イニシェリン島の精霊のレビュー・感想・評価
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すべては『イニシェリン島の精霊』を完成するために・・・これが映画だと…傑作だと思う・・・
①凝った脚本の、かなり人を喰った映画だと思う(だから「ゴールデン・グローブ賞」のコメディ部門にカテゴライズされたのだろう)。
同時に、これが正に“映画”という魅力に溢れている。
『スリー・ビルボード』も傑作であったし、この監督注目である。
②ケルト文明が色濃く残っているようなイニシェリン島の風景描写が先ず素晴らしい。それに被さるケルテックな音楽。魔女のようなクソババアの予言。それらからして寓話の様な、中世のお伽噺のような雰囲気を纏っているが、実はかなり風変わりな友情の話である。
③親友から突然“お前のことが嫌いになった”と言われた時の、コリン・ファレルの表情が絶妙。これで映画に引き込まれた。
④普通、親友に突然“お前が嫌いになったから今日から話しかけるな”って言うか?何かの意図があるに違いない。
言われたコリン・ファレル扮するパーチリッジは身に覚えがないのでアタフタし理解できず悩み苦しみ挙げ句泣いてしまうけれど…
⑤『イニシェリン島の精霊』を完成させたい。しかしそれまではパートリッジに付きまとわれたくない、彼のお喋りが邪魔である。
いくら親友とは言えやはり自分の進みたい人生が大事である。
親友だけあってブレンダン・グリースン扮するコルムはパートリッジを良く理解していたのだろう。
“話しかけられたら指を切断する”くらい言わないとパートリッジを遠ざけられない。
本気だと言うことを示すために余りチェロの演奏には影響が少ない(?)指を一本切ってパートリッジの家のドアにぶつけることまでする(友達だからこそ出来たような気がする。他人なら嫌がらせだと告発されるかも…)。
コルムははじめから指を失くすことぐらい覚悟していたのだろう。⑥コルムの“人生は死ぬまでの暇つぶし”“人の記憶など50年もすれば忘れられてしまうが、音楽は200年も残る”という台詞に彼の心情が伺える。
島で多分一番のインテリであるシボーンにも彼の心情を理解して貰えると思い説明するが、やはり理解しては貰えない。。
⑦コルムのパートリッジへの友情が実は消えていないことは随所に現れる描写から伺える。
警官に殴り倒されたパートリッジを助け起こし馬車に乗せる。
シボーンが乗った船が出港した時に、断崖の上でパートリッジと共に見送っていたのはコルムだったろう。
ロバが死んだことで文句を言いに来たパートリッジにロバのことで嫌みを言った警官を殴り飛ばす。
⑧自分の真意をやっと分かってくれたのかと思いきやパートリッジがまた押し掛けてきたので、もうチェロを引きながら作曲するのに必要はないし、(友達との)約束通り残りの指も切断してしまう。
この後何故こんなことをしたのか説明するつもりだったのか、うっちゃっておくつもりだったのかはわからないが、事はコルムの思いとおりには行かなくなる。
⑨元々イニシェリン島に住むことには飽き飽きしていたシボーンは一連の出来事にとうとう島を出るという決断を下す。
パートリッジが家族のように思っているロバのジェニーがコルムの投げた指を口にして死んでしまう。
すべてコルムの予想外の出来事が起こってしまう(歯車が狂い出す)。
⑩クソババア魔女が予言した二つの死。人間が二人死ぬと思っていたが、一人は人間(恐らくシボーンに失恋したドミニクの自殺-映画の前半で、若い健康な若者が湖で自殺したとドミニクの父親である警官が島のニュースとして雑貨屋で報告するのが皮肉な伏線になっている)。そしてもう一つの死はロバのジェニーだった。
⑪とうとうブチキレたパートリッジは、仕返しにコルムの家を焼いてやると宣言する。“(火をつけた後)家の中は見ない”とも。
そして宣言通り火をつけるが、火のついた家のなかを覗くとコルムが座っている。が、パートリッジは助けない。コルムが死んでもよいと思ったのか、いずれ逃げ出すと思ったのか。
⑫その後、浜に降りたパートリッジは生きているコルムを見つける。
この後二人の間に交わされる会話が巧い。
コルム:“これでおアイコだな。“
パートリッジ:“あんたが生き残ったのでおアイコじゃない。”➡️まだつきまとう気。
コルム:“砲撃しなくなった。内戦は終わったのかな。”➡️二人の冷戦は終わったか、友情は終わったか?
