千夜、一夜のレビュー・感想・評価
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人々の「待つ」という生き様が編み上げられていく
30年とは気が遠くなる年月だ。それほどの長い間、行方不明の夫を探し続ける妻をどう描くか。全ての答えは田中裕子の存在感に凝縮されていると言っていい。映画の肝とも言える最初のワンシーンを目にするだけで、ヒロインの背負ったものや感情の内側がじわっと流れ込んでくる。なぜいなくなったのか。その理由がわかれば、残された側の気も少しは楽になるのだろうが、手がかりは一切なし。それゆえ彼女の人生は何もない浜辺のような寂寥感と共に広がる。もはや日常の中で笑うこともなければ、泣くこともない。無駄な希望も持たないし、かといって絶望もしないーーーそこに浮かび上がるのは「待つ」という生き様だ。彼女だけではない。本作には他にも多様な人々の「待つ」姿が重ねられる。そうやっていつしか、小さくとも濃密なタペストリーが編み上がっていくかのような感慨が本作にはある。主人公に想いを寄せるダンカンがこれまた味わい深く記憶に刻まれた。
特定失踪者の家族という難しい題材を取り上げた意義
久保田直監督は劇映画デビュー作「家路」(2014)で、東日本大震災と原発事故で被災して生家が警戒区域になった福島のある家族を描いた。そしてこの新作「千夜、一夜」では、北朝鮮による拉致の疑いが完全には排除できない失踪者(警察の用語では「拉致の可能性を排除できない事案に係る方々」)、いわゆる“特定失踪者”の家族を題材に選んでいる。80年代からドキュメンタリー制作に携わってきた久保田監督の経歴も考え合わせると、“国民的な受難”とでも形容できそうな、日本で起きた大きな悲劇の中で家族や個人がどう生き、どうサヴァイヴしているのかを、劇映画というフォーマットを通じて私たち観客に伝え、考えてもらおうという意志が強いのだろうと想像する。
北の離島(あえて土地を限定しない意図からか、劇中では明言されていないが、背景の建物や施設などに「新潟」「佐渡」の文字が映っており、実際に佐渡島でロケが行われた)で30年前に突然姿を消した夫の帰りを待ち続ける主人公・登美子役、田中裕子の演技だけでなく、凛とした佇まい、存在感そのものに胸を打たれる。高齢で足腰が弱っているのを表現するためだろう、立ったまま薬缶から湯飲みにお茶を注ぐ姿は「おらおらでひとりいぐも」(2020)の桃子ばあさんを彷彿とさせるし、周囲の声に動じず頑固に家族を想うキャラクターは「ひとよ」(2019)の稲村こはるに通じるものを感じる。なお、「ひとよ」での役は長らくの不在を経て家族のもとに帰ってきた母であり、不在の夫を待ち続ける妻を演じた本作との対照性も興味深い。ともあれ、田中裕子が近年体現してきたキャラクターたちは、彼女の存在感も相まって、女性は、母親はこうあってほしいというような、理想の女性像、母親像を観客が投影しやすくなっているのかもしれない。
個人的な話で恐縮だが、佐渡島には地縁もなく血縁者もいないのに、二十代後半にたまたま訪れた両津港近くの料理店で店主や常連客たちと飲みながら話す機会に恵まれ、佐渡の人たちの温かさにすっかり魅了されてしまい、その後も数年たってから思い出したように訪問して、これまでに合計6回訪ねている。そんな佐渡ファンとしてちょっと物足りなかったのは、長年にわたり島で暮らしている設定の人物らの言葉が、ほぼ標準語だった点。佐渡弁は温かみがあり、島の住民方の純朴で親切な人柄を表すようで本当に素敵なのに……。その点が鑑賞中ずっと気になっていた。やはり、あえて土地を限定しない意図から方言を避けたのかもしれないが。
幾千もの夜を数えて
夫は生きているのだろうか、この海の向こうのどこかで。それともとっくに死んでいるのだろうか。
拉致されたのだろうか、別に女が出来たのだろうか、何か事件にでも巻き込まれたんだろうか。寄せては返す波の数だけ様々な考えが浮かんでは消えてゆく。
