CLOSE クロースのレビュー・感想・評価
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心の棘
幼馴染のレオとレミは家族ぐるみの付き合いで、まるで兄弟のように仲が良く何をするのもいつも一緒だった。二人にとってそれは当たり前のことの様に思われた。中学に入学した二人のそんな姿を見た同級生からカップルなのかと聞かれ、からかわれるまでは。
この年頃の子供は何かと繊細で、また人生経験も浅いことから周囲の目がやたらと気になる。自分が女の子みたいだとからかわれたレオ、たわいもない子供の意地悪でもそれを深刻に受け止めてしまう。
そのせいでレミと距離を置くようになり、他の同級生たちとつるむようになったレオの変化についていけずさみしさを募らせるレミ。いつも二人一緒が当たり前だった、それなのにレオは自分を置いて行った。ショックを抑えきれないレミはレオと激しい喧嘩をしてしまう。
それからしばらくして遠足の日にレミの姿はなかった。何かせわしなく連絡を取り合う教師たちの姿を見て不安を募らせるレオ。学校には保護者達が迎えに来ているという。レオの不安は現実のものとなった。
それは誰のせいでもない不幸な出来事だった。でもレオはその事実をなかなか受け入れられない。どんなにホッケーの練習に没頭しようとも心から離れない。それはまるで心に刺さった棘のようにレオの心に居座り続け彼に痛みを与えた。
練習中に腕を骨折して治療を受けるレオは思わず泣き出してしまう。父は骨折したんだから痛くて当然だと慰める。でも痛いのは腕じゃない、心が痛いんだ。
レオは生涯この罪悪感を背負って生きていくのだろう。たとえレミの母親が許してくれても、けして誰のせいでもない不幸な出来事だったと言われても彼は自分を許せないだろう。
心に刺さった棘が年月を経て風化し、尖った先端が丸みを帯びてきて痛みが和らいでいってもそれは彼の心に居座り続け、何かのきっかけで不意に思い出される。そして棘はやがては粉々の塵となり彼の記憶の中に散らばり小さく見えなくなってもかすかな記憶として居続けるだろう、幼き頃の親友への思いとして。
未熟さゆえに何気ない言動で相手を傷つけてしまった、誰もが有するであろうそんな幼き頃の苦い記憶を思い出させてくれるノスタルジックな作品。少年期の繊細な心の揺れ動きを見事に描いた。
「コット 始まりの夏」に引き続きこちらも演技経験の少ない新人俳優による素晴らしい作品だった。光の演出も素晴らしく、花畑を疾走する二人の少年の姿が美しかった。本作も劇場鑑賞を逃したことが悔やまれた。
【”僕のせいだ。僕が突き放した・・。”今作は幼馴染の少年二人が周囲からの揶揄いの声により変遷していく関係性により起きた悲劇と、残された少年が再生していく様を静謐なトーンで描いた作品である。】
■花を育てる農家の息子レオ(エデン・ダンブリン)と彼と幼馴染のレミ(グスタフ・ドゥ・ヴァール)は、いつも一緒に過ごす仲良しだ。
二人は、中学に入学し同じクラスになるが、二人の親密な姿を見て、同級生達から悪意なき揶揄いの言葉を掛けられ、レオは徐々にレミと距離を置くようになっていく。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・序盤、二人は仲良くレオの家の花畑を駆けまわっている。中学校に行き時も、並んで自転車に乗って登校し、クラスでも肩を並べている事が多い。
だが、レオはオトコオンナなどと揶揄われて、徐々にレミと距離を置いて行くようになる。
ー 見ていると、レオはアイスホッケーチームに入る活発な男の子で、レミは楽器演奏を楽しむ控えめな性格に見える。
レミは揶揄われても気にしないが、レオが徐々に自分から離れて行く事を悲しむが如く、静に涙を流すのである。-
・ある日、レオは一人で自転車で学校に来るが、レミにそのことを激しく追及され喧嘩になってしまう。
ー レミの方がより繊細な心を持っているのだな、と思うし、彼のレオを想う気持ちが分かるシーンでもある。-
・レミが学校に来ない日に、レオが女性教師にレミのことを尋ねるシーン。”あの子は・・、もういないの・・。”
ー レミの死を知ってもレオは懸命に冷静な振りをする。
そして、レミの家にも行きレミの家族と卓を囲んでいる。
レミの兄が未来の夢を語るシーンで、その隣に座っていた父親はその言葉を聞き、目を抑えて肩を震わせて嗚咽するシーンでは涙が出そうになる。父親がレミの未来はもうない事を悲しむ気持ちが、伝わってくるからである。-
・レオは、全てを忘れるようにアイスホッケーの激しい練習を続けるが、ある日左手首を骨折してしまう。そして、包帯を巻いて貰っている時に流す涙。
ー 医者は”骨折したら、痛いよね。”と言って慰めるが、あの涙は手首の痛みの涙ではなく、心の痛みの涙である事は明白である。-
・更にレオはバスに乗って、レミの母が勤める病院へ行く。
そしてレミの母が運転する車の助手席に乗った時に、漸くレオは堪えていた慚愧の念を口にするのである。
ー ”僕のせいだ。僕が突き放した・・。”と言って涙を流すレオ。
一度はレミの母は”降りて。”と言うが、森の奥に駆けていくレオを追い掛けて抱きしめるのである。実に切ないシーンだが、レミの母の赦しの心に再び涙が出そうになる。-
<時は流れ、レオの左手首のギブスが取り外される。そして、レオはレミと遊んだ花畑を走って止まり、振り返ってあの印象的な大きな瞳が映されて、シーンは暗転する。
