逆転のトライアングルのレビュー・感想・評価
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力とイケメンと皮肉と⭕️ロ
面白かった。序章から未婚の男女において、食事のお金を払うのは誰かで揉めるシーンは、「フレンチアルプスで起きたこと」を連想する。
船が沈没し残ったメンバーの中での弱肉強食の世界は、力を持つた者トイレ掃除の女とイケメン又は美女が役に立つ。
沈没までの船のシーンはまさにカオス、最高にグロで笑える部分も。酔っ払いの船長役ウィルソンこの人しかいない感じで的役。
ラスト好きです、この監督らしい曖昧さがすき。
I love you. Give me fish. 愛している、だからアジの開きをくれよ
そういえば名作とされるかの「十五少年漂流記」。
あれは、漂流した十四人の白人少年と、一人の黒人召使いの、“動かせぬ差別社会"を、白日の下に晒した物語でした。
階級社会を逆転させて、主客を入れ替えて彼らを戦わせてみたいという妄想は、けっこう根深く世の中に潜んでいるのでしょう。類型の作品は、古今たくさんあります。
しかしこの作品、監督の育ちがわかるし、
小学生の作文みたくて、まあまあ、オモロかった。
撮影のスタッフたちもノリノリで、アイデアを出し合いながら、悪ふざけ映画のコンセプトに便乗したのでしょうなぁ。
カンヌ映画祭に集まるセレブたちは、
一握りの王族や貴族、そういう世襲のモノホンの大金持ち以外は、たとえブラックタイをしていたとしても、総じて下働きの鬱屈した中産階級のはず。
そもそも「役者業」とは、その発生からして低層階級のなりわいでした。
だから積もり積もった不満を武器に、溜飲を下げるためにも、こうやって庶民のルサンチマンを小出しにする“プチ・フランス革命"を民衆は求めているのかもしれませんね。
プレートの弛緩。マグマの放出という訳です。
ところが本作の「革命」=「遭難のドキュメント」の、このとんでもないチープさは何だ!
監督が観客の期待をわざと外して、観客を蹴落としてせせら笑う仕掛けであったように思う。
つまり、本当のセレブがどこにもいない。漂流者たちはひとり残らず低層だったから。
漂流してたどり着いた孤島でも、けっきょくそこで生まれてくるのは底辺同士での上下関係の再構築と、マウントの取り合い。
そして手揉みしながらの懐柔作戦でしたね。
役者が二流だから、ストーリーに現実味がないのです。どこにもセレブがいないから下剋上にリアリティが無い。だから観客には驚きも戸惑いも、そして快哉も生じようがないのです。
ギャラをケチって本当のセレブリティを起用しないからこうなる。
たぶん監督は、そこ、わざと狙ったんでしょうが、彼の思惑どおりに安っぽい映画でした。
「神様メール」ではカトリーヌ・ドヌーヴがゴリラとのベッドシーンを演じ、
「おとなのけんか」ではケイト・ウィンスレットが盛大に嘔吐して吐瀉物をぶちまける。
大物を使うからテーマが明確になってくるものを。
「逆転」をさせたいなら、アビゲイル以外の出演者はすべてアカデミー賞の常連にしなきゃダメなんですよ。
カップルにはブラピとナオミ・キャンベルが良き。
ロシアの成金も貧相でしたから、あれやらせるにはマーロン・ブランドを連れて来なきゃあ。
掃除婦アビゲイルはロレックスには興味がない。アビゲイルが欲しかったのは男。
セックスを満足させてくれたら食い物を作ってやっても構わないって、・・配役もストーリーも、とことん貧相な干物でした。
・・・・・・・・・・・・・
女とは戦え。戦わないと奴隷になるぞ!
と尻を叩いたタクシー運転手 ―
きっとあれはオストルンド本人のカメオ出演。
溜飲りゅうべん・オストルンド?