夫が帰ってこなくなって久しい。もはや夫の顔の記憶さえもおぼろげだ。さみしい気持ち、悲しみの感情さえも遠い昔のようなほど月日が過ぎていた。それでも待ち続ける。砂浜に夫の手掛かりとなるものが漂着してないか、漂着船の乗組員から夫の手掛かりを聞き出そうとしたりもした。しかし手掛かりは何も得られない。
もはや夫の顔も思い出せない、にも関わらず夫への思いをつなぎとめるために夫の声をカセットが擦り切れるほど聞き続ける。聞くたびにあの頃に帰った気がする。
自分はなぜ今も待ち続けるのか。夫への義理立てなどというものか、あるいはただきっかけを失っただけか。奈美のようにほかにいい男がいれば乗り換えてもよかったはず。夫への義理立てなどもはや不要なほど時間は経ちすぎている。喪に服してるわけでもない。それとも自分は今も夫を愛しているのか、顔も思い出せなくなるくらいおぼろげな記憶になりつつあるというのに。いまも夫を待ち続ける自分はなんなのだろうか。
離島の港町、人口は少なく皆お互いをよく知った仲。家には鍵もかけない。用があれば扉を開けて声をかける。気心の知れたもの同士、勝手知ったるなんとやらである。
互いのことをよく知ってるだけに気兼ねなく付き合える関係だが、それがありがたくもあり、時には疎ましくもある。プライバシーはほぼない。
夫は行方不明だが、死別したわけでもなく離婚もしていない。憐れな後家さんのように同情の目で見られるのはごめんだ。タイプでもない漁師の春男との縁談を何かと周りが勧めてくるのもありがた迷惑な話である。ダンカンだし。
昔ながらの村社会のような田舎町、そんな田舎町のしがらみに嫌気がさして夫はいなくなったんだろうか。自分との暮らしを捨ててまでこのしがらみから解放されたかったのだろうか。だとすればそんな夫の気持ちは今の自分にはわかる気がする。
人間社会におけるしがらみは何かと面倒である。時に人はそんなしがらみから解放されて自由になりたいがために蒸発するんだろうか。奈美の夫の洋司がそうであったように。
奈美は自分の姿を見てこんなふうにはなりたくないと思ったはずである。ただ何十年も帰らぬ夫を待ち続けるなど自分には到底耐えられないと。
彼女は自分の人生を大切にしたいからこそ過去のしがらみを捨てて別の相手と新たな人生を歩もうとした。
だとすれば自分はなんなのか、ただ自分は夫との過去のしがらみを断ち切ることもできずにここまで来てしまったのか。奈美のように別の男に乗り換える機会もあったはずなのにその機会を失い、ただ惰性でここまで来てしまっただけなのだろうか。
自分とは違いしがらみを断ち切り新たな人生を歩もうとする奈美がうらやましくもあり憎らしくもあった。だから洋司を奈美のもとに連れ帰ったのかもしれない。少しだけ彼女に意地悪をしてやろうと。
彼女はあなたは夢の中にいるのだと、夢の中で旦那さんを待ち続けてるんだと言った。そうかもしれない。夫を思い、過ごした幾千もの夜。これはただの夢で本当は夫は一晩留守にしただけでひょっこり何事もなかったかのように帰ってくるのではないか。幾千もの夜を過ごしたかのようで実は一夜だけの出来事だったのかもしれない。
夫が帰ってきて自分を抱きしめてくれる、あの時と同じように。まるであの時から時間は止まっていたかのように。
今までただ悪い夢を見ていただけで目が覚めれば夫がそこにいる。自分もあの時の若い姿のままだ。だが、自分を抱きしめていたのは夫ではなく奈美の夫の洋司だった。
わたしはもう年を取りすぎた。きっとこれからもこの田舎町でひとり生きていくしかないのだろう。田舎町のしがらみに縛られ、夫への思いに縛られてただ朽ちていくのもいいのかもしれない。
なぜ自分は夫を待ち続けたのだろうか。そこまで愛していたのだろうか、なぜ帰って来ない夫に見切りをつけて新たな人生を踏み出そうとしなかったのか。自分はこの田舎町のしがらみを毛嫌いしながらもそこからは抜け出せなかった。その気になれば島を出て別の人生を歩めたかもしれない。でもそうはしなかった。夫を愛していたからか、あるいは夫を待ち続けることでこの島を出る勇気がなかったことの言い訳にしたかっただけなのではないか。そうだ、自分には勇気がなかったのだ。自分にとってはこの生まれ育った小さな港町だけが生きる世界だったのだ。何のとりえもない自分はここから出る勇気がなかっただけなのだ。
