ドント・ウォーリー・ダーリンのレビュー・感想・評価
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レトロちっくスリラー
フローレンスピューは面白い魅力を持っていると思う。この作品は彼女が主演じゃなければ滑稽なB級スリラーになっていたかもしれない。
監督のオリヴィアワイルドがインタビューで、この作品はスリラーで古典的なハリウッド映画にしたいと思ってたと話していた。
エイドリアンライン映画や、マトリックス、トルゥーマンショーに影響を受けているとも。
つまり、ぱっと見は刺激的でおもしろそーな映画だが、その実、普遍的なテーマがあり万人受けするような映画という所か。
このどんとこいダーリンは、主人公が完璧に見えるがどこか奇妙な街ビクトリーでの暮らしに違和感を察知するも逆に周りに異常者として扱われるようになってしまう。
しかし謎が解き明かされると、実はこのビクトリーは仮想世界でなんと旦那が現実世界で主人公を眠らせ監禁している。
その理由も…妻がいつも忙しそうで構ってくれないからビクトリーに閉じこめちゃった。なんていうドイヒーさ。
まあ普遍的…古典的かもしれない。理由としては。
でもそらピューもブチギレて現実に帰りたくなるわ。
(こういう男に虐げられてたまるかっつーの!という役が実に合っている。)
でも監督自ら演じる女性は、自ら望んで仮想世界に留まっているというし。
単純にビクトリー=ダークサイドというわけでもない。
悪役がボヤけているように見えるのも、何が正しいかは誰にとってもそれぞれ違うという表れか。
余談。
ところどころサブリミナル映像入れてるようだったけど、不気味さはピューのレトロな着飾りで充分だったよ。
てかハリースタイルズは爽やか過ぎて黒幕だって分かっても気持ち悪さが無かった。逆にスゲー。
フローレンス・ピューがいつものドヤ顔に加え変顔まで見せて大熱演。然しアメリカ白人(特に男)にとって1950年代後半~1960年代前半っていつまでもアメリカン・ドリームなのね。
①最初の方は『ステップフォードの妻たち』の焼き直しかと思ったし、砂漠の中のニュータウンというロケーション、自家用車がみんなクラシックカー、仕事に出かける夫を送り出す1950年代風ファッションの妻たち、流れる懐メロ(1960年代初めのヒット曲が多かったけど)、等々これだけでここが作られた世界(街)だと分かる。
②おかしいと気付いた主人公が偽ユートピアから逃げ出すか、内から破壊するだけなら今までに幾らも作られてきたユートピアSFと変わりはないが、時折差し込まれるneuroticな映像が2020年代っぽいところか。
フローレンス・ピューが窓を拭いている時に窓と壁に挟まれて変顔晒すところや、キッチンでサランラップで顔をぐるぐる巻きにして、またまた変顔晒すところは面白い。
③ダメ夫達が苦労させている妻達にユートピアをプレゼントするという建前の裏には、実は男性優位主義(マチズモ)があるという隠し味(というか暗に批判?)が如何にも女性脚本家・女性監督らしい。男のプライドを保ちたいという思いの裏返しだね。ジャックが真相をアリスに暴露した時に、“毎朝会社に出掛けるのがイヤだった”とはお子ちゃまかい、と思ってしまったし(これ以上書くと⚪⚪ハラ)と言われそうなので止めときます。
④男達の夢であった偽ユートピアが壊れそうになった時(クリス・パインが情けなくも事態を収拾出来なくなった時)に、それまで貞淑な妻を装っていたジェマ・チェンが“このバカ男。次はあたしの番よ。”と刺し殺したところから察するに次は女達の偽ユートピアを作るのかな。それも#MeToo時代らしくて面白いかも。
⑤オリビア・ワイルド(『The O.C.』は全話観たけどどこに出ていたかしら?)も監督の特権か美味しい役一人占め。
⑥ホラーらしいけれど、ユニークな映画ではあるが少しも怖くない。
大作に隠れた秀作
オリビアワイルドにこれだけの力量があったとは、と思わされる一作。今回女優としても重要な役割を担う彼女だが、映画監督としての才能も素晴らしい。
1950年代のアメリカ。ユートピアを築くビクトリー社のビクトリータウンに住む幸せな若夫婦。飛行機の墜落事故を目撃した若妻が、立ち入り禁止の会社本部に行ったことから歯車が狂い始める。
フローレンス・ピューはアニャテイラーと双璧をなす若手実力女優だが、今回は彼女の真価が十二分に発揮されている。ロマンティック、サイコホラー、スリラー、アクション様々なシーンを見事演じきった。
SEの多用はやや耳障りだが、声のサウンドは気味悪く世界観をよく表している。全体的に没入感のある作品に仕上がっている。見せ場も数多く、印象的なカットも多いため、見応えがある。
贔屓目
170本目。
オリヴィア・ワイルド監督、出演と大分贔屓目。
えっ、こんな役と戸惑いはしたけど、自身が監督だからなと。
てっきり、ラブストーリーと思い観てたけど、ちょっと違うぞ、そっち系か?
