サントメール ある被告のレビュー・感想・評価
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移民として、母として、娘として。複層的な視点によって見えてくるもの
とても複層的な視点と構造を持つ作品だ。ギリシア悲劇「メディア」を思わせる一つの衝撃的な事件についての「法廷劇」でありながら、そこにナイフを深く入れるやミルフィーユのように、社会や文化や被告の女性が歩んできた人生の断面が剥き出しとなっていく。これを具体的な供述の回想シーンなどを用いながら紡ぐという方法もあっただろう。しかし作り手のアリス・ディオップ監督はそういった安易さに陥ることなく、まずは裁判での長いやりとりや言葉を我々に突きつけ、主人公で作家のラマと同じ視点でじっくり追体験させる。やがて浮かび上がってくる被告の半生、フランスでの生活、追い詰められていく精神状態・・・。それと似た人物をラマはよく知っている。それは移民としてこの国にやってきた女性たちであり、母たちであり、なおかつ娘たちだ。これまでスポットの当たることのなかった人々の慟哭と、母娘の理解と寄り添いの物語が、静かに胸を締め付ける。
それでも娘…
移民による人種差別、両親からの失望感、夫とされる白人男性からの子育てに対する無関心からくる疎外感に精神を蝕まれ、将来を不安視したため、娘を殺めてしまう。そんなロランスに自分と母親の関係不和を重ね、妊娠に不安を覚えるラマという構図なのだろうが、命って、どうこうして良いそんな単純なものなのだろうか。真犯人や新事実があるわけでもなく、派手さは全くない展開で途中から、その期待もしなくなり、こういう作品なんだと思って見たが共感できなかった。
自らの無理解・無関心に気づかされる
若いころにある人に
「君は合理的な判断を重視する人だね」
と言われたことがある。
その時は社会人、企業で仕事をする人間としてまともだという評価を得たと思っていた。しかし、今はわかるのだ。彼は私のことを、一方的な価値観に固執しすぎていると非難とも揶揄ともとれる論評を私に対して下していたのだと。
正直に告白すると、この映画の作り手が観客に伝えたいことが、終盤の女性弁護士の弁論を聞くまでは理解できずにいた。だからその意味で親切な構成の作品だとも思うことができたのだが、やはりここは、
「ここまで言わなければまだ分からないのか」
という、この頑迷な観客への厳しい最後通告と受け止めることにしなければなるまい。
映画が中心に据える被告はアフリカ系の女性である。白人男性の価値観が中心とされる西洋アカデミズムの世界からは「移民」「女性」という二つの疎外されるカテゴリーに属する人物として描かれている。
この疎外され、周囲からの無理解、無関心の果てに精神にほころびをきたし、ついには自分の子供を殺してしまう。このことを法と社会はいかに裁くのかという問いかけが映画の主題だと思う。
そして、このような疎外感や無関心の果てに疲れ果ててしまった人との婚姻関係を解消した自分の過去への問いかけとそれは大きく重なるものだと感じた。
地方の高校を卒業しすぐに就職をして生きてきた女性の、社会から軽んじられることに対して感じる疎外感や希望のなさを私がどれだけ理解しようとしたであろうか。その無理解な社会に私自身が含まれるということについてどれだけわかっていたであろうか。
私に対する不可解な行動とそのことについて悪びれることのなかった相手の態度に苛立つばかりで、つまるところ私の相手に対する無理解や無関心の写し鏡だったことがわかっていなかった。
彼女が手塩にかけて育ててきた子供たちと別の生活を選択したという理解に苦しむ結論を出したことも、いまさら何も変わらないが、離婚して5年を経ったいま少しはわかるような気がするようになった。
聖なるフェミニズム映画
この映画のタイトルはなぜ“サントメール”というフランス北部カレーにある地方都市の名前がつけられているのだろう。子殺しで起訴されたセネガル人女性を裁く裁判所がある場所だから、というのはいくらなんでも短絡的すぎるだろう。カレーには確かアフリカ各国からフランスに逃れてきた難民のキャンプがあったはずで、ここサントメールにも移民たちのコミュニティが多数存在しているらしいのだ。勿論“聖なる母親”という意味も踏まえた上でのタイトルだろう。
