島守の塔 : インタビュー
萩原聖人&村上淳 映画人として再会を果たした運命の映画
激しい空襲や艦砲射撃、そして上陸戦で約20万人が犠牲となった太平洋戦争末期の沖縄戦。萩原聖人と村上淳がダブル主演を務め、軍命に従いながらも沖縄県民の命を守ろうとした戦中最後の沖縄県知事・島田叡、島田と共に職務を超えて奔走した警察部長・荒井退造を演じた「島守の塔」(五十嵐匠監督)が公開された。
コロナ禍直前にクランクインし、その後1年8カ月の中断を経て再撮影された本作。軍国主義の時代、人々に「生きる」ことを伝え続けた官僚を熱演した萩原と村上の姿は、ふたりのフィルモグラフィの代表作の1つとして刻まれることだろう。実在の人物を演じること、そして“同志”として映画俳優であり続けることについて、萩原と村上に話を聞いた。
――実在の人物を演じること、しかも戦時中を描く作品に出演するということに、責任やプレッシャーを感じることはありませんでしたか?
萩原:どんな作品に出演する時にも責任はあります。今回は、とにかく監督がこだわってくれたキャスティングだという、その責任感が強かったです。実在された人物を演じること、フィクションのキャラクターとは違う責任感が必ず伴います。この役を引き受けますと言った時点で、自分のものにするしかですし、自分にこだわってくれた五十嵐監督に応えなければという気持ちが強かったです。
村上:20歳の時に映画界に入って、ほぼ30年経ちます。20代の頃よく聞いたのは、映画人たちが沖縄戦の作品に出ることって、頂(いただき)のような、ある種のハードルのようなものだという話。そういった環境で生きてきて、実在する人物を演じるのは初めてではありませんが、自分が沖縄戦をやるのか……という、身の引き締まる感じが強かったです。
――島田叡さんについてはこれまでドラマやドキュメンタリーも制作されていますが、この映画でおふたりが演じることで、新たに血の通った人物として肉付けされ、よりリアルに感じられるような気がします。島田さんと荒井さんの仕事についてはご存じでしたか?
萩原:今回初めて知りました。沖縄を任されたふたりという言い方が正しいのかはわからないですけど、おふたりともその仕事はきっと功績だとは思っていないと思います。ふたりが沖縄と沖縄県民と関わった生き様ですよね。彼らが何かを残そうとしたとするならば、それはもうひとりでも多くの沖縄県民が生き残って欲しい、それしかなかったでしょう。結果的に、功績のように語られているだけであって、その時のふたりにとっては当たり前のことだった。
この作品の中であれば、フィクションにはなりますが、凛という女性が、象徴としてふたりの意思をちゃんと感じて生きてくれたっていうことが功績なのかなと思います。
――今回、どのような役づくり、リサーチをされましたか?
萩原:資料として残っているものを読んだり、撮影前に村上さんとも沖縄に行って、ガマ(防空壕の役割を果たした洞窟)を巡ったり、島守の塔を訪れました。ただ、僕は島田さんのコピーをするわけではないので、県知事の島田叡、夫として、父としての島田はどうだったのか……、そういうことを考えましたね。作品の中で描かれない部分ですが、そこを監督と一緒に考えながら演じるのはすごく充実した時間でした。
――荒井退造を演じた村上さんはいかがでしたか?
村上:脚本と制作部の方が、資料を作ってくれていて、もちろんそれに目を通しますが、萩原くんの言う通り形態模写にも限界があります。こういう言い方は不謹慎かもしれませんが、我々は映画という娯楽であり、エンターテインメントを作り上げようとして集まっているので、史実を意識しすぎると再現VTRになってしまう。それと映画は全く別物。この作品はドキュメントではありませんが、どのようにドキュメント性を持たせるか――資料や見聞をむさぼるように調査したりもせず、親族の方にご本人がどういう方かということを根掘り葉掘り聞かずに台本と監督を信じてやりました。
――島田さんと荒井さんが沖縄赴任の命令を受けたのが、40代でしたね。おふたりも、俳優として中堅からベテランの域に入られる世代です。この映画で描かれる、上に立つ人間の責任感のようなものに共感したり、また実際の生活で感じたことを演じる上で重ね合わせたりされましたか?
