ケイコ 目を澄ませてのレビュー・感想・評価
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恵子の語りに耳を凝らして
三宅唱監督作品。
「全身で感じる振動=音は快感そのものだった」(小笠原恵子(2011)『負けないで!』創出版 p.96)
そのように本作の原案である本で恵子さんは語っているのだが、本作をみた私も同じように快感を得た。
フィルムによる味わい深い画、繊細に録られた音。
それらは各シーンに具体性をもって現れる。
序盤のケイコが更衣室で着替えるときにみえる背中の筋肉。会長と妻が病院帰りに歩道橋で歩くシーンで、電車の通過とその後の彼らの位置が決まっていること。ケイコが夜に河川敷で立っている姿。高架下で電車の光が点滅すること。会長がインタビューされている姿。生活音。紙に文字を書く音。電車が通り過ぎる音。声。唸り声。
もちろんボクシングの仕草も。スパークリングがあんなにも心地よいのは、ケイコとトレーナーの息が合っているからで、いやむしろ合っていなければスパークリングはできなく、美的価値を帯びない。
本作がカメラに収める出来事は、私たちの生活の地続きにあるものだ。それらを映画として再現前させて、観客は「目を澄ませる」ことになる。するとそれらの〈美しさ〉を再認識できる。その快感。三宅監督はそんな魔法を観客にかけるのだと思う。
だから本作をみた多くの人の感想は、「なんかよかった」何だと思う。よいのは間違いない。けれどそれだけでいいのかとも思ってしまう。
端的に思ったことは「なぜケイコはボクシングをやっているか」である。ボクシングをするのが快感だから?それはそれでいいけれど、「だからなんですか」になりかねない。もちろん聴覚障害であることの葛藤を全面に出すことはステレオタイプな障害/者表象になりかねない。けれどケイコが「人間」としてなぜボクシングに励み、闘うのか。その物語は必要なのではと思ってしまう。
それは私だけの感覚なのだろうか。ケイコはジムの退去に立ち会わなくていいし、会長からもらった帽子を被って、いつもと変わらないトレーニング、いつもと変わらない生活を送ればいい。それで「ケイコ」や物語は描かれたのだろうか。
ケイコがなぜボクシングをやっているか気になって、原案である小笠原恵子さんの『負けないで!』を読んだ。正直、映画よりもこの本の方が「面白い」。それは映画と比較して恵子さんが生い立ちからボクシングのプロとして活躍するまでといった語られることの多さもあるが、何より恵子さんがボクシングに実存を賭けていることがよく分かるからだ。
恵子さんは、生まれながら左耳が聞こえなかったが、右耳は聞こえていたため中学生までは普通学級に通っていた。しかし右耳の聴力もだんだんと落ちて、それに伴い学力も低下し、同級生が障害を理解することもなかった。そんな諦めや無力感が、彼女をグレさせた。高校生の時は先生の顔面を殴り、専門学生の時は寮から追い出され、バイクを乗り回して留年した。
ボクシングを始めたのは20歳の時で、動機は「なんとなく」。だけど強くなりたかったそうだ。この動機はなんとなく分かる。みんなと同じ普通になりたいのに、障害によって上手くできなくて、その解決方法が見つかったわけじゃない。将来の漠然とした不安の中で、何かしないといけない。障害による他者からの眼差しに抗うためには自身が強くならなくちゃいけない。そんな人生をかけた暗中模索で見つけたボクシング。恵子さんがボクシングをやる理由が、この本では語られている。
それは障害者がプロボクサーになる物語ではなく、恵子さんがプロボクサーになる物語だ。そこで障害は語られるが、それは一つの側面でしかない。だからこそ恵子さんが語られることは、私たちの「諦め」や葛藤とも普遍性を持つし、「面白い」と感じれる。もちろん恵子さんの苦しさを〈私〉の苦しさと安易に同一化することはできない。けれど確かに通じる部分はある。
