聖地には蜘蛛が巣を張るのレビュー・感想・評価
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前半2/3が殺人、後半1/3が逮捕と公判
予告を見れば前半2/3ぐらいは見終えた感。後半1/3が肝かな。ラストはそっちの方向なんだー。でも、なんかモヤモヤ。
息子のその後が気になる。
邦題は違った方が良かったかも
ボーダーのインパクトが強かったので本作も楽しみにしてました。少し寝不足だったので睡魔が心配でしたが、冒頭から緊張感のある映像が続き犯人と女性ジャーナリスト二人の視点に引き込まれていきました。ホテルのフロントに始まり警察やしまいには裁判、世論、家族の反応などなど、、今の普通の日本社会に生きる自分には衝撃で考えさせられます。
ふざけんな! 泣いてんじゃねーよ、死ね! って、 映画見ていてこん...
ふざけんな!
泣いてんじゃねーよ、死ね!
って、
映画見ていてこんなに怒りが込み上げてきたのって、
きっと初めて
後味悪いけど、
映画作品としてはきっと優れているのだと思う
「正気」の人間の恐ろしさ
つくづく変なオカルトより人間の方がよっぽど怖いなと思わされる。幽霊なんかより、「正しさ」に取り憑かれた人間の方がはるかに恐ろしいのだ。最後に息子が父の殺人の詳細を説明するシーンがあるが、鳥肌が立つおぞましさがそこにはある。
中毒
イランの聖地マシュハドで、娼婦を次々に手にかける「蜘蛛殺し」と呼ばれた殺人鬼と、犯人を追う女性記者の話。
広場にバイクで現れて娼婦を自宅に連れ込んで殺した上に、新聞者に犯行を知らせる電話をする蜘蛛殺しという設定で、犯人や犯行の様子は最初からはっきりみせていて、犯人や記者の心情やそこからどう展開していくかをみる作品という感じだけれど…。
犯行を繰り返す犯人の言い訳とか、記者視点でみせる2000年代初めごろのイランの女性の立場や世情とか、イメージ通りではあるけれどまあ酷いこと。
もう一昔前だったら無罪もあり得たのかも知れないけれど、いくらなんでもこれだけ取り沙汰されたらそりゃあねぇ。
そういう想像力を働かせられているのは妻と弁護士だけというのも途上国であり宗教国家という感じで、そこに恐さを感じた。
あっ、やられた。
日本じゃまずありえなさそうな連続殺人事件
国や宗教によっては売春行為即死刑。そんな女性たちを殺害したが、支援者も多いしこりゃ無罪あるいは執行猶予かと思いきや死刑判決。いやひょっとしたら裏工作あるかも。で、あの結末、やられた!
原題の方がカッコいいよ。
前作「ボーダー」の北欧の静謐な世界観と、全く違う作品で面食らったが、監督がイランのテヘラン出身で実際にあった事件を元にしていると知って納得。
実際の事件犯行のきっかけは犯人の奥さんが街に立つ売春婦に対して漏らした不満だと証言しているそうだ、、、そんなんで16人殺すんかい?、、こわっ。
映画だと動機の部分が弱いのだけど、いやこの国この街ではこの考えが正しく、実はスタンダードなのだと考えるとぞっとする。
きちんとした作り込みと質感へのこだわりは前作同様。
前半の怖さはクライムマーダーだが、後半は違う。
こういう文化宗教に根ざした考えを頭ごなしに否定するのは難しいが、殺人は殺人だ。
彼に対する計らいがあったのか、無かったのか?
わざとあやふやに表現されてる所なんか流石だなと思った。
人権問題は世界的に顕在化され新しい価値観で見直されている。しかし建前と本音、宗教や政治的ダブルスタンダードが当然の国は沢山ある、そして同調圧力。日本でも入管移民問題や男女格差なんかは緊急案件だし、インドのレイプ事件とか想像を絶する記事を時々目にする。
生きている意味とは?