結局自分はこの田舎町から抜け出すこともできず年老いて死んでいくのだろう。ならばせめて夢ぐらい見てもいいではないか。帰ってくるはずもない夫を待ち続けながら。
自分はこれからもそうして夫と過ごした過去のしがらみに縛られて生きてゆくのだろう。それは自分にとっては心地よいものなのかもしれない。
意味不明
田中裕子の年齢設定がわからない。
実年齢より20歳ぐらい下ならちょっと無理がある。顔に無理がある。『ひとよ』の時は、大体あの年齢の子供の親ぐらいでピッタリだった。設定年齢に合わせて言動を若い感じに演じていて気にならない方はいいが、私は不自然と違和感という言葉が浮かんで来てストーリーどころではなかった。
義理父の平泉成さんとは11歳しか違わない。二人が話していた時、田中裕子の夫の兄だろうか、と思っていたら父でありビックリである。
ストーリーも初めまだ良かったけれど、中盤以降、わけわからない。
尾野真千子扮する看護師が同僚男性に朝ご飯を誘ったら、次のシーンはベッドの横。そんなに飢えていたの?と聞きたいぐらい。じゃ、なぜ探すんだ?と疑問も湧く。
安藤政信の行動も奇妙。昨日今日会った人の家、なぜかわかったみたいだが、なぜ行く?
田中裕子が、失踪した夫に話しているシーンから無茶苦茶。••••••あれから翌朝までに何があったの❓
海に入るのもわからなかった。
食品加工の作業場ってマスクしないの?
「理由がわからない」ということ
行方不明者を待つ家族に焦点を当てた作品。
拉致というどうにもならない問題が、生きていてもどうしようもできないことに掛け合わされることで、あきらめという選択と待ち続けたい思いとが交錯してどうにもならない状態を作る。
ただ、拉致と断定できないことが、当人たちを苦しめている。
田村ナミが話した「いなくなった理由が欲しい」という言葉は、心に深く沁みる。
時に男というのは、ナミの夫のように、決まってしまっているような人生は自分が終わってしまうような気分になり消えてしまいたくなるのだろうか?
ナミの夢 35歳までに子供を作って家を建ててもう一人子供を設けて… というのは、男にとってそんなに重いことなのだろうか?
この理由を作品の中に入れ込んでいる映画は意外に多いように感じた。男という生き物の知られざる実態がそこにはあるのかもしれない。私も男だけど、わからない感覚だ。
まだ若いナミにとって、今の彼との再出発が新しい人生のスタートだった。すでに腹を決めた彼女の前に夫が現れても、「喜ぶと思った? 昔の私がいると思った?」
2年間も探し続け、できることすべてしつくして、ようやく新しい人生をスタートさせる気持ちになったナミの前には、当事者の夫の実体はもはや過去でしかない。
追い出されたその男がトミを訪問したのは、彼女自身が30年間も行方不明になっている夫を待ち続けていると聞かされたからだ。自分が妻に同じことをしたという猛省がそこへ向かわせたのだろう。
彼は夜中にトミの本当の姿を見る。
それは、彼女の想い出とともにそこに夫がいるかのように話し続ける夢遊病患者のようなトミだった。
ナミがトミに思わず言った「あなたは夢の中で生き続けているのよ」という言葉通り。
そこになぜハルオのプロポーズを受けないのかが垣間見れる。彼女自身こそが、無理なのだ。
夫を待つ長い時間の間に、トミはそのはざまに取り残されてしまっていたのだ。
その時間は千夜の10倍以上だ。
たった一夜で起きた出来事が、こんなにも長い時間が経っても何も変わることのない当時の時間が、トミの心の隙間に詰まっているのだ。
男を夫だと勘違いするトミ。夢の中にいるトミは「帰ってきたの? どこへ行っていたの?」と尋ねる。
男は自分が10か月乗った船の寄港地を話し始める。これが冒頭の声だ。そこにこの場面の映像が加わる。
「また、いなくなるの?」
夫を抱きしめるように男を抱くトミ。突然消えることがどんなことなのかを身をもって知る男。