パートリッジ:“終わらないものもある。”➡️二人の冷戦は続くのか、友情は続くのか?
コルム:“犬の世話をありがとな。”
パートリッジ:“Anytime.,”➡️“いつでも”(この先も、って意味)
これらの会話を二人は視線を合わせず対岸の本土を見ながら交わすが、二人の間に再び友情が戻ってきたように感じた。或いは、結局この話は初めから捻れ合い絡み合いながら続いた二人の不思議な友情物語だったのか。
⑬コリン・ファレルは、素朴で人は良いが妹ほど聡明でもない農夫の、親友からの突然理由もわからない拒絶を受けての困惑、悩み、悲しみ、苦しみ、嫉妬、怒りを様々に表現する非常な好演。拒絶される理由が判らず妹に“俺って善い人間だよな?”“退屈な人間か?”と繰り返し確認したり(妹は“この島に退屈じゃない人間なんている?”と答えちゃって暗に退屈だと言っているようなもんだけど。)、妹に島を出ると言われて“残された俺はどうなる?”とアタフタする人間としての可愛さ、コルムの本気を見せられても、妹、パプの主人や常連に呆れられながらコルムの友情を取り戻そうと空回りする(結果、コルムの右手の指が全部無くなることになる)一途さと頑迷さを巧まずに表現。
⑭一方、物語を動かすコルム役のブレンダン・グリースンは、突然理由も言わず親友と絶交したり話しかけると指を切断すると脅して挙げ句本当に切断したり、と“おっさん、頭おかしいんちゃう?”ギリギリのところで、親友と袂を分かっても人生の残りの時間を自分の為だけに使いたいという老人の心を説得力を持って描き出す。(これは老境に入りつつある我が身としては理解できる。)
⑮バリー・コーガンは、『グリーン・ナイト』といい『聖なる鹿殺し』(ここでもコリン・ファレルと共演)といい、ケッタイな役が多いが、ここでも幾分頭の回転が鈍そうな然し結構回りを良く観察している青年をウザさギリギリの匙加減で好演。シボーンへの思慕をなかなか口に出せないところと挙げ句玉砕するところや、実は父親に性的虐待を受けていたりしているところにそこはかとない哀しさも漂わせている。
⑯これだけならかなり陰鬱な映画になるところを、島にへばりつく男たちを理解して尻を叩きながら、最後は本土に居場所を求めるシボーンのチャキチャキした存在が映画の裾野を広げている。
⑰随所に露悪的な笑いやユーモアを散りばめた映画だが、教会の懺悔の部屋が、神父とコルムとでは懺悔の部屋にならないところが面白い。男色を仄めかされ激昂した(カソリックでは最近未成年にたいする性的虐待が問題になってますよね)神父が“地獄に墜ちろ!”とコルムに怒鳴るところはやや定番なから可笑しい。
マーティン・マクドナーは何を伝えたかったのだろうか
これまた、陰鬱とした映画だ。
誰も幸せにならない映画だ。
一体、マクドナーは何が言いたかったのだろう
十字架や死に神のモチーフを使って、
彼が伝えたかったことは何なのだろう
最初、ゴリゴリの実存主義の話かと思って観ていた
実際、コルムの話した、「優しい人は忘れられる、音楽だけが永遠に残る」って話も刺さりまくってしまったし。
それから、パードリックが変わっていくのだけど、
ずっと困った顔してたコリンファレルが人んち
乗り込んで、悪態つくときの可愛さたるや。。
動物を大切にしてるのも可愛かった。
で、死に神が島民二人の死を予言する
本の中におそらく真言を見つけた妹は島を去る
妹に想いを伝え、破れたドミニクは湖で死ぬ
未だ友人を失ったことを引きずるパードリックは
鏡の中の自分を殺し、コルムの家に火をつける
しかし、コルムは死なない。
彼は音楽の為に、生き続ける。
ここから考えるに、「人に執着した者」は死んでいる
そうじゃなく、自分、または自分が信じるものに従って行動した者は死なない。そんな法則がある
こんな言葉を聞いたことがある。
「たいていの人は25歳で棺桶に入り、75歳で死ぬまでそこで過ごす」
島の中で、パードリックは死んでいる
コルムもかつては死んでいた
しかし、音楽を見つけ、生き始めた