同じく“子殺し”を題材にしたギリシャ神話映画パゾリーニの『王女メディア』を、傍聴人の黒人女性ラマが鑑賞するシーンがあったのを覚えていらっしゃるだろうか。夫への復讐を遂げた後自らの息子たちをメディア(マリア・カラス)がその手にかけるクライマックスで、なぜか日本の伝統音楽(能?)が使われている。“子殺し”というテーマ性よりも、その異質感に着目すべき演出といえるのかもしれない。『24時間の情事』のエマニュエル・リヴァも異質なもの(ナチスドイツ兵士)を受け入れたせいで剃髪されたのだ。
ドキュメンタリー界ではそれなりに名前が通っているアリス・ディォップもまたセネガル系フランス人女性であり、海に赤ちゃんを置き去りにしたロランスや、小説のネタにするためにその裁判を傍聴する作家ラマと同じような立場にいるインテリ女性。実際に起きた事件の裁判記録を元に映画化しているそうで、西洋人の特に男性検察官には到底理解しえない、アフリカ特有の呪術的世界観を浮き彫りにしていくのである。
なぜ置き去りにしたのかという尋問に対し、「叔母に呪いをかけられた」と答えるロランス。そんなロランスを西洋科学の物差しで分析しようとしても土台無理な話なのである。ロランスと同じくフランス男の子供を身籠っていたラマはその様子を傍聴しながら、セネガルからフランスに夢を持って渡ってきたものの、西洋文化になじめず孤立し精神を病んでいった母親とロランスを重ねていくのだ。「お母さんのようにはなりたくない」裁判所でラマと目があったロランスは意味深な微笑みを一瞬浮かべるのである。
そして人権派白人女性弁護士の最終弁論は、本作の全てを物語っているといえよう。「女性はすべて子供の細胞を体内に宿すキメラなのだ」と、カメラ目線でとうとうと語る女流弁護士さんの演説は迫力満点。こんな詩的な弁論が許されるのもフランスというお国柄なのだろうか。つまり、国内に移民を受け入れたフランスを異質同体のキメラに例えているのである。移民を差別することは母親や娘の存在を否定すること、すなわちフランスという国自体の否定に他ならない、とディオップは言いたかったのではないだろうか。
斬新な演出で重みのある法廷劇
幼い娘を殺害した罪に問われた女性の裁判の行方を実話に基づき描いた法廷劇。実際の記録をセリフにしている斬新な演出とキャスト陣の重みのある演技が素晴らしい。
弁護士の最終弁論でキメラ(細胞の無限連鎖)について語っている点も非常に興味深かった。
2023-146
よかった。
ヨーロッパにもアフリカ系への差別は残っているのだなということと、
子どもを親の望みをかなえる道具的に扱い、親の意に沿わない子どもを簡単に切り捨てることに、
強い憤りを感じた。
切り捨てられた子どもが若い女だった場合、その性的価値に集る愚か者を宿主にして、寄生する以外、生きる術ないよなって思った。若い女だから性的価値が高いとか、そういう価値観は、否定したいけど。
被告ロランスの境遇に、私は同情せずにはおれず、彼女の父母や、娘の父親である嘘つき・事なかれ男に、腹が立った。もう一人の主人公であるラマの恐れにも、強く共感した。
この映画は実際の裁判記録をそのままセリフに採用しているため、ロランスの言動の一貫性のなさなど、
虚構の物語であれば描かれなかったであろう部分に、ひっかかりは感じる。が、その一貫性のなさも事実
であるので、意味を考えてしまってより前のめりになった。
ラマの子ども時代の回想は、境遇が全然違うけれども、女三界に家なしという言葉が離れなかった。
私の母も、ラマの母のように、搾取され搾取され搾取され、その痛みを娘へぶつけて何とか永らえていた。
ぶつけられた痛みはもちろん忘れられないし、長じたのちは、母が味わった苦悩がより鮮明にわかり、さらに複雑な気持ちを抱いている。
男だったら生きやすいかと言ったら、そんなこともないんだけどね。
大体、人間が生きやすく、幸せになる為の世界かってゆったら、多分違うしね。
この世は、なんでかこうで、すべてものが何のためにあって何のために消えてゆくのか、わからない。
分かんないところで生きていくのが辛すぎて、人間は、何でとか、どのようにとか、どんなふうにとかっていう枠を勝手に作ったんじゃないかなって思う。で、自分たちで作った枠組みに、自分たちで苦しんでるってことかなって。
映画とは全然関係のないところに、考えが飛躍してしまったけど、この映画も2023年にふさわしい映画だったと思う。
最終弁論の迫力がすさまじい
パンフレットで情報を補完することをおすすめします。
社会背景や監督の意図がたっぷり説明されています。
実際の裁判記録がセリフに使用されたとのことで関心をもち鑑賞しました。
