劇場公開日 2023年1月13日

  • 予告編を見る

「しゃべり倒すモリコーネ翁と、褒め倒すレジェンド軍団。至福の時間、あっという間の157分!」モリコーネ 映画が恋した音楽家 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0しゃべり倒すモリコーネ翁と、褒め倒すレジェンド軍団。至福の時間、あっという間の157分!

2023年1月18日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

エンニオ・モリコーネは、僕にとって特別な作曲家だ。
プロフィールにも記してあるとおり、僕はセルジオ・レオーネの熱狂的な信奉者であり、彼の残した6本の「聖典」は、未来永劫語り継がれる世紀の大傑作であると信じてやまない。
そして、セルジオ・レオーネ映画の30%くらいは、エンニオ・モリコーネで出来ている。

大学時代、レンタルVHS狂騒曲のただ中にいた僕は、毎日のように新宿と恵比寿のTSUTAYAに足を運びながら、「名画」として知られる映画を片端から借りまくっていた。
そのなかでも『荒野の用心棒』の面白さは、これまで面白いと思って観てきたハリウッド映画のすべてが色あせるほどに強烈だった。
さらに『夕陽のガンマン』をはさんで、『続・夕陽のガンマン』を観たときは、世界観が根底からひっくりかえるくらいの衝撃をうけた。
「こんな面白い映画が、世の中に存在したのか?」
「今まで観てきた映画はなんだったんだ?」
さらに、『ウエスタン』と『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』を観て、僕はレオーネ映画にぞっこんに惚れ込んだ。
当時、『夕陽のギャングたち』のパッケージだけはなぜかアクセスできず、観られたのはだいぶあとになってからだったが、待たされた甲斐はある、最高にイカした傑作だった(ション、ション、ション!)。

一方で、大学に合格して上京してきた初年、シネスイッチ銀座でロングランヒットを飛ばしていたのが、『ニュー・シネマ・パラダイス』だった。流行っているから観に行くか、くらいの軽い気持ちで足を運んだ僕は、思い切り号泣させられるはめに。
映画館で泣いたのは、たぶん人生で初めての体験だった。

どちらの映画でも音楽を担当していたモリコーネに、僕は強い関心を抱いた。
『ニュー・シネマ・パラダイス』のサントラを買い、レオーネ映画のサントラを買い、ベスト盤を何種類も買い、他のマカロニの音源も買い、日本未公開作のサントラまで買いあさった。とはいえ、モリコーネの音盤は、CDだけで400枚近くあって、自分が所有しているのはそのほんの一握りにすぎない。
その後、渋谷東急での『1900年』のリバイバル上映も、僕にとっては大事件だった。
去年初めてパゾリーニの『大きな鳥と小さな鳥』を観たら、音楽だけ先に知っていた、なんてこともあった。
僕の映画人生には、つねにモリコーネ・ミュージックがあった。
いや、僕だけではない。
中高年の映画ファンの多くにとって、モリコーネは特別な存在であり続けてきたはずだ。

ー ー ー ー

そして、楽しみにしていた『モリコーネ』が、封切られた。
こうして、まだ存命中のモリコーネが、生きて、動いて、しゃべっているのを観られるだけでも、僕としてはもう大満足なのだが、そのうえとにかくこのモリコーネ、よくしゃべる!! しゃべりまくる!!!(笑)
爺さん、すげえ記憶力だよなあ。しかも口ずさむどの曲も、キーがばっちり合ってるし。

160分近い長尺のドキュメンタリーだが、1秒たりとも退屈する間はない。
貴重な映像、貴重な証言、まだ観ぬ映画、まだ知らないモリコーネ。
圧倒的な情報量で、モリコーネという人物と、彼の手になる音楽、彼の生きた時代と、築き上げてきた評価が語られる。
観る前は尺の長さを見て、トルナトーレ監督、またこいつ「カットできない病」を発症したのかと思ったけど、邪推して悪うござんした。
この映画に削っていいところなんか、どこにもなかったよ。

当然出てくると思っていた人物も出てくるし、思いがけない人物も出てくる。
モリコーネより先に死んだはずのアレッサンドロ・アレッサンドローニ(『荒野の用心棒』で口笛吹いてた人)や、ベルナルド・ベルトルッチが普通に出てきて、ちょっとびっくりしたり(撮影にはモリコーネが亡くなる2020年まで5年くらいがかけられているので、その間に亡くなった人物の証言もちゃんと画面に記録として残されているのだ。素晴らしい!)、ジョン・ケージのハチャメチャな器物損壊コンサートを観て、頭を抱えて首を振ってる観客のオッサンが映ったり(こういう「自然」な反応は、今はケージとゲンオンの「権威」化によって喪われてしまった)。