今作は、今作は幼馴染の少年二人が周囲からの揶揄いの声により変遷していく関係性により起きた悲劇とそこから残された少年が、徐々に再生していく様を静謐なトーンで描いた作品なのである。>
学校がもたらす残酷性
レオとレミは大の仲良しでいつも一緒にいる。レオは家業の農園の手伝いをしていて田園風景と戯れるふたりがまるで楽園の天使のように高らかに描かれる。
学校がはじまるといつもべったりなふたりはクラスメイトに「カップルなのか?」と聞かれる。さらに同性愛嫌悪のひやかしにもさらされる。
レオはこれらの学校内不文律を察し、排斥されてしまうのを怖れた結果、レミとつるむのをやめ、アイスホッケーのチームに加わり、軟弱だと思われないよう、荒々しい野郎気配を発することに努めるようになった。
一方、レミはおっとりした芸術肌の男の子で、独奏をするほどオーボエがじょうずで、学校がはじまり「おまえらいつもいっしょにいんな」と揶揄をされても、とくに気に留めていなかった。
だからなぜレオが突然冷たくなったのか解らない。ふたりは文字通り寝食をともにしてきたソウルメイトだったのだから、突如突き放されたレミの絶望やいかばかりか──である。
なんでなんだ?と泣きながらレオに詰め寄るレミ。その後、レミが欠席した旅行から戻ったレオに、レミのじさつが知らされる。
監督の前作がトランスジェンダーの少女をあつかった映画だったこともあり、セクシュアリティに着目した批評もあったが、レオとレミは性的にひかれていたわけではない。年齢からしてじぶんの性的指向に気づいてさえいなかっただろう。
すなわち同性愛嫌悪の中傷には同性愛者であろうとなかろうと反発する──ということを映画は言っていて、これは例えば男の子が女っぽい色や服やことばづかいやしぐさを呈したときに揶揄されることと同じような学校内の日常的な漫言に属するものに過ぎない。
みなさんもご存知のように、学校というところでは、たいした意味もなく、それが相手にどれほどダメージを与えるかなど考慮されずに、いろんなことを言ったり言われたりするものだ。
よって映画は学校のような集団生活では友情が脆いと言っているのであり、とりわけレオとレミのような「親密な友情=Close」は、瓦解したときに途方もない悲劇におちいってしまう──と言っているわけでもあった。
ただしそれは特殊な状況ではなく「突如として冷たくなる友人」は、幼少期から高校あたりまで誰にでも経験のある現象ではなかろうか。
わたしたちはレオと同じように学校内不文律を怖れ、はぶられた人と親しくするのを避けたり、時にはじぶんがはぶられたりしながら、学校生活をどうにかやりくりしてきたはずだ。したがって少年の気持ちはわかる。わたしは学校でレミにもなったときがあったし、誰かから見ればレオになったときもあったのかもしれない。
だからこそ、この話のどうしようもなさが胸に迫ってくる。そもそも二人の少年は、とうてい演技しているようには見えなかった。
この悲劇をさらに悲しくするのがレミのお母さんのソフィー(Émilie Dequenne)。
冒頭の“楽園”描写のなかで少年らと一緒になって遊ぶような自由人のお母さんで、レミが亡くなっても恐ろしく気丈で、かえってその悲しみが推察され怖いほどだった。
死んだ動機を知りたくて何度かやんわりレオにたずねたりもしたが、最終的にレオから「ぼくのせいだ、ぼくが原因だ、ぼくが突き放した」と告白され、そんときはもう冷静じゃいられずに(クルマから)「降りて」と言ったけれど、われに返って、レオを追った。レオは木の枝をもって武装していた。じぶんは彼女のむすこをころした犯人なんだからね。それを悟ったソフィーは、もうどうしようもなくて、和解とかじゃなくて唯唯どうしようもなくて、抱き合って泣いた。
いつしかレミの親たちは引っ越していていて、今、少年はひとりで野を駆けるのだった。
概説に『第75回カンヌ国際映画祭で「観客が最も泣いた映画」と称されグランプリを受賞。』と書いてあったけれど、冗談じゃない。涙なんか一滴も落ちませんわ。ほんとに悲しいけれど泣くどころか楽園から奈落へ突き落とされる。
謂わば学校生活の残酷さを描いていて人はしんでないにしても誰にでも大なり小なり似たような経験があるのではないかと思う。
imdb7.8、RottenTomatoes91%と88%。
その言葉が言えるまで・・・罪の意識を乗り越えて、
心の成長、そして身体の変化、
性別の違和感を感じる第一次性徵期真っ只中の13歳の二人。
その言葉に出せない違和感や同性への思慕。
子供の視点に立ち、13歳の目線で繊細に描く作品です。
自殺(したらしい)レミ。
黒髪の角度よっては女の子にしか見えないレミ。
金髪の男の子がレオ。
金髪が小刻みにウェーブしていてとても美しいレオ。
この映画、私的にはイライラ。
知りたい事が、中々明かされない。
それとカメラ(撮影)が、
私からしたら見たいものが見えない。
レオの農園の農作業も、季節が変わり収穫した作物や
種付けや、レオがとても真面目に農作業をお手伝いする偉い子、
なのは分かるのだけれど、もっと高いところから遠目に写して、
もっと風景の全体を見たい飢えを感じて堪らなくなる。
台詞は知りたい事が、語られない・・・
なので、正直なところ欲求不満も溜まりました。
バス旅行に現れなかったレミ。
到着間際のバスの中で、事件?