同じ死人だったパードリックを拒絶したことで、奇しくも彼に生きる目的を持たせることになる。コルムへの復讐だ。
彼はこれからも島の中で、復讐することを目的として生きるのだろう。
島とか、地方とかの閉鎖的な環境によくある事だが、暇な人間は人に執着する。
あの肉屋のゴシップ大好き店主もしかり、他人への興味が尋常じゃない。
おそらく何も見つけていないからだろう。
だから生者に執着する。
そこから逃れる事が出来るのは、自分の名前と引き換えにしてもいいほどの、永遠に残る何かを見つけた時だ。
と、難しすぎて脳が痺れてきた…
真の主題の一部でも分かればいいか…
にしてもスリービルボードってやっぱり飛び抜けて傑作だったよなあ…
いやぁ、、評しにくい。。
確かに脚本は素晴らしく完成している。そして主要な役の俳優4人、いずれも素晴らしい。からの、トータルとしてどうか。。。うーん、評しにくい。
私は作品へ「感情移入」について、評価そのものに「影響」はしたとしてもけして「重要」なことではないと思っています。ただこの作品は、序盤こそオフビートなやり取りに笑える余裕もあるのですが、まだ前半とも言える時点から早々にコルム(ブレンダン・グリーソン)の言動のスリラー味に対して、惑わされるスーラウォーン兄妹(コリン・ファレル&ケリー・コンドン)へ否が応でも感情移入してしまい、次々と「起きることの衝撃」と「転がるような展開」にとても平常心ではいられなくなります。
本作の監督であり脚本を書くマーティン・マクドナー、『スリー・ビルボード』の不条理さもなかなかなものでしたが、はっきり言って本作は、比較にならないほど常軌を逸していてずっとザワザワが止まりませんでした。
果たして一体、どんな相手にならこの作品を薦められるのか判断できませんが、仮にこれが「アカデミー賞作品賞」を獲っても、それだけで「ちょっと観てみるか」のノリだったらむしろ観ない方がいいと思います。それだけ、映画ファンとして「絶対、否定はされたくないけど、これが最高だとも言いにく」バランスの云わば「問題作」だと思います。
内戦の実態
こりゃ難しい...というか理解できない...笑
ハマってみてしまう不思議な力を秘めている作品ではあるんだけど、静かすぎるのと登場人物全員の行動と言動が意味不明すぎて着いていけなかった。映画っていうか、絵画見てるみたい。
いきなり始まるから、面白みを感じないのかな。
意図的なんだろうけど、途中でもいいから前日以前のシーンが欲しかった。2人に対して感情移入がまるで出来ないし、常人には訳が分からない。人生がつまらなくなることを恐れ、退屈な友人と疎遠を試みる、退屈な男の物語。流石にそんな話されたら嫌になるのは分かるけど、今までもそうだったんじゃないの?そんな急に我慢の限界ってくるもの?だとしても、そこまでする?マジでよく分からん笑
しかしながら、相変わらずコリン・ファレルの演技は絶妙であり、可哀想だけど情けない主人公を好演。作品の雰囲気もいいし、映画自体は意外にも退屈では無い。続きが気になる作りではあるため、飽きは来ない。陽気か不気味か分からないような音楽も、すごくいい。劇中のバイオリンも癒されます。
これは内戦の風刺なのかもしれない。
つまらない事で腹を立て、自分の利益のために相手を遠ざける。その行動は相手を挑発させ、何もかもを変えてしまう。結局は自業自得。同日公開の「金の国 水の国」とも通じる部分があります。我に返ったら思う。なんて馬鹿なことで怒ってるんだと。本作は国同士ではなく、人同士で描いている。そう思うとちょっと納得。だけど、意味わからんが。
もっとホラーテイストにするか、サスペンスとしての見応えを増やすか、どっちかによって欲しいところではあった。すごく微妙な感じ。予告で見たのとほぼ何も変わらず。面白くないわけじゃないんだけど、色々と超越してる作品です。覚悟の上。
コリンファレル史上困った八の字眉の作品だった‥
こじらせた話の映画のはずが、映画作品としてこじれてしまっている。
壊れた友情の中にも相手を思いやる気持ちがある不思議な映画。 本年度ベスト!
