サントメール ある被告のレビュー・感想・評価
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移民として、母として、娘として。複層的な視点によって見えてくるもの
とても複層的な視点と構造を持つ作品だ。ギリシア悲劇「メディア」を思わせる一つの衝撃的な事件についての「法廷劇」でありながら、そこにナイフを深く入れるやミルフィーユのように、社会や文化や被告の女性が歩んできた人生の断面が剥き出しとなっていく。これを具体的な供述の回想シーンなどを用いながら紡ぐという方法もあっただろう。しかし作り手のアリス・ディオップ監督はそういった安易さに陥ることなく、まずは裁判での長いやりとりや言葉を我々に突きつけ、主人公で作家のラマと同じ視点でじっくり追体験させる。やがて浮かび上がってくる被告の半生、フランスでの生活、追い詰められていく精神状態・・・。それと似た人物をラマはよく知っている。それは移民としてこの国にやってきた女性たちであり、母たちであり、なおかつ娘たちだ。これまでスポットの当たることのなかった人々の慟哭と、母娘の理解と寄り添いの物語が、静かに胸を締め付ける。
聖なるフェミニズム映画
この映画のタイトルはなぜ“サントメール”というフランス北部カレーにある地方都市の名前がつけられているのだろう。子殺しで起訴されたセネガル人女性を裁く裁判所がある場所だから、というのはいくらなんでも短絡的すぎるだろう。カレーには確かアフリカ各国からフランスに逃れてきた難民のキャンプがあったはずで、ここサントメールにも移民たちのコミュニティが多数存在しているらしいのだ。勿論“聖なる母親”という意味も踏まえた上でのタイトルだろう。
同じく“子殺し”を題材にしたギリシャ神話映画パゾリーニの『王女メディア』を、傍聴人の黒人女性ラマが鑑賞するシーンがあったのを覚えていらっしゃるだろうか。夫への復讐を遂げた後自らの息子たちをメディア(マリア・カラス)がその手にかけるクライマックスで、なぜか日本の伝統音楽(能?)が使われている。“子殺し”というテーマ性よりも、その異質感に着目すべき演出といえるのかもしれない。『24時間の情事』のエマニュエル・リヴァも異質なもの(ナチスドイツ兵士)を受け入れたせいで剃髪されたのだ。
ドキュメンタリー界ではそれなりに名前が通っているアリス・ディォップもまたセネガル系フランス人女性であり、海に赤ちゃんを置き去りにしたロランスや、小説のネタにするためにその裁判を傍聴する作家ラマと同じような立場にいるインテリ女性。実際に起きた事件の裁判記録を元に映画化しているそうで、西洋人の特に男性検察官には到底理解しえない、アフリカ特有の呪術的世界観を浮き彫りにしていくのである。
なぜ置き去りにしたのかという尋問に対し、「叔母に呪いをかけられた」と答えるロランス。そんなロランスを西洋科学の物差しで分析しようとしても土台無理な話なのである。ロランスと同じくフランス男の子供を身籠っていたラマはその様子を傍聴しながら、セネガルからフランスに夢を持って渡ってきたものの、西洋文化になじめず孤立し精神を病んでいった母親とロランスを重ねていくのだ。「お母さんのようにはなりたくない」裁判所でラマと目があったロランスは意味深な微笑みを一瞬浮かべるのである。
そして人権派白人女性弁護士の最終弁論は、本作の全てを物語っているといえよう。「女性はすべて子供の細胞を体内に宿すキメラなのだ」と、カメラ目線でとうとうと語る女流弁護士さんの演説は迫力満点。こんな詩的な弁論が許されるのもフランスというお国柄なのだろうか。つまり、国内に移民を受け入れたフランスを異質同体のキメラに例えているのである。移民を差別することは母親や娘の存在を否定すること、すなわちフランスという国自体の否定に他ならない、とディオップは言いたかったのではないだろうか。
斬新な演出で重みのある法廷劇