異変が教師から知らされる。
直ぐに察したレオは
「病院にいるの?」と訪ねる。
聞かれたレオの母親は、
「もういないの・・・」
とだけ答える。
(無表情なレオが、無表情だから、痛々しい)
自殺という言葉は一度も使われない。
まるでその言葉を出すと、ダイナマイトで爆発し、
ダムが決壊する様に「タブー視されて、・・・」
そして生徒たちには「心のケア」だと思うけれど、グループセラピー」
として「レミってどんな子だったのか?」話し合われる。
レミのことを、女の子の一人は、
「明るい子だった」とか、
別の男の子は、
「とてもハッピーそうだった・・・」
能天気に、そして他人事として「ハッピーそう・・・」
レオがその言葉に反応する、
(ハッピーだったなんてなぜ言えるんだ!!)
レミとレオを《カップル》と囃し立てたクラスメート。
レオの心に秘めた秘密がレオを苦しめている。
(絶対に秘密を心に隠している)
冒頭のシーン。
夏休み休暇の日々。
頻繁にに裕福なレミの家に泊まりに行くレオ。
スキンシップ、
ピッタリとレミの背中に抱きつく姿勢のレオ。
シーツに包まりじゃれ合うレミとレオ。
(危険な匂いがする)
オーボエが得意で音楽家を目指しているレミ。
「オトコオンナ」の言葉が校庭のどこかから聞こえる。
レオは次第に男の子らしく成長して、
アイスホッケー部に入り夜の練習に通う。
男らしくする事で、レミとの距離を取る。
スケートリンクを見に来たレミは、なんか違和感がある。
カッコいい男の子の出待ちする女の子のファンみたい。
そんな雰囲気がある。
レミの家をレミの死の何ヶ月後かに訪ねたレオは、
お母さんから、「何があったの?」と直球質問を受ける。
狼狽えて何も答えず、慌てて帰宅するレオ。
それでも、レミのお母さんの勤務する産院に訪ねるレオ。
送ってもらう車の中で、遂に真相を話す事が出来た。
「僕がレミを○○○○○」
この映画のまだるっこさはローティーン(13歳の2人)
(レオの幼い知能に合わせた会話と、
風景も身長に合わせてるからカメラが上を写さない・・・
全部じゃないけれど、低い位置ばかり多く写している・・・
今、フッと気付いたけれど、・・・なんかそんな気がしてきた。
13歳の子供に言える言葉・・・
当然、うまく気持ちを言葉になんか出来ない。
だから「自殺」なんて言葉は刺激がキツ過ぎるから
誰も言わない。
感じやすい、傷つきやすい、脆いガラスのようなこころ。
《あやうくて砕けてしまうこころ》
それを掬い取っている映画なのだと思う。
レミはレオが原因で、死んだ。
それもキッカケかも知れないけれど、女性の心を持つ自分が、
男性の身体を持つことに戸惑い、
絶望したのも一因ではないのだろうか?
ルーカス・ドン監督の処女作「Girlガール」では、
トランジェンダーでバレリーナを目指す主人公が
女性として生きる決意をする映画でした。
(とても衝撃的なラストシーンだったのですが、)
レミはレオに拒絶された事とともに、男性として変化していく自分に
失望し、女の子でないからレオは好きになって、くれない、
レミの愛を受け止めてくれない・・・
そう思ったのだとも思う。
レオがやっとレミのお母さんに、心にしまっていた秘密を話せた。
そのことはレオの成長・・・レミの死への罪悪感を乗り越えた・・・
事だと言える。
でも私には死んだレミ(グスタフ・ドゥ・ワエル)の、
はにかむように微笑む顔が常に目に浮かぶのだった。
13歳の進学期9月から始まり、その学期の終わる7月。
見違えるほど大人びた知的な視線を持つレオ(エデン・ダンブリン)
悩み抜いた数ヶ月で見違えるほど成長した姿に驚いた。
(すごく背が伸びたね)
そして一番辛かった事。
子供に自殺されたレミの両親の苦悩。
その癒えない悲しみに、
涙しました。
12歳が背負ったもの
最初に思ったのが、「こんなことで死ぬなよ」
今どきの子は、女子だけじゃなく男子だって、同性同士で仲が良すぎたらこのくらいのことは言うよ。ママと仲良しすぎてからかわれるのと同じレベルだと思う。それが嫌で友達を突き放すっていうのも、思春期入り口の子供ならありがち。こういうのを乗り越えて成長していくんじゃないか。レミは異様に繊細な子だったのかも(ママが、トイレに篭ったかと心配していたり)だけど、これで友達に死なれたレオが辛すぎる。
レオが、まず自分の保護者に相談、じゃなく、誰にも打ち明けず一人で背負って、レミの母に「自分のせいだ」と打ち明けに行ったのは漢だと思った。
彼が救われるといいな。
ひょろひょろと長い手足と薄い胸の美少年の苦悩する姿をひたすら見せた、少々あざとい映画と思う。
映画はそうだけど、レオにもレミにもあざとさはないので良いです。あったら見ていられないわ。
子役、特にエデン・ダンブリンはすごすぎる。
#36 誰のせいでもないけど
主人公は自分の取った行動にずっと悩み続けるのだろう。