美しい風景とスローテンポの心地よい音楽が流れる中、二人の男の理不尽な争いがハンパなかった。
アイルランドの小島。
イニシェリン島。
本土で内戦が勃発する中、他人事の様にのんびりと生活する島の住人。
決まって午後2時からパブで酒を飲む仲の良いパードリックとコルム。
コルムが出だしからパードリックに絶縁を申し出る展開。
理由は不明。
コルムがパードリックに自分に関わると自分の指を切り落とすと通告。
全く意味不明だけど有言実行。
コルムがそうなった原因が全く解らずストレス発生。
これは本土での内戦(戦争)と男同士の争いを対比させていた感じ。
理由が良く解らず戦争が勃発。
争いが徐々にエスカレート。
理由も解らす終戦。
喧嘩ってこんな感じと自分的に解釈(笑)
そんな中でもお互いを思いやるシーンが良かった。
戦争は相手を思いやる気持ちがあるのか?
気になるところ。
これが本作のメッセージと自分なりに解釈。
コルムの愛犬。
頭が良すぎです( ´∀`)
【"精霊の思惑。"安寧だが退屈な日々を受け入れる"良き人"と受け入れ難くなった人との齟齬を描いた作品。人間関係の脆弱さと微かなる人間の善性を、衝撃的シーンを織り交ぜて描いた作品でもある。】
ー 今作に登場する”良き人”パードリック(コリン・ファレル)も、
彼に突然”お前が嫌いになった。”と言い放ったコルム(ブレンダン・グリーソン)も、
パワハラ警官を父に持つドミニク(バリー・コーガン)等、
主要登場人物は皆、ミセス・マコーミックと呼ばれる年老いた小柄なざんばら髪のお婆さんの姿の精霊、バンシーズに取りつかれている。(私の勝手な推測です。)
聡明な妹シボーン(ケリー・コンドン)以外は・・。ー
◆感想
・アイルランド本島で行われている内戦の砲弾の音が劇中頻繁に聞こえて来るが、これは明らかにパードリックとコルムとの諍いを表している。
ー 更に言えば、コルムの心変わりの理由でもある。いつまで、命があるのか・・。-
・コルムが、パードリックとの交流を一切辞めた理由。
”アイツのお喋りを2時間も聞いているのは無駄だ。500年後にも残る音楽を作曲したい。”
と言って書き上げた曲の名前が”イニシェリン島の精霊”である。
ー 明らかに、コルムは”バンシーズ”に憑りつかれている。
だが、もしかしたらコルムはパードリックに対し、”そのまま安寧な生活を送っていると後世に何も残らないぞ!”と言外に仄めかしているのかも知れないと思いながら、観賞続行。-
・そして、コルムがパードリックに”俺を煩わせたら、俺の指を一本づつ切り落とす”と言い放ち、実際に楽器演奏で弦を抑えるのに必要な人差し指を切り落とし、パードリックの家の玄関に”ドン!”と叩きつけるシーン。
ー うわわわ・・。指を切り落とした血だらけの大鋏や、指から血を流しながら演奏するコルムの姿。インパクトが大きすぎる・・。
だが、彼はドミニクの父親の警官に殴られた時に、助け起こす手を差し伸べたりもしている。-
・島の人々も二人の険悪な関係性を知り、緊迫するアイリッシュパブの雰囲気。曇っている空模様。
ー 実に寒々しいが、確かなる世界観を創出している。-
・阿呆と皆から言われているドミニクを演じたバリー・コーガンも、相変わらずの不穏な雰囲気を纏っている。
ー イキナリ脱線するが、コリン・ファレルとバリー・コーガンが共演した「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」の雰囲気と、今作の雰囲気がシンクロしている気がしてしまった・・。-
・そして、時折現れるミセス・マコーミック。年老いた小柄なざんばら髪のお婆さんの姿の精霊バンシーズとも見える姿も不気味である。
ー そんな島の不穏な雰囲気を察したのか、聡明なパードリックの妹、シボーンは逃げるように本土で職を見つけ、島を去る。-