早朝男が黙って去るのは、トミの夢の中に参加したことを、トミには一つの現実として受け止めてほしかったからなのかもしれない。夫が一度帰ってきて、また旅立ったということ。
朝トミは、「ちょっと行ってくるよ」という幻聴とともに目覚める。いつもは4時に起きる彼女は、久しぶりにゆっくりと目を覚ますことができたのだろう。
生きて戻ってきたハルオをひっぱたき、浜まで行って海に入ったのは、ハルオの申し出をはっきり断るためだった。
「もう誰も来ない。このままでいいの」
トミにとっては、イカ加工所で働く現実と、夜に夫と語らう現実があるのだ。彼女は、今朝船出した夫を待つという選択に誰も干渉してほしくないのだ。それが彼女の現実なのだ。
作品として、それが正しいかどうかは問題ではないが、要所要所で流れ続ける不協和音の音楽が、行方不明者を待つ人々の心の様子を表現しているのだろう。
この作品は何も解決していないのではなく、トミという女性の心が一体どこにあるのかを描いた作品だ。
夢の中で生きるという選択をした彼女に流れるのは確かに不協和音だが、行方不明者を待つということがどんなことなのかを作品は訴えているのだろう。
とても重い作品だと思う。
尾野真千子、今回は純情やん、と思ったらいつものとおりでした
田中裕子濃いわ!
周りも引っ張られるやろうね。
たまたま今月佐渡が島に観光したが
拉致の臭いぷんぷんのところも多くリアルに感じる。
田舎の同調圧力も凄い。
ダンカン腐れ男イケてます。
田島令子ってあの田島令子?どこに出てたんやろう?
80点
1
アップリンク京都 20221026
パンフ購入
何故に届かぬ我が想い
監督は『家路』の久保田直
脚本は『いつか読書する日』『スープオペラ』『家路』の青木研次
舞台は佐渡
失踪して30年になる夫を待っている登美子
失踪して2年になる夫を待っていた奈美
登美子は世話役の元町長の仲介で奈美に相談され奈美の夫の居所を調査するため彼の関係者の話を聞いて回る
登美子と似た境遇だが奈美は帰らない夫を諦め離婚を決意
登美子は周囲の人々から彼女に恋焦がれる春男と一緒になることを頼まれるがすべて断り夫の帰りを待ち続ける
そんな折に夫の母の葬儀に出席するために佐渡から本土を渡った登美子
出席後街を歩いていると奈美の夫の洋司を発見する
声をかけ喫茶店で事情聴取し帰る意思はあることを確認
登美子は洋司を連れて佐渡に帰り病院の同僚との再婚を決めた奈美と再会させた
登美子の母の葬儀で真っ最中にいきなり佐渡おけさ
生前の母のリクエストだったらしいが登美子はそれを知らなかった
自分は佐渡の文化だと勘違いしたがどうやら違うらしい
帰ってきた洋司と連れてきた登美子にキレまくる奈美のシーンが特に好き
登美子はもっと若い田中裕子より10歳くらい下の俳優で良かった気がした
だが見終わってみると田中裕子でも良かったがしてきた
それにしても68歳のわりに元気だな
夫が2年経っても音信不通で蒸発したままでも妻は他の男と寝たら不倫になるのだろうか
僕は違うと確信するが世間の人はどう思うだろうか
だがどう思おうと自分は考えを変える気はないけどね
淡々と話は進んでいくが眠くなることは全くなく観る前に思ったよりわりと良作
星5を与えたい
最近の邦画で面白いのはないのかと聞かれたら薦めたくなる作品
配役
水産工場で働いている若松登美子に田中裕子
登美子の夫で遠洋の船員の若松愉に阿部進之介
在日3世で帰化した看護師の田村奈美に尾野真千子
奈美の夫で中学で理科の教師をしていた田村洋司に安藤政信
登美子に想いを寄せ続ける漁師の藤倉春男にダンカン
春男の母の藤倉千代に白石千代子
登美子の母の絹代に長内美那子
登美子が働いている水産工場の同僚の妙子に田島令子
奈美が勤めている市民病院の同僚の大賀に山中崇
生活安全課の警察官の安斎に田中要次
春男の漁師仲間の吉村に諏訪太朗
登美子の手助けしてきた元町長の入江春弼に小倉久寛
愉の父の若松俊雄に平泉成
淡々と薄暗く希望を抱き紡ぐ
2022年劇場鑑賞78本目 佳作 58点
