千夜、一夜のレビュー・感想・評価
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人々の「待つ」という生き様が編み上げられていく
30年とは気が遠くなる年月だ。それほどの長い間、行方不明の夫を探し続ける妻をどう描くか。全ての答えは田中裕子の存在感に凝縮されていると言っていい。映画の肝とも言える最初のワンシーンを目にするだけで、ヒロインの背負ったものや感情の内側がじわっと流れ込んでくる。なぜいなくなったのか。その理由がわかれば、残された側の気も少しは楽になるのだろうが、手がかりは一切なし。それゆえ彼女の人生は何もない浜辺のような寂寥感と共に広がる。もはや日常の中で笑うこともなければ、泣くこともない。無駄な希望も持たないし、かといって絶望もしないーーーそこに浮かび上がるのは「待つ」という生き様だ。彼女だけではない。本作には他にも多様な人々の「待つ」姿が重ねられる。そうやっていつしか、小さくとも濃密なタペストリーが編み上がっていくかのような感慨が本作にはある。主人公に想いを寄せるダンカンがこれまた味わい深く記憶に刻まれた。
特定失踪者の家族という難しい題材を取り上げた意義
久保田直監督は劇映画デビュー作「家路」(2014)で、東日本大震災と原発事故で被災して生家が警戒区域になった福島のある家族を描いた。そしてこの新作「千夜、一夜」では、北朝鮮による拉致の疑いが完全には排除できない失踪者(警察の用語では「拉致の可能性を排除できない事案に係る方々」)、いわゆる“特定失踪者”の家族を題材に選んでいる。80年代からドキュメンタリー制作に携わってきた久保田監督の経歴も考え合わせると、“国民的な受難”とでも形容できそうな、日本で起きた大きな悲劇の中で家族や個人がどう生き、どうサヴァイヴしているのかを、劇映画というフォーマットを通じて私たち観客に伝え、考えてもらおうという意志が強いのだろうと想像する。
北の離島(あえて土地を限定しない意図からか、劇中では明言されていないが、背景の建物や施設などに「新潟」「佐渡」の文字が映っており、実際に佐渡島でロケが行われた)で30年前に突然姿を消した夫の帰りを待ち続ける主人公・登美子役、田中裕子の演技だけでなく、凛とした佇まい、存在感そのものに胸を打たれる。高齢で足腰が弱っているのを表現するためだろう、立ったまま薬缶から湯飲みにお茶を注ぐ姿は「おらおらでひとりいぐも」(2020)の桃子ばあさんを彷彿とさせるし、周囲の声に動じず頑固に家族を想うキャラクターは「ひとよ」(2019)の稲村こはるに通じるものを感じる。なお、「ひとよ」での役は長らくの不在を経て家族のもとに帰ってきた母であり、不在の夫を待ち続ける妻を演じた本作との対照性も興味深い。ともあれ、田中裕子が近年体現してきたキャラクターたちは、彼女の存在感も相まって、女性は、母親はこうあってほしいというような、理想の女性像、母親像を観客が投影しやすくなっているのかもしれない。
個人的な話で恐縮だが、佐渡島には地縁もなく血縁者もいないのに、二十代後半にたまたま訪れた両津港近くの料理店で店主や常連客たちと飲みながら話す機会に恵まれ、佐渡の人たちの温かさにすっかり魅了されてしまい、その後も数年たってから思い出したように訪問して、これまでに合計6回訪ねている。そんな佐渡ファンとしてちょっと物足りなかったのは、長年にわたり島で暮らしている設定の人物らの言葉が、ほぼ標準語だった点。佐渡弁は温かみがあり、島の住民方の純朴で親切な人柄を表すようで本当に素敵なのに……。その点が鑑賞中ずっと気になっていた。やはり、あえて土地を限定しない意図から方言を避けたのかもしれないが。
「理由がわからない」ということ
行方不明者を待つ家族に焦点を当てた作品。
拉致というどうにもならない問題が、生きていてもどうしようもできないことに掛け合わされることで、あきらめという選択と待ち続けたい思いとが交錯してどうにもならない状態を作る。
ただ、拉致と断定できないことが、当人たちを苦しめている。
田村ナミが話した「いなくなった理由が欲しい」という言葉は、心に深く沁みる。
時に男というのは、ナミの夫のように、決まってしまっているような人生は自分が終わってしまうような気分になり消えてしまいたくなるのだろうか?