・コルムは到頭、片手の指を全て切り落としパードリックの家の周りにバラまく。だが、一本の指を喉に詰まらせたミニロバのジェニーは窒息死してしまう。
それを知ったコルムはパードリックに謝罪するが、今度はパードリックがコルムに対し”お前の家に火をつける。”と言い放ち、”彼の愛犬を家から出した後に”、実行する。
ー 焼け落ちたコルムの家の周りを徘徊し、燃え残った椅子を触っているミセス・マコーミックの姿。-
<今作は、鑑賞側に様々な見方を許容する映画だと思う。
人によっては、二人の和解を願ったり、バンシーズの思惑を疑ったり、コルムの身体を張った友だった男の生き方に警告を与えるモノではないかと推測するだろう。
私は今作は、人間関係の脆弱性と微かなる善性をマーティン・マクドーマン監督が、様々なシーンに潜ませて描いた作品として鑑賞した。
不穏な世界観や、ラストシーン、海岸でコルムがパードリックに”愛犬を助けてくれてありがとう”と手を差し伸べる姿など、印象的なシーンが多数ある作品である。>
オッサンのいざこざ合戦
近くで内戦やってて
内戦に関係の無い村でオッサン同士のイザコザの話なんですが それが結局内戦と同じ事になっていて その構造がまあまあ考察していくとかなり面白い内容になっているんです。
最後はイヤーな終わり方かなあとか思ったら 案外見終わった後はスッキリ劇場をでてこれました
テーマが案外深いのでアカデミー賞はかなりの部門で受賞しそうです 出てくる人たちがいちいち こういう嫌な人いるわーって感じの人だらけなのと
激しい出来事は全く無いのに変な緊張感でグイグイ最後まで引っ張るんで ずーっと会話だけなのに全く飽きずにみれました! 言葉にしてない内面の部分の考察が面白い作品だから それが苦手な人だと単純につまらない作品と感じると思うし
予告を見たら だんだんエスカレートして殺し合いとかって考えがちだけど 全くそんな事無く ある意味絶妙なところで締めくくるので 自分はめちゃくちゃ楽しめました 韓国映画ほどエグくないけど まあまあスパイスの効いた内容だと思います
スリービルボードの監督らしい作品なので
スリービルボードがイケる人なら大丈夫!
スリービルボード見てつまんないって感じる人なら
なんだこれ つまらないってなると思います
逆に イニシェリンみて面白いって思っていて
スリービルボード見てないなら 帰って直ぐにスリービルボード見た方がいいです!
友人が 突然 絶交してくる。 揉め事になる。 アイルランドの田舎の島、時は流れる。
有る日 友人が お前は退屈だから 絶交と宣言する。
言われた方は 理不尽さに 怒る。
事件が起きる。
妹は嫌気がさして島を出る。
やがて 揉め事は エスカレート。
あまり 納得のできるストーリーではないし
ほっこりもしないし 感動も無い、
奇妙な話。
1920年頃の アイルランドの田舎の島の 風景、暮らしは 興味深い。
わたしには合わなかった。ある程度予備知識入れて鑑賞すべし!
見た後、他の人のレビューを見るとなるほど!と納得する部分もある。事前に勉強していたら少しは見え方も違ったのかもしれない。
だけど、本作の方向性とかストーリーが奥深く、複雑すぎて、わたしは理解に苦しむ。
例えば指を切り落とすシーンや家を燃やすシーン。
なぜ左の指を切断するのか?そして切り落とした指を映すのか?
家を燃やしても、友達は生きてて、最後は浜辺で2人が会話を交わす。本作の最も伝えたいメッセージなのだろうけど、とにかく冗長で暗くて退屈な時間でしかなかった。
ただ、ロケ地となった場所の美しさ、ロケーションは抜群だった。
「人生は死ぬでの暇つぶし」など、名言も多く出てきていて台詞などは良かった。俳優もね!
