破戒のレビュー・感想・評価
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胸に迫るふたつの主題、美しい日本語、そして間宮祥太朗
原作よりも希望があり、主人公の強い意志も感じられる終わり方になっている気がした。原作では、教職に再び就くことを諦めて知人のつてがあるテキサスに行くというラストだったが、本作では教師の職を諦めず東京で雇ってくれる学校を探すことになっている。当時の差別の苛烈さを思うと、教師を諦める原作の方が身の処し方としてはリアリティがあるのかもしれないが、映画の方が彼なりに差別と闘っていくという姿勢が見え、前向きなメッセージを感じ取れた。これは、全国水平社創立100周年記念映画という看板を意識したアレンジなのだろう。
新潮文庫から出ている原作本に掲載されている解説が興味深い。
原作は文学作品としては成功しながらも、作中の差別を意味する字句が解放運動の一部組織から厳しく糾弾され、絶版に追い込まれる。その後、藤村の全集収録にあたり「過去の物語」との注釈のもと、差別的とされた字句を改めたり省略した「改訂版」が作られた。今度はこれが、部落解放全国委員会から「差別の抹殺」と批判される。その後筑摩書房が初版復元版を出すと、初版を復元する理由と所信が述べられていないことにつき同委員会が批判の声明文を出した。(大筋だけをかなり端折って書いたので、詳しくは是非新潮文庫の解説を読んでください)
過去にも映画化されてはいるものの、このデリケートな原作を、現代の価値観の中で批判により埋没しないよう、それでいて明治の話が現代の観客の心にも刺さるよう、アレンジも加えて作り上げるのは相当に難しいことだったのではないだろうか。バランス感覚の素晴らしさを感じた。
このように部落差別を題材にした話であると同時に、本作は主人公の丑松が父親の言葉の呪縛を克服する成長物語であるという側面も持つ。タイトルはむしろそちらに寄せてあるようにも思える。
人が生きていく上で重要なふたつのテーマが分かちがたく結び付いているからこそ、「破戒」は時代の淘汰を超えて名作であり続けている。
間宮祥太朗は現代劇でしか見たことがなく、こんなに明治の人間を体現出来る役者だったということは嬉しい衝撃だった。当時の日本語の美しさを大切にしながら自然に感情移入させてくれる台本も素晴らしい。その台本の品性をそのまま演技に乗せて、抑えた表現の中に丑松の苦悩や迷いを滲ませ、クライマックスでほとばしらせた彼の演技にただ見入った。
色々と高度な配慮が必要なテーマを脚本はよく「言葉」から逃げずにまとめ、演者はこれだけ演じ切ったものだと思う。彼のくっきりとして整った顔立ちがむしろ時代設定に映えて、モノクロフィルムの時代の俳優の雰囲気をまとっているように見えた。
人類というものは本来、平和を愛する生き物なのです
昔、徳島に引っ越して高校の授業で同和教育を受けて知ったのが初めてでした
体育館で公演を聞かされて、感想文を書かされました
講演者がアメリカの黒人の奴隷解放と比較して、同じ日本人なのに差別があることを憂いていました
それって、人種差別じゃないですかって書いたけど無視されました
自分の中にも差別がある事を理解出来ない人が講演してるんだから、差別は奥深い
人類というものは本来、平和を愛する生き物なのです
から始まり
いつか、理解しあえる日がくる
で終わる主人公の講和は未来への希望です
世の中の理は競争することで進化し、適合したものだけが生存出来る世界です
小さな野原でも、草どうしが、自分の遺伝子で埋めつくそうとしのぎを削っている
その弱肉強食の法則から脱却し、社会という組織を作り、先に進もうとしているのが人類です
競争より協力
理解しあい、信頼し合う事で先に進もうとしている
しかし、気を抜けば理に負けてしまう
相手を駆逐し、自分だけが生き残りたいという本能
心の弱さが差別を産んでいく
普段、生活をしていると忘れてしまうくらい表向き、部落差別は忘れ去られている
水平社100周年を記念して作られたこの作品は、団体の皆さんには感慨深い物があるんでしょうね
ラストの改変は明るい未来への希望なんでしょう
同和問題は、やはり忘れてはならないと思います
表向きは忘れ去られているようでも、結婚や就職など、突然突きつけられる場合があるかもしれない
その時、全く知らないのと、ちゃんと意識して自分なりの考え方を持っているのでは全然違いますから
人生ではじめて直面する差別は、学校のイジメかも知れません
あらゆる差別がなくなり、戦争がなくなり、人類がも一段、高次元の存在になれる日が来るといいですね