幼い娘を殺害した罪に問われた女性の裁判の行方を実話に基づき描いた法廷劇。実際の記録をセリフにしている斬新な演出とキャスト陣の重みのある演技が素晴らしい。
弁護士の最終弁論でキメラ(細胞の無限連鎖)について語っている点も非常に興味深かった。
2023-146
よかった。
ヨーロッパにもアフリカ系への差別は残っているのだなということと、
子どもを親の望みをかなえる道具的に扱い、親の意に沿わない子どもを簡単に切り捨てることに、
強い憤りを感じた。
切り捨てられた子どもが若い女だった場合、その性的価値に集る愚か者を宿主にして、寄生する以外、生きる術ないよなって思った。若い女だから性的価値が高いとか、そういう価値観は、否定したいけど。
被告ロランスの境遇に、私は同情せずにはおれず、彼女の父母や、娘の父親である嘘つき・事なかれ男に、腹が立った。もう一人の主人公であるラマの恐れにも、強く共感した。
この映画は実際の裁判記録をそのままセリフに採用しているため、ロランスの言動の一貫性のなさなど、
虚構の物語であれば描かれなかったであろう部分に、ひっかかりは感じる。が、その一貫性のなさも事実
であるので、意味を考えてしまってより前のめりになった。
ラマの子ども時代の回想は、境遇が全然違うけれども、女三界に家なしという言葉が離れなかった。
私の母も、ラマの母のように、搾取され搾取され搾取され、その痛みを娘へぶつけて何とか永らえていた。
ぶつけられた痛みはもちろん忘れられないし、長じたのちは、母が味わった苦悩がより鮮明にわかり、さらに複雑な気持ちを抱いている。
男だったら生きやすいかと言ったら、そんなこともないんだけどね。
大体、人間が生きやすく、幸せになる為の世界かってゆったら、多分違うしね。
この世は、なんでかこうで、すべてものが何のためにあって何のために消えてゆくのか、わからない。
分かんないところで生きていくのが辛すぎて、人間は、何でとか、どのようにとか、どんなふうにとかっていう枠を勝手に作ったんじゃないかなって思う。で、自分たちで作った枠組みに、自分たちで苦しんでるってことかなって。
映画とは全然関係のないところに、考えが飛躍してしまったけど、この映画も2023年にふさわしい映画だったと思う。
最終弁論の迫力がすさまじい
パンフレットで情報を補完することをおすすめします。
社会背景や監督の意図がたっぷり説明されています。
実際の裁判記録がセリフに使用されたとのことで関心をもち鑑賞しました。
白熱する法廷ものかと思いきや、地味で淡々としています。
説明的な描写はないので、フランス社会の背景を知らない自分にとっては説明不足で、鑑賞中には理解が追いつきませんでした。
ある被告は「母による子殺し」の罪で裁かれようとしています。
裁判官の問いかけに応えて、被告は自身のことを語り始めます。
セネガル、フランスの社会的背景
家庭環境
人種差別
経済的な困窮
愛人関係
そんな中での妊娠出産
裁判が進むにつれ、実子の殺害は表面化した事象であって、そこに至る背景や被告が抱える事情は、とても複雑でパーソナルな性質を持っていることがわかってきます。
さらに裁判では、母と娘という不可思議で神秘的な関係性にも言及します。
最終弁論の迫力がすさまじいです。
裁判で明らかになる非合理的な動機
仏文専攻の娘に付き合って鑑賞。
現代のフランス事情と裁判を丁寧に描いているので、最初は面白かった。
ただ、裁判が淡々と続き、途中で少しダウン。
裁判で、非常に合理的な背景と非合理的な動機が浮き彫りになる。
母と娘の関係が多重に重なるが、全て暗黙的で解釈がむずかしい。
明らかなのは、華やかでないフランスの現実、移民の姿、受け入れ側(白人)、旧宗主国からのプロモーション。
犯罪には、他人には、自分にもよくわからない人間的な思いが絡むのかな?
フランス北部の小さな町サントメールで、ある裁判が開かれようとしてい...
