「都合のいい昔語り!?」ホワイトバード はじまりのワンダー ノーキッキングさんの映画レビュー(感想・評価)
都合のいい昔語り!?
児童書として成立しているこの本の映画化は、ひねこびた大人(私)から観るとやはり、緩いなと思う。ジユリアンの命懸けの親切は見返りを求めない純粋なものではなく、“かけひき”に見える。普段なら相手にしてもらえないサラという存在が、ナチスに追われるユダヤ人という境遇に陥った時、身体的ハンデのあるジュリアンは、負い目から解きはなたれ、サラとは対等、もしくはそれ以上の優越感をはじめて持つことができたのだ。
実際、彼がサラに告白したシーンでは『イエスよ、わかってる』という彼女の答えは、“云わされた”感があり、それは、愛情というよりも温情のようで、1年間、自分を匿って世話をしてくれた事実の重さに対して、彼がその対価を要求するような“圧力”を発するのも無理からぬことだと思ったに違いない。とまあ、穿った見方しかできないのは、篤のない
人間の性か?
祖母が孫を諭すために昔語りをするという設定で都合よくまとめられた本作。ジユリアンの死は専ら母親の視点で描かれ、サラが嘆き、悲しみ、苦悶する映像は無い。また、サラの成長過程も淡々としていて、亡くなったジユリアンの両親に我が子同然のように可愛がられ、その後、結婚、子供や孫はニューヨークの高級マンションに居て、自身は大画家となって功成りを遂げたという、バタバタと畳みかける後半は、児童向けにありがちな、上手く行き過ぎる展開も、全体的な印象としては悪いものではない。
ただ凡人から見ていつも思うのは、何故、ホロコーストをかくも高尚に描くのか。誰しも傍若無人なナチ野郎の暴挙には義憤をおぼえる。しかし奴らをコテンパンに叩きのめして溜飲を下げようというのは、ただ下衆の発想に過ぎず、虚しいだけだ。
いつも拳を握ってしまう自分が居る。