てか、そっち系がどれなのかは、曖昧だけど終わりまで観ると、まあ広い意味でラブストーリーかな。
どう展開するのか、謎が分かっていくうちに、程良い緊張感。
最後も、あれで終わるのもスッキリかな。
でも予想外の作品撮ったのに、ちょっと驚きではあった。
違和感と妖艶さが首筋をなぞるユートピア
フローレンスピュー、ハリースタイルズの2人が誘うどこか様子のおかしいアメリカンユートピアをひたすら不穏に描いた本作。
雰囲気、キャラクター大好物なのにあまりハマらなかった。
日常を描くことがテーマであるのは理解できたが、少し冗長だと感じた。
オリビアワイルド監督が描く女性の逞しさは凄まじく現代のジェンダー観のトップを直走っていると思う。
前作のブックスマートとも大分毛色が違う作品でオリビア監督の懐の深さを垣間見た気がした。
主演のフローレンスピューの得体の知れない恐怖に対しての演技はいつも通り圧巻で、ハリースタイルズのセクシーで正統派の紳士かと思えばかつ狂気じみた湿った気持ち悪さも出せることに驚いて見入った。
中毒感のある不気味さ
“何ひとつ不自由のない暮らし”に
少しずつ違和感を覚えた主人公アリスが
この世界の謎に踏み入れる物語。
ミッドサマーやゲットアスに次ぐ、
ずっと中毒感のある不気味さが良い。
オリビアワイルド監督は
「ブックスマート」から
センスをずっと研ぎ澄ました印象。
新時代の映像体験が楽しめた。
この世界は・・・
その異世界感の居心地の悪さの度合いが、「何か変だぞ❗」作品って言うのは。
観る人にとってどの程度受け入れられるかが、ポイントだと思うのですが。
同種の期待をもって鑑賞に向かった「NOPE」と比べ、私には此方が⭕️でした。
作品のテーマも私達の回りの世界においてキャッチーな事で他者との「思い」の関わり、考え方をどう考えるか?っと言う事を投げつけられた‼️
「トップガン・マーベリック」とは真逆のテーマ作品に思えた私です。
白いウサギではなく墜落する飛行機を追いかけて覚醒する専業主婦版『マトリックス』もとい『不思議の国のアリス』
舞台は1950年代のカリフォルニアにある砂漠の中に造られた小さいながらも美しい街ヴィクトリー。夫ジャックと何不自由ない暮らしを送っていたアリスだったが、突然起こったある事件をきっかけにその理想的な街を覆う巨大な謎の存在に気づき始める。
プロット的にはM・ナイト・シャマランが好きそうな感じ、すなわち星新一のショートショートの一編にありそうな物語。ここで痛烈に槍玉に上がっているのは旧態依然とした男性優位社会。それが揺るがないシステムとして機能する世界へのノスタルジーに縋る男性達に対する強烈なアッパーカットになっています。そんな“不思議の国”で覚醒するアリスを演じるのはフローレンス・ピュー。日常が少しずつ崩れていく焦燥を見事に体現しています。クリス・パイン、ジェンマ・チェン、ハリー・スタイルズ等の怪演もキラキラと怪しく輝いていますが、やはりアリスの親友メアリーを演じるオリヴィア・ワイルドが頭一つ抜きん出ています。常に優雅な笑顔を絶やさない彼女に『マトリックス』のサイファーを思い出した人も少なくないでしょう。
ネタバレに留意するとこの程度のことしか書けず歯痒いですが、2作目にして確固たる作家性を確立したオリヴィア・ワイルドの快挙に惜しみない拍手を捧げたことは付け加えておきます。
意欲作
狂信的な人の中で正気を保ち一人奮闘するという何となくミッドサマーに共通するフローレンス・ピューの熱演を、監督と元アイドル年下主演俳優の恋愛スキャンダルに持って行かれて彼女のおかんむりはごもっとも。