予告からして小規模で好きな雰囲気でとりわけ楽しみにしていた作品
基本的にはずっと暗く低飛行な色味の中、失踪した尾野真千子の旦那を主演が見つけうちに連れ戻し静かに時に激しくぶつかるシーンはいい意味で緩急が良くグッと引き寄せられたのを覚えています
余白もあって読み込む様な作品なのですごく好みですが、何か少し足りなかったです。
おそらくですが、終わり方かなあと思います
それでも旦那を待つときめわかっていながらも一人で生きていくのを決めた終わり方もありですが、個人的にはそうじゃない方が最後にもうひとう引き寄せられるシナリオになったんじゃにかなあと思います
似た境遇の尾野真千子に良かれと思いながら、叶わぬ夢を託すかの様にとる行動や終始感じる自分の世界に生きる感じが、終わり方の伏線にもなっているので、説得力はありますが、途中からこの人や物語の終わらせ方が明確にわかってしまうので、終わりに差し掛かるにつれて冷めてしまいました。
新潟県の佐渡島、イカの加工工場で働く60歳間近の登美子(田中裕子)...
新潟県の佐渡島、イカの加工工場で働く60歳間近の登美子(田中裕子)は、30年前に夫が突然姿を消した。
拉致被害者の可能性があり、特別失踪人に指定されている。
登美子は、これまで夫の消息を訪ね、夫の帰りを待ち続けていた。
そんなある日、登美子のもとに、30代の若い女性・奈美(尾野真千子)が現れる。
彼女の夫も2年前に理由なく突然に失踪、拉致被害の可能性が信じた奈美は、夫が消えた理由を知りたかったのだ・・・
というところからはじまる物語で、夫が姿を消した女性ふたりを対比して描く物語(のようだ)。
ま、それはおおむねそのとおりなのだけれど、対比されるのはふたりの女性だけでなく、女性という意味では、もうひとり登場する。
地元における特別失踪人捜索者支援をしている初老の男性(小倉久寛)の妻で、彼女は認知症を患い、最愛の夫が目の前から消えてしまったと思い込んでいる。
この認知症の妻の存在が物語に奥行きを与えており、彼女がいないとなると、登美子と奈美の対比だけでは薄っぺらくなってしまう。
さて、奈美の夫であるが、案の定、拉致被害ではないことが終盤判明。
登美子と対峙する奈美の夫(安藤政信)の口から語られるのは、漠然とした不安である。
この漠然とした不安というものは、わからない人にはわからないが、感じている者にとっては強迫観念に近いようなもので、逃れることが難しい。
奈美の夫が感じた漠然とした不安の契機は、妻・奈美との結婚なのだが、もうひとり、漠然とした不安を抱え込んでいる男性が登場する。
登美子の幼友だちで、長年彼女に恋慕し続けていた漁師の春男(ダンカン)である。
彼の不安の契機は、ひとりでいることで、恋慕の感情は、いわば言い訳めいたものである。
その春男も中盤、ふと姿を消してしまう。
男というものは、不意に姿を消すものなのか・・・
たぶん、消すんだろう。
いなくなることで、それまで「いた」ことを証明する。
なんだか歪んだようなレゾンデートルだ。
一方、女は姿は消さない。
いつづけることが存在証明、レゾンデートルだ。
姿を消したふたりの男(奈美の夫と春男)がふたたび姿を現してからは、過去観た映画を彷彿とさせる。
映画は『いつか読書する日』。
田中裕子演じる登美子のキャラクターも似ている気がするが、男性陣も似ている気がする。
似ている気がするのも道理で、本作の脚本は同作を担当した青木研次。
なるほど。
なお、映画の時代背景は、いまから少し前(たぶん10年ほど前)の設定なのだろう。
拉致被害が多かったのは70年代後半~80年代前半(登美子の夫の失踪時期を考えるとそうなる)。
なので、時代背景がいま現在だみると、奈美が夫の失踪を拉致と考えるのには合点がいかない。
10年ほど前ならば、拉致被害者の帰国もあり、理由なき失踪を拉致と結び付けてしまったのにも合点がいきます。
田中裕子だけで持つ❗
初めにごめんない!ここ何回か書いてるが、またも地方映画でほぼ標準語。
それにしても年間8万人も失踪者の方がいるの??
