「自己責任社会を問う、意義ある映画」ぜんぶ、ボクのせい mayuoct14さんの映画レビュー(感想・評価)
自己責任社会を問う、意義ある映画
この映画、自分が所属する映画合評会8月の課題映画でした。いわゆる映画通の会のメンバーからは、作中のプロットや設定に関する無理筋やほころびを指摘する少々ネガティブな意見もありました。
でも、私は30歳の若い松本優作監督がこの映画を作った意義はとても大きいと思います。
映画の中から一番感じ取ったのは、この10数年この国に蔓延る、何かが起きた時の「自己責任」を問う雰囲気、同調圧力、そういう圧をかける元凶となる「匿名性の下の監視社会」への問いかけでした。
映画の話に戻します。
主人公は13歳の少年。母親のネグレクトによる、施設での生活をしていますが、この生活が嫌で「母親が迎えに来ない理由」を確かめに訪ねて行くが、邪魔者扱いで施設に戻されそうになる。見放され、お金もなく、行くところもない…苛酷な状況に追い込まれます。
しかし、母親を探した先の土地で自分と同じ寂しさを抱えるホームレスのおっちゃんと、孤独な女子高生とに出会います。
少年は、二人にシンパシーを感じ、心の平安を得て自立に踏み出そうとするのですが、大好きで頼りにしていたホームレスのおっちゃんが焼死するという悲劇が起き、主人公は放火の疑いで警察に捕まってしまいます。
放火の犯人は映画の中では特定できません。観客に問いかけているのです。
ストーリーの登場人物がやったようにも見て取れるのですが、私には、そういう単純な話ではなく、誰が良い者か悪者か非常に分かりにくくなっている今の世の中の「普通に暮らしている人」の誰かがやったのだと思えました。
ホームレスの存在を自分の身近な場所で許さない、だから焼いて消す…という排除の論理です。
匿名性が許されてしまう今の社会の「あいつゴミだから」「汚くてキモいから」「目につくとむしゃくしゃするから」という、そんな動機で殺人が起きてしまう。この映画でのクライマックスは、今の社会の病理を描いたものだと私なりに解釈しています。
(過去に起きているホームレス襲撃やバス停での殺人事件も同じ病理)
そして、母親に捨てられたこと、大切なおっちゃんを死なせたこと、そういう一連の事を「ぜんぶ、ボクのせい」と、中学1年の少年にラストで言わせる。
これが、冒頭で言及した「自己責任社会」です。
この国のセーフティネットの無さ、富む者と貧しい者との格差や分断を解決せず「自己責任」で片付ける今の日本社会では、孤立による痛ましい事件が確実に増えています。この1〜2年では「無差別な集団巻き添え殺傷事件(大阪の心療内科放火事件や、小田急線京王線の刺傷事件)がその例に当たると思います。
映画は、この社会の写し鏡のようなセリフで、締め括られているのです。
(考え過ぎかもしれませんが、社会的受け皿の無さとしては、もしかすると、監督は、今映画に携わる人達の労働環境の酷さ等も考えた警鐘もあるのでは、と思ってしまう部分もありました。)
何も示唆のない、軽い邦画もたくさんあるなと感じる今の日本映画界で、若手がこういう作品を作ることに、「どうか負けないで歯を食いしばって欲しい」いう思いや「問題から希望を生む一筋の光になって欲しい」という思いを、勝手にですが十分過ぎるほど受け止めました。
監督の次回作や今後に期待したいです。