恵子さんの面白さは事欠かせない。ボクシングをやり始める前の高校生の時、彼女は先生や親に暴行を働き、鬱憤を晴らしていた。なぜそんなことをしてしまうのか自問すると、部活動に所属しておらず力が有り余っているからと思い、ジョギングをやり始めた。そしたらそれが習慣になってしまったらしい。
実際、運動神経もよかったらしいが、さらに手先も器用だった。周囲の人と馴染むことができず、ひとりでこもることもあって、絵を描いていた。絵を描くことも上手で、市のコンクールで入賞するぐらいの腕前だった。絵に関して言えば中学生の時の出来事が面白い。当時、支援学級の先生が彼女に寄り添わず、指導要綱に沿って彼女と接したから、洋梨の絵を描いて渡したそうだ。その意味は「用無し」。恵子さんの賢さが分かると同時に笑えるエピソードである。手先の器用さは、その後恵子さんがボクシングの傍らでやる歯科技工士の仕事にもつながっている。
彼女がボクシングのプロになることは、女性で競技人口が少なく、さらに聴覚障害があるから尚更難しかった。だから彼女がプロになりたいと言うこともできず、ジムも転々としていた。そこで見つけた「トクホン真闘ボクシングジム」。ジムの会長も実は中途失明者らしい。だが障害に理解があるわけでもなく、恵子さんが耳が聞こえないことは「気で直せる」と思っているらしい。とても根性論だとは思うが、会長と恵子さんが向き合ったからこそ培われた関係はあって、だからプロになれたのだと思う。さらにジムのトレーナーも根気よく接してくれて、セコンドの指示がみえるようにリングサイドを動き回って指示したり、ボクシング用語を伝えるために、オリジナルの手話まで考案してくれたそうだ。
このようにこの本には、恵子さんの人生が語られている。さらに「面白く」。そしてふと思うのである。本作は、この「面白さ」を翻案しているのかと。もちろんこの本を忠実に映像化として再現する必要は全くないし、原案に留めることは問題ない。それは映画の制作における限界としてあるからだ。だが翻案においては、原作にあった普遍性や本質を取り出す必要はあるのではないだろうか。それがないとも言わない。けれど足りない。「試合中の母の不安がブレた写真から伝わってきた」(p.137)を映画で再現することでもない。なぜケイコが歯科技工士ではなくホテルの清掃員なのか、ボクシングをするのか、妹ではなく弟が登場するのか、所属ジムを変えることに拒否反応を示すことの意味が足りない。必然性が足りない。
恵子の語りに耳を凝らして。それもまた、私たちがケイコをみる時に必要なことだろう。
登場人物が全員温かい映画があってもいい。
話としては耳が聞こえない女性が、ジムの会長やコーチ、周囲の人々に支えられながらボクシングに打ち込む話。大きな起伏も伏線もなく、淡々と静かに進む。それ故に「退屈」「つまらない」という感想も抱いたのは正直なところ。
でも、この映画の良さというか存在意義はそこじゃない。
冒頭のコーチとのミット打ちのシーンに既にそれは現れていた。コーチが耳が聞こえないケイコのために小さいホワイトボードに「コンビネーションミットやろう!」と書いて伝える。ミット打ちの間も一言も発さず一生懸命身振り手振りだけで教える。あー、このコーチいい人だあ、というのが画面いっぱいに伝わってくる。(末尾に!を付ける時点でもう。)
これが全編通してこうなのである。三浦友和扮するジムの会長も、仙道敦子扮するその奥さんも、もう一人の厳しめのコーチもケイコのためにしらみつぶしに移籍先を探したり、同居する弟もそのハーフの彼女も、心配して試合をみられないお母さんも、応援する職場の同僚も、ケイコが乗り気でない対応をしてしまった移籍先候補のジムの担当者も、顔がボコボコになった対戦相手も。。