フランス北部の小さな町サントメールで、ある裁判が開かれようとしていた。
被告は、生後15カ月の娘を夜の浜辺で殺害した罪に問われている、セネガル出身の女性ロランス(ガスラジー・マランダ)。
元留学生で教養もあり、フランス語も母語同様の完璧さ。
だが、裁判が続くうち、彼女の証言に曖昧さや矛盾が現れるようになってくる。
同じ黒人で、若い女性作家ラマ(カイジ・カガメ)は、裁判を傍聴するうちに、どこかしら身につまされる思いがしてくる。
その正体・本質は・・・
といった内容で、実際に起こった事件を題材に、裁判でのやりとり・台詞は証言記録からとられたものだという。
監督は、被告と同じくセネガル系フランス人女性監督アリス・ディオップ。
ドキュメンタリー畑出身で、傍聴する女性作家ラマが監督の分身と言えるでしょう。
さて、上述のように、ロランスの証言に曖昧さや矛盾が現れるようになってくる・・・となると、エンタテインメント系映画では「彼女が犯人か否か」というのが焦点になって展開するのだけれど、本作ではそうはならない。
ちいさなことから学生でいられなくなったロランスは、死んだ娘の父親である年老いた男性(みるからに老人なのだ)のもとに寄宿し、そののち、意図せぬ妊娠をしてしまう。
産むか産むまいかの末、出産するのだが、娘の育児はじぶんひとりがすると決意する。
そこへ至るロランスの心情は、頑迷や困惑、懊悩が入り混じり、他人・第三者の目から見れば「矛盾」としか見えないのだが、結果として、そうしてしまわざるを得なかった。
エンタテインメント映画だとわかりやすい解決へと観客を誘導するが、それはあくまでフィクションの世界で、現実の世界では割り切れないことがほとんどである。
その矛盾の心情を観客に伝えるのが傍聴人のラマの役どころで、彼女が裁判を傍聴する動機ははじめのうちは描かれない。
若い作家の野心のようなもののように見えるが、映画中盤でラマも予期せぬ妊娠をしており、そのことをパートナーに打ち明けられない。
それは相手との関係もあるが、自身のキャリアの問題もある。
ここにきて主題が浮き上がって来る。
女性の生きづらさ、かてて加えて、移民女性の。
主流社会とは些か隔たりを感じる女性たちの。
それも、まだ若い、未来ある女性たちの。
最終盤近くに流れる「リトル・ガール・ブルー」の曲が切なく、図らずも涙する。
ロランスもラマも「リトル・ガール・ブルー」だ。
傍に「テンダー・リトル・ボーイ・ブルー」がいたか、いなかったの違いだが、その違いは大きい。
だれもが、だれかに寄り添ってもらえる、そういうやさしい世界が来ることを切に願う。
もっと骨太の法廷劇だと思ったら
そもそも主人公であるラマさんは、ジャーナリスト?ルポライター?なんのために傍聴しているのか?被告人は貧しいセネガル人かとおもったら、教養も高く裕福な家柄で、セネガルから留学でフランスに。後半はよくわからん流れに。半分寝かかりましたよ。
リアル法廷劇
法廷モノは映画として人気のコンテンツではあるが、そうしたジャンルムビーの類の娯楽映画ではなく、今までに見たことのない本来“裁判”とは何なのか?までも深く考えさせられ問い詰めている作品だったのに驚き勉強になりました。
なので、上記の様な娯楽作品を見る程度の気持ちで臨んでも置いてけぼりを食うだけで、見る側もそれなりの高い意識・見識がないと追いつけない類の作品だと思います。
例えば、堕胎は罪か否か?という問題が社会にはあり、法律上では犯罪になりますが、様々な“事情”により罪が軽減されたり同情される場合もあります。では、産んでしまったらその“事情”は通用しないのか?