スクラル人
最近MCUにハマってしまい、ついついVODで時系列で見直していたところ。人間はとかく弱いものだと思い知らされましたが、MCUにおいても若干の人種差別が描かれています。まぁ、それが最も感じられたのは『ファルコン&ウィンターソルジャー』だろうか。もちろん、部落問題と人種差別は違いますし、むしろ奴隷制度やカースト制度に近いのかもしれません。人間はとにかく自分よりも弱い立場の者を作りたがるという点では一緒かな。
レビュータイトルの「スクラル人」は適当につけました。『キャプテンマーベル』や『シークレット・インベージョン』に出てくる変身の得意なスクラル人。地球人の中に100万人も溶け込んでいるという。侵略とか平和共存とかの問題も提示しつつ、何とスクラル人と結婚していた地球人もいた・・・かの有名な○ック・フュー○ーだ。
さて、ここから本題です。
島崎藤村の『破戒』は多感な中学生時代に読みました。小説を読んで泣いたのは初めてでした。藤村の詩『初恋』に感銘を受けて信州に旅行に行った際にはその詩が刻まれているお土産をよく買いました。それを好きだった女の子にプレゼントしようと・・・結局渡せませんでしたが。
なぜか『破戒』は自分の愛読書となってしまい(とは言っても2回読んだだけ)、高木彬光の『破戒裁判』まで読んでしまいました。こちらの方が泣けました。こうしてまた文学を離れ、読書歴は推理小説ばかりになっていきました・・・日本初の法廷推理小説であるという特徴もあり、『破戒』の発刊から50年経っても日本人の差別意識がなくなっていないというテーマ。そして令和の現在に至る・・・
で、この映画は反戦意識も高めてくれてます。議員が軍国主義教育を推し進めていたり、志保が読んでいた与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』がいい例です。原作にあったかどうか覚えていません・・・
諸事情により絶対に知らねばならなかった作品。原作を読みたかったが改...
演技が上手
人間の弱さと希望
原作既読。
兎にも角にも、間宮祥太朗劇場である。もちろん他の俳優さん達もみんな素晴らしかったです。でもやっぱり間宮の観る人を惹きつける演技は別格。眞島秀和も凄かった。脚本、演出の力も大きいですが、上記の2人は迫真を通り越して鬼気迫るものを感じました。
原作はあまり覚えていないのですが、改変はラストくらいでしょうか。終盤はとにかくドラマチックに、観客の心を大いに揺さぶる演出になっていました。この点はエンターテインメント作品としても優れていると言えるでしょう。
静かながらストーリーに優しく寄り添う劇伴が素晴らしい!間宮演じる丑松の心情を見事に表しております。
どの場面も思い出しただけで胸が締め付けられるような、差別と闘う若者の苦しく切ない物語。原作は当時の社会に対する問題提起の側面が強かったですが、本作は現代的に、よりドラマチックなエンターテイメント作品に仕上がっています。
とはいえ、やはり無視出来ない差別問題。現代においてはルッキズム、ジェンダー問題、SNSにおける誹謗中傷等、表面的な違いはあれど、根本的な問題は近いものがあるのではないでしょうか。結局、人間は誰かを批判している時は自分が正しいと思って安心感を得てしまうのです。作中、丑松が言っていたような「互いを尊重しあえる」社会を目指したいものですね。
🌀『差別をするものは弱虫だからだ‼️』
破戒
1904年🇯🇵長野県飯山市
🌀『差別をするものは弱虫だからだ‼️』
★彡自分は上の身分だと思う事で、自分を保つ事を無意識にしている弱虫達。
🔵かーるくあらすじ。
幼少期に貧しい下級階級で育った主人公(間宮さん)底辺階級育ちを隠し親元を離れ、教師になった。
明治時代でもまだ差別は残り、成功者でも穢多民(下級民)は嫌がらせを受けていた。
教師になった主人公は素性を隠して生きる事は出来るのか?
素性隠し緊張感あるストーリー。
◉75E点。
差別の怖さを洗練された間や表情、雰囲気、景色などで伝える緊張感覚映画だと思いました。
🟢感想。
1️⃣原作『島崎藤村』さんとの事で名前は知っていましたが、特徴を調べると、自然主義文学、感情や表現、人の内面などに深く切り込んだ文学に精通していて、映画もそれを体現できるくらい洗練された映像でした。
2️⃣当時の得体の知れない差別を知れる。
★彡部落、穢多、下級などと区別され、自分の昔話や育った土地の話、身分の違いで結婚すら許されない拝啓。
3️⃣無くならない差別。
★彡今でも黒人差別や部落差別、同性愛差別などたくさんはある‼️
みんな弱虫なんだろう?