お金が出来たから、彼は次々と話題の新作を出すけれど
彼の敵はセレブリティではなく、映画を観にきてくれた観客なんでしょうな。
そろそろ僕は飽きたかもしれない。
好みの問題
第1章で腹立たしかったヤヤが最後にはとても可愛く見えて1番好きなキャラクターになっており、第3章序盤でめちゃくちゃ応援してたアビゲイルが結局は理性も生理的にも受け付けない嫌いなキャラクターになっていたというのが正直な気持ち。
個人的なキャラクターの印象も最初と最後では見事に逆転しまったわけです。ヤヤ役のチャールビ・ディーンさん、本当に残念でなりません。ご冥福をお祈りします。
物語ですが、「面白かったー!」とはならず、「この散らばった感情どうすれいいの!?」と困惑したのが観終わった直後の感想。そして第2章で気持ち悪くなった。船で私も見事に酔った。実はこれに似た経験をしたことがある。
ただ、いろいろ解説&考察のサイトなどを見ると理解が及ばなかったところが補完され「なるほど」と思った。
少しテーマが被っているということで、小日向文世主演の『サバイバルファミリー』を思い出しました。
こんな作品…初めて観ました
<映画のことば>
あなたの島での行動力にマジ感心しているの。女のリーダーが誕生するなんて。大富豪を飼い慣らした。めちゃ格好いい。
例えば、デート代はどちらが払うべきか。彼・彼女のちょっとした仕草が、どうしても気に入らない。
セレブと言っても、必ずしも名家の出とは限らず、一代成金にはありがちなな振る舞いのオンパレード。
迎える接客スタッフにしても、チップ以外に関心なし。
果ては、動力船にも帆があると確信している(自分は正しいと思い込んで譲らず、スタッフ=船長を見下す)セレブ客等々。
お上品ぶっている彼・彼女らも、海が時化(しけ)て船が揺れると、トイレに駆け込むでもなく、ところ構わず、その場で嘔吐の嵐―。
日常の生活で起こる人間模様を、真正面から事細かに取り上げて、こんなにも映像化・ストーリー化した作品って…評論子には寡聞にして、本作の他に思い当たりません。
ネットの評では「人間に対する鋭い観察眼とブラックユーモアにあふれた作品で高い評価を受けてきた」と評されているリューベン・オストルンド監督は、その手になる作品は初めての鑑賞でしたが、こんな作風の作品を撮る方なのでしょうか。
登場人物の細かい所作から、その心の動き(考え)を紐解いてゆかなければならないのは、どうかすると映画はざっくりと観てしまい、周囲に「えっ、そんなシーンもあったっけ?」とピントを外してしまいがちな評論子には、少しばかり辛いものがありましたけれども。
内容的には、第3部が、もちろん圧巻!
「進化論」を著(あらわ)した著名な自然科学者・ダーウィンのものとされる次の言葉が脳裏に浮かびました。評論子には。
「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一、生き残るのは、変化できる者である。」
それなりの教育を受け、それゆえに、それなりの知性と教養とを身に付けていたであろう(?)豪華クルーズ船の乗客だった紳士・淑女を差し置いて、最後の局面では、アビゲイル(作品の前半ではトイレの掃除を怠らないよう、廊下越しにきつく言い渡されるシーンがあるだけで、映像には姿すらまったく現さない)か、彼・彼女らに対してリーダーシップを執ることができたのは、彼女が、当該の局面に応じて変化する(いち早く考え方を切り換えて行動する)ことができたから、ということなのでしょう。
長らく「下積み」に耐えてくることで、彼女には逞(たくま)しい生活力が身についていたということなのだと思います。
その生活力にモノを言わせて、平時においては、絶対に揺らぐことのないトライアングル(社会のヒエラルキー)を、いともあっさりと「逆転」する…。その鮮やかさに目を見張ります。
その意味で、邦題は「いい得て妙」だと思った次第です。評論子は。
賤吏の身に甘んじていても、人生においては、こんなふうな「変化できる者」としてありたいものです。評論子も。
他に類例の少ない奇抜な作風の一本として、佳作の評価に値するものと思います。
(追記)
評論子が参加している映画サークルの「映画を語る会」でお題作品として取り上げられていた一本でした。
今は地方暮らしをしている評論子には劇場公開時に観ることができず、当時は「聴講生」として悔しさを抑えながら、話し合いを聞いていたものでした。DVD化がなり、ようやく観ることのできた作品でした。
話題に取り上げられていなければ、おそらくは観ていなかっただろうと思います。
教えられて佳作に当たる―。
映画を観ることの楽しさは、そんなところにもあるように思います。評論子は。
汚いの苦手な方は注意
80点 環境によって立場は変わる。
昨日鑑賞。映画の日で全員会員価格、会員としては損した気分(笑)2本...
ダーティな映像の合わせ鏡の部分を観るべし
鬼才リューベン・オストルンドのカンヌ・パルムドール二回目の受賞作。
最初の受賞作『ザ・スクウェア 思いやりの聖域』では、スノッブな富裕層のキューレーター対アジア系移民。本作では豪華クルーズ船の富裕層対クルーズ船のスタッフ(アジア系移民はトイレ係等)。
ただし、本作における富裕層の取り乱し様は、『ザ・スクウェア』のレベルをはるかに超えている。
嵐で沈んでいくクルーズ船で、彼らは豪華ディナーで出された料理を吐きまくる。
さっきまで船のスタッフたちを上から目線でこき下ろしていた輩たちが、である。
オストルンド監督は、とことん上から目線の富裕層を否定したかったのだろうか?
