「遠いところへ行くしかないのでしょうか。」遠いところ グレシャムの法則さんの映画レビュー(感想・評価)
遠いところへ行くしかないのでしょうか。
社会的弱者。
この言葉を使うこと自体が、上から目線的な傲慢さを表すようで少し抵抗があるのですが、ここでは、福祉や教育など一定の社会制度の枠からはみ出してしまった人、もしくは、不運にも始めから枠の外で生まれ育ってしまった人たちのこととして使います。
※余談ですが、反対語として、社会的強者、という言葉が浮かびますが、実際は使われてません。これは、強者というニュアンスが独り歩きして、政治家や富裕層やマスコミを含めた有識者と言われるような方々が、世間から反感を持たれないためかもしれないですね。
社会的弱者を描く映画は、大きく3つに大別されると思います。
①啓蒙啓発
②その環境の中で強く逞しく生きていく人物を通して、逆転人生などのドラマ性により共感を得るもの
③そこに手を差し伸べる人もいる、ということを通して世の中、そう捨てたものではないのだ、という希望を描くもの
この映画は、②や③のような情緒的な感情は不要である、とはっきり宣言する①でした。
どうにもならない現実を生々しく描くし、何かの救いとなるような出会いもない。鑑賞者目線では、もっと警察や児童相談所に頼ってもいいのでは?と思うのですが、主人公目線では、始めから外の世界の人たちに頼る気はないし、せっかく外のほうから関わってくれたところで、杓子定規で冷たい役人対応にしか見えてない。
福祉制度の現場の実相をよく知らないのですが、本当は未成年である主人公だって、なんらかの保護の対象ではないのか。子どもだけでなく、アオイにだって福祉の手が及ぶ状況にはならなかったのか。
結果的には、行政も福祉もこの親子の場合には、なにひとつ役に立てない。そういうメッセージにも見えてしまいました。
玉城デニー知事のコメント(誰も取り残さない)を報道するシーンも挿入されていたので、監督がこの映画で①の描き方を選んだのは、『現実の社会では、どこにも希望がないのだから諦めてね』ということだったのでしょうか。
実際に社会福祉に携わる方々がこの映画を見たときに、「なんだよ、これじゃあ、我々は社会的弱者から子どもを取り上げている悪代官みたいだな」とガッカリすることにならなければいいのですが。