なんて考えてる余裕のある国は、少ないかも知れない。
あーなんか書いてるうちに取りとめもなくなってしまった、、、。
私たち日本人にとって馴染みのない社会や価値観を知り、独善的な判断をしないため、一度は見ておくべき作品
2000年から2001年にかけてイランのマシュハドで娼婦16名が殺害された実際の殺人事件にインスピレーションを得た映画ということで、昨年、BBCのネットニュースでティザーを見てから気になっていたので見に行きました。特に、イマーム・レザー廟を中心に蜘蛛が巣をはっているように映る夜のマシュハドの街の映像はなかなかに印象深いものでした。本作については、事前にイマーム・レザーを冒涜するものではないかと聞いていたのですが、噂とは裏腹に、実際に映画を見た印象としては、イマーム・レザーを冒涜するようなイメージは特に感じませんでした。
この'ankabūt-e moqaddas(聖なる蜘蛛)、または'ankabūt-e qātel(キラー・スパイダー)と呼ばれるサイード・ハナーイーを題材にした映像作品は、知る限り、これで3作目になるかと思います。インパクトのある事件だけに、やはり多くの方が映像化したいと思うものなのでしょうか。
1作目は2001年、つまり事件直後のマーズィヤール・バハーリー監督による「そして蜘蛛がやって来た(va 'ankabūt āmad)」で、こちらはフィクションではなく、実際にサイード・ハナーイー自身やそのご家族、被害者のご家族、裁判官、そして弁護士等に対するインタビュー等を元にしたドキュメンタリーフィルムで、2作目がイランで人気のテレビシリーズpāytakhtでおなじみのモフセン・タナーバンデ氏がハナーイー役を演じた「蜘蛛('ankabūt:邦題はキラー・スパイダー)」、そして本作が3作目という並びになるかと思います(もっとも、本作ではこの殺人鬼の名前が、ハナーイーからアズィーミーへと変更されていて、途中で名前が出た際に驚いてしまいました。ただ、英語至上主義で原音をまるで無視する日本語字幕翻訳では、ハナーイーはハナイとされてしまい、日本人のような名前になってしまうので、名前の変更は有り難いことかもと思いました)。
2作目の「蜘蛛」は既に昨年見ていたので、予習のつもりで、1作目の「そして蜘蛛がやって来た」をネットで視聴してから本作に臨んだのですが、ドキュメンタリーのなかでのハナーイーのご家族のセリフ等が劇中で多く使用されているなど、事実を元に丁寧に作られていることがよく分かりました。
例えば、作品の終わりのほうで、サイードを処罰したところで、新たなサイードが出てくることになるだろうという趣旨のセリフがありますが、これは実際に彼の母親がインタビューのなかで話していることですし、サイードが娼婦を殺害する様子を息子のアリーが得意げにジェスチャーを交えて説明するシーンも、ドキュメンタリーフィルムの中で実際に彼の息子が行っていることです。フィクションではないと知った上で本作を見て、改めて強い衝撃を受けました。もっとも、事件が発生して約20年が経ちますが、新たな聖なる蜘蛛についてのニュースも聞きませんので、彼が父親の後を継いでいないらしいことには、ほっと安堵を覚えます。
映画のストーリーとしては、とても分かりやすい形で作られていると思いました。サイードが街を浄化する目的で娼婦らを殺害し、それを女性ジャーナリストのラヒーミーが追いかけ、最後には彼女が自分を餌にしてサイードを吊り上げると、逮捕されたサイードが裁判で有罪判決を受け、処刑されるという流れは、見ていて非常に分かりやすいのですが、特に大きなどんでん返しがあるわけではないので、人によっては少し退屈に感じるかもと思いました。
サイードについては、非常に信心深い人物として描かれており、聖なる街から退廃した娼婦を取り除くことが彼にとっての信仰上必要な努力、つまり「ジハード」であるとのセリフにも彼の信仰心がよく表れていると思いました。ただ、このセリフを元に、だから宗教は危険なのだと結論付けるのはどうかとも思います。私たち宗教意識をそれほど強く持たない日本人の社会でも、例えばネット上で独善的に他者を叩き、社会的に抹殺しようとする事例などを見かける通り、自分が正しいと思うと、必要以上に相手を責め立てることがあります。ある意味、そのような人たちはサイードと同じようなものなのではないでしょうか。誰もがサイードになりうるのだから、そうならないように気を付けなければならないと感じました。