萩原:時代、教育、環境、家族や死生観など、今の私たちとは違ったとは思いますが、島田さんだって、行かなくていいものなら行きたくなかったかもしれない。でも、彼にはある信念があって、この運命じみたものに抗わない人だったと思うのです。
命の危険を感じる場所に僕は行ったことはないですし、また、幸いですがそういう事故にも遭ったことはないので、自分には重ね合わせられません。ただ一つ言えるのは、責任感。重さは違うけれど自分が何か任されたり、やらなければいけないという、そういった気持ちは僕にもあります。
島田さんも帰りたいな、とか怖いなと思った瞬間はあったと思います。だけど、それを口に出さないのが責任感。彼の生きる意味だったのかなと思います。資料や映画の中でも言及されていますが、その責任感をまっとうできるからこそ遊ばなきゃだめだっていうことを、声を大にして言う人だったのかなと思います。
村上:僕は、演じるにあたっていろんなイメージトレーニングをしますが、自分だったら……ということはあまり考えません。アプローチとして、自分の体験から引っ張り出すこともなくて、自分と比較することもない。僕は今48歳。この撮影時で46~7歳の人生ですけど、自分自身と演じる役を比較したり、自分の感情やら経験を利用しようとすると限界があるんです。そんなにドラマチックに生きていないので、脚本に書かれていることで演じるのみです。
ただ、今回の作品で、同調意識、大きく言うと教育に対しての何かしらの疑問についてはシンパシーを抱きました。この作品では、(当時軍国教育を受けた)凛のような考えが当たり前だった。一方で、島田さんと荒井さんは当時からすれば、過激な言い方だとラジカルだったというか……国賊とも思われてしまうような考えがあって。そこにある種のシンパシーを感じて、役を膨らませました。
――おふたりもキャリアを積み重ねたことによって、映画人、俳優としての責任感が生まれましたか?
萩原:俳優が大好きな仕事であることは間違いないんですけど、正直、とてもしんどいです。年を取れば取るほどもっと楽になっているかと思いきや、全然真逆のようで。若い時には勢いや感性だけで成立していた時代から、年を取って、俳優という仕事を考えると、ずっとトンネルの中にいる感じがします。たまにトンネルから抜け出るときがあって。でも、またすぐ次のトンネルに入るみたいなことの繰り返し。それは役者をやっている限り、多分永遠に続くと思います。そんな時は、実は責任感とか言っている余裕もありません。
つらくてしんどいけれど、好きだ。という矛盾がこの仕事の魅力。報われる事はほとんどないけれど、報われるためにはやっていません。でも、若い時は報われたかったです。褒められたかったですし。でも、今の作品を見た時に何を自分が感じるか、それが重要になっていて。なんでこんなしんどい仕事やっているのかと思う時もありますが、でも辞めたいと思ったこと一回もないです。
島田さんみたいに人に「生きろ」というような、今、自分が役者として後輩にかける言葉があるかと言われれば、正直ないです。
――直接的な言葉やアドバイスはなくとも、若い方たちが、萩原さん、村上さんの背中を見て、何かを学ぶということがあるかもしれませんね。
村上:俳優という道を選んだ以上はやはり葛藤とか、自分が太陽であったり、月であったり、陰であったり日向であったりっていうタイミングっていうのはめまぐるしくやってきます。“背中を見る”ということでは、僕は30代のときに、俳優をやめようと思ったわけではないですが、結構しんどいなっていう時期があって。その時に萩原君が主演の舞台を2度見にいって、そこでものすごい勇気と希望をもらったんです。
だから、僕にとってそんな大先輩と肩を並べられる今回の配役は偉業です。でも、先輩たちとの距離は縮まらないんです。ただ、後輩たちはできれば追い抜いて欲しいです。真正面切ってかけられる言葉っていうのは少ないんです。だから、“背中を見る”って言うと抽象的ですけど、作品を見て、こういうインタビューの記事も漁るように読んでいただいて、そこから何かを感じてもらうしかない。
さっきの萩原君の言葉を借りると、俳優という仕事で、トンネルに入った人を救い出せる人間はいないんです。自分で突破して行くしかないので、そのためにもがくしかない。映画を貪るように見たり、逆に徹底して寝たりとか休んだり――いろんなことを試して、トンネルを抜けて、また入るの繰り返しですね。
今回は現場で、セリフや発声というと、陳腐になってしまうんですが、萩原君の声を聞きながらやれたのは、今の僕のキャリアの宝物になったと思います。おべんちゃらではなくて、排気量で例えると、僕が1800ccだとすると萩原君は5000ccぐらいある。人が集められて、映像なりドラマなりで、ここは皆さん30キロで走ってくださいという場で排気量が多ければ多い人ほど体に負荷がかかる。萩原君のそういう姿も見て、僕もアクセルを踏めている。
そして、萩原君と何を話すわけでもなく、じゃあ、またねっていう感じがすごく自分を構築しています。縁があっていつもお互い意識はしてるし、忘れることはないんですけど、今回こうやってまた縁をつないでくれた五十嵐監督とこの映画に本当に感謝しかないです。
――2004年の「この世の外へ クラブ進駐軍」(阪本順治監督)で共演以来、おふたりはどのような距離感でつながっていらっしゃるのでしょうか?