恩師のペトラッシと卒業試験の95点の話でモリコーネが泣きかけたり。
僕の大好きなオーソン・ウェルズの『オセロ』の音楽に実は参加していたり。
バリトンについて語る当のレオーネの声が、凄い美声のバリトンだったり。
モリコーネ御用達のスキャット名人エッダ・デッロルソの姿を初めて目にしたり。
あのオリバー・ストーンやタヴィアーニ兄弟がモリコーネにクッソ怒られてたり。
クインシー・ジョーンズやブルース・スプリングスティーンら「モリコーネ絶賛部隊」に、指揮者のアントニオ・パッパーノが交じってたり(モリコーネはアカデミーやクラシック畑のような「権威」から本当は認められたかった人だから、本望だろう)。
なにこれ、どんだけ面白いシーンと証言、かき集めてあるの??

ドキュメンタリーとしても、彼を語るうえで重要な映画や音楽は、概ねきちんと尺をとって取り上げられていたように思う。
レオーネ映画に関しては、『荒野の用心棒』(出川の電動バイクの番組でBGMでかかってるやつ)、『夕陽のガンマン』(映画冒頭のメトロノームって、これの時計の音かと最初思った)、『続・夕陽のガンマン』(モリコーネが前の二つに関しては否定的な口ぶりなのに、『続』に関しては満足げだったのが面白かった)、『ウエスタン』(冒頭の効果音と登場人物のハモニカで成立する音楽の話、最高)、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(ここで耐えられなくなって俺、うううっとひとしきり嗚咽ww)に関してはじっくり語られていたが、『夕陽のギャングたち』についてスルー気味だったのはちょっと残念だったかも。

同級生だったモリコーネとレオーネが写っている小学生時代の集合写真や、レオーネが『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の撮影現場でモリコーネの曲をかけまくっていた証拠映像は、じつは1995年BBC製作の30分番組のドキュメンタリーで、既に見たことがあった。
今回の『モリコーネ』では、『1900年』や『ミッション』の話題に関しては、使う映画内の場面も含めてそのBBCのドキュメンタリーから結構まんまなぞっている部分が多々あるのだが、BBCのほうに出演してしゃべっていたブライアン・デ・パルマは、なぜか今回の映画には出てこない(『アンタッチャブル』の話ががっつり出てくるのに)。きっと複雑な権利関係とか、出演者間の思惑があったのだろうと類推される。

その他、パゾリーニの『大きな鳥と小さな鳥』での、スタッフクレジットを全部歌手が歌いあげてしまう(「エンニオ・モリコーネ、ム・ジ・コ! ハーハッハッハ!!」笑い声はモリコーネ本人)という天才的なアイディアや、『ミッション』でのオーボエと民族音楽と宗教曲の混淆という、映画の本質と関わる壮大な試みなど、観る前に僕が「マスト」と思っていたネタは、ちゃんとひろってあった。
ただ、『ニュー・シネマ・パラダイス』のところを妙に足早に通り過ぎたのは、さすがにちょっと気になった。監督が自作に深入りするのを含羞をもって避けたのか、それとも『愛のテーマ』(「息子のアンドレアの曲」なので、映画内ではかからなかった)に関して深入りしたくなかったのか。個人的には、「あれは実は相続対策では?」との長年にわたる疑念を、ここできっぱりはらしてほしかったんだが(笑)。

未見の映画では、『ポケットの中の握り拳』(マルコ・ベロッキオ監督)、『怪奇な恋の物語』(エリオ・ペトリ監督)、あとタイトルを忘れたが、三種の音楽を掛け合わせる話で出てきた新人監督の映画あたりが強烈な印象を残した。
いつか観ないとなあ。ああいう狂ったイタリア映画、無条件に好きだわ。

