種明かし”のカットへの編集が端的に表すように、虚構と現実を巧みに曖昧化することで、観客がそこからさまざまなメッセージを自分なりに受け止められる豊かさを確保しているではないか。現実を描いているようで、寓話的でもあり、その曖昧なはざまにこそ豊穣さがある、とでも教えられているような。
国境に近い村に滞在するパナヒ監督が、村の若い男女らをめぐる諍いに巻き込まれていくさまは、ユーモラスな雰囲気を漂わせつつ、目に見えない何かにじわじわと手足をからめとられていくような恐ろしさもある。
タイトルになっている「熊は、いない」とは、ある村人からパナヒ監督に告げられる言葉。村人たちが“熊”にどんな存在を重ねているのかも、分かりやすく示される。だが映画をラストまで観ると、本当に“熊”はいないのだろうか、さらにはこの現実世界、日本の社会にも“熊”的な存在はいるだろうか、それとも存在するように思い込まされているだけで実在しないのではないか、などと思い悩んでしまうのだ。
作家としての覚悟を感じる
イラン政府から国外に出ることを禁じられ、反政府的という理由で収監されたこともある孤高の映画作家ジャファル・パナヒ。彼は様々な抑圧を受けながら、自らを主人公に映画作りを行っている。
本作は、そんな彼が小さな村に身を潜めてリモートで新作映画の撮影をしている…という所から始まる。
映画は、この新作映画の撮影風景と、パナヒが滞在する村で起こる事件。この二つをリンクする形で構成されている。
新作映画の方は、偽造パスポートを使ってフランスへ出国しようとするカップルのドラマである。パナヒ監督はリモートで撮影の支持を出すのだが中々思うようにいかず、最後には思わぬ顛末を迎えてしまう。
この新作映画は一見すると劇映画のように見えるのだが、実は完全なフィクションではないということが後半から分かってきて面白い。こうした虚実入り混じった作風はパナヒ監督の得意とする所であるが、それがここでも確認できる。
また、ここには国外に出ることを許されないパナヒ自身の苦悩も垣間見えて興味深かった。
村の話の方は、古いしきたりに阻まれる若いカップルのドラマである。この村では昔から女性に結婚相手を選ぶ権利は無く、親同士で相手が決められている。若いカップルは、そのしきたりを破って逢瀬を繰り返すのだが、たまたまパナヒ監督がその様子を撮影してしまったことから、彼はこの騒動に巻き込まれてしまう。
ここから分かってくるのは、女性差別的な風習に対する批判である。パナヒ監督は過去にも「チャドルと生きる」や「ある女優の不在」といった作品で、女性差別の社会に強い批判をしてきたが、ここでもその主張が繰り返されている。
最終的に新作映画の方も、村の話の方も悲劇的な結末を迎え、何ともやるせない思いにさせられる。しかし、最後にパナヒ監督が”ある決断”を下す所で映画は終わっており、そこに自分はある種の頼もしさを覚えた。
今目の前で起こっている理不尽な現実から決して目を逸らさないという思い。作品を通してこの現実を世界に伝えるという作家としての使命。そんなパナヒ監督の強い信念が感じられた。
もう一つ印象に残ったのは、中盤でパナヒが助監督から隣国トルコへの越境を勧められる場面である。ここで彼は国境を超えるかどうか迷うのだが、ここにも彼の強い信念が感じられた。結局国境を越えなかったということは、おそらく彼は今後もイランに留まりながら映画を撮り続けるのだろう。その勇気は感嘆に値する。今後も彼の作品は追い続けていきたいと思った。
演出はドキュメンタリータッチを基調としており、時折目を見張るような長回しも見られる。特に、虚実を往来するオープニングシーンは正にパナヒ監督の真骨頂という感じがした。
尚、タイトルの「熊」だが、これは動物の熊に例えた暗喩である。パナヒ監督は村人から「この通りには熊が出るから注意するように」と警告されるが、その意味については色々と解釈できよう。自分は一種の「脅し」と捉えた。
「脅し」は実際に危害を加えなくても、すると思わせればそれだけで効果的である。つまり、実際に「熊」がいるかどうかは問題ではなく、いると思わせればいいわけである。力の強い者が弱い者を支配する常套句。昨今のモラハラ、パワハラ問題に通じるものを感じた。
熊とは…?
