「くさい」天間荘の三姉妹 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
くさい
『臨死状態の魂が天に昇るか、地上に戻るかを決めるまでの間を過ごす、天空と地上とを繋ぐ宿「天間荘」を舞台としている。』(「天間荘の三姉妹」ウィキより)
災害でなくなったはずの街とそこの人々が、天間荘のまわりでは続いている。──という話だが、現代劇を書いていたけれど感動シークエンスへもっていくストーリーテリングがめんどうなので設定をSFにしてしまったという感じの話。
年寄りを敬えという言葉があるが、どんな人か知るまでは敬ってはいけない。難渋な人にほどこせという言葉もあるが、やはりどんな人か知るまではほどこしてはいけない。
商業施設や公共機関で年寄りが若い女性スタッフに絡んでいる風景がしばしば見られる。年寄りはサポートをもとめているわけではない。たんに若い女とおしゃべりがしたくてカスタマーの優位性を利用しているだけだ。このばあい女性スタッフが「難渋な人にほどこせ」の庭訓にしたがっていたとしたら悲劇である。
映画内で三田佳子や寺島しのぶは難渋な人という設定で出てくる。「口も態度も悪いけど悪気はないのよ」という台詞どおりにのんに対してつらくあたる。
そういった難渋さをのんが清らかな気立てで懐柔していく──という展開がすぐに察せられ、そのとおりになっている。
話は性善説をとっていてそれが万人の共通認識であるという前提ですすんでいく。それがくさい。
とはいえ、わたしは性悪説をとっているわけではないし、とりわけ世に諦観し醒めきっているわけでもない。ただくさすぎて、見ていられない。
日本映画に対するざっぱくな印象だが製作者たちはだいたい自分より二回りほどばかな観衆が見る想定で映画をつくる。反して外国映画はりこうな人が見る想定で映画をつくる。
ふしぎな岬の物語というのがあったがそれと同じで徳育の立脚点が幼児化しているものを堂々たる装丁で出している。
ひとつひとつあげはしないがぜんぶ三文芝居になっていて鳥肌がたつような予定調和にもっていく。ばかかこいつら。のんの演技も話も設定もぜんぶくさく、すべてが同情につながるエクスキューズになっているのがくそいまいましく、個人的には全員ぶんなぐりたかった。
映画がくそみそにけなされるばあい、レビュアーが不幸におちいっていてふてくされているからだ──と見なされることがある。そうじゃない。ほんとにくさかった。
巷の評価がわるくないのはのん効果と大震災の気配によるものだと思われる。
日本映画のタクティクスとして低評価をすることが人でなしになってしまうようなポジショニングをする──というのがある。これは東北大震災のようなリアル題材からもってきたり、障がいや病気をテーマにしたり、ことさら性善や博愛を説く話にすることで、観衆はつっぱねたりむげにしにくくなって低評価を回避できる──というもの。これもそれだった。
ちなみに山谷花純という俳優がうまくて目をひいた。