みんなどこか優しく温かい。手話やジェスチャーが多く静かに進むことも相まって、優しく穏やかなトーンが全編をまとう。
殺伐とした世の中、こういう一服の清涼剤のような映画があっていい。
人を信じることができる。この映画の存在意義はここにある。
コロナ禍の人間模様
2020年を舞台にしていると明確に設定されている本作は、人々がマスクをして生活している。コロナ禍に制作された作品の多くは、マスクをしておらず、その作品世界ではコロナが存在しないかのような、奇妙あ平行世界っぽさを感じさせるのに対し、この映画にはコロナが存在している。そして、耳の聞こえない主人公にとって口元を隠すマスクは、コミュニケーションの障害となることも描かれている。
主人公の通うボクシングジムが閉鎖される理由にもコロナが関わっている。元々、古びたジムでオーナーが病気がちであることなど、複数の要因が絡み合っているが、本作は明確にコロナによって人生の分岐点を迎えた人物が描かれている。
後年、コロナ時代の映像表現を研究する時、この時代の作品の中の人間がみなマスクをしていないことに違和感を感じる人が出てくるかもしれない。そんな中にあって、この映画は時代の感覚を的確にフィルムに焼き付けていると思う。
表現者として高難度の挑戦を見事に成し遂げた岸井ゆきの
生まれつき耳が聞こえないがプロボクサーのテストに合格し、通算3勝1敗の成績を残した小笠原恵子さんの実話に基づく。彼女をモデルにした主人公・ケイコを演じる岸井ゆきのは、プロのレベルに見えるボクシング技術の習得(+体作り)と、台詞に頼らず手話と表情だけで感情を伝えるという、どちらか1つだけでも難易度の高い挑戦を、映画1本の主演で同時に2つに取り組んだ。引き受けるのも相当な覚悟だったと察せられるし、これを成し遂げたことで表現者として2段階も3段階も成長したのではないか。
題に含まれる“目を澄ませて”のフレーズもいい。ボクシングは敵の動きを注視して瞬時に反応し、攻撃する。手話のコミュニケーションも相手の手や表情をしっかり目視する。そして俳優も、人の動作や所作を観察して自身の演技に反映させる。観客の私たちもまた、ケイコが言葉を発しないぶん(手話の字幕はあるが)、彼女の一挙一動に目を澄ませて思いや感情を想像する。「視る」という行為に意識的になる鑑賞体験でもある。
16mmフィルムに刻まれた気迫と生き様に圧倒される
16mmの映像から生き様が伝わってくる。岸井ゆきのがリングで拳を構える時、その鍛え込まれた俊敏な動き、瞳にみなぎる気迫と執念にただただ圧倒される自分がいた。勝ち負けなどではない。強いのか弱いのか、あるいはボクサーとしての才能に恵まれているのかすら関係ない。主人公にとってリングや潰れかけのジムは、己の魂を唯一ただひたすら燃焼させることのできる場所。絞り込まれた体と筋肉が躍動し、一発一発のパンチが鈍く乾いた響きを放つ。日常生活における意思疎通や感情表現を体全体を駆使して行うケイコだからこそ、彼女が闘う時、そこには自ずと人生の全てが凄まじいエネルギーで集約されていくのだろう。岸井ゆきのによる映画史に残るこの役どころに留まらず、カメラはその周辺に生きる人々にも目を向ける。とりわけ、岸井とは異なるリングで生きることの”闘い”を体現した三浦友和。三宅監督が描いた二者の対比とつながりと併走に心が震えた。
実在の人物からインスパイアされた物語。主役を演じた「岸井ゆきの」が役者としての勝負をかけた作品。
本作は、生まれつき聴覚障害を持つ女性がボクシングに挑戦する「実在の人物」からインスパイアされた物語ですが、劇中で音楽を一切使わないなど、様々なリアリティーにこだわった意欲作となっています。
そして、本作で注目すべきは、何と言っても主役を演じた「岸井ゆきの」の存在感でしょう。