熊はいないの熊は
映画をまだ観ていない方からしたら
ネタバレなので割愛
🇮🇷ならではの諸事情かと思いました
パナヒ監督は映画文化を守り続けるために
闘い続けていますが、
まあ今の🇮🇷ってね…😅
色々ありますから制限あって
文化人として自由な活動も許されず
と観たほうが良いかなと😅
監督にとって、熊は、権力のあるイラン政府?
この映画はイラン国内で監督(政府に監督業はできないと言われてる。)として自分の生き方を強く主張している作品になっていると思う。なぜかというと:1)アザリ語(Azari)を話すイラン北部の村で、トルコとの国境に足を一歩踏み入れたシーンがある。その時、ここは密輸だけの問題でなく、武器や軍需品や薬品などのコントロール( contraband) するところで、ここが国境いだよと言われて、パナヒ監督は足を一歩咄嗟にイランがわに引っ込め
た。これが物語っていると思う。恐怖からのようにも観察できるが、それより何があってもイランを出ないよという強い意志の表れだと思う。
2)また、アザリの村で、パナヒ監督は優柔不断そうな動きを何度か示す。例えば、村の長や警察長に『撮った写真を証拠として見せろ』と言われ........見せた。私はここでひと段落かと思ったらが、イヤイヤ、村長たちはコーランに誓えと。そのための儀式をするから、そこへ来て証明せよと。パナヒ監は強烈な即答を控えて、村を出ようとするが、途中である村人に捕まり、おちゃを飲んでいけと言われる。断れないようで、茶屋で、ご馳走になる。そこで、ある村人は大変かしこいアプローチをする。記憶から書いてみるが、『熊がいるから危ないよ、一緒に行きましょう.......写真を撮ったって問題ないよ。嘘の誓いだってできるんだよ』と。『この村には迷信の問題があり、町の人の考えとは違う。....... 熊なんていないんさ。ただ、怖がらせるための作り話さ!』このある村人のアプローチと言おうか、交渉術にはアッパレ。このシーンが好き。
偏見かもしれないが、イランの監督の素晴らしさはこのような交渉術にある。パナヒ監督の師匠、アッバス・キアロスタミ監督もそうである。手綱を引いてうまく緩めて、人をその気にさせる。この交渉法に感激。
そこで、パナピ監督は宣誓の場所に戻っていって『アザリ村の伝統を尊敬するために』きたという。このように、イランのアザバジャン人の村の人々の伝統からくる意見や助言を聞いて尊敬し、パナヒ監督は一歩止まって考えるシーンがよくある。しかし、最後のシーンはパナヒ監督は早くテヘランに帰れとの村人の忠告で(車の故障の合図???これがわからない)若者の死(Gozal/ Soldooz)の現場を通り過ぎそうになるが、車をとめて考え、立ち向かうように我々に見せてくれる。これが、また、パナヒ監督の政治・社会体制に立ち向かう意志と同じ姿勢であると思う。事実をこの目で見据えるという意思も。このパナヒ監督の判断の仕方が大好きだ。
別件だが、そのほかに、パナヒ監督の迷信や伝統にとらわれない(テヘランの町の人と言われているが)思考が冴えている。ここは明らかで、パナヒ監督の論理的な判断はごもっともと思える。
Gozal/ Soldoozの二人が胡桃の木の下にいたという。パナヒ監督はその二人の写真を撮ったか村長に聞かれる。その追求の執拗さはよく聞くと村の伝統から来ていて女の子が生まれた時、臍の緒は将来の夫となる人に切ってもらうと。Gozal が生まれた時、Yaghoob がそれを切ったから、もう年頃の二人は結婚するべきだと。しかし、テヘラン大学に通っていて、デモに一回参加しただけで、退学させられた、Soldooz がGozal に恋していると。二人でいる写真をSoldooz の親に見せて証明し諦めさせることができると。