そもそも毎日泊まりに行くような仲が異常なのであって、からかわれなくてもいつの日か自然に離れて行くのが幼馴染ってものでしょう。
レミが何故命を絶たなきゃいけなかったかは誰にもわからない。
でもレオ1人のせいではないことは明らか。
うつくしくてかなしい。
相手に感じる親しみが、性欲を孕んでいるかが恐らくまだ未分である二人の話。
レオとレミという13歳?の男子で、新学期から中学生。
レオが主人公なのかな。毎日一緒に遊んで毎日一緒に、時に同じ布団で眠り、学校でも一緒にいる。
幼子と母親のような、身体接触を伴う親密さは、13歳の同級生たちには異質に見え、
二人は付き合ってるの?と女子たちにからかわれ、レオは必死に否定する。
レオ自身にレミへの性的な興味などがあるかは、全くわからない描き方だった。
ただ、”ふつうの男らしさ”を身に着けなければ、という圧力は感じていたようで、
レミを遠ざけ、男らしさを補強?するためのツール的に、アイスホッケーを習い始める。
クィアなものへの忌避ではなく、集団からの阻害を忌避したいように見えた。
そこはよくわかる。集団内で異質であることを受け入れるには、13歳は幼すぎる。
四十路の今では自らの異質さに抵抗がない私も、13歳のころには”みんなといっしょ”という安心を、心底欲していたもの。
レオのアイスホッケーのような努力を、私だって必死でやっていたもの。
”みんなといっしょ”が欲しくて、バレーボールやってたもの。
一方レミは、集団内での異質さに無頓着なんだと思う。オーボエが得意で、一人っ子。お母さんがすごくおおらかで素敵な雰囲気の人だった(レオの父母・兄がだめってことではない)。
レオへの親しみに、性的要素があったかは定かではない。こちらもその点は未分な気がした。
自らの異質さに無頓着でいられる、ある種の強さは、13歳が持っているのが珍しい類だと思う。
レオにとっては、考えられないことで、そのまんまでいようとするレミと対立してしまう。
結果、レミは、自死する。
この展開は、全く予想しておらず、辛かった。
レミが儚くなって、レオは当然ショックを受けているけど、そのショックが自分がレミを拒絶したからという
罪悪感であることは、誰も気付いていないし、誰にも言えない様子だった。
レミの両親は、時間がたっても悲しそうだし、自分も悲しい。
一心同体と言えるレミとレオが、小さな対立を経て一人と一人になることは、思春期の必要な成長なので、
対立自体は避けようがなかったと思う。
レオの拒絶は、結構強かったは強かったけど、レオが悪いわけではない。異質さを恐れることも自然なこと。
イニシエーションが一生の傷みたくなってしまって、つらかった。
そして、レミを死なせないことはできなかったのだろうか、としばらく思い悩んだ。
もちろん虚構であるし、実際のレミはいないけど。
レオはどんどん自分を罰し、最終的には、レミの母親に、きっとレミは自分のせいで死んだことを伝える。
レミの母に、話したくてでも言えなくて、家に行き、職場に行き(新生児室のナースだった)、家に送ってもらう
途中で話をし、森の中で苦悩をぶつけて受け止める。後半とてもよかった。
レオのおうちは、花卉農家で、多分香料を作るための花らしく、収穫は花部分のみベニバナみたいに摘み取る。
美しい花畑と夕空のなかを、まだ一心同体だったレオとレミがごっご遊びをしながら駆け抜ける風景も美しく、心に残った。
2023年TOP10入り
首都圏?では7月に公開され、ここ広島で
やっと公開された期待の作品。
オープニングですぐ心を鷲掴みにされる
美しい光景🌸🌷🌼🌷🌸🌷🌼
少年少女の揺れ動く感情と
誰にでも起こりうる小さなすれ違いで
人は居とも容易く傷つき壊れてしまう。
12歳の少年には耐えられなかった中傷
12歳の少年には理解できなかった距離感
どちらの少年も間違ってはいないのだけれども
2人とも選択肢を大きく間違えてしまった。
息子の親友を我が子のように
可愛がっていたからこそ
レミの両親は何も告げずに去って行ったのも
切ない。
とにかく2人の仲睦まじい姿と
葛藤と成長していく様がいいのです。
レオ役のエデン・ダンブリン
レミ役のグスタフ・ドゥ・ワエル
本作で映画デビューを果たしたとのこと。
とても初演技とは思えません。
これからがとても楽しみな若手俳優爆誕です㊗️
凄く丁寧に描かれた青春映画。
トランスジェンダーの主人公がバレリーナを目指す姿を描いた「Girl ガール」のルーカス・ドン監督の長編第2作。
気になった前作と意味ありげ(に見える)なポスターに牽かれて鑑賞しました。
で、感想はと言うと…良い。
少年の友情と互いの感情のすれ違いと後悔を丹念に描いているが、もうそれそれはこれでもかとばかりに丁重な描き方で上映時間をたっぷり使っている。
なので痒いところまで手が届いた感はあるけど、惜しむらくは少し丁重に描き過ぎで物語の起伏が少し単調になっている感があるのと、観る側の解釈の隙間がない感じがしなくもない。