理想郷のような住宅地(プラス夫の勤務先)がビッグブラザーみたいに管理下にある陰謀だったというのは既視感だけど、そこに1950年代の核実験と連結させ、また夫は承知の上で妻は騙されており、反逆するのが女性というのがオリビア・ワイルド風。夫の腹に刺した包丁を捻りながら「今度は私の番」というジェンマ・チャンはこれから何をするのだろう。
1950年代に女医が活躍していたのか?病院の看護師も赤い服だったので、妄想と過去の現実とがわからなかった。
恋人にセクシーな演技をさせたいのか夫婦でイチャつくシーンが多くそれが中弛みに繋がりちょっと眠かった。
よく分からないトランス状態になり、脳汁が出る。
時代、ファッション、クラシックカー
全てがドンピシャでパーフェクト
(後にそれはなぜか分かるわけだが……)
序盤はそのバッチリな世界観に目が幸せな気持ちに
中盤は少し中弛みかも? と思って若干睡魔と戦ったものの
なんでか?
繰り返される映像と差し込まれるサブリミナル効果で
段々ハイに、トランス状態になってくる感覚。
終盤のカーチェイス展開からはずっとトリハダ!!!
正直「予告見てちょっと気になる」くらいだったので
予想を上回って最高だった。
アリスのムチかわ、バニーの強かわ、バイオレットの儚かわなど……
ありとあらゆる美女が美しいドレスで出てきてステキ
最近、女の幸せとはなんぞやみたいなのありますけど
色んな理想があって然るべきで
アリスには苦労も多く働き詰めでも現実が「正」
バニーには子どもがおり、家で旦那の帰りを待つ仮想現実の世界が「正」
私はどっちも共感できます。
とにかく画が美しく、私のツボ過ぎたので興奮です
映画館で没入して見るべき。
アメリカの荒地の新興住宅地、時は60年代あたりか。絵に描いたような...
アメリカの荒地の新興住宅地、時は60年代あたりか。絵に描いたような幸福なアメリカンファミリーのイメージはそのあたりなのか。日本では昭和の高度成長期。
時おり挟まれるサブリミナル的ショットが何の意味を持つのか、夫たちは毎朝、道無き荒野をクルマを駆ってどこに出勤するのか。何をしているのかなど、謎が引き延ばされて緊張感が途切れない。
幸福とは何か?を深く考えさせられるし、今の世の行き着く先に警鐘を鳴らすものである。
ミッドサマーとはちがうピューを見ることができます
最初に言っておくと、フローレンスピューが主演ということ,ミッドサマーのインパクト強く、映画予告がおどろおどろしいとこらが強調しすぎて広告宣伝の失敗ではないかと思っている。
むしろ、社会派心理サスペンスドラマですよ。
さて、
お母さんは専業主婦で、旦那さんが大黒柱で働き、こどもがいて幸せな家族。休みの日はみんなでらお出かけ。会社の行事には、そろって出る。
1950年代のテレビドラマ奥さまは魔女などはその典型。平和な米国の家庭生活。
でも、それも最近はそうではないらしい。結婚したカップルの半分は離婚。離婚が当たり前になっている。そして、そんな親たちを見て育った子どもたちも、結婚ってそんなもんかと思ってくる。それが、ますます、結婚というあり方、家族のあり方に変容をきたさせることになる。
だから、最近の映画で50年代60年代の米国家庭を描いたドラマは、まともなストーリーとして成り立ってない。例えば、マーベルのテレビシリーズ ワンダヴィジョンもそうだったし、マット・デイモンのサバービコン仮面を被った街もそうだ。結局、50年代、60年代の幸福な家族像が永続性があるのなら今もつづいてるはず。朝、男が働きに行き、奥さんは家の掃除、洗濯、そして買い物してご飯の用意。
前段が長くなったが、この映画はそういう専業主婦とイカしたサラリーマンというシナリオに沿ってみんなが動かされる。みんながさいみん効果でそこから飛び出そうとすると殺される。赤い服の男に取り押さえられる。この生活で満足ならいいじゃないというわけだ。しかし、主人公は外科医というスキルがあり、バリバリの現役だった。それが毎日、料理を作って