自分も無意識にやってるかも知れないので強くなりたいですね。
😃😟😕😤🤫🫂🧑🏻🏫👘🏫🏞️⚖️📒
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🟠参考学び
部落民、穢多とは日本で平安時代位から使われていた言葉で奴隷や下級のこき使われる人達を差別用語で使っていた事が一般的の様です。
明治時代位であまり使われなくなった様。
🈲ネタバレ保管記憶用
1️⃣幼少期に部落から親元を離れて、教師になった主人公。
2️⃣差別を目の当たりに感じながらも、どうにも出来ない主人公。
3️⃣東京からエリートの教師がやってきて、同じ女性を好きになる。
4️⃣主人公の素性がバレて、嫌がらせをするエリート教師。
5️⃣尊敬する過去穢多を公表する作家に共感していく主人公。
6️⃣作家が殺される!
7️⃣主人公は自分の素性を生徒に話し、学校を去る。
8️⃣恋している女性と東京を目指す。
9️⃣その後はどうなったのか不明のままエンドロール。
★彡東京で大成したのか気になる結末でした。
⭐︎3.8 / 5.0
タイトルなし(ネタバレ)
よかった。
間宮祥太朗が合ってた。
濃い眉やきつく結んだ口もとがいい。
見た目が誠実そう。
険しい表情もいい。秘めた悩みや怒りや苦悩が感じられていい。
生徒に話すときの声がよかった。
話し方もそうだが、声が優しくてとてもいいと思った。
矢本悠馬の安心感はすごい。
劇伴なのか、ピアノの曲がよかった。
悲しい感じもしたが、エンディングにも流れてて美しく、好きになった。落ち着く。
日本の過去
作品名と著者を線で結ぶ問題に出て来る
島崎藤村、菊池寛、芥川龍之介、夏目漱石、山本有三、与謝野晶子、近代文学史で見かける面々とその作品名を知ってるし他の作者は大抵数冊は読んでいるのに どういうわけか島崎藤村だけは一冊も読んだ事がない。
なので有名な題名のこの内容が被差別部落を扱ったものだというのを今の今まで知らなかった。
私は被差別部落の存在は、高校の時に「にんげん」とかいう小冊子が学校で配られて何の事かわからないでいたのを 誰かが教えてくれて知った。
私は高校を地元に行かず、寮生活しながら遠方に通っていたので、その後大人になってうちの地方にはそんなのないよね、と親に話したら とんでもない 私が一番仲の良かった靴屋の子はそうだったし、よく行く肉屋もそうだったと そしてそこの娘さんたちの結婚は大変だったのだと初めて聞いたのだった。
親は幼い私にそういう話は一切しなかったし親戚の叔母達もいっぱい周りに住んでいたが、子どもにそういう話をすべきではないと心得ていたのだろうか。
もし仮に「にんげん」という冊子を学校で配られずにいたら私は知らないままだったのではないか と思う事がある。
そう思うと こういう部落解放運動って しない方が風化していくのではないかなと
でも当事者の一部の人々は「知って そして差別をなくすべき」
と考えてるらしく。
今のこの世の中、この映画の冒頭のように 同じ旅館に泊まると畳も変えて塩撒く〜 みたいなのは まずないと思うし
この彼が東京に出て就職先を探すように 昔は1箇所にまとまって集落を作り 知名で出自が知れていたような事はなくなった(たぶん)わけで、ほんとにこういうのは教育はしない方がいいんじゃないかと思ってる。
こういう映画になると、まあ間宮祥太朗だし、全く昔の話よね、と若い人は思うのだろうか。
今 実質的に現存するのは 逆差別ともいうけど つまり税理士事務所を同和系にすると査察が入らないと聞く。
これは実際 紹介された経験があるので 確かにあった。
(今もそうなのかは知らないんだけれど)
そう言えば 昭和の大物政治家 野中広務が自分は部落出身だと公言してたのは印象的だった。
関西地方は同和の問題と在日の問題が深く結びついてる場所もあると聞く。
同じような境遇が同じように集まって特殊な集団を形成したのだろう。
私の知人の少々有名な地位の息子さんが大阪のその地区の女性と結婚したんだけれども それはそれは盛大に式を上げて私達夫婦も呼ばれ モデルのような細身の体に美しい小顔が驚くくらいだったのに 二、三年で離婚。
そして その女の子に聞いたのが 最後まで入籍しなかったのだという話で ほんとにびっくりしたものだ。30年以上昔の事だけれど。
こういった差別は 職業が屠殺や死体処理だったりして そういう四つ足の肉を食べなかった時代ならまだしも、しっかり産業として根付いてる現代においては尚更(まさに本人には全く罪がないわけで)ただの言い掛かりに過ぎない。
そういうアホな時代もあったよね
という風に風化していくべきであるし、誰がそうなのかもう全然わからなくなってしまうのが一番いい。
秘密を抱えた人生
ハカイとは?