『パラサイト 半地下の家族』や『』エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」で描かれる移民や格差を、よりダーティな熱量で吐き出したかったのだろうか?
ゴミ置き場で袋の中のゴミをぶちまける、マスタベーション的なキューレーターでは描き切れない世界を映像に焼き付けたかったのだろうか?
兎にも角にも、富裕層の象徴=豪華クルーズ船を、見事にダーティーな巣窟に変えた映像は圧巻のひとこと。
ただ、本作の品定めを、ゲロまみれの映像で一蹴するのは早計かもしれない。
マルクス主義の変人気質のアメリカ人船長と資本主義の金の亡者のロシア系商人の対話。
売れっ子のインフルエンサーの女モデルと落ち目で彼女に奢ることをけちる男モデルの対話。
無人島でのトイレ係のアジア人スタッフと男モデルとの食べ物と性の交換。
一見どうでもいい部分がダーティな映像の合わせ鏡のようで、何か気になってしょうがない。
賛否両論は大いにあろう。が、もうこの監督の作品はたくさんだ、という気には到底なれそうもない。
辛辣な皮肉のオンパレード!
環境の変化等でなかなか映画も観れないしレビューも溜まっております(^^;
第95回アカデミー賞では作品賞、監督賞、脚本賞にノミネートされた今作も今さら感がかなりありますがレビューを軽く記しておきます。
冒頭のモデルオーディションシーンでの「H&M、バレンシアガ!」はかなりパンチがあって監督のキレッキレぶりに驚きました。
ファッションショーで大物が来ると席を弾かれる所も風刺たっぷり。
そしてその後の痴話ゲンカ。延々と言い争うカップルの描写に(何ともくだらない喧嘩!)と思いつつも引き込まれるしリアリティを強く感じました。
続く第二章は豪華客船が舞台。
部屋に閉じこもって全く仕事しないアル中の船長はウディ・ハレルソンがまさに適役でしたね!
セレブと船員の対比もブラックユーモアで鋭く描き、とても面白いのですが、やはりあの地獄絵図がねぇ。
「バビロン」の悪夢再び、のゲロゲロシーンが続きました。
何度も言いますが、かなり苦手なのでね。。
そして第三章は一転して流れ着いた無人島。
ここではサバイバル劇、セレブと船員の逆転劇が。
この第三章がメインですね。
曲者揃いのセレブやお金のためなら何でもする使用人への辛辣な皮肉、何もない場所での力関係の逆転、
全てをとことんブラックなユーモアで包み込み、映画ゆえに誇張はあるけど社会の現実をシビアに見せてくれてました。
音楽の使い方もユニーク。
この映画でデズリーの「Life」を久々に耳にしたのでデズリーがマイブームです。懐かしいですね。
アカデミー賞では3部門でのノミネートのみに終わりましたが、昨年のカンヌではパルムドール(最高賞)を受賞しています。
なるほどですね。
現代世界の縮図としての豪華客船
同監督の『ザ・スクエア 思いやりの聖域』と同様にブラック・ジョークに満ちていたが、少なくとも私の周囲の観客から笑い声はほとんど聞こえなかった。如何にもヨーロッパ的なジョークと言うべきか。
ここに描かれた豪華客船はまさに現代世界の縮図という感じ。新興財閥(オリガルヒ)のトップのロシア人、武器製造会社を経営する英国人夫婦、M&Aで巨額の金を得た人物、SNSのインフルエンサーなどが客で彼らに直接サービスするのは白人の乗組員。東南アジアなどからの有色人種の乗組員は機関室とか清掃の仕事をしている。船酔いで金持ち客たちが吐いたゲロを彼らが拭き取っている場面は哀しい。船長は自らをマルクス主義者だと言い、税金逃れで巨富を築いた客たちを相手にすることを苦々しく思っているのだが、飲んだくれでどうしようもない。ロシア人客とレーニンやマルクス、ケネディ、レーガンの言葉の引用合戦してた。
サバイバル能力がすぐれたトイレ清掃婦が漂着した島で君臨し、白人のイケメンの若者をペットにしてしまうのは現代世界へのキョーレツな皮肉。
最後のシーンは果たしてどうなったか観客に判断を任せている終わり方だった。とにかく日本ではウケない映画だろうなぁ。もし日本人や中国人が登場するとしたら、白人客に媚びを売る乗客のような役回りかしらん。
毒を利かせた風刺劇で楽しめる
富める者と貧しき者の悲喜こもごも、人間の浅ましさ、エゴのぶつかり合いが、時に過激に、時にシニカルに表現された風刺性の高い作品である。