個人にとってはその「様々な個人的事情」こそが法律以上の最も重要事項であって、裁判とはただジャッジメントする機関ではなく、個人的事情を浮き彫りにし、それに至る原因を追究する機関であらねばならないという事を本作を見てよく分かりました。これは全ての犯罪に通じるものだと思います。
罪を犯した者の年齢・人種・生い立ち(環境)・教育・知能・人格・嗜好・資質・地位・経済力等々、様々な個人的要素や外的要素を考察しての審判でなければならないという事であり「嘘か真実か」「正義か悪か」はあくまでも土台であり前提であって、本来それだけで審判出来る者など誰もいないのでしょうね。
そして本作は女性映画であるという事が強調されていて、最近見た『ウーマン・トーキング/私たちの選択』もある意味、女性性を描いた作品であり、本来生命を引き継ぐ役割を担った女性の資質として描かれた作品でありましたが、その女性でもわが子を殺すという事の(現在社会の?)闇も覗かさせられました。(しかし『王女メディア』も引用されていたしなぁ~)
あと、ラスト近くの(女性)弁護士が語る最終弁論は凄く興味深く目から鱗の語りでした。
本作は実話に基づき、台詞もほぼ現実の答弁を引用したモノと思われるのですが、この部分を聞けただけでも本作を見た値打ちはありました。
時代の空気の痛さ。
生後まもないわが子を手にかけた、セネガル移民の若い娘。裁判でフランス社会の峻烈な抑圧が明らかになるが、娘の絶望感が多くの女性に共通することも浮かびあがる。痛いくらい今の時代の空気感をとらえた名篇。
映画は世の空気感を「空気」であることを崩さないまま定着することに優れたメディアで、そのことをよく示す作品。多くを語らないまま被告人席に立つ若い黒人の娘、法廷に差し込む光、舗道から見る空、のショットがフランス社会の過酷な抑圧と連帯する女性の希望をどれほど鮮明に映しているか。
去年ニューヨークとパリで見たときは、現地の、とくに若い観客からは映画の世界にもたらされた「新しいまなざし」に興奮する声が多くきかれた。終盤の展開は賛否分かれるが、全体として『アフターサン』と並んで今の時代が生んだ名篇であることは誰も疑っていなかった。
一方で、リニューアルしたという今月の『キネマ旬報』には、「菅付雅信」なる執筆者が「ポリティカル・コレクトネスの代表」と切り捨てる短評を寄せていて、ほとほと呆れ返った。正確にいえば、自らの教養の浅さ・思考の甘さ・覆いがたいガラパゴスぶりを、なぜわざわざ声高に喧伝しているのか訝しんだ。
芸術批評を名乗る書き手が「ポリティカル・コレクトネス」とかの言葉を使うこと自体、英語圏の映画批評の感覚からすると20年は遅れている。そんなのを「レビュー」と称して流通させているかぎり、日本の映画批評は永遠に今のままで終わる。
映画自体は思っていたほどではなかったが、 ロランス役の人の、何かこ...
映画自体は思っていたほどではなかったが、
ロランス役の人の、何かこう、
中から滲み出るような凛とした美しさに惹かれた
フランスの法廷劇と、その傍聴者の心理描写。 被告がアフリカ出身の女...
