「再構築されたパッチワーク」鋼の錬金術師 完結編 復讐者スカー サブレさんの映画レビュー(感想・評価)
再構築されたパッチワーク
原作の鋼の錬金術師によれば、錬金術とは理解・分解・再構築で成り立っている。本作にもあった「人体破壊では破壊できないわけだ」というスカーの言葉は、『人体だと理解して分解しようとしたら実はオートメイル(金属)だったため分解できなかった』ということである。
まずは対象を理解する。その後に分解し、好きなように再構築する。まるで漫画の実写映画化のようではないか。長く続いた漫画を2時間の映画に収めるためには、漫画の要素を分解し、再構築しなければならない。本作も様々な再構築がされている。しかし…あまりに理解が足りないのではないか。
原作には名シーン名台詞が多い。ゆえに映像化であれば、いかに名シーンが再現されるかを重要視するファンも多いだろう。その点で言えば前作はよかった。エルリック兄弟の喧嘩からの仲直り。あまり無理のない展開で、しかもキレイにまとまっていた。
だが本作はどうだろうか。シン国の面々やスカー、アームストロング少佐にホーエンハイムを出し、大総統とホムンクルスの関わりを匂わせ、イシュヴァール殲滅戦を語り、最後にグラトニーに『飲ませる』。これらを順序を変えつつ、しかし原作通りのセリフで効率よく消費していくのが本作の特徴だ。しかも原作を切り取りそのまま貼り合わせたのが、この映画なのだ。(1週間前に公開されたシン・ウルトラマンでは理解・分解・再構築が非常に高い水準でできていたことがさらに悲しい)
このようなパッチワーク感あふれる映画ができたのはなぜか。それはやはり名シーン名台詞の再現に腐心していたからだろう。数分に一度大ゴマか連載時の最後のページが出てくるような、つまり無理やり見せ場を連発するような『再構築』がなされている。なぜそうなったか。『理解』が足りなかったからではないか…。『理解』が足りていればもっと削ったりオリジナル展開でつないだりが可能だったのではないか。
あるいは、二部作で最終回までを消費するためにやることを詰め込みすぎたということも理由に挙げられるだろう。今でもこれが2時間に収まっていたとは信じられない。ちなみに次作ではアームストロング少将と師匠も出るらしい。本当にそんなことできるのか…?
ただ、演技の方は前作よりもよかった。コスプレ感は相変わらずだが、リンヤオや大総統、ホーエンハイムは観ていて「これだよこれ」とうれしくなってしまった。大佐の火炎放射も修正されたし。