監督、脚本は「フレンチアルプスで起きたこと」、「ザ・スクエア 思いやりの聖域」のリューベン・オストルンド。前2作同様、今回も毒を利かせた笑いを全編に散りばめながら2時間半という長尺を飽きなく見せた手腕は見事である。
最も強烈だったのは中盤の嵐に見舞われたキャプテンズ・ディナーのシーンだった。ここまでやるか!という感じでもはや呆気にとられるしかない。例えるなら「モンティ・パイソン人生狂騒曲」のインテリジェンスとトロマ製作「チキン・オブ・ザ・デッド/悪魔の毒々バリューセット」の下品さを足して2で割ったような阿鼻叫喚の地獄絵図と言ったところか。オストルンド監督は必ず劇中にこうした強烈なシーンを1か所は入れるのだが、これまで以上に過激で露悪的で下品で凄まじかった。
但し、個人的にはここをピークに映画は盛り下がってしまったように思う。
映画は3部構成になっていて、第1部はヤヤとカールの痴話喧嘩を描くパート。第2部はクルーズ船内の悲喜こもごもを描いた群像劇。第3部はクルーズ船を脱出したヤヤ達が無人島を舞台にサバイブする話になっている。地位も名誉も無に帰した中で、それまでの優劣関係が文字通り”逆転”していく様を赤裸々に描いているが、前段のキャプテンズ・ディナーのシーンのインパクトの後ではどうしても弱く映ってしまう。
同様のシチュエーションで言えば「マタンゴ」や「吸血鬼ゴケミドロ」といった作品も連想される。多種多様な人物が極限状態で本性を曝け出すというのは、この手のサバイバル物の一つの醍醐味であるが、そこを超えるものがなかったというのが正直なところである。
ラストは観客の想像に委ねるような終わり方になっている。賛否あるかもしれないが、余韻を引くという意味では見事な締めくくり方だと思った。明確な答えを容易に出せない所に今作のメッセージの重みも実感される。
尚、ヤヤを演じたチャールビ・ディーンは腹部に事故による手術の痕が残っている。本作の水着姿でそれを確認することができるが、術後に細菌性敗血症にかかって昨年の8月に他界したということである。今後の活躍が期待される中での突然の訃報ということで誠に残念である。
舞台転換の狭間に結構げんなりする描写があるが、全体的に風刺的群像劇として完成度の高い一作
予告編から受ける印象どおり、セレブ達を乗せた豪華客船が沈没後、生きながらえた人々の中で清掃スタッフの女性がリーダーシップを発揮する…、という割と明確な物語上の筋がある作品です。そのため鑑賞始まってすぐに、「あれっ、予想してた映画とは違う」ということはなさそうです。
中盤の「げんなりする描写」も、何が待ち受けているのか予告である程度察することができるんで、あまり不意打ち感はありません。しかしおそらく想定以上のえげつなさなので、やはり鑑賞直前の飲食はよく考えた方が良いかも。
登場するセレブ達は、いろいろ立場は異なっていても、「エゴイストで金の亡者」という点では一致しており、乗務員も彼らのおこぼれにあずかろうとしつつ、やはりいいように使われることに苛立ちを募らせています。
まぁ、何か起きるだろうな、というか起きてくれ、と期待値が高まる中、登場人物達にとって最悪のタイミングで最悪の事態が勃発、そしてサバイバル劇へ。ここまでの展開に隙がなく、鮮やかな手際で多数の登場人物を描き分け、絶望的(なのに虚飾は忘れない)な状況を体感させてくれます。
後半の展開は、いわば「汚れた大人達による『蝿の王』」な訳で、生存者たちは生き残るためにルールを作ったり役割分担をしたり、新たな上下関係を受け入れたりしていくんだけど、それらの新たな「生活様式」は現実に帰還する際にどうなってしまうのか…。その段階に至って、これまで直線的だった物語の筋が急に謎めいてきます。特に最後のセリフについては、展開上ある程度予想はつくんだけど、それでも抉り方が結構こたえます。
本作のパンフレットを最初に手に取った時は、誰もが混乱し、でもその巧みさに唸ってしまうような、実に凝った作りになっています。値段もそれほど高くないので、内容の充実度はもちろん、モノとしての面白さの観点からも購入をおすすめします!
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