フランスの法廷劇と、その傍聴者の心理描写。
被告がアフリカ出身の女性との設定で、
人種や性別に由来する事柄が、各人の言葉の端々に現れたり。
結論にあえて触れず、観る側にも、各自考えるように要求されているような。
考えることの多い作品です。
どこかの記事で読んだこと、監督いわく
題目の "Saint Omer" は、フランスの地名ですが
発音が "sainte mère" ( 訳すと holy mother = 聖なる母) にも聞こえる、と。
映画を見終えて、痛いほどに納得しました。
文化の温もりは
Saint Omer
昔から街に溢れる声に天命を受けたように海へとたどり着く。
彼女は、呪術に代表される黒人文化、出自からの逃亡を果たすために、哲学を修めていた。
そのフランスでは、愛した白人男性との間に子を儲けたが、存在は直ぐに磨耗した。
聞き手の主人公に視点を移している。文化は糾弾される。温度と、本当の意味を取り戻すのは離れた世界、映像は遠い寒空を写している。
個人的には今年上半期ダントツのヘビーな作品
行間のものすごく広い散文みたいな,観るものの想像力を試す作品。
様々な少数派・非主流派に対してさりげなく居場所を提供するのが成熟した社会だと思うが、多くの国で異端者排除が無くならない、という現状を突きつけられる。この社会を構成する人々は自分たちが期待しているほどはオトナではないということか。
ロランスは当初から出身・人種・性別の異端三重苦を負わされているだけでなく,毒親の(無自覚な)圧力,パートナーからのあの仕打ち,そして味方だと思っていた人の裏切りを受けた挙句,あの病的な無表情や一貫性のない主張,さらにもちろんあの凶行に逃げ込まざるを得なかった痛々しさはちょっと比類がないかもしれない。居場所が与えられなかった故の悲劇。
観たい度◎鑑賞後の満足度◎ 裁判も終盤に差し掛かる頃静かに感動が込み上げ涙が出てきた。何故だ?頭ではまだ理解しようと奮闘中だったし、母と娘なんて分からない事だらけ…きっと心が先に感動したのだろう…
①本作における映画の中の“映画の記憶”としては『ヒロシマモナムール(邦題:二十四時間の情事)』と『王女メディア』。この2作を観ることで本作を完璧に理解することは出来ないだろうけど、映画大好き人間としては観なくては!(恥ずかしながら2作とも未見)
②嬰児しかも我が子殺しなのだから本人も認めている以上、法治国家としては有罪になるのは当然。(フランスの法制度も知っとくべきだろうけど)
それ故本作は有罪か無罪かを争う法廷劇ではない。判決さえ示されない。
本作の肝は、どのような罪に問われるかということではなく、あくまで何故「我が子を殺めなくてはならなかった」のか、真実は何だったのか、ということ。
ところが、その真実も示されない。観ている者の想像・推理・解釈に委ねられている。
弁護士の最終弁論がそれを語っているようにも思えるし、それを聞いて被告は泣き崩れるが、あくまであれが本作の結論だとは思えない。
弁護士の弁論の中に、母親と子供の結び付きの不思議さの論拠として“胎児から母親に移る”キメラ細胞(正確には「マイクロキメリズム」というらしい)に触れているが、まだ現時点では医学的にはそこまでの証左にはなっていないみたいだし。
③弁護士だから被告に有利なことを言うのは当然だから、弁護士の弁論を鵜呑みにするのはどうかとも思うし、被告自体が証言をコロコロ変えるうえ“記憶にありません”とかしょっちゅう言う(まあ、弁護士が言わせているのかも知れないし、前言を翻したり証言を変えるのはよく有ることだし、某国の国会議員の先生方もしょっちゅうしているし)
被告台で“何故娘を手にかけたのか分からない。この裁判でそれを知りたい”と言ったのもある意味真実かもしれない。
優秀な彼女ですら(いや、だからこそ?)自分のなかで整理できてはいなかったのかも知れないし、本当は分かっていても認めたくなくて他の原因(になるかもしれないものを)を心の中で必死で探していたのかも知れない(これは実体験から)(まあ、彼女のしたことは取り返しのつかないことだけれども)。
それより被告席の被告が傍聴席にいるラマに向かってうっすらと笑みを漏らしたところが気になる。
まるでそれを目撃させる為にラマというキャラクターが必要だったみたいに。
それを目撃した後ラマは取材を放り出しそうになるくらい取り乱すし。
ラマ(とその姉妹たち)と母親との関係についても映画は明快な描き方はしていない。
全編まるで母と娘、女性にしかわからない暗号が張り巡らされているようだ。