だけど、多感な少年期の葛藤と言うか、想いや感情と言った一筋縄でいかないものを丹念に丹念に描いているのは見事と言うしかない。
特に必要以上な起伏を付け足さなかったのも個人的には好感が持てる。
この辺りの描写がホント上手いんですよね。
中学生ぐらいの男の子は子供であっても、何処か大人な側面と言うか、そこにスライドしていく多感な時期であり、今まで口に出していても、それがとある切っ掛けから出せなくなってしまうことなんかがあるんですよね。
親友なんて言葉で括らなくても仲が良いのは普通であっても、それがいざ言葉にするとこっ恥ずかしい。
ましてや、それを周りにからかわれると余計に過剰反応で振る舞ってしまう。
大人だったら軽くスルー出来てしまうようなことでも、過敏に反応して、必要以上の誤解と透かしをしてしまい
“いやいや、そうじゃないんだよ。実は~”なんて袋小路に入ってしまう。
そんな小さなすれ違いによる誤解が悲劇を生んでしまう。
青春のすれ違いと言う言葉では括れないくらいに周囲に影を落としてしまうことが重く深くのし掛かるんですよね。
正直ポスタービジュアルからもっとLGBTQ的な問題に根付いたテーマかと思ったけど、凄く青春と友情な作品で驚いた。
第95回アカデミー賞の国際長編映画賞にノミネートされただけでなく、様々な賞を受賞したのも頷ける。
こういう作品を鑑賞出来たことで鑑賞の幅が広がった感じで嬉しく思います。
派手さは無いけど、丁寧に描かれた良作でお薦めです♪
近いままで遠くへ行けるのか
Close
会話に明確な答えを求めなくても済む環境を作る。アイロニーと情緒の中で、長い時間をかけてわかりあっていた
嘲笑と葛藤の中で成長する、自動的に言葉、コミュニケーションが変化し、昔からの愛情は疎遠になっていく
新しい加護の元で生きる背後には、一抹の不安、そして無関心のような表情が流れていく
どこかで帰るべきだったのか、最後まで問いかけている。
忘れられない物語
見慣れたレミの部屋に一歩踏み込めば、仔犬がじゃれあうような2人の時間が戻る気さえした。
けれど、空っぽのリビングにのこる哀しみは逃れられない現実をガラス越しにつきつける。
レオにはそれがしっかりわかったはず…。
痛む胸の奥を尖る爪で鷲掴みにされる感覚は、いつものように飼い犬がレオを出迎えなかったときの嫌な予感と結びついた。
時の癒しを待てない苦しみに、今できることをレミの両親は考え記憶から存在を消そうとした。
それが夫妻の今を楽にする手段であり、息子が大好きだったレオの未来をも助けることだと。
そして息子同然にレオを大事にしていたからこそ何も告げずに。
ーーーーー
ある日クラスメイトにひやかされ、レミとの距離を気にするようになったレオ。
間もなく何かを求めるようにアイスホッケーに夢中になる様子と感情を振り切り家業の手伝いに没頭する姿がこれでもかというくらい反芻される。
それらの上達ぶりや気力、作業の内容と風景からみてとれる季節の推移には、時の経過と共に逞しさを増すレオの姿があり、レミとの時間を意図的に減らし自分に集中しようとしているのがわかる。
これをレオの成長の過程として喜び終わらせることができなかったのは、対比のように、内向的なレミが置いてきぼりにあったような孤独や嫉妬に苛まれ弱っていく姿があったからだ。
たわいもない会話にのせ夢や希望が明るく響いていたオーボエの音が、頭の中でいつしか調を変えてどんよりと曲がりくねり2人の気まずさを代弁しているようだった。
レミにとってそれは、唯一の親友と空想に浸って遊ぶ無邪気な日々への不本意な決別。眠れない夜にやさしい創り話をしてくれる〝友と時〟を突然封印されたも同然なのだ。
しかし、レオはレミを嫌いになったわけではない。
ただ自分の中にあるつかみどころのない気持ちに対応できず、それを誰かに悟られたくもなかった。
だからレミと離れレミのことを〝考えないで没頭できる時間〟がレオには必要だったと思う。
だが、レミのピュアな気持ちは、それを理解するには少し幼すぎたのかも知れない。
あれだけそばにいたレオの目に自分がうつっていない…
手の届かない世界にいってしまいそうなレオ…
そんなレミの焦りと口数が減ったレオがある日のケンカを引き起こし気まずさに囚われたまま別れを迎える。
レオとふたつの家族を襲う哀しみ。
それはどんなにどんなに辛かったことか…。
それから1年。
前にも増して自分を奮い立たせるようなレオがいた。
ソフィの職場に向かうレオはもうこどもの表情ではない。苦悩を経験し決意を持った雰囲気は、ソフィにすぐ状況を悟らせたが彼女は冷静を保つ。
この時を待っていたから。
しかし、レオを送る車内で聴いた言葉に、それまでこらえていた複雑で素直なソフィの感情が爆発、レオを車から追い出してしまう。
我に返ったソフィがレオを追う雑木林での緊迫。
追いつかれた時、ソフィに責めたてられても当たり前だと感じていたから抵抗する為にレオは棒を持っていた?