舞台の場所が拉致の可能性もある場所で、舞台が重要なとはこの映画に関しては一定の理解は出来るかなー
30年の中に閉じ込められた思い
田中裕子と尾野真知子、名女優2人のコントラストがこの映画の出来栄えをワンランク上げていた。
30年の間、夫を待ち続けた女がいた。
拉致なのか、ただの失踪なのか、でも確かに幸せな新婚生活があったのだ。それゆえに先に進めない。
時間が過ぎる中で諦めと達観と感情の消滅、彼女は笑わなくなっていってのだろう。
そこに現れた、若い女もまた、2年間夫を探していた。
何故いなくなったのか、同じように悩む日々。ただ、違っていたのは、彼女にとって大事なのは自分の将来設計だったことかもしれない。
この話はもし自分ならを考えずにいられない。
前に進むことが強いのか弱いのか、そして前に進むとはどういうことなのか。そんなことを思う映画だった。
余談ですが、安藤政信が好きなのでこの旦那が帰ってきたら私は許しちゃうかも(笑)
20代だった田中裕子さんが、今日まで「永遠の女優」
私は60代前半であるが、私より上の世代の方々にとって「永遠の女優」と言えば、吉永小百合さんであろう 「キューポラのある街」の少女時代から60年、今日まで変わることなく間違いなく我が国を代表する「永遠の女優」である 現在60代で「永遠の女優」と言えば、この田中裕子さんを思う人はたくさんおられるだろうが、また存在感のある代表作の一つが作られたと本作を観て思った
きわめて封建的な、まして自分の母親や知人が多い町で、自分の「待つ」という信念を押し通すことは厳しいことであったろう でもカセットテープを擦り切れるまで聞き続け、時に目に見えない相手に語りかけるシーン、 ほんのわずかであったであろう「楽しかった日々」を、いつまでもいつまでも持ち続ける切なさ 「待つ女」の儚さとたくましさ、強さを田中さんだから伝わるものがありました 尾野真千子さんの存在感はもちろんですが、昔からテレビドラマでよく拝見していた田島令子さんも懐かしく拝見しました(10月27日 シネリーブル梅田にて鑑賞)
裕子に尽きる。
「おらおら」も凄かったが、本作も田中裕子の達者ぶりを堪能する作品となっている。腰を据えて老いに寄り添ったポジションを邁進している。冒頭の洗顔のシーンから彼女の世界に引きずりこまれる。見事だ。
佐渡へ~佐渡へ~と草木もなびくよ 佐渡は居よいか住みよいか おけさせつなや やるせなや
春男役のダンカンの顔をみてるだけで辛い。春男になった気分で観てしまっていた。荒れる日本海。冬の佐渡の海はうんと厳しい。周りが一生懸命にくっつけようとするからだんだんおかしくなっちゃったのかな?春男の母親役の女優さんはかなりクセのある女優さんだったけど、とてもよかった。
平泉成を久しぶりに見た。元町長さんで、登美子の失踪した夫の父親役。
春男と登美子は50年来の幼なじみ。
周りの人が優し過ぎるから、かえっていけないのかな?