テヘランの町の人、パナヒ監督は自分をここから出させたいからそんな手を使うんだなと解釈する。そこに、Soldooz が無礼に許可を取らず監督の部屋に入ってきて、彼の見解を伝える。『もう一度やり直そうとして村に戻ってきた。それに、Gozal に会いたかった。彼女を愛しているから二人で村を出ていく』と。問題はYaghoob (臍の緒を切った男)で、写真を村人のみせないでと頼む。監督はなぜ村長に話さないのかと。(当然だね)しかし、Soldooz は監督の名前を言葉に出して使ってパナヒ監督にかかっているよと。
村長・警察がまた訪れる。ここからが笑っちゃう! パナヒ監督が写真を撮っているときにいた賢そうな少年がパナヒ監督が写真を撮ったと細かく証言する。(へえ....なぜよく覚えてるの?)パナヒ監督は子供が状況を説明してるのになぜ私の写真がいるの?と。(誠に!)そしたら、『9歳の子供だよ、証拠にならないよ』と。(エエエ.....)パナヒ監督『じゃあ、なぜ子供の証言を私の証拠にするの』と。(爆笑!最も)
伝統にハマっていると、それに囚われ、現状維持になってしまい思考能力を失い、論理的な欠けるところがある。問題意識があるパナヒ監督はそれに気づいて言い返すという形でこの映画は作られている。
これだけの説明では不十分かもしれないから、この映画のポイントを説明する。イランの北部の村で、アザリ語を話すアザバジャン人とパナヒ監督は言葉で交渉している(戦っている)。これはパナヒ監督が国内にいてイラン政府という組織と戦っているのと同じ。テヘラン大学中デモに参加したSoldooz はパナヒ監督と同じ立場の人。でも彼はGozal と国境を越えようとして国境コントロールに殺される。偽造パスポートを使って国外逃亡しようとしている男女をパナヒ監督がズーム?か何かで間接監督?をしている映画撮影(直接のカメラクルーはトルコにいるらしい。)が挿入(二層になってる?)されている。パナヒ監督は国境を超えないで、主義主張を(上手に隠して?)映画に盛り込んで世界に発信。アッパレ!
じゃあなぜ、『熊は、いない』熊は、なの?これは比喩だとわかるが、なんの比喩?村人が怖がっているから、かわいい熊じゃなさそうだ。想像すると、『権力』イラン政府? 熊が怖いから行かなく、何もできないんじゃないよと。権力(熊)に挑戦する姿勢が、映画の最後で車を止めて考えてるところでわかる。
絶対好きだ好きなはずだしかしぐっすり寝ている
自分が分からなくなった。眠たいとにかく眠たかった
国外へ出ることが正しく生きる道でもフランスに行っても本当に幸せになれるのだろうか イラン→トルコ→フランス
イラン人は恰幅が良くて立派大昔この地域はシルクロードの真ん中世界で一番文明が栄えていた所 トルコイランペルシャの今と暮らしへの興味、彼らに対して尊敬の念が芽生えた
密売などであればトルコと自由に行き来できるのだが
個人の幸せを求めて移住するのは許されないようだ
村の掟伝統守られなかったと主張し戦う男 大学を出て彼女を見つけ二人で生きるため国外へ出ようとする男 村にいる男たちはとにかく群れる
世界から取り残されているイランだからこその現代で起きてる問題
国境線を踏んでいる トルコとイラン
彼らの家は中国の田舎のようで砂だらけ土を固めた家に住んでいる