…そう初めは感じたのだが、むしろ自分を傷つけようとしていたのではないだろうかと思う。
慣れ親しんだソフィの気持ちが痛いほどわかるだけに、彼女の前で自らの罪を罰するために。
それをわかったソフィはレオをすかさず抱きしめたのだと思う。
レオも十分に苦しんだことを知り、自他共に疑い責めた日々からやっとレミの死を受け入れることで赦しの境地に辿りついたようにみえた。
そして冒頭に書いたレミの両親の選択がある。
ーーーーー
思春期のすれ違いのやるせなさをふと思い出させる苦い経験は、多くのおとなたちにある。
けれど、ここまでの衝撃。
その先にあった〝死〟というものがそれを増したのは明らかだ。
彼らのいつのまなざしも頭から離れず、だけど言葉にできず、ようやくの今日。
気がつけば半月、長い時間探し物をした気分だ。
まだ迷いながらも触れてみようと思ったことがあるからだ。
小学生のときに、友人のお兄ちゃんが亡くなった。
彼が6年生になる前日。
夕闇が迫る山手に向き、ひとり自転車をひく彼の姿があった。
父の車の座席から偶然みかけた私はいつもと違うその雰囲気だけをぼんやり見ていた。
それが翌朝に知る悲しみになるともわからず。
そして、今も同じ季節になると、不思議にみえた彼の姿を目で追う幼い自分を空から眺めるようにみる。
なにもできなかった自分の記憶が、どうしようもなかった淡い悔いを重ね塗りし無意識に弔っているのだと思う。
それが思春期頃からのクセになった。
一家はしばらくして引越した。
それからのことはわからない。
友人や家族のかなしみは時が忘れさせてくれたのか。
それもわからない。
でも、せめてそう信じたい。
そして彼がいたことは覚えていたい。
これは私の忘れられない物語。
レミとレオそして彼らを見守った家族に出会いなおさらそう思うのだ。
絶望が連れ去りのこしていくもの。
修正済み
喪失を経験した人々の選択
なんとなくどちらかが自殺することは察していたけど、思ったより呆気なさすぎて全然序盤すぎて驚いた。しかしこれは"レミがレオに傷つけられる物語"ではなく、"レオ含めたレミの周囲の人間が喪失をどう経験し生きていくかの物語"だからなのだと気づき、ハッとした。
それはつまり、この映画は「思春期特有の曖昧な関係性故の危うさ」と、「少年時代における喪失」、そして何よりも「取り残された人がどう生きていくのか」をテーマに描いたのだと言える。これは恐らくレミに関しても同じでレミの行動は、レオに「取り残された」と感じた故のひとつの答えだと言える。
環境が変化するに連れて、何も気に留めず慣れ親しんだ服や鞄、自分の振る舞い、家族や友人の言動など何もかもが気になって、そして誰かを傷付けてしまう。それは誰にでもある事で、誰のせいでもない。それが分かっていても自分のせいだと思ってしまいたくなる感情は罪というよりも責任に近い。
ラストシーンにて、自分の罪を告白したレオ、そしてレオを抱き締めたレミの母はそれぞれレミの喪失を受け入れる。レミの母は、家を引っ越して「忘れる」という方法で前へ進もうとし、そしてレオは(別の友人や兄でレミの喪失が生んだ間隙を埋め合わるという選択ではなく)レミとかつて駆け抜けた花畑で立ち止まり振り返って「痛みを抱えながら生きていく」という選択で前へ歩み出す。
喪失は不可逆的な事実であり、その苦しみや悲しみは何かで埋め合わせられるものではない。それでも生きようとする人々の姿はとても儚くてどうしようもなく非力でだからこそ美しいのかもしれない。私自身の過去における少年期の喪失を思い出して辛い気持ちになりつつ、それでも見てよかったなと思える映画だった。
「なぜ?」を追い求めてしまう
少年時代の友情はとても容易に築かれ、だからこそとても脆く儚い。私も小学生時代に遊んでいた友達とは疎遠になってしまった。本作のレオとレミみたいになにかのクラブに属してしまうとそちらの友人関係が優先されてしまうのは世の常だ。
でもさすがにあの2人のような親密で近い関係性だったら簡単には崩れない気もする。だからこそ2人が疎遠になっていく過程が切なすぎた。大人になっている今だから、「そんなことで」と思えるが、彼らにしたら大問題だ。
私は小学生時代にクラスメイトが自殺したことがある。転校してきた子で、友人もできて楽しく過ごしていたように見えたが再度親の転勤で転校することになった矢先、自ら命を落とした。他の土地では友人ができなかったが、私の地元で初めて友人ができたらしい。当時の私は「なんでそんなことで?」と驚くことしかできなかった。そう、自殺した者の周りはどうしてもその死の「なぜ?」を追い求めてしまうし、その気持ちを理解することは難しい。
本作の中でも、レオと観ている私達だけがレミの死の原因に思い至る。あの出来事が関係している!と。ギブスをつけるときのレオの涙もそう。レオと観ている者だけが理解できる描写がとても巧みだった。
