「純粋さに引き込まれる」線は、僕を描く R41さんの映画レビュー(感想・評価)
純粋さに引き込まれる
いい作品だった。
冒頭、主人公が誰かの絵を見て涙する。
後にそれは、彼の心の中に今でも残り続けているシンボルで、それこそが彼の向き合わねばならないことだった。
この作品の対立軸は、「私」
素晴らしい作品 それはこの作品のモチーフである水墨画であれ、文字であれ彫刻であれ、詩でも小説でも、何であっても心に届くものだ。
特にそれを見て涙するほど感動を覚えるとき、自分の心を覗いてしまったことになるのかもしれない。
うつろいながら澱みが生じ、あるいは清らかに流れていても、水草の中には死体がある。
根源 本心 基本的には隠しているのが人で、どうしても見たくないことさえ気づかないようにして生きている。
椿を見て彼が流した涙を湖山が見たのは、出会いという必然性がこの世の理だからかもしれない。
必要なものとの出会い。
青山にとってそれは、水墨画というかなり特殊なものだった。
しかし、もう既にその感動を感じ取ってしまった彼には、ほぼほぼ敷居などなかったのだろう。
一心不乱に線を描く いま見た春蘭の線 線 自分の線
楽しさから始まり技術を覚え自由自在に描けるようになっても、ダメ出しが始まる。
やがてその技術と才能が自分自身を苦しめるようになり、楽しめなくなる。
千瑛が行き詰まった理由
さて、
湖山は「本質に目を向けろ」という。
この言葉は絵を描く人にとっての常識になっているが、基本中の基本であるが故、何が本質なのか見失うこともあるのだろう。
この最もな解釈は、私というものの実体である。
私に実体などないというのが解釈だ。
私のどこを探しても「私」など存在しない。
これは脳科学でも似たことが言われる。
視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚はすべて脳によって認識されるが、脳には私というそれそのものがある場所はない。
会社で言えば、すべての部署があるのに社長室がないのだ。
当然社長もいない。
では、実体のない私の「本質」とは何だろう?
それがこの作品では「心」または「感情」であり、今現在その心のベースとなっている「何か」つまり、自分自身の本質である何らかの喜怒哀楽
それが移ろっている今の自分自身を「線」が表現するのだろう。
千瑛は青山の描いた線を「憂い」と言った。
人は誰も同じ喜怒哀楽を共有することができる。
喜びも悲しみも、すべての感情を感じることができる。
その「線」から感じた感情こそ、いまの心を乗せたものであり、そこには嘘がない。
嘘がないことこそ、芸術なのかなと思う。
装わないし繕わない。
それが自分自身に向き合うこと。
向き合いきれていないことが、中途半端な作品となる。
それはたちどころに見透かされてしまう。
ラーメン一杯についても同じだと思う。
材料の使い方 表現の仕方 材料を少々削ったところで誰にも解らないと思っているかもしれないが、完全に見透かされているものだ。
一生懸命だけど今一つという作品には、その一生懸命さはでるもの。
果敢に挑んだ痕
それを笑うことなどできない。
物語はハッピーエンドで、その型は割と一般的だ。
ただ、災害というのは今の日本ではとても身近になってしまっていることで、そこに変な大げささは感じない。
「行ってきます」
最後に言えなかった言葉は、別の意味で家族へと届けられた。
誰にでもある心の傷
出会いは必然的
それを拒否しなったことでつながった糸を切ることなく成長できた。
この特段大きな試練のない物語だったが、登場人物にネガティブさがないこともあって気持ちよく見ることができた。
それもまた新しさなのかもしれない。
エンドロールの美しさがこの作品の本質を際立たせていた。