「熊」がいるのは外じゃない
映画自体はドキュメンタリーではないものの、内容は限りなくドキュメンタリー寄り。
劇中で監督が撮っているトルコのカップルのドキュメンタリー映画と本作と、監督自身の境遇のドキュメンタリーが入れ子構造になっているようです。
トルコから国外逃亡を望むカップル、村の因習から逃れるために国境を超えたいカップル、二組のカップルの悲劇もさることながら、国境の村の、ヒトが良さそうな村人たちの抱える闇が不気味と思っていたら。
密輸で生計立てていたら、政府の監視対象の映画監督は招かざる客。監督が注目されたら村ぐるみの密輸発覚の危険が高まってしまうので。
村人たちが監督の行動を監視するのは当然でした。
「熊」は外にはいない。内側のようです。
不謹慎ながら、劇中で監督の下宿先のお母さんがつくっていた料理が美味しそう、ナンのようなパン(?)のついたワンプレート料理をみてから、頭の中がインドカレーでいっぱい。
ツレもそうだったようで、映画終わってからふたりで近くのインドカレー屋さんにダッシュ、美味しくいただきました。
食べたいと思ったときに、何の障害もなくそれを食べに行ける
命がけで作った映画も、映画館を出たら、ただの「作品」として流せてしまう自分たち
どれほど稀有で幸せなことなんだろうかと思いました。
潜行パナヒ
劇中劇をトルコで撮ってリモートで指示しているのは、パナヒ監督がイランで映画制作を禁じられているのと、なおかつ出国もできないからだと思うが、実際にはイランの国境付近の村のシーンも撮っているわけで、結構な数のイラン人が監督に加担していることになるが、その辺の事情はどうなのだろうか(似たような事例では収監中に刑務所から指示を送って映画を完成させたトルコのユルマズ・ギュネイがいる)。
イランの映画監督と言えば、独自の切り口で人生の不条理を描くアスガー・ファルハディがいるが、彼には制作上の障壁はないのだろうか。どういう基準でどのあたりまで政府の介入があるのかが知りたいところである。
因襲にとらわれた田舎の人々の無気味な怖さというのは、イランに限ったことではなく、アメリカ映画でも日本映画でもたびたび見てきた。理屈の通じない暗黙の圧力というのは、じわじわ腹わたに効いてくる。昨今のどうにも理不尽なニュースの数々に接していると、地球全体が大きな村のようにも思えてくる。
いろいろめんどくさい
君は行く先を知らないに続いてまたイラン映画。なんか似たような内容だなと思ったら監督親子だそうで イランの閉鎖的な現状を描く、こちらの方がちと分かり易い
田舎は確かに変わったしきたりが多い、すぐに噂になるし、砂で何処に行ったかバレるなんて良いんだか悪いんだか...映画を撮るのも命懸け、それでも撮り続けるのは映画がやっぱり救いだからかな
こんな映画の作り方があるんだと感心した。
てっきり素人さんが演じていると思った。パンフレットを見るとれっきとした俳優さんだ。
ドラマ仕立てたが、その製作の裏側を含めドキュメンタリー風にして映画が作られていく。複雑な構造を持った映画。
浮かび上がったのは、イラン人が置かれた閉塞状況だ。トルコ国境近くの貧しい村に蔓延る古い因習。自由がなく経済制裁を受けている宗教国家イラン。
タイトルの熊はいろいろな意味がありそうだ。パンフレットの解説は「脅威」となっていた。私は人間の心を縛る宗教や思想・因習かなと考えた。観る人によって熊はいろいろ解釈されるだろう。良い映画だった。
切実なのにどこかユーモラス 土埃舞う村、悪い人たちではないけど都会...