タイトルの文字に込められているのは、人の心の中に潜む「認識」や「レッテル」などによる「決めつけ」という「戒律」を破壊したいという思い。
主人公瀬川が生徒たちに話した「何が正しいことなのか? 正しいことをするにはどうしたらいいのか?」
正しいことは時代によって異なる。これは重要なポイントだ。普遍的な言葉を遣えばそれは、「今考えるべき最も順位の高いことを抽出する」とでも言おうか。
当時の社会にこびりついていた前時代からの階級と階級外の身分。
瀬川は父の強い言いつけによって、自分の身分を隠し通して教師になった。
作品は、この時代のテーマを選挙運動を通し、また人々の考え方を通し描いている。
自分の身分を公表しながら本を執筆して人々から賛否両論される猪子廉太郎。彼に対するあこがれを持つ瀬川。どうしても彼のようにできない歯がゆさと怖さ。この主人公の葛藤こそがこの作品の見どころとなっている。
瀬川は言う。「なぜ自分の故郷を語れない なぜ好きな人に思いを伝えられない なぜこんなに苦しまなければならないのか なぜ?」
告白したい気持ちと差別される恐怖。
明治になってすべての階級がなくなったにもかかわらず、旧藩士、旧商人、旧農民、そして部落民と呼ばれる旧えた。
かつての階級社会を打ち壊して国を作っておきながら、今度は「国のために」と称して子供を戦争に参加させるための教育をする。そしてその批判者を鉄槌する言動に対する是非。
瀬川は「差別は人の心から消えにくいもの」と言ったが、人は誰も対人関係において、必ず「自分の認識」というフィルターを通して対人を吟味し、何らかの「序列」を作るものだと思う。絶えずその人を判断し、ジャッジしているのだ。この根幹を変えることこそ難しいと思う。
やがて瀬川はギンノスケに告白する。教壇を降りる覚悟を決めるのだ。しかし生徒たちは「そのままの」瀬川を見てきた。何の階級も存在しない瀬川そのものを信じて疑わない純真さがある。ここにこそ本当の人間像があるのだと作品は伝えているのだろう。この純真さが大人になってもあり続けるなら、どんなに素晴らしい社会になるだろうか?
瀬川の見送りに参加する生徒たちを叱責して学校へ戻るように指示する勝野らを無視するのは、差別という考えを持つものへのレッテル返しの象徴だ。
こうして、「正しい」とされる行為の勝利で物語は閉じる。
しかし1点難しい箇所があった。
それは衆院議員の妻が部落民であることとその秘密を瀬川に黙秘せよというシーンだ。
背後にあるのは議員が恐れる差別だが、妻の父はたいそうな金持ちで、そのお金で選挙を戦えたし、次戦もそのようにしている。
その事を猪子は指摘したが、そもそも議員がお金と結婚したのかどうかはわからない。
瀬川が猪子と初めて会って話したとき、猪子は議員の妻の素性を知っており、その公表はしないと言いつつ、猪子は金目当てだと決めつけている。
この一見、どちらかが正しく、どちらかが間違っているという構図に、そうとは言い切れない含みがあるように思った。
ここに視聴者が考えるべき点があるのかもしれない。作品側からのお題が隠れているように感じた。
寺の住職が養女のシホに手を付けようとしたことも正義の中に隠れた邪気がある。
軍司学の権威の甥である勝野教師はヒール役として描かれているが、彼の思想は単にその時代の一般常識的なものだと思われる。
もし自分があの教員の中にいたら、どうするだろうか? 瀬川のように明確な思想がなければ、いったいどうやって勝野の主張に対抗できるだろうか?
いつの時代も「変化」がやってくる。
正しいとか正しくないとかも時代で逆転や変化する。
いまこの時代で吹聴されてる「常識など」は「正しい」のか?
そのことに対する意見はないのか?
これこそがこの作品が訴えていることなのだと思った。
伏線やプロットが秀逸でおおよそ当時の作品とは思えない。
島崎藤村が考えた当時の普遍的な部分に「変化」を加えた素晴らしい作品だった。
どうすることも出来ない差別
持つべきものは良き友だった。
55点
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