「芸術家のエゴ:コルムが監督の言いたいことを代弁していると思う。」イニシェリン島の精霊 Socialjusticeさんの映画レビュー(感想・評価)
芸術家のエゴ:コルムが監督の言いたいことを代弁していると思う。
これだけ深くて幅広い見解の映画は久しぶりだ。監督が我々に幾重にも問題意識を与え、監督の見解がコルム(ブレンダン・グリーソン)を通して現れているように思う。なぜこの三人三様の登場人物が必要だったんだろう。この三人がどう監督の主題に結びついていくのだろう。監督の言いたいことはなんなんだろう?と考えてみた。芸術(コルムは音楽、監督は映画)は批判、爆発的なもの、悲劇、不確かなもの、奇妙なこと(ここではバンシー)など
を加えて、一つの作品に仕上げることができ、それがコルムの言葉を借りると、50年よりも先まで賛美されるようなものを作り上げることできるようになるということだ。それは例えば、指を切り、それらをパードリック(コリン・ファレル)の家のドアに叩きつけたり、気の弱そうな無知なパードリックに意味もなく絶交をしたりする。そして、それにパードリックのドンキー、ジェニーがコルムの指を食べて死ぬようなブラック・ジョークも加える。芸術家の仕事の出来具合は、賞を取ったという形だけでなく、人々が作品にどんな形で感動して覚えていてくれるかによると監督もコルムも思っているようだ。それが名作として歴史に残り、名をなす。それに、コルムや監督からしてみると、ここでの主役パードリックの存在は重要で、芸術上『言い訳』のように利用していると思う。パードリックを主役にして同情が集まるようにすることも、登場人物を複雑に噛み合わせる手法ではないか。つまり、芸術に対する創造力を見せるためパードリックをコルムと比較する存在として利用したということだ。確かに、音楽、詩、絵画などの芸術は永遠のものだ。今だって18世紀のモーツアルトを奏でているからね。パードリックの無知や戦争は全ての芸術を破壊する。コルムが「私のことは50年経っても誰も覚えていない。でも、芸術は50年経っても人々に残るもの」と。監督もそういう作品を作りたいのではないか。ここに監督の主題があるのではないか?
主題に付属するように副題として、島国の小心者、パードリックと芸術家で教養のあるコルムとパードリックの妹で、島でのやっかいに見切りをつけるシボーン(ケリー・コンドン)の三人はそれぞれの生き方を選択肢として我々に提示してくれている。それに、コルムとパードリック(敵対する同じ民族を象徴)の二人の状態はあたかもアイルランド内戦を象徴するかのように。タイトルのバンシーは大声を出して死を予告するアラーム(ドミニックの死)だ。二人はこの死(内戦)を避けているように映画でセットされているこれは死(内戦)を免れているが、犠牲になった人はドミニックである。アイルランドの内戦、また戦争における犠牲者は一般市民ドミニックのような人。
テーマの多い作品だね。ーー(レビューのまとめ)
余録
下記は私の心の動きを書いたまでだ。
パードリック(コリン・ファレル)がコルム(ブレンダン・グリーソン)に何かしたならしたって言ってくれ、子供のようだよと問いつめているのを見ながら、なぜコルムが急激に変化して行ったのかが気になった。昨日まで友達だったんじゃないの?パードリックは何もしてなさそうじゃないか?今までのように話せよと思った。真面目そうなパードリックを見ていると友達を失ってしまったことを悩んでいるので気の毒になった。
隣人ドミニク(バリー・コーガン)がパードリックに妹シボーン(ケリー・コンドン)の裸を見たことがあるか聞くシーンがあるが、パードリックはないと言い、妹は本を読んでいると言った。この辺から、ドミニックは読書は別世界と思っていそうだし、パードリックもコルムのこともあるが、妹の趣味にも噛み合わなさをみせる。
1923年、4月....
