ヒューマン・ボイスのレビュー・感想・評価
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演劇と映画の融合を試みる実験的手法を楽しめるマニア向き
文芸分野の創作のほか画家や映画監督としても活動したフランスの芸術家、ジャン・コクトーが1930年に発表した戯曲「人間の声」を、スペインのペドロ・アルモドバル監督が翻案して実験的な短編映画に仕立てた。「ティルダ・スウィントンによる一人芝居」という紹介もどこかで目にしたが、一度だけ外出して買い物をするシークエンスでは店員との会話もあり、厳密な一人芝居ではない。それに、元恋人が飼っていて女の部屋に残されたという設定の犬も、なかなかに達者な演技でスウィントンをサポートしている。
元が戯曲ということもあり、撮影スタジオ内に作られた部屋のセットの壁(=パネル)の裏側を意図的に見せるなど、劇空間の虚構性が強調されている。女がかつて同居していたであろう男から冷たくされ、精神安定剤を大量摂取し、破壊衝動にかられていくのか、あるいは役にのめり込むあまり精神に変調をきたしている女優の役をスウィントンが演じているのか、どちらにも解釈可能だろう。演劇と映画の融合を試みるセットの点で、ラース・フォン・トリアー監督の「ドッグヴィル」「マンダレイ」を想起させもする。
本編30分なので、同じ日に日本公開となったアルモドバル監督の「パラレル・マザーズ」と併映かと思ったら、この一本で一律800円の鑑賞料金だとか。尺は短くても実験的な作品に価値を見出せるマニア向きという気がする。
この世は舞台、人はみな役者。 ティルダ様の麗わしさを愛でよ❤️
とある女優の愁嘆場を、「電話」というモチーフを用い、ほぼ一人芝居という形式で描き出した短編映画。
監督/脚本は『オール・アバウト・マイ・マザー』『私が、生きる肌』の、巨匠ペドロ・アルモドバル。
主人公の女優を演じるのは『ナルニア国物語』シリーズや『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の、レジェンド女優ティルダ・スウィントン。
「芸術のデパート」とも称される20世紀最大のアーティストのひとり、ジョン・コクトーによる戯曲「La Voix humaine」(1930)が原作。それで監督が世界中の映画賞を総なめにしたスペインの巨匠アルモドバルで、主演がティルダ様って…こんなん絶対難しいヤツやん…と、うんざりしながらも重い腰を上げて鑑賞してみたのだが、あら意外にもさっぱりとした作品でとっても観やすかった。
コクトーは原作となった戯曲を執筆した動機について「あんたの作品は演出家や脚本家が主導権を握り過ぎていて、私たち女優が存分に力を発揮出来ない!」というクレームを受けた事がその一因であると語っている。それで一人芝居を書き上げるというのはなかなか極端な気もするが、とにかくこの戯曲は演じる女優の能力を最大限にまで引き出す事が目的のものであり、それを翻案した本作もまた、その目的を果たすことを第一義としている。主役を演じるティルダ様の圧巻の演技、それこそが最大の見どころであるのは間違いない。
彼女の熱演を30分間じっくりと堪能させていただく。身も蓋もない事を言えばただそれだけの映画なのだが、そのシンプルさこそが本作を本作たらしめている。
ティルダ様が弄っているDVDはPTAの『ファントム・スレッド』(2017)。確かに本作を彩る衣装の数々はこの映画に通じるところがある。
まあとにかく嫌味なくらいファッショナブルな作品であり、僅か30分の短編で、主役が7回くらいお色直しをする。しかもその衣装は赤いドレスから青いスーツ、コーデュロイのセットアップから革ジャンまで、バラエティに富んでおりひたすらに華やか。それがパステルグリーンの壁紙や原色を用いた家具、そして毒々しいまでに鮮やかな赤/白/黄の睡眠薬と混ざり合う事により、暴力的とも言えるほどのオシャレな映像が生み出されている。この色彩の豊かさこそ、舞台では表現出来ない映画ならではの強みなのかも知れない。