お掃除して、旦那さんの帰りを待つ。何の変化もない。こういう生活に耐えられるわけがない。そこからストーリーが動き出す。
それで思ったのは。今の日本。閉ざされた空間でここが一番と信じきって毎日を送る。この日本で飛び出して行っても、殺されることはないのにね。
とてつもないラブストーリー
毒舌と皮肉に満ち満ちてはいるが。
愛こそ全てをこんなカタチで見た事がない。
男性諸氏の誤解と欺瞞を直視させられはするが、可能な限り優しさをもって諭されてるような気にもなる。
作品的にはかなりな違和感をもって進んでいく。
色使いも落ち着かないし、乱痴気騒ぎからの幕開けだし。なんだこの上っ面な世界は、って感じだ。
結局の所、精神世界の話で現実とは違う空間で物語は進む。現実では寝たきりで目に妙な装置をつけられてる。
気が利いているのは、コレは男性主導の元、作られた世界であるという事。…ラスト近くに裏で糸をひく女性の存在も出てきたりするが。
つまり…
のっけから落ち着かねぇなと嫌悪感を抱きながら見てたものは、男性主観の世界なのだ。しかも、女性の事も考えて作られた世界なのである。
見せられる日常も、男性が与えたであろう価値観を基盤に進んでいるように思えたりする。
この時点で、女性は男性からの価値観を押し付けられ、労働を余儀なくされてはいるのだけれど、ソレが幸せだと刷り込まれている状態にも見えてくる。
てっきり俺は、男性上位社会が女性に強制してきたアレやコレやを強烈に叱られるのかと思ってた。
60年代を再現したのは、男性が最も調子に乗ってた時代なのかもしれない。
その異常な世界に気づく主人公。
正常な思考を取り戻す過程は、この世界では被害妄想に囚われていくように映る。
男性は完璧な世界だと強調し、彼女を引き留めようと懇願する。
ここで彼女は揺れる。
「ああ、それでも愛してる。愛してるの。」
この異常な世界に閉じ込められているにも関わらず、彼に対する愛情は揺るがないようだ。
「何もいらないから、一緒に逃げよう」と女性は訴える。
この世界を捨てた先の現実は散々なもので…男性は無職で生活は彼女に依存してる。彼女は医師でかなりなハードワークをこなし、仕事にも生活にも疲れているように見える。
現実世界への認識はこの時点では無いようにもおもうのだけど、彼女はこの完璧な世界から脱出する。
与えられ見せられる夢を拒絶する。
おそらくならば目覚めて終幕。
そしてタイトルコール「心配しないでダーリン」
ご丁寧な事に、2回も念を押される。
「心配しないで、ダーリン!」
…男性の恋愛観がいかに稚拙で即物的であったのか思い知らされる。彼の焦りも愛情表現も痛い程分かるのだ。
女性を幸せにするにあたり、金を稼いで、いい車に乗って、素敵なドレスで着飾って、マイホームがあり、妻は家事に従事し、情熱的なSEXをして、美味いメシとワインが並ぶ食卓。
そんなものでしか愛情を証明する術をもたない。
その全てが揃っているのが、この世界であり、理想ではないのか、と。
だが、女性はその理想を拒絶し、彼だけを選ぶ。
それが「一緒に逃げよう」って台詞だ。
まいりました。
女性の底知れぬ母性に白旗です。
おそらくならば
「そんなもの無くても、ちゃんと愛してるから、心配しないでダーリン」ってのが本題なのだろう。
逆説的ではあるが、この解釈に至りラブストーリーだと定義した。
もう…手のひらで転ばされてるような感覚しかないwとんでもなく大きく豊かなモノで包まれてる。
それに比べて男性側のなんと矮小で浅薄なものかと反省する。そして「my」が付かない所をみると、全ての男性に当てはまるメッセージなのであろう。
作品的には☆3.5だけど、コンセプトとかセンスならば☆50くらいつけてもいい。
だって2回も念を押されるんだよ?