白熱する法廷ものかと思いきや、地味で淡々としています。
説明的な描写はないので、フランス社会の背景を知らない自分にとっては説明不足で、鑑賞中には理解が追いつきませんでした。
ある被告は「母による子殺し」の罪で裁かれようとしています。
裁判官の問いかけに応えて、被告は自身のことを語り始めます。
セネガル、フランスの社会的背景
家庭環境
人種差別
経済的な困窮
愛人関係
そんな中での妊娠出産
裁判が進むにつれ、実子の殺害は表面化した事象であって、そこに至る背景や被告が抱える事情は、とても複雑でパーソナルな性質を持っていることがわかってきます。
さらに裁判では、母と娘という不可思議で神秘的な関係性にも言及します。
最終弁論の迫力がすさまじいです。
裁判で明らかになる非合理的な動機
タイトルなし(ネタバレ)
フランス北部の小さな町サントメールで、ある裁判が開かれようとしていた。
被告は、生後15カ月の娘を夜の浜辺で殺害した罪に問われている、セネガル出身の女性ロランス(ガスラジー・マランダ)。
元留学生で教養もあり、フランス語も母語同様の完璧さ。
だが、裁判が続くうち、彼女の証言に曖昧さや矛盾が現れるようになってくる。
同じ黒人で、若い女性作家ラマ(カイジ・カガメ)は、裁判を傍聴するうちに、どこかしら身につまされる思いがしてくる。
その正体・本質は・・・
といった内容で、実際に起こった事件を題材に、裁判でのやりとり・台詞は証言記録からとられたものだという。
監督は、被告と同じくセネガル系フランス人女性監督アリス・ディオップ。
ドキュメンタリー畑出身で、傍聴する女性作家ラマが監督の分身と言えるでしょう。
さて、上述のように、ロランスの証言に曖昧さや矛盾が現れるようになってくる・・・となると、エンタテインメント系映画では「彼女が犯人か否か」というのが焦点になって展開するのだけれど、本作ではそうはならない。
ちいさなことから学生でいられなくなったロランスは、死んだ娘の父親である年老いた男性(みるからに老人なのだ)のもとに寄宿し、そののち、意図せぬ妊娠をしてしまう。
産むか産むまいかの末、出産するのだが、娘の育児はじぶんひとりがすると決意する。
そこへ至るロランスの心情は、頑迷や困惑、懊悩が入り混じり、他人・第三者の目から見れば「矛盾」としか見えないのだが、結果として、そうしてしまわざるを得なかった。
エンタテインメント映画だとわかりやすい解決へと観客を誘導するが、それはあくまでフィクションの世界で、現実の世界では割り切れないことがほとんどである。
その矛盾の心情を観客に伝えるのが傍聴人のラマの役どころで、彼女が裁判を傍聴する動機ははじめのうちは描かれない。
若い作家の野心のようなもののように見えるが、映画中盤でラマも予期せぬ妊娠をしており、そのことをパートナーに打ち明けられない。
それは相手との関係もあるが、自身のキャリアの問題もある。
ここにきて主題が浮き上がって来る。
女性の生きづらさ、かてて加えて、移民女性の。
主流社会とは些か隔たりを感じる女性たちの。
それも、まだ若い、未来ある女性たちの。
最終盤近くに流れる「リトル・ガール・ブルー」の曲が切なく、図らずも涙する。
ロランスもラマも「リトル・ガール・ブルー」だ。
傍に「テンダー・リトル・ボーイ・ブルー」がいたか、いなかったの違いだが、その違いは大きい。
だれもが、だれかに寄り添ってもらえる、そういうやさしい世界が来ることを切に願う。
もっと骨太の法廷劇だと思ったら
そもそも主人公であるラマさんは、ジャーナリスト?ルポライター?なんのために傍聴しているのか?被告人は貧しいセネガル人かとおもったら、教養も高く裕福な家柄で、セネガルから留学でフランスに。後半はよくわからん流れに。半分寝かかりましたよ。
リアル法廷劇
法廷モノは映画として人気のコンテンツではあるが、そうしたジャンルムビーの類の娯楽映画ではなく、今までに見たことのない本来“裁判”とは何なのか?までも深く考えさせられ問い詰めている作品だったのに驚き勉強になりました。
なので、上記の様な娯楽作品を見る程度の気持ちで臨んでも置いてけぼりを食うだけで、見る側もそれなりの高い意識・見識がないと追いつけない類の作品だと思います。
例えば、堕胎は罪か否か?という問題が社会にはあり、法律上では犯罪になりますが、様々な“事情”により罪が軽減されたり同情される場合もあります。では、産んでしまったらその“事情”は通用しないのか?