萩原:互いに語り合う、っていうような距離感ではないんですよ。それぞれ生活を含めたそれぞれの居場所、持ち場があって、彼とは、互いに俳優として会うっていうことが運命のように決められている。だから友人ではないんですよ。同志のような感じですね。
村上:昔からそういう風に言ってくれるんです。それを僕は本当に?って聞くんですが。
萩原:おべんちゃらじゃないです。俳優のテーマって再会だと思っています。もちろん出会いも重要で、出会いたいと思う人とは、なかなか出会わないかもしれないけど、出会う機会は意図せず頻繁に訪れるわけです。
でも再会って本当難しいもの。頑張ってなければ再会できないし、出会いが良くても再会がダメだったら意味がないし、出会いがダメでも再会が良かったらすごく意味のあることになる。今回は再会した作品がこういう題材で、お互いが真面目にやらざるを得ない。
もちろんどんな作品も真面目にやるんですけど、本当に真面目にやらなければ、再会した意味が生まれてこない。島田さんと荒井さんは沖縄で出会ったけれども、きっと彼らも生きていればどこかで再会する間柄だったでしょう。まさに同志という。
運命じみたものっていうのは必ずあるんだろうなと思います。繋がっているって言い方は変ですけど、「この世の外へ クラブ進駐軍」は戦後の復興の時代の話でしたし。お互いほぼ映画の現場でしか会わないです。
村上:3年前の映画では同じシーンはなくて、すれ違って挨拶だけでしたね。僕もそれでいいと思っています。逆に言うと、そんな幸せなことってあります? 俳優で、飲み屋で会ったとか娯楽施設で会ったっていうよりも、現場で「あれ、この前は何年前でしたっけ?」っていう会話をできるくらい、長くやれているっていうことだし。選ばれるっていう枠に入ってるってことですから。そんな幸せなことってない。
萩原:20年ぶりに会ったり、なんか30年ぶりじゃない? とかスタッフも含めて、そういう再会の仕方をする仕事って、世の中にそんなに無いのではないかなと。助監督は監督になったりと立ち位置が変わっていきますが、役者だけは立場が変わらないというか。僕はそういう感じがすごく心地よくて。
――島田さんと荒井さんのように、今作はおふたりにとっても運命的な出会いとなった作品ですね。おふたりとも父親でもありますし、やはりお子さんや若い世代にも見てほしいと胸を張って言える作品になったのではないでしょうか。
萩原:若い世代の方々が戦争にどの程度の関心があるかわかりませんし、この映画を見たから何かが変わる、なんてことももちろんわかりません。でも知ることから何かが始まると思うので是非見てほしいですね。
僕自身、この映画と出会えたことで、より興味を持って学べたことがありました。そしてコロナに負けなかった作品。今まで生きてきて、人間をわかっているつもりでもまだまだ、そんなものじゃないぞ、と教えてもらった気がします。なにより人を見てほしい映画です。
村上:この作品を見たときに、ここまで人の顔がきっちり映った作品って、久しぶりに見たなと言うのが僕の第一印象でした。あとは女性たちの活躍がすごい。また、コロナの影響で1年8カ月撮影が止まったことも大きかったです。クランクインから上映までの覚悟と情熱が今まで通りではないということも、この映画から学ばせてもらいました。