「心配しないでダーリン!嘘じゃないよ?」って言われたような気がして吹き出したw
結末が分かりません
「ユートピア・スリラー」という触れ込みに関心を持ち、都合の良い時刻に上映時間が合ったので、観ることにしました。
何か怪奇的な現象が起きるのだろうか?と思っていたのですが、物語の流れは「夫婦のきわどいラブ・シーン」→「ややSFがかった展開」→「ややスリラーがかった展開」→「ややアクションがかった展開」という風に自分には思え、結末がどうなったのか分からず仕舞い(制作費が尽きたのでしょうか?)でした。
この作品の見所は、私には、合間に登場するダンサーたちの脚線美を生かした、華麗なダンスのように思えました。
ユートピアと信じられていた街が、実は虚構であったというストーリーは、21世紀の映画作品としては、ずいぶんと古めかしいように思いましたが、観る人によって、感想が大きく分かれると思いました。
●男中心の古い社会像がはびこる「理想郷」に迷い込んだかのような女性...
●男中心の古い社会像がはびこる「理想郷」に迷い込んだかのような女性たち。「女性進出を求める女性の励みにしたい」という現代風の触れ込みには共感する。
▲とにかく結末がさっぱりわからない。何がなにやら不明であるうちに、唐突に幕が降りて混乱のまま終わる。鑑賞後のトイレでも「あれ結局何だったの?」と声が聞こえたほど。とにかく首を傾げるしかなく、時間を無駄にしたような感想。
▲サスペンスとしても失格。
▲「スペンサー」同様に、ヒロインの幻覚・幻聴のオンパレード。女性の精神錯乱はこのワンパターンでしか表現できないのか。誤解ないように言っておくと、主演のフローレンス・ピューの演技自体は幻覚幻聴も含めて秀逸。
▲女性視点から観れば、また変わった観賞価値があったのだろうか。独身男には何も感じられなかった。
※制作費…3500万ドル
「慰撫」自体に異議を唱える清く正しきフェミニズム映画。身につまされる部分もないではなし(笑)。
これは「観る前」に考えていたことで、「観た後」に思ったことではないので、いちおう書いても許されると信じたいが、予告編が流れた瞬間の第一印象は、「ああ、これって『ステップフォードの妻たち』のほぼリメイク、もしくはバリエーションなんだろうね」というものだった。
『ステップフォードの妻たち』は、アイラ・レヴィン原作、ブライアン・フォーブス監督の75年の映画で日本ではDVDが『ステップフォード・ワイフ』のタイトルで出ている(僕は、小説を読んでからDVDを観た)。
より一般的には、ニコール・キッドマンが主演した2004年のリメイク版のほうが知られているかもしれない(こちらは未見)。
あらすじにはあえて触れないが、中身を知っている人なら誰しも、きっと僕と同じことを思ったはずだ。
で、実際にどうだったかって?
これについては、それこそネタバレになるので、書かないほうがいいんだろうな(笑)。
ー ー ー ー
少なくとも、本作が筋金入りのフェミニズム映画、アンチミソジニー映画であることは、観終わった人なら誰しも同意してくれるはず。
ただ、出来が良かったかどうかについては、意見が分かれるかもしれない。
この手の「ネタのある映画」「世界観に違和感を覚える映画」としては、いろいろと物足りない部分が多かったのも事実だ。
冒頭のパーティー・シーンはちっとも引き込まれないし、
「何かがおかしい」と気づくイベントが間遠で、緊張感が持続できない。
最初に「からっぽの卵」という興味深い謎をせっかく設定できたのに、
そのあとにつづく「現象」が、物理的には不可能な「幻視」に近いものばかりで、
「オチ」に続く道筋の可能性が、何パターンかに限定されてしまう。
ヒロインが追い詰められていく過程も、比較的唐突かつ急激に悪化するので、
いきなりメンヘラった感じがどうしてもしてしまう。
僕がバカなだけかもしれないが、最後まで観てもよくわからなかった部分も、結構あった。
なぜ「本部」にはあんな「機能」があるのか?(ある根拠がまったくわからない)
毎日、男たちは結局どこに出かけて何をしていたのか?
ヒロインが目撃した飛行機事故は、なぜ起こったのか?
なぜ先生はあんな不都合なものを持ち歩いていたのか?(必要がない)
ラスト近く、なぜ例の人物の奥さんは、彼にあんなことをしたのか?