本作が制作されたのはコロナ禍の真っ只中。それを踏まえると、電話による別れ話というのはコロナによる人と人との空間的隔絶とそれによるディスコミュニケーションを比喩的に表現しているようにも見える。女優が撮影所に設営されたセットで生活しているという、ちょっと『シン・エヴァンゲリオン』(2020)を彷彿とさせる不思議な演出も、コロナのアレゴリーとして受け取る事が出来なくもない。まぁそれらは偶々だとは思うのだが、100年近く前の戯曲が現代の社会情勢を映す鏡の役割を果たしたという事実は興味深い。やはり名作は時代を越えるのだ。
原作の舞台は完全に未見なのだが、後にフランシス・プーランクが翻案したオペラ版(1959)はYouTubeにUPされていたので、ちらっとだけ鑑賞してみた。
それから察するに、住まいを燃やして撮影所を後にするという本作のエンディングは完全に映画オリジナルのアイデアの様である。多分オリジナル版では、主人公が結局服毒自殺してしまうというのがオチ。女優を恋に破れたただのメンヘラではなく、過激な手段を用いてそこから立ち直ろうとする凄みのある人物として描き直している点に、古典を現代的にアップデートしようとする意気込み、そして何より監督の優しさが感じられる。この後、彼女はDVDコレクションの中にあった『キル・ビル』(2003-2004)の様に、苛烈な復讐へと旅立つのであろう…。
主人公が撮影所から立ち去る=実際に映画が終わる、というメタ的な演出もオシャレ。一から十まで抜かりがないですな。
30分とは思えぬ、見応えのある作品だった。ただ、なぜそうしたのかわからなかった点も幾つかある訳で、例えばティルダ様(+犬)以外の役者を登場させた理由。ティルダ様に完全な一人芝居をさせた方が映画としてのインパクトはあったと思うんだけど。
ちなみに、あのホームセンターの店員は監督の実弟でもある、プロデューサーのアグスティン・アルモドバル。実は弟が映画に出たかっただけだったりして?
あと、ティルダ様の延々とした独白の途中で、何故カットを割ってしまったのだろう?彼女くらいの大女優ならあのくらいのセリフ量を覚えるのは訳ない事なんだろうし、ワンカットでぐーっと映し続けるという選択もありなんじゃないかな、と素人ながらに思ってしまった。まぁ別に長回ししなければならない理由なんてひとつも無いんだけどね。
赤を効果的に用いた映像設計、女性の人生の一端を垣間見せる物語構成など、約30分間に近年のアルモドバル作品の要素を詰め込んだ感のある一作
ティルダ・スウィントンのほぼ一人舞台といってもよい本作は、ジャン・コクトーの戯曲を原案としているだけに、演劇的な要素が非常に強い作品でもあります。
本作同様一人の女性を追った同監督の作品として『オール・アバウト・マイ・マザー』(1998)がありますが、何人かの人物が交錯する『オール・アバウト・~』とは一見作劇的には対照的であるかのように見えます。
しかし両作を見比べてみると、本作は明らかに『オール・アバウト・~』と関連している、あるいは『オール・アバウト・~』のその先を描こうとしている、という節があります。特に結末に至るまでの主人公の選択とその後の運命はかなり対照的なので、本作を面白く鑑賞した人はぜひとも『オール・アバウト・~』もご覧いただきたいところ!
本作のタイトルは一見ポップアートのような軽さがありますが、字体を構成している一つひとつの工具などは本作で重要な役割を担っているものばかりだし、それらがどう扱われるのかを知った後だと、このタイトルアートは意外なほどに重みがあることが分かります。
「ボイス」が題名に含まれているのに、ものすごく肝心の音声は観客には届かないというところも面白いです!