また、彼がこのように独善的な行動に出た理由として、信仰心や戦時のPTSDについて触れているようなシーンもありましたが、彼の奥さんがタクシー内で娼婦に間違われ、ドライバーから暴行されそうになった(あるいは暴行された?)ことについて触れていなかったのは少し残念な気もしました。
本作を見ていて、聖なる都市とされる場所によくあれだけたくさんの娼婦がいたものだと驚かされましたが、よくよく考えてみると、シングルマザーやワーキングプアに対する支援等が十分になされなければ、体を売らざるを得ない女性が出てくるのはどこの国も変わらないことなのでしょう。そのような意味では社会保障や生存権といった普遍的なテーマを扱っている作品とも言えそうです。そして暴力は常に社会的弱者に向けられるものだということも(なんでも、一説には実際のサイードは最初、客である男達を襲おうとしたけれども、力が及ばないので、抵抗する力のなさそうな娼婦を襲うことにしたのだとか)。
このようにセーフティーネットから零れ落ちた、社会的弱者の娼婦たちですが、劇中で彼女らは女性たちからはもちろんのこと、男たちからも忌み嫌われ、殺されても当然という言い方をされます。性的にイスラム世界よりも緩やかな日本社会でさえ性産業に従事する女性は冷たい目で見られるのですから、いわんやイスラム圏においてはですが、女性が体を売るときには、当然ながら買う男たちがおり、売春が商売として成り立つ以上、娼婦よりも客である男たちのほうが数が多いはずなのに、娼婦に対するこの非常に厳しい態度。男とはなんとも勝手な生き物です。また、劇中、事件担当の刑事がラヒーミーに対して関係を無理強いしようとするシーンを含め、ろくでなしの多いこと。男って本当に……。イラン社会がいまだに男中心の社会であることが本作から良くうかがい知れます。
このような男性中心主義的でマッチョな社会で、サイードは娼婦を16人殺害するわけですが、そこには宗教的な、あるいは法律的な事情もあるので、その点も理解しておくほうが本作をより良く理解できるのではないかと感じました。
例えば、イランで定められているイスラム刑法上の用語のひとつに、mahdūr-ol-dam(مهدور الدم)という概念がありますが、これは「その人の血が無駄なものであり、無効である人」つまり「イスラム法上、その人の血を流すこと、つまりその人を殺害することが許されている人」という意味で、例えば、正当防衛の場合、誰かから襲われた際、自分の身を守るため、襲い掛かってきた人を殺すことは、侵害者が防衛者との関係で、mahdūr-ol-damとなり、殺害することが許されるというイメージになります。そして、サイードは、娼婦はイスラム社会の性道徳に対する侵害をしているので、彼女らは社会との関係ではmahdūr-ol-damとなり、彼女らを殺害することが許されると確信し、このような凶行に及ぶのですが、当然、イラン社会にいおいても、彼女らがmahdūr-ol-damに当たるか否かは裁判官等が解釈・判断することであって、彼が行っていることは完全に独善的な行動になるわけですが、それでもそのような事情を知っていれば、彼の思考の流れは理解できるのではないかと思われます(もっとも、心情的には彼の行為は全くもって、1ミリも理解・賛同できるものではありませんんが)。
また、理解・賛同できないということでは、逮捕されたサイードが収容場から外を眺め、雨が降ってくると、それを満足そうに眺めるシーンがありましたが、これは彼が娼婦らを殺害するまでは日照りが続いていたマシュハドに雨が降ったことで、自らの行為を神に認められたと感じるシーンだと思いますが、これも彼の独善的な考え方を浮き立たせており、心情的にはとても彼には賛同できないなと思いました。
ところで、レビューを書かれている方々の中に、イランでは売春が死刑になる、と当然の前提として書かれている方がいらっしゃるので、この点についても少し考えてみたいと思います。劇中、ラヒーミーが娼婦の一人と会話しているシーンで、「逮捕される度にむち打ちを受けて釈放され、何度も売春を繰り返している」と話すセリフがあったと思います。最初は痛かったけれども、2回目以降は皮が分厚くなり、あまり痛みを感じなくなった、と。
