私、あなた、彼、彼女のレビュー・感想・評価
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自分を映画にごろりと差し出すシャンタル・アケルマンの確信。
まだ20代そこそこだったシャンタル・アケルマンが自分主演で撮った本作は、ヌーヴェル・ヴァーグ的でもあるし、またアメリカン・ニューシネマ的でもある。前半はとにかく家から一歩も出ずに過ごそうとする若い女の姿を記録映像のように撮っていて、後半は一転ロードムービー的な展開になるのだが、倫理のゆらぎも娯楽映画的なダイナミズムも排除して、本当に画面の中には誰かが「いる」しか言いようのない時間が続く。しかし意味性や理想化から解き放たれた主人公の姿は社会の規範からも自由に見えて、フェミニズム的な意味でも非常に批評性を獲得した作品になっている。そして湧いてくるいろんな理屈を押し流すかのように、終盤のラブシーンがシンプルな肉と肉との貪り合いとして差し出される。その居直りは暴力的でもあり、また作り手の確信でもあるのだろう。おそるべき才能だし、この数年後にはあの『ジャンヌ・ディエルマン』を撮れてしまう飛躍にも驚くばかりである。
会えない恋人を待ち過ぎて、ヒマ過ぎて、呼吸だけで遊んだりする女の話。
昔、観たマルグリット・デュラスの白黒の映画に似ていると思っていたら、実はデュラス本人も注目していたようで…
代表作の『ジャンヌ・ディエルマン』は途中で席を立ったようだが、こっちの方は割と好きだったんじゃないかな?
但しデュラスの映画のような、フィクショナルなファンタジーというか、虚構における解放区への誘導というか、ある種の自由を発動させる余白というか、そういった諸々を拒否しているというか…
肉弾戦のようなベッドシーンも、欲望剥き出しの”ぶつかり合い”のようで、お互い自由気儘な交歓に見えつつ、どこか意図されたコレオグラフィのようで…
一見ヴァイタルな行為に見えるのだが、そこに開放的で野放図な悦楽は見えなかった。
セルフ・ポートレートなショットが続くので、本人のプライバシーを曝け出しているようにも見えるが、全て創作かもしれないし、または、その組み合わせかもしれない。
ノンフィクションのような切実なリアルは殆ど感じられないため、間違いなくフィクションであろうが、実体験や即興性も導入しているようだから、現実の出来事のように見えなくも無くて…
作られた物語という人工的な虚構性からの解放は試みたかったかのかもしれないが…
ず〜っと主人公のプライベートな世界を延々と映していくので、最初から最後まで引き込まれはするが、フィルムの外へ広がっていく”何か”を感じることは出来なかった。
まあ、殆ど密閉空間しか映されないから(ある意味ヒッチハイクでのシークエンスも含めて)最初から、そういう意図だったかもしれない。
この閉塞感は、ポスト・ヌーヴェル・ヴァーグ(アメリカン・ニューシネマも含む)特有か?
ゆえに最後のエンドクレジットでのフランスの童謡によって、何か初めて外界の空気を吸ったような気分にもなった。
しかし、この人なんで80年代に日本で注目されなかったかな?
『囚われの女』なんか、カイエ・デュ・シネマで年間2位だったというのに。
ジャームッシュや山本政志などが注目された頃、回顧上映しても良かったのに。
部屋の中で、「私(自分)」だけを観察し続ける彼女は、部屋の模様替え...
部屋の中で、「私(自分)」だけを観察し続ける彼女は、部屋の模様替えをたくさんする。どんどん物がなくなって、殺風景な部屋になっていく。部屋、というものは、時に、人の心の中を象徴するようにおもう。部屋から物が少なくなっていく様は、自分の心を整理するような作業なのかもしれない。
次に彼女は自分の気持ちを書いた手紙を書く。送る宛て先は特に無いようだった、それでも「あなた(他者)」と問いかけ、自分の気持ちを整理し続ける。
ほとんどなにも無い部屋でカーテンもせず、自分の裸を晒す。通行人が通って、彼女は身体を見せつける。他者との交わりがどんどん直接的になっていく。
部屋を出た主人公は、ヒッチハイクして、「男(他者)」と旅をする。男が自分の人生について話しているのを特に意見するわけでもなく聞き続ける。自慰の手助けをする。男が髭を剃っているのを黙って見続ける。受動的な「私」の姿が描かれる。
男と別れた後は、「女ともだち(他者)」の家に行く。お腹が空いたと言って、彼女に食べ物を用意させるけど、全部食べない。絡み合うようなセックスをする。男といた時とはまったくちがう彼女の積極的な行動の数々。最後は朝になって、カーテンを開け放って、眠る裸の彼女を置いて部屋を出ていくシーンで終わる。
観察の対象、興味の対象が、私という自分自身→(あなた)→彼→彼女に移り変わっていくように描かれる。でも、もしかしたら、主人公が見つめているのは、最初から最後まで自分だけで、「誰かを通して見た私」ということなのかもしれないと思ったりもした。きっと、彼女の部屋を出た「私」は、また、自分だけの部屋(ヴァージニアウルフみたいだね)、に戻るように思うから。他者を媒介して自分自身のことを考えて、また自分に回帰していく。『私、あなた、彼、彼女』というこの映画は、自分自身と向き合い続けることを描いた物語なのかもしれない。
・袋に入っている砂糖をスプーンでひたすら食べ続ける行為がとても気になった、
・男とレストランでご飯食べたり、女とご飯を食べたり(女の方は何も食べないのだけれど)、食べるシーンが多い。
よく分からないけど好き
「A LOUER」の札が下がってそうな物の少ないアパートの一室で
長距離輸送のトラックに首の太い男と同乗して
美人でツンデレな同性の恋人の部屋に転がり込んで
3つのシークエンスに分かれていて、ストーリーは在って無いような感じ。ストーリーの把握に努めるより、そのときそのときスクリーンに映るものやモノローグやセリフを素直に楽しむことにして、存分にそうした。
最初のパートのモノローグが女子ポエムって感じで好き。ルーズリーフみたいなものに手紙を書きつけながら、紙袋から砂糖をスプーンで掬って食べるシーン、あまりにいつまでも食べるから、なんかそういう永久機関になったのかと思った。
恋人とのベッドシーン、幸せそうに楽しそうにまぐわっていてよかった。恋人が最初は「長居しないで」って言うんだけど、「お腹が減った」と甘えたらサンドイッチ出してくれるし、「喉が渇いた」と頼めば赤ワインが出てくるし、最後には「明日には帰って」になっててかわいかった。毎日のように一緒にいる関係じゃなくて、気まぐれに会ったり会わなかったりする愛人ぽい恋人関係なのかなあと想像した。なかなか訪れない恋人のことが好きだけど憎たらしいのかなとか。最初、犬のケンカみたいに抱き合ってて、2ラウンド目じっくりでちょっと笑う。
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