あとからわかる「ルール」に照らしてなお、得心のいかない部分が多すぎる。
とはいえ、ここまで言っておいてなんだが、個人的に、この映画には結構感心した部分もある。
かなりクセのつよいフェミニズム映画でありながらも、それなりに先方の主張したかったことは、すっと腑に落ちたからだ。
自分はふだん、SNSなどで強硬な主張を連投しているツイフェミやミサンドリストの投稿を、鼻白む思いでそっ閉じするタイプの人間なので、あまりその手の主張の強い映画だと「ドン引き」してしまうことが多いのだが、今回は不思議に語り口についていけた感じがする。
要するに、「ネタ系映画」としてはいろいろ素人くさい部分が気になったが、「われわれを説得しようとする映画」としては、相応にきちんと機能していたように思えたのだ。
たぶん、物語が「ポリコレに侵食されて汚染されている」と感じる映画は、吐き気と嫌悪感で観るのがつらくなるが(『サスペリア』リメイク版、『SW8』、『アラジン』実写版などなど)、物語が「とある主張を伝えるためにわざわざ組み立ててある」映画なら、意外に違和感なく、すっと胸に入って来るということなのかもしれない。
この映画で断罪されているのは、じつは男性による支配だとか、女性への役割の押し付けだとか、そういった「通り一遍」の「アメリカの古風な家族の理想」に対するジェンダー批判だけでは、必ずしもない。
むしろ、そういう不平等に対して「声をあげようとする女性」に対して、
「何をそんなに怒ってるんだ?」
「考えすぎじゃないのか?」
「そこまで世の中ひどくないぞ?」
「おいおい、不安定なのは君のほうなんじゃないかい?」
と、「なだめ」「慰撫し」「説得してくる」男たちの「上からの態度」そのものに、敢然とNOを突きつけるのが、この映画の本願だからだ。
要するに、『ドント・ウォーリー・ダーリン』だって? なめないでよ、って話だ。
そして、その「慰め」や「説得」という営為は、日々、僕が妻に対して行っていることでもある(笑)。
社会に対しても周辺環境に対しても、これまでの人生で大して不満を抱いたことのない僕にとって、常日ごろから社会の不正義に怒り、職場の不道徳に怒り、定期的に不可解な激情を募らせている妻は、エニグマそのものだ。
で、こちらも相応に理屈ばった人間ではあるので、妻からつっかかられると、ついつい反論というか、説得を試みてしまう。「タイムラインだけ見てないで、検索で両派の意見を俯瞰的に見たほうがいいよ」とか、「多数派が問題視していないことが気になるのは、自身の社会不適応が原因って可能性もあるよね」とか。……感じ悪いかな? まあ感じ悪いよね。
妻からは、「あんたが腹を立てないのは、世間様を心底見下してるからよ」って言われてます(笑)。
基本的にうちの夫婦はかなり仲のいいほうだと思うが、それでも妻とのあいだで、社会事象に対する感覚の違いや、感情の起伏の相違がある点は、日々実感せざるを得ない。
個人差、個体差を超えて、やはり「性差」というものは存在するんだろうな、というのが、もともとは赤の他人の女性と、20年以上ひとつ屋根の下で暮らしてきての、僕の体感的な結論である。
そんななかこういう映画を観ると、「妻」サイドが普段感じている感覚を強制的に追体験させられているようで、いささか居心地の悪い思いにとらわれるわけだ。
とにかく、妻は日によって、機嫌がよかったり、悪かったりする。
僕は365日、ほぼ上機嫌なので(妻には多幸症よばわりされている)、そんな妻のいらだちがよくわからない。だからつい声をかける。「あんまりいらいらしなさんな」。
でも、『ドント・ウォーリー・ダーリン』で、旦那が奥さんにおんなじようなことを言ってるのを観ると、切羽詰まった気分のときにああやって上から可哀想な子みたいに扱われると、猛烈に腹がたつんだろうなあ、と素直に思う(笑)。
言い訳がましいが、男サイドからすると、日によって相手の機嫌が違うというのは、それ自体が結構な脅威なのだ。日によって、ゴール地点や、認容の範囲が異なっているということだから。
それを「気配で察しろ」というのは、ほぼ気分に変動のない人間にとっては、なかなかに気を遣う、とまどいの多い作業だ。
急に機嫌の悪くなる妻に当惑する旦那。
旦那にとりなされるほどにいらだちを募らせる妻。
この映画は、そういう男女間の微妙な機微というか、感覚の差異を、結構生々しく描いている。そのことが、僕としても体感的に納得できるので、語っていることも抵抗なく受け入れられる。そんな感じだ。
ヒロインがなりふり構わず突き進める「真実の探求」に関しても、映画を観ているあいだは僕もヒロインの味方のような気分になっているが、考えてみればふだんは思い切り「旦那側」の人間だったりするわけだ。
僕からすれば、「世界の真実の探求」など「陰謀論」と紙一重だし、
「正義」は「暴力の正当化と暴走」を促す最大のリスクにしか思えない。
みんなが騙されたまま幸せなのに、その「真実」を暴くことになんの意味がある?