切実なのにどこかユーモラス
土埃舞う村、悪い人たちではないけど都会とは違う論理で生きる村人たち
トルコから先に進めないカップル。一人で行けたらいいのに。行ったらよかったのに。行けたら…
設定の面白さの裏にある現実
特に事前知識を入れずに鑑賞。
最初は和やかな雰囲気とリモート監督という面白い設定で楽しみつつ、若干眠くなるくらい。
しかし、だんだん不穏な空気と緊迫感がただよってくるとともに、出国、国境、しきたりが絡んできて目が離せなくなってくる。
この先どうなるんだろうと気になりながら、それぞれの舞台で非情な現実とともに思わぬ展開へ。
こういう作品だったのか、と鑑賞後。
ポップなポスターの裏にある意図を、レビューを読んで知る。
国外に出たい意図など、わかりかねるところはあるが、映画制作を通じた問題の伝え方というものを知る作品であった。
2023年劇場鑑賞93本目
23-119
世界にはまだまだ自分の人生を想いのままに選択できない人々がいる。
政府や警察、群により抑圧される人々、
村の古い因習に縛られる人々、
大勢を守るための捻じ曲がったルールで
誰も意を唱える事ができず、
厄介者は排除される。
舞台のイランに限った話ではないだろう。
日本でも、世界のどこにでも、
田舎の村にも、会社の中にも、
不自由に縛られる人々はいる。
暗黙のルール、
熊🐻はその中にいるのだろう
命懸けの映画撮影🎥🎤
島国の日本には分からない?分かりにくいのかもしれない… 国境の重要性
場面は大きく分けると2つに別れる
トルコで映画をリモートでとる場面と、トルコ国境に近い隣国の片田舎(電波📶が通じず、携帯すら普及していない)で素材❔を取材している場面
少しのディスタンスでこんなに…や、片田舎の独自の慣習(独自法?)、そして他国民の迫害 日本でもあるあるを海外バージョンでリアルに描かれている
大多数の人間が持っている性なんだろうか…
日本ではわかりにくい点はあるが、仕方がない一作。遠く離れたある国の実情。
今年337本目(合計987本目/今月(2023年10月度)2本目)。
(参考)前期214本目(合計865本目/今月(2023年6月度まで))
映画館をチェンジしてこちらの作品に。
本映画は先月だったか「君は行く先を~」と同じイランを扱った映画で、国による検閲等が厳しい、また、日本からでは文化などを知ることが難しいといったいろいろな事情があり(特に前者のほう)、何を言いたいかよくわからない部分はかなりあります(この点は「君は行く先を~」と同じ)。
そうした事情(検閲逃れ)が背後にあるため「熊」が何か「いない」とは何か等は明示的に描かれることはなく、また映画を見ると、イランにおけるいわゆるフェミニズム思想について「日本からの見方ではおよそありえない」ような実態が語られているシーンが存在する(ただ、このことも否定的に描くと検閲にひっかかってアウトなのだろうと思われます)など、論点が多岐にわたる映画です。
こうした事情があるため、一見しただけで趣旨を理解しがたく、この点はただただ車をぐるぐるあっちこっち運転する「君は行く先~」と似た部分はどうしてもあり、この点、イランの検閲を避けて通ることはできないので、日本においてはどうしてもそれを通してしか見ることができず、どうしてもわかりにくいという部分もあります(なお、この地域の映画の特性としてイスラム教があげられますが、本映画でも「コーランがどうだの」といった語句以上のことは出ません)。
個々わかりにくい部分が多く、減点幅をどうするのかすら決められないという特殊な映画ではありますが、「遠く離れた、日本の戦前、戦中の検閲制度をはるかに超越した制度が今現在でも残っている国」における「せいいっぱいの妥協としてできた作品であろう」と思われる以上、多くは引けず、フルスコア切り上げにしています。
なお、映画の中ではやはりわかりにくい部分があり、どう見ても答え(映画の趣旨)がわからない部分がどうしても出てきますが、それは検閲によっていろいろカットされたり修正を余儀なくされたものであろうことから、「3回みたらわかるか?」とかというようなものではないので要注意です(多分、6割も理解できるかどうかも怪しい?)。
採点においては上記のような特殊な事情があること、また、特段それ以外でも差し引く要素まで見当たらないのでフルスコアにしています。
全33件中、1~20件目を表示