山歌
劇場公開日:2022年4月22日
解説
かつて日本の山々に実在した流浪の民・山窩(サンカ)を題材に、孤独な少年とサンカの一家の交流を描いたドラマ。高度経済成長期の1965年。東京で暮らす中学生の則夫は、受験勉強のため田舎の祖母の家へやって来る。ある日彼は、山から山へと旅を続けるサンカの家族と出会う。一方的な価値観を押し付けられることに生きづらさを感じていた則夫は、既成概念に縛られず自然と共生する彼らの姿にひかれていく。「半世界」の杉田雷麟が映画初主演を果たし、心優しいサンカの娘ハナを「未成仏百物語 AKB48 異界への灯火寺」の小向なる、ハナの父・省三を「偶然と想像」の渋川清彦が演じる。ドキュメンタリー映画「馬ありて」で注目された笹谷遼平監督が、第18回伊参スタジオ映画祭シナリオ大賞を受賞した自身の脚本を基にメガホンをとった。
2022年製作/77分/日本
配給:マジックアワー
スタッフ・キャスト
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2022年9月11日
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鑑賞方法:映画館
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高度経済成長期の1965年、東京で暮らしていた中学生の則夫は、受験勉強のため田舎の祖母の家へやって来た。ある日彼は、山から山へと旅を続け生活している流浪の民・山窩(サンカ)の家族と出会った。偏った価値観を押し付けられることにうんざりしていた則夫は、自然と共生する彼らの姿にひかれていった。
父とぶつかりながら、自己主張が出来る様になる則夫とサンカのハルの関係はどうなるか、てな話。
1964年の東京オリンピックの後にもまだサンカのような民がいたことに驚いた。
基本的には自給自足で、昔から山を駆け巡り暮らしていたのに、勝手にここは誰のもの、なんて線引きし、物を盗ったとインネンをつける方がおかしい気がした。
サンカの父役の渋川清彦はさすがの存在感だった。
娘のハル役の小向なるが目力が有って可愛くて素晴らしかった。
そして、雨に打たれてる時の表情がなんとも言えない輝きが有った。
2022年6月4日
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鑑賞方法:映画館
ー 三角寛による山窩小説や、民俗学的見地に立った柳田邦夫の文章は、学生時代に読んだ事はあるが、山窩の民の生き方をテーマにした映画を観るのは初めてである。-
◆感想<Caution! やや、内容に触れています。>
・山窩の民は、第二次世界大戦後、高度成長期到来により、多くが”下”に下りて来たと言われている。つまり、昭和40年を舞台にした今作に登場する山窩の家族は、最後の山窩になるのであろう。
・山窩の男(渋川清彦:似合い過ぎである。)が、)東京からやって来た、受験に疲れた中学生の則夫(杉田雷麟)に魚釣りを教えるシーン。
ー 山窩の民は、劇中でも描かれているが竹細工で籠などを作り、川魚を採り、売る事で生計を立てていたのである。”下”の民も、その恩恵を受けていた。
だが、高度成長期に入り、そのバランスが崩れていくのである。-
・山窩の娘ハナと、則夫とが徐々に交流を深めて行くシーンの数々も良いし、山窩の男の礼儀正しい姿も良い。
ー 則夫が既成概念に捕らわれずに生きる彼らに、惹かれる理由が良く分かる。-
・そして、ラスト。ハナも新品の制服に身を包み、則夫と畦道を、駆けていく姿も良い。
<ハナが劇中、脈々たる遥かなる山脈を観ながら時折口にする”あるんだよ、人間には見えない世界が・・”という台詞が印象的な作品である。>
<2022年6月4日 刈谷日劇にて鑑賞>
2022年5月27日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:映画館
期待を裏切るような面白さもなければ、実態とかけ離れた大袈裟な表現で脚色されたサンカ像を押し付けることなく、ちょうどいい、わたしの想像する山歌に近かったので、笹谷監督がこんな美しい映像にしてくれて嬉しかった。
もちろん、創作だけど、ドキュメンタリー映画と呼んでもいいレベルかもしれない。