ー ー ー ー

今の人達にとっては、音楽家の作曲する楽曲が、シリアスなものか通俗的なものかなんて、たいして大きな意味を持たないことのように感じられるかもしれない。
だが、20世紀の音楽家にとって、自分が正統なクラシックのサイドに属しているか、商業音楽のサイドに属しているかは、常にプライドにかかわる重大な問題でありつづけた。
そもそもクラシックといっても、たとえば絶対音楽と標題音楽とでは、価値づけにある程度の温度差があるし、コンサートピースやオペラ、宗教曲を最上位と考えるならば、劇音楽やバレエ音楽、ダンス音楽などは、ある程度軽く見られてしまう部分がどうしてもある。
まして、映画やミュージカル用の楽曲は、あくまで「余技」「収入の一助」として捉えられるのが通例だった。ちょうど昔の「声優」業が、舞台俳優や新劇役者の腕試しと小銭稼ぎのサイドワークだったのと同じようなものだ。

ショスタコーヴィチやプロコフィエフのように、結構な数の映画音楽を手掛けている高名な作曲家もいるが、彼らにとっても本業はあくまで、本格的なクラシックの作曲にあった。
コルンゴルトにせよ、ニーノ・ロータにせよ、バーンスタインにせよ、武満徹にせよ、伊福部昭にせよ、三善晃にせよ、どれだけ映画音楽や軽音楽のジャンルで活躍しても、本人はシリアスな作曲家として捉えられることを強く望んだし、実際に演奏会用のクラシック曲を恒常的に残し、それらが高く評価されることを夢見た。

だから、モリコーネが抱えていた劣等感と反骨心、世間的評価との果てなき戦いは、決して彼ひとりの問題ではなかった。専門教育を受けて作曲業を生業とした人間すべてのかかえる問題だ。
ただ、彼は映画音楽家として、あまりに優秀で、あまりに成功し、あまりに世間に知られすぎた。
クラシックの作曲家として名を立てる前に、映画音楽家としての盛名を馳せてしまった。
だからこそ逆に、彼は「映画音楽」のフィールドで戦い続けるしかなかった。
クラシックに戻ることでではなく、映画音楽の価値と評価を高めることで、自分の誇りと功名心を充足させる必要があったのだ。

それでも、晩年のモリコーネが映画音楽の世界からフェイド・アウトし、クラシックの作曲と、オケを率いての自作の指揮に活動を移行していったのは、ベルリン・フィルで指揮者デビューを果たしたジョン・ウィリアムズや、自分の出自であるミニマル音楽に回帰しつつ新日本フィルでマーラーまで振り始めた久石譲とも、おおいにかぶる部分があって、実に興味深い。
この三人は、映画音楽を真の「芸術」の域にまで高めた大立者だといっていい。
それでも、彼らはやはり「クラシック」のサイドに認めてほしいのだ。
クラシックの側にも、自分の価値をきちんと知らしめたいのだ。
21世紀に入っても、作曲家のプライド問題というのはなんら変わらないもんなんだなあ、とあらためて思わざるを得ない。

映画音楽の父ともいえるコルンゴルトは、映画音楽を「歌のないオペラ」と捉え、ワーグナー風のライトモチーフの概念を持ち込んだ。ニーノ・ロータは、「覚えられるフレーズ」として結晶化された旋律を作品に導入した。後期ロマン派的なシンフォニズムを継承したジョン・ウィリアムズに対して、エンニオ・モリコーネは、イタリア・オペラ風の印象的なカンタービレと、ジョン・ケージ以降のノイズやサンプリングの概念を融合させる方向で、新たな映画音楽の形を模索した。
こうしてモリコーネは、半世紀におよぶ映画音楽の作曲活動を通じて、「映画音楽」が単なる通俗的な実用音楽ではなく、立派な芸術作品となりうること、メンデルスゾーンやチャイコフスキーにとっての「劇音楽」と何ら変わらない価値を持たせられるジャンルであること、むしろ旋律美をもつ調性音楽が生き残る場所は「ここしかない」ということを、われわれに知らしめてくれたのだった。
偉大なるモリコーネよ、永遠に。

最後に。
この映画の10%くらいは、セルジオ・レオーネで出来ている、とも言える。
逆にこの映画でレオーネを知った皆さん。
ぜひ、『続・夕陽のガンマン』を観てやってください。
マジで損はさせませんから!

じゃい
momokichiさんのコメント
2023年1月25日

モリコーネ愛、映画愛、そして映画に関する圧倒的な造詣が伝わってきました。素晴らしい、そして勉強になるレビューをありがとうございました。

> しゃべり倒すモリコーネ翁と、褒め倒すレジェンド軍団。

吹き出しました!笑

momokichi