ナミの夢 35歳までに子供を作って家を建ててもう一人子供を設けて… というのは、男にとってそんなに重いことなのだろうか?
この理由を作品の中に入れ込んでいる映画は意外に多いように感じた。男という生き物の知られざる実態がそこにはあるのかもしれない。私も男だけど、わからない感覚だ。
まだ若いナミにとって、今の彼との再出発が新しい人生のスタートだった。すでに腹を決めた彼女の前に夫が現れても、「喜ぶと思った? 昔の私がいると思った?」
2年間も探し続け、できることすべてしつくして、ようやく新しい人生をスタートさせる気持ちになったナミの前には、当事者の夫の実体はもはや過去でしかない。
追い出されたその男がトミを訪問したのは、彼女自身が30年間も行方不明になっている夫を待ち続けていると聞かされたからだ。自分が妻に同じことをしたという猛省がそこへ向かわせたのだろう。
彼は夜中にトミの本当の姿を見る。
それは、彼女の想い出とともにそこに夫がいるかのように話し続ける夢遊病患者のようなトミだった。
ナミがトミに思わず言った「あなたは夢の中で生き続けているのよ」という言葉通り。
そこになぜハルオのプロポーズを受けないのかが垣間見れる。彼女自身こそが、無理なのだ。
夫を待つ長い時間の間に、トミはそのはざまに取り残されてしまっていたのだ。
その時間は千夜の10倍以上だ。
たった一夜で起きた出来事が、こんなにも長い時間が経っても何も変わることのない当時の時間が、トミの心の隙間に詰まっているのだ。
男を夫だと勘違いするトミ。夢の中にいるトミは「帰ってきたの? どこへ行っていたの?」と尋ねる。
男は自分が10か月乗った船の寄港地を話し始める。これが冒頭の声だ。そこにこの場面の映像が加わる。
「また、いなくなるの?」
夫を抱きしめるように男を抱くトミ。突然消えることがどんなことなのかを身をもって知る男。
早朝男が黙って去るのは、トミの夢の中に参加したことを、トミには一つの現実として受け止めてほしかったからなのかもしれない。夫が一度帰ってきて、また旅立ったということ。
朝トミは、「ちょっと行ってくるよ」という幻聴とともに目覚める。いつもは4時に起きる彼女は、久しぶりにゆっくりと目を覚ますことができたのだろう。
生きて戻ってきたハルオをひっぱたき、浜まで行って海に入ったのは、ハルオの申し出をはっきり断るためだった。
「もう誰も来ない。このままでいいの」
トミにとっては、イカ加工所で働く現実と、夜に夫と語らう現実があるのだ。彼女は、今朝船出した夫を待つという選択に誰も干渉してほしくないのだ。それが彼女の現実なのだ。
作品として、それが正しいかどうかは問題ではないが、要所要所で流れ続ける不協和音の音楽が、行方不明者を待つ人々の心の様子を表現しているのだろう。
この作品は何も解決していないのではなく、トミという女性の心が一体どこにあるのかを描いた作品だ。
夢の中で生きるという選択をした彼女に流れるのは確かに不協和音だが、行方不明者を待つということがどんなことなのかを作品は訴えているのだろう。
とても重い作品だと思う。
尾野真千子、今回は純情やん、と思ったらいつものとおりでした
田中裕子濃いわ!
周りも引っ張られるやろうね。
たまたま今月佐渡が島に観光したが
拉致の臭いぷんぷんのところも多くリアルに感じる。
田舎の同調圧力も凄い。
ダンカン腐れ男イケてます。
田島令子ってあの田島令子?どこに出てたんやろう?
