ネタバレ! クリックして本文を読む
岡田将生も清原伽耶も好きだし、京都の町屋や写真館などのどこか懐かしいたたずまい、水や緑のある風景のみずみずしい描写が物語の雰囲気に合っていてよかった。しかし、オリジナルの台湾版からのアレンジで気になってしまう部分も多かった。
台湾版未見の人は予習しないまま観た方がいいかもしれない。
主役2人の性別を入れ替えるという大胆な変更は、台湾版の男性主人公の行動がはらむ危うさを解消する目的があったのではと思う。
台湾版では、ヒロインのシャオチー(本作でのハジメにあたる)をバス運転手の青年グアタイ(本作ではレイカ)がつけ回してこっそり写真を撮ったり、時間の止まった世界で彼女を背負って運んであれこれ好きなポーズを付けている姿が、ふと冷静になるとヤバいストーカーにしか見えなかった。
宮藤官九郎もインタビューで「細部を見ていくと『このままじゃできないよね』となりました。日本がもう少し景気が良くて、浮かれてた時代だったら、そのまま作っても許してもらえたのかもしれません」と言っているので、同様の問題を感じていたのではと思われる。
実際私は、女性のレイカにグアタイほどのヤバさは感じなかった。
でも、レイカのやっていること自体はグアタイとほぼ同じなのだ。あくまでファンタジーなので、堅く考えることが野暮なのは百も承知だが、同じストーカーじみた行為についてグアタイをヤバく感じた自分が、清原伽耶がやると純愛とみなしてしまうことに、それでいいのかという複雑な気持ちになった。
製作側がグアタイの行動に問題を感じどうにかしたいと思ったなら、いじるべきは性別ではなく、グアタイの行動パターンだったのではという気がした。
上記の目的のために性別交換をしたことで、テンポの悪くなった部分もある。
桜子は、台湾版ではウェンセンというダンス講師のイケメン男性だ。彼が悪い男であるということは、グアタイが見かける彼の妻の姿、彼が過去に騙した女性からのお礼参りなどで描写される。女性は堅気でない男を数人連れてきて彼をボコらせる。直後に、居合わせたグアタイも彼と殴り合いをし、「シャオチー(本作ではハジメにあたる)に二度と会うな」と啖呵を切る。
ウェンセンが誰かを脅したり、シャオチーの悪口を言うような描写はない。作品に殺伐とした空気を持ち込まず、かつ観客の溜飲をちょっと下げるという巧みな演出だ。
シャオチーのポジションを男性のハジメにしたことで、このウェンセンにあたる役が女性の桜子になり、殴り合いをさせて話を動かすことがしづらくなった。既婚者という設定も不採用になった。だから、彼女の本性を描くのに直接的な表現をせざるを得なかったのではないだろうか。
悪い仲間を侍らせて騙した男性を脅したり、ハジメの露骨な悪口を言ったりと、ちょっとどぎついし、暗い。彼女の本性を見ているのに「ハジメと会ってあげて」と言うレイカもよく分からなかった。レイカと桜子の決着も、殴り合いNGなので飲み物をぶっかけて、さらに場所を変えて橋から落とされたり、とテンポが落ちる。桜子が自業自得な目に合うこともないのですっきりしない。
台湾版のグアタイはバス運転手だが、本作では女性にしたいけれど女性バス運転手はレアすぎることと、清原伽耶を使いたい(したがって岡田将生と同年代ではなく年下の設定にしたい)という2つの事情により、肩書きが大学生に変更された。しかし、台湾版のようにバスで走るシーンを入れたいので、バスを動かす人が必要になって、荒川良々を入れた(監督・クドカン・岡田将生のインタビュー記事にそのように書いてあった)。
グアタイは時間が止まったら自分で自在にバスを走らせたが(そしてこのひとりになった世界での自由さに独特のカタルシスがある)、本作では良々に頼んで運転してもらう。ここもテンポが落ちる部分かと思う。
女性が長身の男性を運ぶのは無理なので、静止したハジメを運んだりいじったりするのも良々に手伝ってもらうのか、と思ったら、レイカが人力車で運び、海岸ではひとりでハジメを引きずっていった。ロマンチックなシーンに良々はいらないということだろう。ここで私は、「護られなかった者たちへ」を思い出した。
あの時は、いやそれは無理やろと思ったが、まあ本作はファンタジーだから……仕方ないか……
話の骨組みが結構台湾版そのままなので、余計比べてしまうのだろう。
本作の性別変更は見ようによってはなかなかセンシティブなので、やるならいっそ物語全体を単純比較しようがないくらいアレンジした方が、「このままじゃできない」とクドカンが感じた台湾版のウィークポイントを本当の意味で解決出来たかもしれない。