ラストチャンスに賭ける春男。
しかし、登美子が頑な過ぎて、
自分から死にたいよ~と登美子に言っちゃう。そうしたら、
「鱈のエサになってしまえ」って、
ちょっとヒドくない?
田中裕子の突然カッとして、切れる演技はもはや定番。田中裕子は若い頃から、何を考えているのかわからない不気味さを持ち合わせている。
だから、観ているこっちは余計にわからない。
カセットテープだけが唯一の手掛かりだが・・・幸せだったことしかわからない。
安藤政信と阿部慎之介が共演する映画は「新聞記者」の藤井道人監督の「デイアンドナイト」以来。実際は絡まないけど、登美子の頭の中で二人がダブる。渋くて、カッコいい二人。
同僚看護師役の山中崇。最近は軽いダメ男役はめっきり減った。
山中崇が羨ましかった。
だって、尾野真千子だもの。
夜勤明けの朝ごはんからの・・・・
安藤政信の失踪の件はやはり理解し難い。教師なのにね。
海洋調査船に10か月?
理科の先生だから?
年に8万人以上も行方不明者がいるらしいが、すぐ見つかる徘徊老人なとが大部分で、みずからの意思で故意に行方をくらます者は少数。
3年以上経つと離婚裁判を申請して認められれば、残された者は再婚可能らしい。新潟市内にたまたま行った登美子に見っかっちゃう安藤政信もなんだかなぁ。
尾野真千子のビンタのシーンのときは、チャッカリ安藤政信になりすましていた。
変態だね🙏
「サバカン」で竹原ピストルの頭をブツ時の演技と違って、迫力満点。
「おらおらでひとりいぐも」は埼玉の所沢のコメディだったから、あんまり、悩まなくてすんだんだけど、この映画は辛いし、なんとも言いようがないけど、脇役陣がすごくよかった。
映像もとてもよかった。
葬式での佐渡おけさにはちょっとビックリ。
てっきり死んだと思っていた春男が生きててよかった。
ラストはベタだった。
余韻の波にのまれてます
田中裕子さんに痺れました。
尾野さんの演じた田村奈美が旦那さんを待たなかったのも、
彼女の旦那さんが逃げたくなったのも解る気がしたのだけど、
それに反して、若松登美子の旦那さんが出ていった理由が判らないから、
もう彼女に感情移入しまくってしまって、辛かったなー。
刺激のない海辺の町で、
わたしもきっと、彼女と同じように待ってしまいそうな気もする…
辛抱強いのか意地なのか…
いや、違う。
カセットテープの二人は、あんなに幸せそうなのだもの。
ふたりの想い出が、最初の愛し合うシーンとカセットテープの声だけという、この演出は、
視聴者に幸せな二人をインプットさせる効果が絶妙でズルイ。
あの想い出だけで、待ち続けながら生きていけるのかも知れないって思ってしまった。
それだけ、本当に本当に大好きなのだもの。
大好きなままだもの。
帰ってこない理由も帰ってくる理由もないのかも知れないけど、
それなら嫌いになる理由も、またない理由もないのだと思う。
本当にどこかの海辺の町に、
今も待ち続ける若松登美子がいるような気がするぐらい、
田中裕子さんが自然過ぎてすごかった。
人は変わるのが正なのか否か?
人はなかなか変われないと思うのだが、流石に40年(あれ、30年だったかな?)変わらないのは長すぎる。
田村奈美さんが若松さんは夢の中に生きているのよと言っていたが、私はむしろ彼女はもう既に心は死んでいて、抜け殻のみがこの世の中に存在しているのではないのかと思ってしまった。個人的には若松さんまともじゃないよ・・・
映画の印象として、前向き感は全く感じられず、澱んだ水たまりに鉛色の空が本作の絵面の様で、観ていて疲れます。
ずっとずっと待っていたのかな?いなくなって10年くらいは待っていた...
ずっとずっと待っていたのかな?いなくなって10年くらいは待っていたのかも?。容赦なく月日は流れ、帰ってこないね。でもあの人と以外の生活は考えられない。掛け値無しに好きだから。今も好きだから。本当に好きだから。重かったのかな?
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