80点
1
アップリンク京都 20221026
パンフ購入
淡々と薄暗く希望を抱き紡ぐ
2022年劇場鑑賞78本目 佳作 58点
予告からして小規模で好きな雰囲気でとりわけ楽しみにしていた作品
基本的にはずっと暗く低飛行な色味の中、失踪した尾野真千子の旦那を主演が見つけうちに連れ戻し静かに時に激しくぶつかるシーンはいい意味で緩急が良くグッと引き寄せられたのを覚えています
余白もあって読み込む様な作品なのですごく好みですが、何か少し足りなかったです。
おそらくですが、終わり方かなあと思います
それでも旦那を待つときめわかっていながらも一人で生きていくのを決めた終わり方もありですが、個人的にはそうじゃない方が最後にもうひとう引き寄せられるシナリオになったんじゃにかなあと思います
似た境遇の尾野真千子に良かれと思いながら、叶わぬ夢を託すかの様にとる行動や終始感じる自分の世界に生きる感じが、終わり方の伏線にもなっているので、説得力はありますが、途中からこの人や物語の終わらせ方が明確にわかってしまうので、終わりに差し掛かるにつれて冷めてしまいました。
田中裕子だけで持つ❗
30年の中に閉じ込められた思い
田中裕子と尾野真知子、名女優2人のコントラストがこの映画の出来栄えをワンランク上げていた。
30年の間、夫を待ち続けた女がいた。
拉致なのか、ただの失踪なのか、でも確かに幸せな新婚生活があったのだ。それゆえに先に進めない。
時間が過ぎる中で諦めと達観と感情の消滅、彼女は笑わなくなっていってのだろう。
そこに現れた、若い女もまた、2年間夫を探していた。
何故いなくなったのか、同じように悩む日々。ただ、違っていたのは、彼女にとって大事なのは自分の将来設計だったことかもしれない。
この話はもし自分ならを考えずにいられない。
前に進むことが強いのか弱いのか、そして前に進むとはどういうことなのか。そんなことを思う映画だった。
余談ですが、安藤政信が好きなのでこの旦那が帰ってきたら私は許しちゃうかも(笑)
20代だった田中裕子さんが、今日まで「永遠の女優」
私は60代前半であるが、私より上の世代の方々にとって「永遠の女優」と言えば、吉永小百合さんであろう 「キューポラのある街」の少女時代から60年、今日まで変わることなく間違いなく我が国を代表する「永遠の女優」である 現在60代で「永遠の女優」と言えば、この田中裕子さんを思う人はたくさんおられるだろうが、また存在感のある代表作の一つが作られたと本作を観て思った
きわめて封建的な、まして自分の母親や知人が多い町で、自分の「待つ」という信念を押し通すことは厳しいことであったろう でもカセットテープを擦り切れるまで聞き続け、時に目に見えない相手に語りかけるシーン、 ほんのわずかであったであろう「楽しかった日々」を、いつまでもいつまでも持ち続ける切なさ 「待つ女」の儚さとたくましさ、強さを田中さんだから伝わるものがありました 尾野真千子さんの存在感はもちろんですが、昔からテレビドラマでよく拝見していた田島令子さんも懐かしく拝見しました(10月27日 シネリーブル梅田にて鑑賞)
余韻の波にのまれてます
田中裕子さんに痺れました。
尾野さんの演じた田村奈美が旦那さんを待たなかったのも、
彼女の旦那さんが逃げたくなったのも解る気がしたのだけど、
それに反して、若松登美子の旦那さんが出ていった理由が判らないから、
もう彼女に感情移入しまくってしまって、辛かったなー。
刺激のない海辺の町で、
わたしもきっと、彼女と同じように待ってしまいそうな気もする…
辛抱強いのか意地なのか…
いや、違う。
カセットテープの二人は、あんなに幸せそうなのだもの。
ふたりの想い出が、最初の愛し合うシーンとカセットテープの声だけという、この演出は、
視聴者に幸せな二人をインプットさせる効果が絶妙でズルイ。
あの想い出だけで、待ち続けながら生きていけるのかも知れないって思ってしまった。
それだけ、本当に本当に大好きなのだもの。
大好きなままだもの。
帰ってこない理由も帰ってくる理由もないのかも知れないけど、
それなら嫌いになる理由も、またない理由もないのだと思う。
本当にどこかの海辺の町に、
今も待ち続ける若松登美子がいるような気がするぐらい、
田中裕子さんが自然過ぎてすごかった。
人は変わるのが正なのか否か?
ずっとずっと待っていたのかな?いなくなって10年くらいは待っていた...
裕子はいい男が似合う
ダンカンが本当の漁師にしか見えない…。
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