結局、レミの死の真相はハッキリしないままだ。付き合ってるんじゃないかと同級生にからかわれたことも、レオとは違う別の感情をレミは感じていたかもしれない。レオに対するレミの感情は最後まで明らかにはならなかった。だから、これは観ている私達だけが妄想できる領域なのだ。このへんの描写も巧みだった。
セリフではなく、表情や雰囲気で物事を伝えようとする映画や、観ている者に判断を委ねる映画はあまり好きではない。でも、心を揺さぶられてしまった映画を低く評価することもできない。
Drop
自分は同性を好きになった経験は無く、異性に好意を抱きながら生きてきました。近年、LGBTを取り扱った作品は多くなり、その作品を見て様々な勉強をしたりしているのですが、今作は少女の一言によって親友同士の絆が揺らいだ、という一味違うエッセンスが加えられた作品になっていました。
兄妹のように仲の良いレミとレオ、互いの家に泊まりに行ったり、一緒に食事を取ったり、一緒のベッドで寝たりと、これだけ見れば親密な関係性なので、カップルなの?と質問されても仕方がないと思います。
その関係性が疑われて、ちょっとだけ嫌になったレオがレミを突き放すような行動を取ってしまいますが、それが原因で喧嘩をしてしまい、離れ離れになってしまい、挙げ句の果てにレミは自殺を…という前半のアプローチから、後半はレオの葛藤が強く描かれていました。
ただ近い時期に上映された「怪物」と主題が似ており、どうしてもそちらと比較してしまったので、少し見劣りしてしまったかなと思います。
「怪物」が一緒になれないのなら死ぬしかないという最終選択を選んでしまった作品だったのに対して、今作は衝動的にレオが自殺してしまったというのが強く映ってしまい、同性愛というテーマを扱う作品にしては、命の扱い方が少し軽いかなと思ってしまいました。
レオを演じたレオン・ダンブリンくんの儚い表情が素晴らしく、こんなにギリギリな感情を表現できるなんて、彼は将来とんでもない役者になるんじゃないか、今から楽しみな俳優さんです。
良い作品だとは思うんですが、少しパンチが足りないかなと思いました。そういえば「わたしは最悪。」の脚本の方が監督を務めていたというのを後から知って、そういえばそれもハマって無かったわ…と勝手に納得しました。
鑑賞日 8/3
鑑賞時間 18:30〜20:20
座席 G-1
心の変化がうむ辛さ
幼馴染で親友のレオとレミが、集団生活に入る生活の変化で、レオが周りの人間に対抗して自分を変えていこうとする過程で、レミの心をを傷つけてしまう。
ただ、これは自分を守るためのレオの必死な行動で、決してレミを傷つけようとしてとった行動ではない。だから、レオは常にレミを気にはかけている。レオの視線の行方をカメラは捉えている。
レオを責めることは決してできない。
ただ、レミは相手の心境の変化が何故起こったのかも知らされないまま悩み哀しみ苦しみ。
これは男女間でも起こりうること
変化していく本人は緩やかに変わっていくのでダメージは大きくないが、取り残された方はずっと同じ気持ちのままだから相手の行動が判らない、苦しみ受け入れられない。
辛いなぁ。
どちらも。
そして家族も原因がわからないままの辛さ
ラストの一つ前の家のシーン、同じ家なのに二人が仲の良かった頃と比べてのあの空虚感
季節の移り変わりを花き農家の風景と服装で描いていて美しさを感じました
子どもだから未熟者だから
という理由では、許せない気がした。
私は命を大切にできなかったレミのことも認めることはできない。
レオが誠実な人であれば、一生後悔を背負っていくしかない。もしも、レミのことを忘れるような人であれば、それはそれで仕方ない。
予告で筋がほぼわかってしまったのは残念だった。せめて事故であって欲しいと願っていたがこれもまた願いは通じなかった。
お父さん、お母さんの演技が身につまされた。
レオを抱き締めた気持ちも、黙って引っ越した気持ちもよくわかる。
少年時代の悲しさ
映画『クロース』だれでも、少年時代に似たような経験が、あるはず。でも。大人になるにつれて、そんな気持ちが、あったことさえ忘れてしまう。ただ、生きてゆくことだけに貪欲なだけでいいのだろうか。こんな少年時代のピュアな心のかけらでもあれば、人生は豊かに。
古今東西、いろんな物語があります。
少年愛、BLといった部類になるのでしょうか。
古くは、四世鶴屋南北作『桜姫東文章。』
青年僧と稚児さん(少年)との恋愛物語。
映画では、『寄宿舎 悲しみの天使』でしょうか。
カトリックの男性だけの寄宿舎での少年と、青年の恋物語。
今回の作品でもそうですが、少年愛の物語は、片方の死で終わるのが、通例。
ただ、恋愛の異型だと、決めつけるのは、いかがなものでしょう。
もともと人間は、同性愛。
それが、思春期を過ぎて、異性への関心が芽生えてくるもの。
あるいは、そのまま同性愛の道に進むもの。
それって、本人の意思では、変えられるものでもなく。
まあ、医療的にその性的関心の方向を変えることは、決して不可能ではないですが。
もともと、人間の性愛などというものは、曖昧なもの。
それをいや、同性愛だ、異性愛だ、やれLGBTだと問題視するほうが、おかしい。