1/29追記
他の人たちの書いているレビューを見て、再度見に行こうと。監督のメッセージ、作中に散りばめられた表現を汲み取りたい!
引くに引けない、いい年した大人達の喧嘩話
舞台は1923年、内戦の絶えないアイルランドの孤島、イニシェリン島で起こるパードリックとコルムという、いい年した大人二人の喧嘩話。
ん〜〜〜正直な話、自分はあまり面白くなかったです。
パードリックがなぜあそこまで頑なに関わり続けようとするのかが謎なんですよね。
もしパブで他に話す人もいなくて妹以外に味方がいない、というのなら固執してしまうのも分かるのですが、別にコルム以外とも全然話してるし「なんでこうなったんだろう」と相談したりしている。
コルムは「ほっといてくれ」と言っているだけなんだから、少し時間を置けばいいだけなのにそれもせずすぐにつっかかりどんどん気持ちを離れさせていく。
最初の方はまだ「パードリック空気読めないし本当に鈍感だな…笑」となるんですけど、実際に指を切り落としたものを見せられてからも「返しにいかなきゃ」となってしまうのはもう分からないです。
そこ以降のパードリックは空気が読めないとかとかそういう次元ではなく、他人のことを考えないエゴの塊のような気持ち悪い人間になっていきます。
予告を見る限りコルムが唐突に絶縁を叩きつけるヤバい奴かのように見えますが、実際はパードリックのほうがヤバい奴でした。
言っちゃなんですがおじさんのメンヘラ行動を見せられてるだけですからね。
しかしそこで観客のザラつく心を見透かすかのように差し込まれるのどかで"なにもない"があるイニシェリン島の牧歌的な風景。
この島の映像が心の浄化剤になっていたのが良かったです。
監督の前作『スリー・ビルボード』では登場人物の心情を丁寧に描き、お互いの環境なりなんなりがあってすれ違いが起きていく作品でしたが、今作はどうにも主人公に感情移入できない。
コルムはやりかたが不器用だが言いたいことは分かる。妹のシボーンは島唯一の常識人ですし、発達障害っぽい感じのドミニクでさえ欲に対して忠実すぎるだけで悪いやつではありませんでした。
でも主人公のパードリックは人の忠告を聞かず、実際に指を切り落としたコルムを前にしても自分が身を引くという選択肢を持たずに関わり続けようと執着を見せるのが共感できないんですよね。
「すべてがうまく行っていた、昨日までは。」というキャッチコピーはあくまでパードリック目線、コルムとしてはそれまでが退屈で、絶縁状を叩きつけてからのほうがうまく行っていたように見えます。
なんだかんだ途中まではちょいちょい笑えるシーンがあって、これ笑っちゃうのは自分が不謹慎なのかちゃんと狙って作られてるのか分からなかったのですが、どうやら今作のジャンルはブラック・コメディとのことで、愚かな人間の行動を冷ややかな目で見て笑うのが正しい鑑賞方法なのかもしれません。
いやしかしパードリックを演じたコリン・ファレルの困り眉のハの字具合がすごかった。その角度で主人公の感情の揺れ幅が分かるくらいに、劇中の9割は眉がハの字になっています。
そして今作を観終わった自分の眉も同じようにハの字になっていたと思います。
監督が今作で何を伝えたいのかが分からなさすぎて、です。
観ててつらくなる作品
【皆さんの感想を聴いてみたい!】
大好きな前作『スリー・ビルボード』のマクドナー監督に、要注目俳優バリー・コーガンに、名優揃い踏みのキャスティングと公開前から楽しみにしてた作品。鑑賞後の心緒は前作とは違いやや粘着質な印象。ベン・デイビス撮影&カーター・バーウェル音楽と同じチームで製作したのは歴然と分かる。
忌憚の無い感想を聴いてみたいのが所感。変わり映えの無い卑屈で閉塞感に満ちたコミュニティであっても居心地が良いとさえ感じ収まりよくやり過ごす者、他方で無為な日々への焦燥感と自身に対する苛立ちに環境への鬱屈した心情を抱える者の対比と摩擦を、観者を刮目させる人間臭いグロさを象徴的に演出として入れ込み描写するマクドナー監督の世界観は前作に通ずるものがあった。
