「手放す、知る、愛」窓辺にて つのつぎさんの映画レビュー(感想・評価)
手放す、知る、愛
『窓辺にて』のテーマは、手放す、知る、愛、の3点の関係性について問うものでした。高校生作家の久保留亜は主人公市川茂巳にこういったことを言います。「手放すことは知ることである。」冒頭で久保が受賞した小説には全てを手に入れ、そして手放す人の話が出てきます。それを踏まえてのセリフです。確かに、手放すことで知ることはあるでしょう。例えば、別れ話を持ちかけることで相手の愛を知ろうとするとか。しかし、この言葉はこういう意味でもあります。「知ることは手放すことである。」これは市川の本質を指した言葉です。市川は知れば知るほど、それを手放してしまう。そんな人間です。久保の彼氏はそれを「サイコパス」と表現しましたし、市川の友人マサの妻も市川を追い返すほど否定していました。しかし、市川はそんな人間なのです。この映画はそれを表現したかったのかな、と私は映画を最後まで見て感じました。「知ることは手放すこと」がどのように描写されていたか確認しましょう。市川は、ある日妻の不倫を知ってしまいます。しかし、その事実にショックを受けなかった。知ることによって、妻への愛が手放されてしまった描写です。次は、市川がマサの妻に向かって言うセリフ「言い方悪いですけど、(不倫を知って怒ることができる)あなたが羨ましい。」です。これは、知ることによって妻を手放してしまう市川が、マサの不倫を知ったマサの妻がマサへ怒りを向け、戻ってきてほしいと願う、つまり手放さないことへの羨望が見て取れます。これは次に説明する、市川の思想が無自覚なものであるという点にも絡んできます。タクシーの運ちゃんが言う「パチンコは時間と金を同時に失ってしまうから贅沢な遊びである」というシーンも考えてみましょう。それを聞いた市川は、さっそくパチンコをして見るのですが、とても稼いでしまいその結果2万円を受け取ってしまいます。市川は贅沢をするのに失敗してしまうのです。贅沢を知ろうとして、失敗、つまり手放してしまうのでした。これは少し無理やりかもしれませんね。もう少し考える必要があります。最後。市川は久保の風呂を覗こうとはしませんでした。これは、知ると手放してしまうから、手放したくないから、知ろうとしなかったシーンではないのでしょうか。
次に考えるべきことは、「知ることは手放すこと、ではないこと」です。というのも、先程の「知ることは手放すこと」というのは市川の本質ですが、市川自身の思想ではありません。ただ、事実として市川は知ると結果的に何かを手放してしまうことになるのです。それでは、市川自身の思想、つまり先程挙げた「知ることは手放すこと、ではないこと」とはどういうことなのでしょうか。「知ることは手放すこと」では、手放すこと、手放されてしまうものは、望んではいないことでした。しかし、「知ることは手放すこと、ではないこと」、つまり市川の考えでは、手放すことは悪ではありません。むしろ、手放すことこそ愛なのです。その根拠となる部分ですが、「もたないってことは好きってことじゃないの?」という久保の言葉に、「そうだね、それはとても好きだ」と市川は答えています。市川が小説を書くことを手放したことは妻に対する愛によるものでした。市川が妻に離婚を突きつける、妻を手放そうとすることは、妻を思ってのことです。問題となるのは、「手放すことは愛である」というこの思想は、市川以外には理解されないという点です。それゆえ、妻は市川の言動を理解出来ず苦しみましたし、友人たちも同様に理解はできなかったようです。市川自身もこの思想に無自覚なのかもしれず、それゆえ妻の不倫を知った際の葛藤が描かれていました。また、先程出てきたようにマサの妻に対して羨ましいというセリフからも思想との乖離が見られます。