エセ宗教を信じている人を無理やり脱会させることに、本当に正義はあるのか?
バレないままならみんなが幸せだった不倫をすっぱ抜くことに、正義はあるのか?
僕は基本的に、調和した噓のセカイで穏やかに生きられるなら、それはそれでいいんじゃないか、と思ってしまう人間だ。
そういう人間にとって、この手の「隠された真実の暴露」を主眼とする映画は、なんとなく普段の自分を「責められている」ようなこそばゆさがある。
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この映画が、「フェミニズム映画」として意外に良く出来ていると思う理由は、ほかにもある。
たとえば、このヒロインは終始ブチ切れ、ボロボロに追い詰められていながらも、思いのほか冷静さを保っているように見える。
最後まで声を荒らげたりせずに、必死で自分を抑え、アンガーコントロールを遂行して、夫や上司に「何かがおかしい」と訴えつづけ、理解してもらおうと試みている。
これは、「分断」を生まない最低限のルールであり、礼儀である。
彼女は、独りよがりに興奮しているように見えても、常に夫や社会に対する姿勢がぎりぎりのところで「フェア」なのだ(本来的に「インテリ」だからだろうね)。
だから、観ているこちらも、抵抗なく彼女の闘いを応援できるわけだ。
それから、物語の最後まで、主人公夫婦は、「愛し合う」ことを諦めない。
これも僕が感心したことのひとつだ。
すべては愛から始まっているし、「不正」や「嫉妬」はあっても、そこに「憎しみ」はない。
ヒロインは、すべてを知ってなお、愛を手放さない。
味方と敵の切り替えが、よくある映画のように短絡的ではない。
裏切りへの怒りと恐怖が、「情」によって曖昧模糊なものに複雑怪奇に歪められる。
これは、結構生々しい、男女のありようなのではないかと思うのだ。
観終わってみて、街の住人たちのバックボーンを考えてみるのも楽しい作業だ。
なぜこうなったのか。なぜこの街に来ることになったのか。
もしかすると、大半が本作の「ヒロインとヒーロー」のような関係性だったとしたら?
(ひと組だけ、はっきりとその理由が明らかになる夫婦がいて、その理由は大変に納得のいくものだ)
アメリカという国は、ある意味、日本以上にマッチョで古風な国でもある。
古くからウーマンリブが勃興し、日本より女性の社会進出や女権の尊重が進んでいる一面もあるいっぽうで、国民の半分が共和党を支持する、キリスト教的な「理想の家庭像」が尊重される土地柄でもある。
そんななかで、本作で描かれるような「ユートピア」には、ジョークでも揶揄でもなく、明快に一定の支持があって、多くの国民が「本当はこうあってほしい」と真面目に考えていることを忘れてはならない。
この「理想世界」の不条理を暴き、脱出への渇望を募らせるヒロイン(およびオリビア・ワイルド監督)の闘いは、われわれが考えている以上に切実で、命懸けの営為なのだろう、と思わざるを得ない。
僕個人にとっては、男として十分に考えさせられる映画でした。
やさしくない
ところどころ説明不足。
黒幕的なものがボケてるし。セルシ(ジェンマ・チャン)なの?
ラストももうちょっと、こう…
詰めが甘いので中途半端。
流行りの「女性の権利・戦い」的なもの。
見ているうちに「ビバリウム」的なものを推測していたが、まさかの「マトリックス」。
赤い服の人たちはエージェント・スミスか。
アメリカオールディーズの音楽は良い。
フローレンスピュー、だんだん大人の色気みたいなものが出てきて艶めかしい。
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