彼女のセリフが示すとおり、イランの刑法上、売春を直接に規制する法律はなかったと思います。娼婦たちは、一般の人たちと同様に、性交があった場合には姦通罪として100回以下のむち打ち、または、キス等の段階にとどまり性交にまでは至っていない不純な関係の場合には99回以下のむち打ちと定められていたと思います。死刑が定められていないにも関わらず、娼婦を、それも16人も殺害し、それ以上の方々を殺害しなければならないとまで考えていたハナーイーの狂気が非常に強く伝わってきます。
このように、本作はクライムサスペンスとしても楽しめますし、私たち日本人には馴染みのないイランというイスラム教圏の社会とその価値観について、幾ばくかでも知ることのできる機会を与えてくれる良質の作品だと思います。
原題は「Holy Spider」
舞台となったマシュハドは街の中心地となる広場から放射線状に主要道路が敷かれ、その地図は蜘蛛の巣のようにも見える。
殺人鬼のスパイダー・キラーという通り名は、そんなマシュハドの中央広場周辺で娼婦を誘い出して殺害する様から名付けられたものだと思われる。
不安定化する社会では、民族性や信仰に関わらず本作で描かれたような現象は起こり得るものだと思われ、その意味では空恐ろしさを感じる作品だった。
原題は単純に聖都の蜘蛛という意味だと思われるが、犯人が主張する街の浄化のためという動機を受けた題名とも解釈でき、この事件の特殊性を邦題よりも鮮明に表したものとなっている。
的確な演出
イランを舞台とし、ヨーロッパ映画ながら全編ペルシャ語で撮られているのはアリ・アッバシ監督がイラン出身だからとのこと。
監督も語っているとおり、これは連続殺人についての映画ではなく、連続娼婦殺人鬼をも生み出し許容し英雄視までしてしまうような社会のミソジニー・不寛容、そして狂信についての映画だ。そこにはセックスワークに身を落とさざるを得ないような女性の困難に対する想像力はひと欠片もない。
そうした視点に立って観れば、アリ・アッバシ監督の演出は実に的確であることが分かる。
ラヒミを演じたザーラ・アミール・エブラヒミさんの演技が素晴らしい。
多くの方に見てほしいと思える作品。
今年122本目(合計773本目/今月(2023年4月度)17本目)。
いわゆる「誰が犯人でしょう?」系の映画でありつつ、その「犯人は誰か」ということは(視聴者観点では)そうそう明らかにされてしまいます。
映画の趣旨・内容的にイスラム文化を参照しているところがかなりあり、また発言の一部が明らかに男女同権思想にはじまって「日本基準で考えると」いろいろ人権感覚が変なセリフが出るのですが、それは映画をちゃんと見れば「何が問題なのか」という点はわかります。この映画は特殊すぎると思いますが(なお、元になった実際に存在した事件をインスパイアした、ということは表示される)、いわゆる「イスラムヘイト」をためるという趣旨も異なるのだろう、というところです。
ただ、この映画、「それでも」まだちゃんと見ていると、三権分立か何かで裁判を受けているシーンなど、「一応にも」イスラム社会においてこのあたりの三権分立というか「人権擁護の基礎」は成り立っているようです(中には支離滅裂いうところもあるので…)。
映画の趣旨としては「自分と考えるもの、考え方をする方へのリスペクト」(尊重)という点に大半尽きると思うし、それは映画を見ていればすぐわかると思います。まぁ映画の誘導が丁寧なのとは対照的に妙にイスラム文化を参照しているシーンがあるので、「妙なところ」でイスラムヘイトがたまらなければよいな、と思えた一作でした(扱う内容も特殊な分野であり、またイスラムの教えがどうこうという話も出てくるため)。
なお、採点にあたっては差し引く要素は見当たらないのでフルスコアにしています。
オープニングから犯人を明かすものの、徐々にその人物の人となりを丁寧に見せていく手法が効果的だ。さらにタイトルの背景となるイランの聖地マシュハドに灯る灯りと街並みが蜘蛛の巣のようで不気味である。
宗教(思想)、貧困、女性蔑視(差別)という、イランに限らない現在の問題を、ジャーナリストの目を通して追求していく問題作だ。
夜の街に立つ娼婦と、品定めして声をかける男たち。ドラッグで自分を奮い立たせながら暴力に屈する娼婦を、短いシーンで的確に描いていく。警察(権力)、司法(政治)、女性など、ある意味ではステレオタイプなのかもしれないが、キャラクター造形は判りやすく、ごく普通の男が歪んだ思想を正当化して連続殺人を犯していくという恐ろしさが際立つ。