不可思議なものとして、そのまま受け入れるのが、自然。
ただ、社会生活では、何かと不便と偏見をうけますから、問題として取り上げているだけのこと。
日本をみてください、江戸時代は、ごくごく当たり前のことと、してたんですよ。
ガラスの少年時代のあやうさ。
ピュアであるがために、その実直さが、悲しい結末に。
この作品だって、幼い頃から、兄弟のように育った同じ年の二人。
いつもいっしょ、やがて中学生に。
その仲を、同級生にからかわれて、一人が、相手を突き放す。
よくあるパターンなんですが。
異性間だったら、失恋ということになるのかな。
ただ、異性間だと同性のように、あそこまで距離は、近くないよね。
ただの失恋なんだけど。
そこが、少年愛のピュアなところ。
すべてを失って、絶望の縁に陥ってゆく。
なんで、そこまで、ただの失恋じゃない。
ひたむきさや、純粋さを捨て去った大人
極端な言い方ですが、生きてゆくとはそういう一面もある、ということ。
大人になるには、色んな面を脱ぎ捨てていかねばならない。
でないと、生きて行けないから。
ただ、多くの大人たちが、脱ぎ捨てなくていいものまで捨てて、大人になってゆくということ。
そんな、人たちには、この映画は、わからないだろうな。
悲しい結末だけど、人間として、捨ててはいけないものがある、ということ。
たとえ、かけらであっても持っていないと。
この映画は、そのことを言っている。
ただ、残された家族の悲しみが、どこまでも深く、救いがないのが、寂しい。
ラストカットに打ちのめされる
主人公のレオと幼馴染のレミは、24時間ともに過ごす大親友。2人が中学校に入学した初日、その親密さをクラスメイトにからかわれたことで、レオはレミへの接し方に悩み始め、次第に距離をとるようになる。レオの態度に傷つき気持ちのやり場がないレミと、そんなレミを気にかけながらもクラスに馴染む事を優先しレミとの距離を置き続けるレオ。そんなレオにある日、レミとの突然の別れが訪れる。
このあらすじを読めば誰もが察するだろう、是枝裕和監督の「怪物」と近しいテーマの作品だ。しかし、怪物の方がずっと救いのある話であった。あの作品の少年ふたりは心を通わせ、少なくとも劇中ではラストシーンまで同じ場所にいた。でももしかしたら、あの2人にもその後同じような悲劇が訪れたのかもしれない…と、本作を観ると想像してしまう。レオの喪失感と罪悪感は如何ばかりかと、気の毒でならない。
舞台となるベルギー郊外で、花き農家を営む家に育つレオが、花摘みの手伝いをするシーンが印象的なのだが、綺麗な花が咲く暖かい期間が過ぎると、茎を倒し農地を耕す寒々しい季節が訪れ、少年2人の仲睦まじさを表していた「CLOSE」が、残された1人の少年が心を閉ざす「CLOSE」に転換していく様を、美しも切ない情景とともに観客に突き付けてくる。人生とはなんて無常なのだろう…。
今年の初めに友人を亡くした自分にとって「残された側」の後悔は痛いほどよく分かる。だから、ラストカットでレミの母親がみせる、様々な相反する感情が入り混じったあの表情に、こうやって生きていくしかないんだ…と改めて思い知らされるような結末だった。
「君の名前で僕を呼んで」「燃ゆる女の肖像」に匹敵する珠玉のラストカット、というHollywood Reporter評は、まさにその通りだと感じた。
あの花は紅花油の紅花?
レミのお母さんのソフィー(エミリー・ドゥケンヌ)の表情で見せる演技がなんとも素晴らしかった。
助演女優賞あげたいです。
レオに車から降りてと言ってしまったけど、追いかけて抱き締めるシーン。うすうすわかっていながらも、よかったなぁと胸を撫で下ろしました。
いなくなったレミの悲しみを共有するふたりの物語でした。
レオがそんなに悪い訳じゃないのに、やっぱりレミのお母さんを見ると少年レオの胸は痛みます。何度も突然会いに行ってしまいます。毎日のようにお泊まりしていたので、ソフィーにとってもふたりは同じように息子だったんでしょうし、レオにとってもお母さんだったんでしょう。
ソフィーの仕事は病院の新生児室の看護師さんか小児科医師。
それだけにつらい😢
しっかりした息子がふたりいて、家族総出で仕事をしているレオの家庭が羨ましい。レミがいなくなってからのお呼ばれしての夕食も辛すぎる。旦那が泣き出して、堪らず夕闇の中に出ていった悲しい後ろ姿も印象的でした。
あの花は紅花油の紅花?
花に詳しい方、教えてくださいな。
鑑賞用の花にしては花だけ摘んだり、機械で根こそぎ刈り取ったり。
プラ容器に苗を並べて、機械にセットするような場面もあったけど。
紅花の花言葉調べてみました。
特別な人。愛する人。化粧。情熱。包容力など。
好き過ぎて喧嘩しちゃった原因のひとつがレオの虚栄心だったとしたら、化粧も関係するかななんて思ってしまいました。このくらいのことは男の子にはよくあることなのだけれど、突然先に逝かれてしまった方は堪りません。
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