私が初めて「岸井ゆきの」を認知したのは、「愛がなんだ」(2019年)のスマッシュヒットを受けてからです。「神は見返りを求める」(2022年)から体を張りだしたなと変化を感じていましたが、本作では、役者としての「勝負をかけてきたような本気度」を強く感じました。
「岸井ゆきの」の演技は必見レベルですし、彼女を見守るボクシングジムのオーナー役の「三浦友和」の演技も相乗効果を上げていました。
欲を言えば、もう少しボクシングのシーンを見たかったですが、様々な葛藤を描いた作品なので、それを踏まえておけば問題はないでしょう。
16ミリフィルムで撮ることにより、事前に徹底的に準備をし、必要なものだけを撮るなど、様々なチャレンジをしていて、役になりきった「岸井ゆきの」の演技は「賞レース」等で大いに注目されるのは間違いないと思います。
岸井ゆきの、凄くいい。
映画はワクワクするスリルやサスペンス。はたまた不幸のどん底ストーリーで観客を惹きつけたりするものである。だいたいは。
しかし、ここまで淡々と一人の女性を描くドラマになると、かえって、とてつもなく惹きつけられ、じゅわんとした感傷にひたれ、心地よい気分になれる。
聾啞者でボクサーという主人公のキャラクターはとても特徴的ではあるが、ストーリーの中に大事件も大事故も不幸の押し売りもない。
そして、主人公の周りの人々も皆、ケイコのことが好きで良き理解者である。意地悪な人なんかも出てこない。それがとても良い。
ジムの会長を演じた三浦友和がケイコを「人間としての器量があるんですよ」と記者に答えていたように、岸井ゆきのは映画の中で、直向きで努力家で人に優しい主人公を演じた。しかもセリフで発したのは、か細い声の「はい」とボクシングの試合で吼えた「うぉー」のみで、あとはしかめっ面の表情と時折みせる笑み。殴られた顔でさえ愛しく思えてくる。
岸井ゆきのは主演女優賞級の役者になったのでは?
とてもいい映画です。最高の作品に出会えました。
岸井ゆきの、虚空を見つめすぎ問題勃発
何かの作品でも同じような寡黙キャラあったぞ。
タイトルと主人公の障害とは裏腹に、音にケアした作品で、ミット打ちや鳥のさえずりなどの環境音の音量をあえて上げてるんではないかと。最後の試合もあっさり描くあたり、主人公含む一人一人の日常を見てほしいという監督の思いが伝わってくる。エンディングで対戦相手とばったり会ったあとの何ともいえない空間、時間、心情がこの映画を体現している。
次のジムに訪問する際に、トレーナーが警備員の恰好している場面が作中ではまったく言及されてないが、たったその絵だけでこの人物の苦労とそれでもボクシングが好きなんだということが想像できて、個人的には一番好きなシーンでした。
江頭2:50のギャグみたいな事を、映画でやって満足なん?
聴覚障害のある女性ボクサーの日常を淡々と「だけ」描いた作品。
黙々とロードワークをこなす早朝。澄み切った空気。都会の静寂。
「だけ」。
だからそれがどうしたというのだ?
早朝ランニングしてる人には当たり前の光景だ。
学生時代、奨学金のため新聞配達していた私が、毎朝、目にした光景。
確かに、気持ちがいい。清々しい。
だからそれがどうしたというのだ?
意味のない事に意味を見出そうとする風潮がたまらなく嫌だ。
だって、退屈じゃないか。
退屈を切り売りする風潮、なんだよこれ。
日本映画ってこういうの、好きだよなぁ。
平凡を平凡のままでいいんだよ的な昇華させるのも、百歩譲っていいとしよう。
「アバウトタイム〜愛おしい時間について〜」はまさに、そういう映画だった。
でも、アバウトタイムは、設定がタイムトラベルというトンデモ非日常設定で、
タイムトラベルを繰り返すうちに、
やっぱり、平凡を平凡のままでいいんだよ的に、
昇華させていたから良かったし、斬新だったのだ。
平凡や退屈を切り売りなんてしてない。
非日常的経験から平凡や退屈を肯定するから面白かった。
平凡を、切って、撮って、売る。
だからそれがどうしたというのだ?