個人にとってはその「様々な個人的事情」こそが法律以上の最も重要事項であって、裁判とはただジャッジメントする機関ではなく、個人的事情を浮き彫りにし、それに至る原因を追究する機関であらねばならないという事を本作を見てよく分かりました。これは全ての犯罪に通じるものだと思います。
罪を犯した者の年齢・人種・生い立ち(環境)・教育・知能・人格・嗜好・資質・地位・経済力等々、様々な個人的要素や外的要素を考察しての審判でなければならないという事であり「嘘か真実か」「正義か悪か」はあくまでも土台であり前提であって、本来それだけで審判出来る者など誰もいないのでしょうね。
そして本作は女性映画であるという事が強調されていて、最近見た『ウーマン・トーキング/私たちの選択』もある意味、女性性を描いた作品であり、本来生命を引き継ぐ役割を担った女性の資質として描かれた作品でありましたが、その女性でもわが子を殺すという事の(現在社会の?)闇も覗かさせられました。(しかし『王女メディア』も引用されていたしなぁ~)
あと、ラスト近くの(女性)弁護士が語る最終弁論は凄く興味深く目から鱗の語りでした。
本作は実話に基づき、台詞もほぼ現実の答弁を引用したモノと思われるのですが、この部分を聞けただけでも本作を見た値打ちはありました。
時代の空気の痛さ。
生後まもないわが子を手にかけた、セネガル移民の若い娘。裁判でフランス社会の峻烈な抑圧が明らかになるが、娘の絶望感が多くの女性に共通することも浮かびあがる。痛いくらい今の時代の空気感をとらえた名篇。
映画は世の空気感を「空気」であることを崩さないまま定着することに優れたメディアで、そのことをよく示す作品。多くを語らないまま被告人席に立つ若い黒人の娘、法廷に差し込む光、舗道から見る空、のショットがフランス社会の過酷な抑圧と連帯する女性の希望をどれほど鮮明に映しているか。
去年ニューヨークとパリで見たときは、現地の、とくに若い観客からは映画の世界にもたらされた「新しいまなざし」に興奮する声が多くきかれた。終盤の展開は賛否分かれるが、全体として『アフターサン』と並んで今の時代が生んだ名篇であることは誰も疑っていなかった。
一方で、リニューアルしたという今月の『キネマ旬報』には、「菅付雅信」なる執筆者が「ポリティカル・コレクトネスの代表」と切り捨てる短評を寄せていて、ほとほと呆れ返った。正確にいえば、自らの教養の浅さ・思考の甘さ・覆いがたいガラパゴスぶりを、なぜわざわざ声高に喧伝しているのか訝しんだ。
芸術批評を名乗る書き手が「ポリティカル・コレクトネス」とかの言葉を使うこと自体、英語圏の映画批評の感覚からすると20年は遅れている。そんなのを「レビュー」と称して流通させているかぎり、日本の映画批評は永遠に今のままで終わる。
フランスの法廷劇と、その傍聴者の心理描写。 被告がアフリカ出身の女...
文化の温もりは
Saint Omer
昔から街に溢れる声に天命を受けたように海へとたどり着く。
彼女は、呪術に代表される黒人文化、出自からの逃亡を果たすために、哲学を修めていた。
そのフランスでは、愛した白人男性との間に子を儲けたが、存在は直ぐに磨耗した。
聞き手の主人公に視点を移している。文化は糾弾される。温度と、本当の意味を取り戻すのは離れた世界、映像は遠い寒空を写している。
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