殺人シーンのカメラはアップで捉え、女性の表情にリアリティがあるし、夜道を走るバイクを後方から追うもの、一仕事終えた解放感さえ感じ、「娼婦は汚らわしいので浄化する」とう考え忠実に従う男の実直ささえ映す。
2023年現在日本でも問題になっている宗教二世についても触れていて、思想の刷り込み の恐怖さえ感じる。
聖地とは? 明るい街並みに引き寄せられるが、蜘蛛の巣に気づかずに捉えられてしまう弱いものは「聖地」に暮らすことさえかなわないのか。
事実に基づく事件モノ
事実に基づく話みたいですが『アングスト』や『ニトラム』を思い浮かべた。
上記映画のイラン版とも言えるかも。
あまり、お目にかかれない、イランの街並みや夜景など興味深かったです。
殺される方の演技が上手くて、本当に犯行現場に出くわしてしまったよう(苦笑)
胸クソわる(苦笑)
偽善だけど、被害者の方の御冥福を祈らさせて頂きます。
映画としては75点ぐらい。
考えさせられますね…
どうするのが良いのか、答えが出せない
ボーダーに引き続き、この監督さんの作風なんだろうか、重苦しい雰囲気の中ストーリーが展開されていく。
実話ベースで、実際の事件は2001年ころに起きたようだが、その後にIS(イスラム国)創設などもあったから、時代は移り変わってもイスラム経典の理解のしようによっては今作のような事件は今でも起こり得るのでしょうね。
日本で暮らしている私には人を殺める事自体が重大な犯罪だから動機はどうあれ重い罰が課されるのは免れないと考えるのですが、子供の頃から教え込まれれば全く違った感情が生まれるのでしょうね。
周りの大人達は「聖戦」だから、実行者は神の手だと崇め奉る。だから息子のアリは父の背中をまるで英雄を見るかのような眼差しで追いかける。
かくして神の手の後継者として選ばれたアリがキラキラ輝く瞳で笑みを浮かべながら父の殺害シーンを語る様に言いようのない恐怖を覚え、寒気がしてしまいました。
でも、世の中には自分とは全く異なる考え方があり、正義とはなんだろうかなんて考えてしまうと、答えが見つけられなくなってしまうのでした。
言葉を発することができずにスクリーンを後にした一日でした。
差別や偏見は、する側にとって都合の良いシステム
昨年の九月にテヘランで起きた事件。
二十二歳のマフサ・アミニさんが、
ヒジャブを適切に着用していないとして道徳警察に拘束され
その後亡くなった。
警察側は彼女が心臓発作を起こしたと主張も、
家族は直前まで健康体であったと話したことからイラン国内は、いや
世界中が騒然となり
そのレジスタンス、とりわけ
女性によるものは今も続いている。
本作を観て思い起こしたのは
このニュースと、過去のエピソードと事件。
どこまでホントのことかは知らぬが
人類で最古の職業は売春だと。
それだけ女性の性は対価性があるとの証左も、
一方で、インフォマニアでもない限りこれを好んでする人はおらず
差し迫った理由があると考えるのが妥当。
本編では、麻薬の摂取と結び付けられる描写も、
そうでもしなければとても素面では相対できぬことのあらわれ。
根源には社会的な貧困問題があるにもかかわらず、
犯人に賛意を挙げる多くの人にこの視点は欠けている。
十九世紀後半にロンドンの街を恐怖に陥れた
「ジャック・ザ・リッパー」も、やはりその対象は娼婦。
喉と腹を切り裂く残虐な犯行は
おそらくシリアルキラーによる快楽殺人。
模倣犯の発生とともに、
貧困街へ視線が向く契機ともなる。
もっとも、階級意識が強い当地では、
今でも住む場所にまつわる差別は厳然とあるよう。
実際に起きた事件を基にしたとの触れ込み。
ここでは女性記者の『ラヒミ(ザーラ・アミール・エブラヒミ)』が
狂言廻しとなり、犯人を追う。
が、犯人は冒頭から労働者の『サイード(メフディ・バジェスタニ)』と示され、
ミステリー的要素はない。
むしろ彼女が取材の過程で
なまじ女性であるばかりに
官憲からも性的な抑圧を受けることに驚きを隠せない。
これこそが、彼の地の女性に対する態度の右代表であり、
社会制度に巣食う問題なのだろう。
犯人の『サイード』は敬虔なイスラム教徒で、
家庭では良き夫、且つ三人の子の父親。
しかし「イラン・イラク戦争」への従軍からのPTSDや