江頭2:50の「取って、入れて、出す」みたいなギャグ映画なのか。
「取って、入れて、出す」。この一連の動きは、
江頭がベルトコンベアの流れ作業をテキパキ真剣にやっていて、
それをバイト仲間が見て、笑ったから生まれた鉄板ギャグなのだ。
主人公の平凡な退屈な日常を、切って、撮って、売る。
笑わせたいのだろうか。だとしたら、相当意地の悪い映画である。
実は、聴覚障害の方をとてつもなくバカにしてるんじゃないかと、
耳を疑う話である。
いやだから、耳は聞こえないし、笑えないんだが。
良かった演者
岸井ゆきの
負けないぞ❗️
岸井ゆきのさんの聾者の演技、
演技では終わらせないボクサーとしての体、
フットワーク、パンチ力、技に感嘆した作品。
顔の表情も、『愛ってなんだ』と別人。
聾者でプロボクサーになったケイコ、
足さばきも堂に行っている。
ホテルの仕事と掛け持ち。
弟とルームシェア。
会長役三浦友和さん、むさい雰囲気醸し出しても
往年のイケメン、ロマンスグレー🩶
ケイコ勝つ。母と弟観戦。
母は試合後、もうやめてと言う。
ケイコの左目、お岩さん風。
考えるケイコ。
インタビューで会長が耳が聞こえないことは
致命的❗️と言う。
ケイコの人間としての器量でここまで来た、とも。
弟だけでなく同僚とも手話会話。
会長の奥さん役仙道敦子さんに驚き‼️
ケイコ不安定。
聾者の友達と喫茶店で語らうが。
ボクシング🥊ができたこと。
プロになれたし、勝ったし。
これから先のこと❓が悩み?
ちょっと当分休もうか?
ジム閉鎖してしまう。
会長の身体思わしくない。 って松本泣く。
でも会長は前向き。
試合で負けた。
堤防でぼんやり座っていると、
近くで工事中の現場から作業服着た対戦相手が、
自分を見つけて近づいて来て
気をつけして頭を下げて自分に試合の礼を
言ってくれた。
その真摯な姿を見て、
ケイコ、
またファイト湧いて来たやんか‼️
何回も観ていたのにレビューまだでした💦
ジムのコーチ役の松浦慎一郎と三浦誠己の両名がいい味だった。 ジムの会長三浦友和と久しぶりに見た妻役の仙道敦子も印象的だった。
動画配信で映画「ケイコ 目を澄ませて」を見た。
2022年製作/99分/G/日本
配給:ハピネットファントム・スタジオ
劇場公開日:2022年12月16日
岸井ゆきの(小河ケイコ)
三浦誠己(林誠)
松浦慎一郎(松本進太郎)
佐藤緋美(小河聖司)
中原ナナ
足立智充
清水優
丈太郎
安光隆太郎
渡辺真起子
中村優子
中島ひろ子(小河喜代実)
仙道敦子(会長の妻)
三浦友和(ジムの会長)
三宅唱監督といえば、「きみの鳥はうたえる」(2018年)を見たことがある。
ケイコの弟役の佐藤緋美は浅野忠信の息子らしい。
耳が聞こえない元プロボクサー・小笠原恵子の自伝『負けないで!』が原案。
ケイコは、生まれつき両耳が聞こえない。
しかし、彼女はボクシングジムに通うプロボクサーである。
デビュー戦と第2戦を勝利した。
母親からは「いつまで続ける気?」と問われる。
ケイコ自身も、ボクシングを続けるかどうかの悩んでいる。
ジムの休会を願う手紙を書いたが、
会長に手渡すこともできずにいる。
ケイコはジムが閉鎖されると知り、次第に心が揺れ始める。
主演の岸井ゆきのだが、
手話とボクシングの両方を習得するのは大変だっただろうと思う。
ジムのコーチ役の松浦慎一郎と三浦誠己の両名がいい味だった。
ジムの会長三浦友和と久しぶりに見た妻役の仙道敦子も印象的だった。
映画冒頭からラストシーンまでずっとエモーショナルな雰囲気がとても良かった。
満足度は5点満点で5点☆☆☆☆☆です。
聴こえない世界にいつのまにか没入する
評価が難しい作品
うむむむー