映画だから変な期待をしがちだけど、こうしたデリケートなテーマを扱う場合に限って、期待は禁物なのだ。
海外の映画に出てくる変な日本人像みたいに、外側の人間が想像力豊かにイメージすると、当事者から見たらとんでもない誤解や差別による屈辱を感じることにもなりかねない。
逆もしかり。
あまりきも美化しすぎて、実像とまったくかけ離れた描き方をすることで誤解したイメージが定着してしまう。
まさに、山窩を売り物にするかのように、かつての研究者や小説家が良くも悪くも様々なイメージを膨らませすぎたせいで、実像がぼやけた虚像の塊のような存在に成り果ててしまったからだ。
山窩がいたとかいないとか、もう本当にそんな議論などどうでもいい。
そういうサンカと呼ばれるような山の民がいたことは特別なことでなく、逆に居なかったことを証明する方が遥かに難しいのだから。
それを、差別的な侮蔑語として名付けられた山窩とは書かず、山歌としたこの映画タイトルが秀悦すぎる。
籠を編む女の子が唄うシーンが、とてもよかった。
そのシーンがもっとも山窩をイメージさせるピークなくらいで、映画の見どころとしてのサービスカットなのかな、と思ったりして。
他にも地味だけど、いいシーンがいっぱいあった。
特別ではない、日常の中のささいな、それでいて贅沢で特別な時間の連続するような暮らしているシーンが、わたしがこの歳になってから山に入って感じている感覚ととてもよく似ている。
あの巨木のシーンもよかった。
望んでいたように虫けらのように死んで、土葬されて土に還るばば様とか。
わたしは少年時代から成人するまで、金華山の麓で育ち、まだ両親がそこに住んでるけど、金華山こそが偉大なる母のような存在だと感じてる。
父もこの山を愛し、死んだら金華山に散骨して欲しいといっている。
母方の故郷、白鳥六ノ里も、白尾山の麓の集落で、里と山の暮らしも少しはイメージできる。
昔から山には、黄泉平坂や野辺山や姨捨山の考えがあるように、人が死んだら行くところだった。
それはただの墓場ではなく、森には新しく生まれ変わる再生のエネルギーを秘めているから。
古墳やエジプトのピラミッドの時代は、人工の山をつくり同じエネルギーを得ようとした。
そういう山々に暮らす山歌が、豊かな森の秩序を守ってきた。
何も所有しないという究極の暮らしは、こちら側から見たら貧しい生活でも、所有しない代わりに、山という共有財産から豊かな土地と食料を必要なときに必要なだけ手に入れ、様々な生きる術を持って、芸能をしたり、職人技で籠や箕や竹細工などをつくって売るのが生業となり、里人とはお互い必要な存在として共存共栄してきた人たち。
それが、映画の舞台となってる昭和40年代にぱたっと消えた。
世の中が高度経済成長で無機質となり、山がただ同然の扱いで、豊かさの勘違いをして植林するかゴルフ場として売るか、という貧しい価値となった瞬間、すでに限界集落とか廃村レベルの存在だった最後の山歌の人たちの命までが、一瞬にして消えてしまったのだろう。
自然界は、優性遺伝などしないし、弱肉強食というのも間違ってる。
山歌は、自然に一番近いからこそ自然をよく知り尽くし、謙虚に暮らしいただけの、時代の弱者。
西洋は産業革命で近代化し、明治以降の日本もまた、同じ道を選んだときからこうなる運命だった。
戦争の絶えない時代。
原発事故して、コロナ騒動まで起きて。
今、この映画が、ミニシアターだけど映画館でロードショーされることはとても大きな意味がある。
なんでもっと早く、なんでもっとたくさんこういう映画が今まで無かったのかが不思議なくらいだけど。
誰かが先にやらないといけないから、それが偶々、今だったというだけのこと。
そんな笹谷監督に、ありがとうをいいたい。
2022年5月22日
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鑑賞方法:映画館
サンカって、色んな呼び方(漢字の読ませ方?)や起源説もあるみたいだけど、物語では、その辺りはさらっと流していく。
かつてはたくさんいた人々が、様々な理由でどんどんいなくなる…。
その終焉を描いた作品だろうか?
そういう人たちがいなくなっていくことは、良いことなのか、どうか?といったことを問いかけているように思えた。
どっちとも言えないけど、明らかに文化の多様性は低下したんだろう…。
山の歌を歌う人々への賛歌か?
難しく、考えさせられる話だった。