お互いに不干渉ではやり過ごせない、逃げ場の無い荒涼とした自然に囲まれた曇天模様の島設定に、イデオロギー対立で内戦中の本土と個人心情の振幅・狂気性を対照的に描く脚本が秀逸。マクドナー監督次回作が早くも楽しみ。
どうしてこうなってしまったのか
退屈で何も起こらない美しい島で
小さい島だから皆が皆を知っている。仕事は午前にすべて済んで午後2時にはパブに行ってアイリッシュのビールかウィスキーかシェリーを飲む日々の繰り返し。その島でパードリックとコルムが親友同士であることはだれもが知っている。
人のいいパードリックはコルムにとってかけがえのない友だった。彼とのお喋りは楽しかった。いつまでもそれが続けばいいのにとも思ってた。でもコルムはパードリックより年上でちょっとインテリでパードリックのことを本人以上に知り尽くしている。何もない島、対岸では内戦、いつかは人間は死ぬ、逃れられない。
コルムはこう願ったのか?自分とパードリックの死後も、この島に濃厚で風変わりで熱い友情を結んでいた二人の男が居たことを島の人間やその子孫(そもそも島の男と結婚する女性はいたか?)が覚えていて、ことによったら語り草にしてくれたらいいのに。誰からもいい人と思われて動物にも優しい男、パードリック、そんなんじゃ忘れられる、お前の中の何かを俺が引き出すからな。ドミニクの言った通りだったのかも知れない。それに絶交宣言の後の方が二人の友情の質が高まっている。二人の会話も以前より中身が詰まってきたのではないか?
コリン・ファレルの演技が素晴らしかった。単純でいい奴で素朴で、濃い眉毛を八の字にした困り顔は本当に可愛くて言動も子どもみたいで何度も笑ってしまった。妹が島を離れ、愛するロバのジェニーを失い、パードリックの顔も行動もどんどん変わっていく。それがコルムが見たかったことなのかも知れない。コルム(ブレンダン・グリーソン)は歩く姿も海辺に佇む姿も演奏する姿もすべてが絵になっていた。
おまけ
1)戦争って、なんてことない兄弟喧嘩風に始まって、始まったら最後、なかなか終わらせることができないことをこの映画は言ってるのですか?男の人達はみんな暇そうだったなー。島の女性はパードリックの妹(島で唯一読書する人で島から脱出した唯一の人)と小売店の店主(何か新しいニュースはないかにしか関心がない人)しか居なかった。
2)見てからぐずぐずとああでもないこうでもないと考えて、色んな方のレビューを読んで、そっかー!と納得しながらまた考えて。夢にまで出てくるんですけどー!大迷惑!でもなんだか嬉しい。なんなんだ?この映画!
ロケーションと映像のつくりは抜群
演者のキャラのみならず映画自体も退屈
考察してみた:時代背景を知ることでより深く感じられる作品
いい年したオジサン二人の個人的なケンカを見せられているのに、
いっさい「つまらない」といった感情が沸いてこない不思議な作品。
不可解な部分も多く、クエスチョンマークを残したままで終わるがなんだかとんでもないモノを見せられた…鑑賞後の気分はそんな感じ。
ケンカの様子や結末は本編を観てもらえば分かるので割愛し、なぜ急にケンカが起きたのか、そして「精霊」の扱われ方に考察してみた。
(本編になるべく触れないようにしているけど、読むのは鑑賞後をオススメします)
考察するにはあたって、この時代のアイルランドの歴史を少し調べてみた。
舞台は1922年頃の架空の島・イニシェリン。架空ではあるが地理的な位置からアイルランドの首都ダブリンに近いアラン諸島の島を意識していると考えられる。
静かなイニシェリン島とは対極に本土では内戦が起こっている。
この内戦、どうやら完全な内輪揉めだったようだ。
アイルランドは古くから英国の統治下にあり、その歴史上、度々独立のための戦いが起きていた。
これらの戦いはカトリック(アイルランド)とプロテスタント(英国)の戦いとも言い換えられる。
内戦勃発の前年にも対英独立戦争が起きていた(もちろん失敗に終わる)。
ところが、今回関わってくる内戦はカトリックとプロテスタントの対立ではなく、