④母国では高い教育を受け、それに値する優秀な人材だった被告。また、それ故に両親の期待が高く、それが重荷となっていた被告。
その重荷から逃れるためにフランスに来たのに、最初に頼った叔母さんとは間もなく上手くいかなくなり、親からの送金も途絶え(重荷から逃れても自立を目指した訳ではなかったようだ)、子守りを始めたが(雇い主は優秀な子守りだったと言うし、本人も子守りは合っていたと言うが、自ら勉強も出来て優秀だと言う被告にとっては屈辱的な仕事だった筈)やがて雇い主とも上手くいかなくなり(人間関係はあまり上手ではないようだ)、そのうち妻子のある男の愛人となり妊娠してしまう。
優秀な筈の勉学でさえ大学に行かず試験も受けず修士号も取れなかった。
誰もが言うように正しいフランス語を完璧に話せるということはかなり優秀な証拠だが、一方大学の教師の証言では書く方は話す程には完璧ではなかったようだ。
フランスに来てからは屈辱・恥辱まみれになり自分は呪われていると思いたくなるのも分からなくはない(日本で言えば前厄・厄年・後厄だと言っているようなものか?)。
妊娠したのも本当に偶々だったかも知れないし、本当にその時は相手の男の子供が欲しかったのかも知れないし、男が「陥れられた」と言うように欲得ずくだったのかもしれない。
相手の男も“愛していた”と言うかと思えば彼女の存在を隠していたし、“三人でいた時が一番幸せだった”という割には子供は認知していないし、随分胡散臭いけれど。
⑤裁判での色々な証言を聞いていると『王女メディア』のように不実な男への腹癒せに子供を殺したようには思えないけれども、「大きくなると邪魔になるから死なせた」という被告の言う通りかも知れないとも思える。
異国で知り合いもなく頼るものもなく、大きくなっていく一方の子供を抱えて生きていくのは確かに悪夢かもしれない。
一方彼女には自分は優秀だと言うプライドもあり、これ以上屈辱と恥辱にまみれた人生は送りたくないという思いか、或いは絶望の末最も恥辱に満ちた選択を敢えしたのか?(彼女くらい優秀であれば子殺しをすればどの様な罪に問われるか分かる筈だし)
⑥本当に母や女性というのは男にとっては死ぬまで分からないものかもしれない。
それでも魂を打つものがここには確かにある。
⑦アメリカのスタンダードナンバー(いわゆる懐メロ)である『Little Girl Blue 』が流れてきたのには少々驚いた(初めは何かのシャンソンかと思ったくらい)。
座って自分の指の数を数えるしかない、自分に降りかかってくる無数の雨粒を数えるしかない“Little Girl Blue”は被告の事なのか、広く女性の事なのか?
歌詞の最後:
“No use old girl
You might as well surrender
‘Cause your hopes are getting slender and slender
Why won’t somebody send a tender blue boy
To cheer up little girl blue”
をどんな想いで聴けば良いのだろう…
リトル・ガール・ブルーが心地よく流れる
子殺しと言えば、
ギリシャ悲劇王女メディアとなり、
マリア・カラスが忘れられない。
この女性心理が分からないと、
女性ばかりの法廷で、
男性ばかりの参審員と言えど真理は審判されないのが欧米か?
でも、その決め手はキメラで決まったか?
完璧なおフランス語が出来ても、
中味はセネガルの未体験の孤独な女の子。
それにしても、
リトル・ガール・ブルーはいい歌だった。
そう言えば、
主演の女の子は、ニーナ・シモン似だなぁ
( ^ω^ )
我が子を殺した罪に問われた女性の裁判の行方を実話を基に描き、
2022年・第79回ベネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員大賞)と新人監督賞を受賞した法廷劇。
フランス北部の町サントメール。
女性作家ラマは、
生後15カ月の娘を海辺に置き去りにして死亡させた容疑で逮捕された若い女性ロランスの裁判を傍聴する。
セネガルからフランスに留学し、完璧なフランス語を話すロランス。
被告本人や娘の父親である男性が証言台に立つが、真実は一体どこにあるのかわからない。
やがてラマは、偶然にも被告ロランスの母親と知り合う。
「私たち」などのドキュメンタリー作品で国際的に高く評価されてきたセネガル系フランス人監督アリス・ディオップがメガホンをとり、
作家マリー・ンディアイが脚本に参加。
「燃ゆる女の肖像」のクレール・マトンが撮影を手がけた。
全29件中、1~20件目を表示