30分なのに観応えあり
タイトルなし
ジャン・コクトーの戯曲を基にしたロッセリーニ監督の名作『アモーレ』。その第一話「人間の声」でアンナ・マニャーニは我々に人間の真実を突きつけた。
ロッセリーニはカメラの前の素材をいかに扱うかという様式の美学を決定的に提示してみせたのだ。
ではアドモドバルはこの戯曲をどう扱ったのか。
ポップでカラフルなファッション、洒落た部屋の設え、斧、ワイヤレスイヤホンなどなど、もう見どころ満載。
ロッセリーニの『アモーレ』がアンナ・マニャーニのリサイタルであるのに対し、アドモドバルはティルダ・スウィントンの独り芝居に終わらせなかった。
リアリズムとイリュージョンという映画にまとわりつく矛盾と葛藤を感じさせつつ、アドモドバルはその矛盾を糧にしてラストでこう語る。「われわれは現実へと単に戻って行くことになるだけ」。
現実と映画があっさりと等号(=)で結ばれるとき映画は消滅してしまう。そんな不可能な一点をしっかりと見せるには、ティルダ・スウィントンの硬派な透明性しかいない。
アンナ・マニャーニのあの動物的な魅力に対抗できるのは、ティルダ・スウィントンしかいないよね。
赤と黒
衣装や家具などの色彩が目に焼き付いてしまいそうでした。ホームセンターでの買い物以外はほぼ一人芝居。そしてスタジオ内に建てられた天上のない家において、犬とともに生活していた三日間。果たして彼女は恋人との別れを感じて狂いそうになったのだろうか・・・
買ってきた斧は恋人の服をズタズタにするため。それを咎めようと犬が吠える。もう犬の演技が優れすぎていて、舞台劇の可能性を遥かに超えてしまっていた。
登場しないのでわからないけど、恋人は男なのか女なのか?電話がかかってきたのは現実だろうから相手がいないとは考えられないが・・・
この作品の前に『フラッグ・デイ』を観たためか、家を去るときに燃やしてしまう心情は誰にでもあるものだろうかと悩んでしまった。
【”貴方は必ず帰って来た。三日前までは・・。”恋人に捨てられた女性の見栄と本音の狭間にある怒り、哀しみ、無力感をティルダ・スウィントンが一人芝居で圧倒的な存在感で魅せる作品。】
- コロナ禍の中、ペドロ・アルモドバル監督がジャン・コクトーの『人間の声』を翻案した、電話での会話劇だけで展開するドラマ。 -
■スーツケースを取りにくるはずの元恋人を待ち続ける女性。
傍らには、主人に捨てられたことを理解していないイヌがいる。
元恋人を待つ3日間で1度だけ外出した女性は、斧と缶入りガソリンを買ってくる。
彼女は無力感にさいなまれ、絶望し、やがて理性を失っていく。
が、そんな時、元恋人から電話が掛かって来て・・。
◆感想
・元恋人に対し”機械人形みたいな私”と言ったり、ありもしない見栄を張ったりする真っ赤な服を着た女の愚かしさ、哀しさ、虚しさをティルダ・スウィントンが独り芝居で魅せる作品。
ー 真っ赤な服は女の情熱的で、激情的な性格を暗喩しているし、実際に彼女はその様な行動を取るのである。ー
・全ては舞台セットの中で進行していく。
<ペドロ・アルモドバル監督は、そんな彼女に部屋の中にガソリンを撒かせ、火を付けさせる。
そして、女は男のモノだった筈の犬を”ダッシュ”と呼び、燃え盛る舞台セットを後に、自由なる世界へと足を踏み出させるのである。
それにしても、本作のフライヤーも含めて、ペドロ・アルモドバル監督の豊かなる色彩感覚には驚かされるし、そのような中で真っ赤な服を着たティルダ・スウィントンの一人芝居が冴えわたる作品だと私は思うのである。>
犬の名は『ダッシュ』新しい名なのか?
『キル・ビル』
『シャッキー』
ホセを待つ間に鑑賞するの?
『アリス・モンロー』の『幸せ過ぎる』
『トルーマン・カポーティ』の『ティファニーで朝食を』
男を待つ間に読むの?
で、
と未練がましい女性の浅はかさを描いている。
さて、そうか?