カトリックの中で英国と今後どう付き合っていくかについて、意見が分かれた結果、争いにまで発展したものである。
身内同士で勝手に争っている本土の様子は明確に描かれてはいない。しかし、夜になると爆撃の音が島にも聞こえ、
直接的な関わりはないけど、対岸で争っている様子が島にも伝わってくる状況である。
そのような状況下でコリン・ファレルが演じるパードリックとブレンダン・グリーソンが演じるコルムの静かなケンカが始まる。
実際には一方的にコルムが突然にパードリックを避け、金輪際、一切自分に関わるなと突き放す。
昨日までの親しき友に理由も分からず拒絶されたパードリックは、当然納得がいかない。
観てるこちらとしては「もう止めなよ…」と思いたくなるぐらい、避けられてもコルムに近づこうとする。
どうしてコルムはパードリックを突き放したのか。
私はコルムが内戦をきっかけに死を改めて認識し、死への対抗心が芽生えたのではないかと考える。
私たちも近年、パンデミックで日々死者数を告げられ、死を身近に感じるようになった人もいるのではないだろうか。
別にそれをきっかけに死が近づいたわけではない。死は常に私たちの隣にある。それにも関わらず、多くの人は死を日常から切り離し、
他人事と捉えて過ごしている。私たちの場合は、パンデミックで、コルムの場合は本土の内戦で、それまでは他人事だった死が自分事になったのだ。
死を身近に感じたとき、コルムには死んで忘れられることへの拒否感が生まれた。
それが彼のあらゆる行動の原動力となっているように思われる。
彼から発せられた弔いや謝罪の言葉、そして生への執着を感じられる行動、これらは全て死を実感し、それに憑りつかれた男の言動と思えば辻褄が合う。
そう考えるとパードリックは完全にコルムの暴走に振り回された感がある。
(パードリックの言動を見ていると、まぁちょっとそうしたくなるよな…と思う部分もある)
極端な言動に走るほどコルムは死に憑りつかれた、故にパードリックを突き放したのだ。
さて、この映画でもう一つ重要な要素が「精霊」である。
アイルランド地方に伝わる死を予告する精霊・バンシーが基になっている。
このバンシーという存在、ここまで考察した死というものの性質と真逆の存在である。
物語でもとある死が突然訪れる。いわゆる「死亡フラグ」は直前まで無い。
これも死が我々のすぐそばに常にあり、前触れもなく誰にでも降りかかる可能性のあるものとして示唆されているように感じられる。
対して、精霊は本来は突然訪れる死を告げる存在として語られる。
どうして死の性質と真逆の存在である精霊を映画に加えたのだろうか。
この精霊は物語において2つの役割を果たしていると考えられる。
1つは死を改めて認識すること。本土の内戦と精霊の存在の相乗効果で死の存在感を高めたのだ。
もう1つは死に対する人間の普遍的な恐怖心・拒否感を明示することである。
アカデミアには妖怪学という分野がある。なぜ妖怪という概念が存在するのかなど研究する分野だ。
そこでは人間は説明がつかない事象に対して恐怖を覚える性質を持ち、それらの事象を説明するために生まれたのが妖怪だとする説がある。
例えば、家がきしむ音。現代なら物理分野で説明がつくが、江戸時代には屋根裏に潜む無害な「やなり」という妖怪が動くから音がするとされた。
理由がなく家が音を立てるのは怖いが、やなりが音を立てていると考えればそう怖くはない。
つまり、精霊や妖怪など非科学的な存在の背景にはそれらがつかさどる事象に対する人の恐怖心などがあるのだ。
今回の場合、精霊がつかさどるのは死の訪れである。
精霊の存在そのものが人間の根底にある死への恐怖心・拒否感を象徴しているのだ。
以上を踏まえると、この映画はコルムに主軸を置いて、死という現象を強調し、それに憑りつかれた男と
その男に振り回された男の物語という1つの見方ができる。
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