妹がパードリックに「一人で寂しくなったことがあるか」とか、「今悲しい本を読んでいるんだ」とか言うとパードリックの答えは妹の感性と噛み合わないのがよくわかる。パードリックは妹のレベルで物事を考えられない。でも、優しくて人が良くて誰にでも声をかけるんだよ。
私は何か合点がいかず、変だな変だなと思っているうちに、コルムも妹が感じているフラストレーションを持っているとわかる。妹の場合は無知な兄のことをよく理解しているようだ。しかし、コルムがパードリックのことを『dull』 といって、「わかるだろう?」というがパードリックの妹、は返事をせずバーを飛び出す。賢い妹のシボーンはこれで何が起きたかを理解する。
コルムの部屋はパードリックの部屋の内装とは違って、蓄音機、マスク、能面のようなものが飾ってある。当時としては芸術のセンスがあるようだ。音楽の才能もあるし作曲もする。バーで歌ったり、演奏することにより、村の人々を楽しませることができる。芸術家で、彼は自分の才能を謳歌させたいようだし、内戦状態でいつ自分の住んでいる島にも波及するかもしれないという緊迫感から、老い先短い、今を生きようとしているのかもしれないと思った。
コルムとパードリックの会話は、目的のない会話(aimless chatting)と普通の会話(normal chatting) と説明されてる。これはコルムの言葉だと記憶する。才能がある人は自分の人生で毎日お茶飲み友達がするような『目的のない会話』を楽しむ気持ちがないんだね。二人の価値観は全く違う。二人の人間性をそれぞれに動物を使って例えている。
パードリックはジェニー(ドンキー)とコルムはサミー(いぬ)、この比喩表現で二人の違いを表しているのは明らかだ。
しかし、狭い島国での世界で何を言ってるのと、納得して初めは見ていた。ケン・ローチの「ジミー、野を駆ける伝説(2014)」のようで、島国の人々の人間性を変えるのは難しいなとも思った。それに、徐々にパードリックの執拗さにもうんざりしてきた。あの多弁なコリン・ファレルが太い眉を上げ下げして真剣に悩んでいる演技が本当に上手に見えた。
また、コルムが指を切ってドアに投げつけるなどと衝撃的で、話が異様な展開になっていく。冗談っぽくも聞こえたが、真剣そのもののようにも思えた。また、ジェニーがコルムの指を食べて死ぬなんていう冗談にも疲れてきた。それに,老女、マコーミック(バンシー:シーラ・フリットン)が現れて、人に死を予告するし、薄気味悪くて興醒めした。
自問自答だが、あくまでも私感である。
1)このストーリーが2023年代のアイルランドとどう関わってくるか?
最後、海辺でアイルランド本土を見ながらコルムがパードリックのジェニーに同情する言葉。また友達になろうというような言葉の自己満足さ。これをアイルランドの内戦に例えていると思った。コルム「戦争は終わるだろう」パードリック「また、すぐ始まるよ。でも、何か先に進んでいることがあるよ。それはいいことだね。」二人は停戦のようだが、個人の喧嘩はいつまた起きてもおかしくない、戦争のように。この二人の喧嘩はアイルランド内戦と同じで少しはよくなるが続くだろう(北アイルランド[UK}とアイルランドの問題はずうっと続くわけだから)とパードリックが二人をアイルランドとの関係に例えている。このシーンはパードリック考えているので賢そうに見えた。(You don't thinkじゃない)
2)閉鎖的な島国で生きてきた人間、パードリック、コルム、シボーンという三人を登場させた監督の意図は何?島国で生きていく代表的な人々の縮図かもしれない。
パードリックのように人間、自然、動物との交わりに感謝して生きてきた人間。退屈そうだけど、この島で生きている(しか生きていけない)人。
コルムのように島に生きていても、何かを学び取ることができる人。芸術一般を愛し、作曲、指揮などまでして、自分の教養を高める(高めたい)人間。意固地になり、自分に満足がいくまで突き進む人間。許容はなく、すべての指を切り落とし、満足感に浸るまで、自己を追い詰め表現する。そして、一番最後のシーンでもわかるように、彼にはまだ声が残っているというのを見せるかのようにコルムは歌い出す。これでこの映画の話は終わる。複雑で狂気的な心境はまさに理解できないが、奇行、モーツアルトや聴覚障害者、ベートーベンなどと同じようだ。ベートーベンは耳が聞こえなくても作曲し指揮をした。モーツアルトの人間性も異常なところがあった。またはゴッホが片耳を切り落としたというように究極にむかっていくおそろしさ。それに、コルムの指を切り落とす言動や行為から村人に衝撃や不快感を与えるという、薄気味の悪さ。例えば、モーツァルトの狂気状態をコルムが代弁していると思わせる。これは芸術家の究極的な満足感?指がなくても、指揮ができる。歌える。
シボーンのように問題意識があり、島国での生き方や、関わり方に嫌気がさして新天地に向かう人間。Island Fever (Cabin Fever)のようなもので、閉鎖的な環境では窒息しそうになるから出ていく。
余録:バンシーという悲劇的な伝説との関わり。私の生徒にアイルランド人がいたので、バンシーの昔話を聞いてみた。色いろな説があるらしいが、黒か緑のような服を着て髪を長くした老女。そして、大声で叫び人の死を予告する。
神話では戦争の神でもあるらしい。老女、マコーミック(バンシー:シーラ・フリットン)はここでその役をする。