彼女は舞台裏までも、つまり、現実じゃない部分までも焼却しようとしている。
だから、
これを男女入れ替えて焼却行動をさせると、この犯罪が成り立つ。この行動は男の性だよね。
この部屋はシュールレアリズムで飾られていた。
♥Salvador Dalí♥
振られた女の右往左往
四年付き合ったのに3日前に振られて自暴自棄なティルダ様の一人芝居。
字幕翻訳は松浦美奈さま
ジャンコクトーのあらすじは、恋人がもう戻らないと知って、主人公は自殺するみたいだけど、ティルダ様は思い出を焼き尽くして、捨てられ仲間の犬と生きていくことにした。
頓珍漢なファッションで犬(名前忘れた)に、新しい主人はあたしだからと言って、焼いた舞台から去る。いいですね。21世紀の女は泣いて喚いて暴れてたら、スッキリして次に行けるよね。
舞台の練習場みたいな?舞台裏?と、自宅がなんか繋がってる、飛躍のある舞台装置。自宅はカラフルで、アートと高級品と玩具がうまく混じり合っていて本当に好み。色をたくさん使うけど調和していて、派手だけど落ち着く感じ。
アルモドバル映画のインテリアが本当に好き。自分で再現するセンスはないけど、いつかお金持ちになったらああゆう雰囲気をインテリアコーディネーターにオーダーしたい。カラフルと、裸婦の絵と、曲線の家具はマストで。
タイトルなし(ネタバレ)
ある中年の女性(ティルダ・スウィントン)。
モデルか女優のようである。
彼女は先ごろ恋人と別れたばかりで、相手のスーツケースが部屋にある。
元恋人はスーツケースを取りに来ることになっているが、姿を現さない。
業を煮やした女性は電話でまくしたてるとともに、外出して斧とガソリン缶を買ってくる・・・
という話で、金物店の主人などほかに数人登場するが、ほぼティルダ・スウィントンの一人芝居。
ティルダ・スウィントンのヒステリックな演技と色彩鮮やかな舞台と、映画とも舞台とも区別のつかない演出方法を愉しめればいいのですが・・・・。
ま、長編に引き伸ばしてもいい結果にはならなかっただろうから、これはこれで完成形ですね。
スペイン巨匠監督が紡ぐ"現実から目を背ける女"が死者と対話する映画
同じペドロ・アルモドバル監督最新作『パラレル・マザーズ』と同時公開の本作。かたや恋人との別離後の僅か四日間でそれまでの四年間の甘い日々と比べ物にならないほどの怨嗟を溜め込んだ女性の魂の恨み節、もう一本は我が子と親友の子との産院での取り違えを悟った女性が真実を打ち明けるか悩み苦しむ姿に"過去の独裁政権の積弊を忘れるべからず"という政治批判の意思を託した社会派作品。同じ監督の手による作品ながら全く情緒の違う作品に仕上がっています。
奇しくも、現実を受け入れることを全力で拒絶する女性の、そして現実に苦悩しながらもそれを受け止める覚悟を示す女性の、それぞれコントラストの利いた2本になっているところが面白いところです。
"芸術のデパート"ことジャン=コクトーが1930年に発表した戯曲『 La Voix humaine(人間の声)』をアルモドバル監督が現代風にアレンジした30分の短編映画。
主演のティルダ=スウィントンのほぼ一人芝居で、監督初の英語作品とのことでございます。
原作は、5年間付き合っていた恋人から他の女性と結婚するために別れを告げられた女が彼からの電話を受けて疑い・絶望・愛の告白・非難を浴びせたうえ、電話のコードを首に巻き付けて自ら命を絶つ…というもの。
その原作の余情に囚われた展開に比べ、本作では未練のみならずその裏返しの憎悪すらも吐き出し切って一切の余韻を残さずに別の人間に人為的に転生しようかというぐらいの狂気的な意気込みを感じます。
別れた恋人の表象としてはただ電話口だけですが、それに対して彼女は言葉を尽くすのみならず斧(過去三日間唯一の外出の証)を彼の残したスーツに振り下ろし、全身全霊で己から彼の成分をデトックスしようとしているかのようです。
あるいはそれだけ吐き出し続けてもなお元恋人に囚われている自らの身を恥じて業火に晒そうとしたのでしょうか...。
良い
30分の感性的映像美。
悪くはないけどこれで800円取るのはどうなの?!
久々に普通の人間の役だと思ったらそうでもなかった
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