「自己嫌悪の苦しみから解放される話」ボーンズ アンド オール インターネットフルーツさんの映画レビュー(感想・評価)
自己嫌悪の苦しみから解放される話
原作未読です。
ティモシーシャラメの人気の為か上映館は多いものの、この映画が刺さる層は広くなさそうです。
なぜなら、カニバリズムというテーマとホラー・スリラー的な演出、ロードムービーとしての脚本と表現、キャストの個性という映画の各構成要素がそれぞれ別ベクトルを向いているので、どれかを目当てに鑑賞すると「ちょっと思ってたのと違うかな......」となる可能性が大きいためです。
以下、主人公のマレンの視点を中心とした個人的な解釈です。
映画を見終わった後、「なんかよくわかんなかったな.....」.と思いながら読んで頂き、少し納得してもらえる部分があったら嬉しいです。
この映画のテーマと脚本に通底するのは「自分が存在を認められる(愛される)存在だと認めたい」というものです。
主人公のマレンは人を傷つけてしまうことで「自分は存在してはいけない(愛されることのない)人間では」という苦しみ(自己嫌悪)を持っています。父親から見放されたことでその苦しみはピークに達しますが、母に会うという目的ができます。「母=自分を無条件に肯定してくれる(愛してくれる)かもしれない人」というわけです。
サリーは存在が許されない存在(人食い種族)であることを受け入れ、それを前提として生きています。マレンがサリーと行動を共にしなかったのは、「人から愛されなくてもしょうがない、だって我々はこうなのだから」というサリーの考えに同調できなかったからだと思われます。
(単純に不気味なおっさんとのロードムービーは嫌だろという話でもありますが......)
リーはその点、マレンと似たような苦しみを持っている一方で、妹や母から「一緒にいてほしい」と願われていたわけで、マレンは家族からなんやかんや愛されるリーを内心うらやましく思っていたはずです。それはマレンがリーに惹かれた大きな理由と思っています。
(ていうかシャラメが目の前にいて親しくなれたら好きになっちゃうじゃんね)
※途中で出会う二人組は人食い種族であることを楽しんでおり、マレンやリーの苦しみを分かち合う存在ではありません。
結局母親からも殺されかけるというマレンにとって最悪な形で拒絶され、当初の選択に戻ります。
・人食い種族であることを前提として人を食べて生きるか(=サリールート)
・自分という存在を肯定してくれる人(愛してくれる人)と共に生きるか(=リールート)
当然ながらリールートになるわけで平穏な生活を送ることになります。
サリーとの乱闘の後、負傷したリーを食べることは
「愛してくれた人の血・肉・骨を取り込んで共に生きる」という意味を持ち、リーと過ごした時間とリーの血肉を以て、マレンは自己嫌悪の苦しみから解放されたという解釈をしています。
監督の手腕による映像の美しさや、キャストの個性の光り方が素晴らしいのは言わずもがなですが、
このカニバリズムをフレーバーとした一連の自己肯定の流れを美しいと思えるかどうかは観客の年齢や感性にも依存すると思っています。
年齢的には18-20歳前後の感性に最も刺さると思うのですが、R18指定ですしなかなか刺さる観客層は上映館の多さほど広くないのではないでしょうか。