だから日本映画嫌いになったんだよ!というお手本のような、雰囲気重視あとは皆さんがどう思うかが重要です的な放り投げ映画。言いたいことないなら映画作らなくていいって。キャラクター描写も中途半端よなー。トレーナー2人いるけど役割微妙過ぎ。現実はそうかも知れないよ、でもあんたが作ってるのは映画なんだから、もっと描き込みなさいよ。弟(なの?)の恋人もダイバーシティノルマを果たすためだけのような唐突な黒人ハーフ、しかもお姉さんとお話したくて手話を習いましたと取ってつけたような善人キャラ。何が言いたいの?こういういい映画でございヅラした日本映画は見てはいけないんだよなー、でもまた愚かにも見てしまうんだろうなー流されて。
耳も澄ませて
2回連続視聴した。
ジムでのトレーニング中のリズムカルな音(ダンダンダン...とか、スタンスタンスタンスタン...)、アーケード街での放送(不要不急の外出を避け....マスク...お願いします)や、自動車と電車の走行音、生活音が特徴的。
試合前のノートを音読するシーン、小河聖司(佐藤緋美)の弾き語りだけが唯一の挿入歌。
エンディングは、昭和ドラマのようにロールしないクレジットに音楽が一切ない。
小河ケイコ(岸井ゆきの)が通うジムの会長(三浦友和)は、宝くじを疑ったり、健康を害する検査に言及する。
2020年の主人公をピックアップしながら、リアルな世界を16mmフィルムに収めている。
小笠原恵子の自伝『負けないで!』が原案になっている。
Small, Slow But Steady
タイトルは、本作の英題。
私は、邦題よりも、こちらの方がこの映画の本質を捉えているように思える。
小さく、ゆっくりと、しかし着実に。ケイコは前に進む。そして、それはコロナ禍という異常事態であっても変わらず移ろいゆく「時の流れ」も同じ。
この作品は光と音の映画だった。
光。16mmフィルムは、解像度が低く、粗いようでいて、暗闇の中の街灯や電車の光を鮮明に、それでいてやさしく映し出す。
音。主人公ケイコ(岸井ゆきの)の台詞らしい台詞は、私の記憶が間違いなければ、「はい」という声とリングの上で相手に向かうときの咆哮だけだ。彼女を取り巻く人物達も決して雄弁ではない。
登場人物の台詞以上に雄弁なのは、都市の日常音、環境音である。中でも、何度も何度も出てくる電車の音。電車は、何かを遮るように突然現れ、音を残して去って行く。しゃべらないケイコのざわついた心情を代弁するかのように。
ケイコは耳が聞こえない。音が聞こえない。それなのに何故これほど日常の音を溢れかえらせるのか?三宅監督は、私たちがほとんど無意識に聞き流しているような音をあえて強調して聞かせることで、彼女のいる無音の世界を意識させようとしているのかもしれない。
ケイコは表情の変化にも乏しい。しかし、彼女は一人で戦っている。恐らく自分と戦っている。会長の妻(仙道敦子)が会長(三浦友和)のベッドの側で読む彼女の日記を聞いて、私の中でそれは確信に変わった。
そして彼女は敗れる。リングに倒れる。それを見た会長は、「よし!」と言って自ら車椅子を転がす。ケイコも走り始める。
終わってなんかいない。一歩一歩、着実に、前に進む。もう後ろには下がらない。前に進む。それは静かで、しかし力強いラストシーンだった。
三宅監督の力量に恐れ入った。
台詞無しでケイコという存在を演じきった岸井ゆきの。言葉少なくても味わい深い演技を見せた三浦友和。演じるとは何たるかを見せつけられた。私はノックアウトされた。
人間としての器量
冒頭の説明的なテロップの効果もあり、フィクションでありながらまるでドキュメンタリー映画を観ているような感覚を抱いた。
これが演出的にとても成功しているのだろう。
特にミット打ちのシーンは、演技ではなく本気で向かい合っているのが画面を通して伝わってくる。
そのリアルな臨場感がこの映画の持ち味だろう。
主人公は耳の聞こえない小柄な女性ケイコ。
王道なストーリーであれば、耳が聞こえないというハンデを克服し、ケイコがプロボクサーとして成長していくまでの過程を描くのだろうが、この映画では既にケイコはプロボクサーのライセンスを取得している。