「神の意志の代行。聖地の浄化のため」と嘯く割には、
快楽殺人の要素も示唆される。
もっともこうした言説が通用すれば、
世の中に殺人罪は成立しなくなる。
が、大衆はそうした真理に頓着せず、愚集と化す。
ほんの少し異なる道を歩んでいれば、
自身も被害者と同じ側に立つのだとの想像力の欠如。
扇情主義が跋扈する世界で暮らすことは
あまりに窮屈だ。
雑味を帯びた映画
本作の舞台が
イスラム圏のイラン
ということで
撮影現場が雑然としており
加えて
殺し方も雑
死体の遺棄の仕方も雑
女性のお化粧も雑
あくまでも私の私観ですが
雑、雑、雑…
と感じる映画でした
内容が宗教色を帯びており
なかなか難しいものがあるでしょうが
日本を舞台にし
日本人の手により丁寧にリメイクした作品
を見てみたい気がします
本作の主人公が
殺人鬼なのか
英雄なのか
という議論があるでしょうが
この点にもっとフォーカスをあてて
強めに描いた方が
もっとメッセージ性が強くなり
ガツンと来る映画になったのではないか…
と鑑賞後感じました
女優さん
カンヌの賞を取ったそうですが
男優陣の
お父さんとその息子も
それ以上に良い演技してました
宗教は怖い、その宗教を巧みに使って統治する国家はもっと怖い。
前半は少し退屈だった。
犯人は早々に面が割れるし、警察は知らぬ顔を半次郎で、対処療法に終始して、前向さからっきしだし、正直しくったかな、観るもの間違えたかなと思ったが、
後半一転、ここからが本当の見所で、
宗教の恐ろしさ、それを巧みに使って統治する国家の恐ろしさが、じわじわしゅんでくる様はゾクゾクしました。
ちなみにこれはイランがつくった映画ではありません。イランの恥部を欧州からみてつくられたものだから、実話ではないので、そこを勘違いしないで観る必要はあります。
あんな恥知らずな警察官がイランにはいないと信じたいですけどね。
ヘイトは巡るよどこまでも・・・そして、いつまでも。
今から20年くらい前に中東イラン、そのイスラム教の聖地のある都市で実際起こった娼婦連続殺人事件がベースになっているとのこと。
現代ではどういう状況かは不明ですが、映画冒頭、余所者の独身女性の一人での宿泊ってだけで、いきなり正式な予約者を門前払いする様なホテルの受付けの対応に、いったい、いつの時代よ?・・・驚きました。
あからさまに異端視し、はなから女性として見下し、厄介ごとに巻き込まれてたくない、安易に許して問題になり職を失いたくない、というホテルマンの弱い心が透けて見える演出です。
イスラム教云々は別にして社会のベースにたぶん慢性的な貧困と苦悩があり、その積もり積もった行き場のない不平不満が「政府の巧みなヘイトコントロール」により、社会的弱者、特に貧困層の女性に向けられて持続、循環させらているように感じました。悪いなりに回せばいい、変に動いて既得権益の構造は壊したく無いという政府上層部の意思です。
無惨に殺人鬼に殺されていく娼婦たちはことごとく貧困層ではあるが、違法な売春行為と極度の薬物常習者であるとう点で、犯人はその行為を「街の浄化、神の意思」として正当化してます。
殺人鬼は脚本上かなり早い段階で顔バレし後はオープンリーチ状況なので、犯人探しを推理する楽しみは皆無でしたね。
政府が取り締まらないなら俺がやる体な犯人の身勝手な思想は最初から破綻していて吐き気を催すレベルです。
が、これも全くの建前で、実際は退役軍人であるとしても社会的に評価されず、底辺の肉体労働で毎日ギリギリで家族を養わなければならない不平不満、苦悩、恨みつらみの矛先が彼女達にむけられたに過ぎません。
彼女らを惨殺するということで快楽を貪って、自身の精神的な傷を癒やしたつもりになっていた、ということでしょう。
犯人だけでなく、イスラム教の教義を身勝手に自分の利になるよう都合よく解釈する人間が多数出演し、ジャーナリストの綺麗な女性の勇気ある行動が自然と浮き上がる構造になっておりましたが、映画全体のヘイト感が強すぎて、しかも共感出来るのがそのジャーナリストと相棒の男性二人だけなので、ヘイトに溺れてしまいなんだかあまり気持ちが入り込めませんでした。
読後感も悪いし、あと100年は続きそうなヘイトの連鎖、継承を思うと疲労感、徒労感でいっぱいです。
では。
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