そしてプロボクサーとしてリングに上がり、順調に勝ち星を重ねている。
リアルな空気感をまとったボクシング映画でありながら、ケイコがボクサーとして成長していくことに焦点は置いていない。
そもそもケイコがボクサーを目指した動機も謎のままだ。
この映画では語られない部分がとても多い。
ではこの映画の主題は何なのだろうと考えさせられた。
障害を持つ人間に焦点を当てているが、社会の生きづらさをテーマにしているわけではない。
印象的なのは、会長がインタビューでケイコにはボクサーとしての才能はないが、人間としての器量があると答えるシーンだ。
この台詞がこの映画ではとても重要なのではないかと思った。
ケイコは連続して勝ち星を重ねるが、突如ボクシングへの熱を失ってしまったように感じる。
それは会長がジムを閉めることを決意したことと無関係ではないだろう。
彼女がボクサーを目指したのは、そしてモチベーションを保っていられたのは、おそらく会長の存在が大きかったのだと思う。
認められたいという欲求とも違う気がするが、とにかく彼女は会長がいない世界でボクシングを続けることに意義を見出だせなくなったのかもしれない。
ボクシングとしての才能はないのかもしれないか、彼女はひたむきになれる強さがある。
そして無愛想だが実はとても親切で心優しい。
彼女が掛け持ちしているホテルの清掃の仕事で、新人にシーツの畳み方を教える時の柔らかな表情が印象的だった。
ケイコはボクシングを休みたいと伝えるために会長の元を訪れる。
しかしそこで会長が熱心に自分の試合の録画を見ながら、トレーニングメニューを組んでいる姿を見て驚く。
ケイコと会長が二人でシャドーボクシングをするシーンは印象的だ。
言葉を介さなくても、二人は心で繋がっていることが分かる。
そんな折り、会長は病に倒れてしまうが、再び彼女はボクサーとして戦う気力を取り戻していく。
ひたすらロードワークとミット打ちを繰り返す日々。
派手な試合のシーンよりも、そうした単調な基礎の練習の積み重ねを描くことの方が、この作品にとっては重要だったのだろう。
確実にミット打ちが上手くなっているケイコの姿に感動を覚えたのも確かだ。
努力を積み重ねても、必ずしも結果が伴うわけではない。
それは障害の有無とは関係がない。
悔しい思いをしても、地道に努力を積み重ねるしかない。
そしてひた向きに生きていれば、理解を示してくれる人は絶対に現れる。
ケイコの人物造形といい、かなりリアリティーのある作品ではあったが、どこにこの作品の肝があるのか、最後までいまいち理解出来ないままだった。
理屈抜きに好きになれるかどうかがはっきり分かれる作品だとも思った。
映画というより…?
ケイコの勝利
生まれつきの聴覚障がいのため耳が全く聞こえないケイコ。ホテルの下働きをしながらボクシングジムに通い、プロのリングにも立つ。だがこれは、そんな不遇のボクサーのサクセス・ストーリーではない。むしろ挫折の物語だ。
彼女はなぜ闘うのか。勝とうが負けようがリングに立ち、ジムで汗を流す。そのことだけに命の輝きを求めようとしているかのようだ。荒川あたりの河川敷で共にシャドウボクシングに励むケイコとジムの会長、岸井ゆきのと三浦友和が、まるで『ミリオンダラー・ベイビー』のイーストウッドとヒラリー・スワンクに見えてくる。会長に甘えるような岸井ゆきのの楽しそうな表情が印象的だ。
試合に負けた数日後、ケイコは偶然出会った相手ボクサーからリスペクトに満ちた挨拶を受ける。彼女の勝利の瞬間だ。映画は静かに主張する。試合に勝つことだけが勝利じゃない、時に挫けそうになる自分に打ち勝ってこそ、真の勝利があるのだと。
気迫と生き様が見事に光る
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