「あらかじめ喪われている子どもたち」夏へのトンネル、さよならの出口 しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
あらかじめ喪われている子どもたち
主人公・塔野カオルは幼い妹が亡くなったことをキッカケに家庭が崩壊。母親は失踪し、父親は酒に溺れて息子に暴力を振るうようになっていた。
ヒロイン・花城あんずは、漫画家だった祖父に憧れて自分も漫画家を夢見るが、その夢を両親に否定され、「頭を冷やせ」と東京の家を出されて地方に転校することになった。
2人とも親がいないわけではないが、どちらも子どもを守り、導くような関係性ではない。
彼らは、まだ高校生でありながら、親という存在があらかじめ喪われている状態でストーリーに登場するのだ。
ゆえに2人は心を閉ざし気味で、喜怒哀楽に乏しい。
そんな2人が出会うボーイミーツガールの物語である。
では、感情表情が薄い2人のラブストーリーをどう表現するか?
ここがこのアニメの演出上のユニークなポイントとなる。
本作の工夫は「手」を効果的に使っていることだ。
2人の出会いは、塔野が花城に傘を貸すことから。つまり、塔野が差し出した傘を、花城が受け取るところから始まる。始まりも「手」だったのだ。
その後も、2人の感情の描写は手で表していく。
哀しみからぎゅっと握られる塔野のこぶし。お祭りで2人の手が伸びてつながれる。クライマックスでは、それまでの2人の手のクローズアップを回想するシーンまで登場する。
表情には出ない、出せない葛藤や悩み、苦しみ、そして互いへの想いを、2人は「手」で表現するのだ。
こうした演出は原作にはなく、アニメならではのものだろう。実に巧い。
本作には派手なアクションシーンはなく、基本的には心理劇だ。主人公たちの心理描写が丁寧に描かれているのは素晴らしい。
この映画は、夏の恋にウラシマ効果というSFのスパイスを効かせた、王道ジュブナイルのフォーマットに乗っている、と言っていいだろう。
同じ仕掛けを持つ新海誠の「ほしのこえ」を思い出しながら観ていた。
少年は喪われた家族を求めるが、少女は家族には見切りを付け(そもそも家族を喪ったわけではない)「特別な自分」でありたいと願う。
ウラシマトンネルに挑む時点では、2人はお互いを想っているわけではない上、そもそもの動機が違っている。だから、すれ違うのは必然だ。
だが、離れたことで2人は自分の想いに気付く。
ところが、ここでウラシマ効果が意味を持ってしまう。
少年にとっては半日程度の出来事だったが、少女にとっては6年もの時間が過ぎてしまうのだ。ここが、この設定の面白さが生きるところなのだが、残念ながら、この点を本作は深掘り出来ていない。
せめて、塔野が妹と会っているとき、過ぎた時間を計算する描写でもあればよかったのだが。
花城が過ごした年月を考えもせずにメールの返信をした塔野は身勝手過ぎはしないか。
そして塔野を待ち続けた花城は、6年もの年月をどう過ごしてきたのか、もっと描いてよかったのではないか。
見返りがあるかどうかも分からずに待つのは辛い。迷いや諦めが花城を襲わなかったわけはないだろう。
そして、塔野にしてみれば彼女を想えばこそ、「待たせるのも辛い」はずである。
こうした点で、本作の最大の「仕掛け」であるウラシマ効果を、2人のラブストーリーにうまく活かし切れていないように感じた。惜しい。
塔野にとって「喪われた大切なもの」は、花城と離れ、彼女の大切さを認識したことから妹から花城に変わった。妹もそれを許容した。
「喪われた大切なもの」が花城である以上、トンネルの効果によって、どうあっても塔野は花城の愛を手に入れることになっている。そう考えると、ラストシーンも少し興醒めだ。
このあたり、設定というか、設定の説明というか、または脚本の甘さがある。
想いが、障害や困難を越えるからこそラブストーリーは盛り上がるのだが。
前述の通り、2人は駅で出会った。
そこから線路は延びている。
だが、2人はどこにも行かずに、「そこ」にとどまり続けた。
ゆえに始まりも終わりも、ほぼ同じ場所で本作は終わる。だが時間だけが過ぎるのだ。
主人公たちの暮らす海辺の自然の景色は美しく見応えがある。2人の境遇は過酷ではあるが、自然はいつでも美しい。そこには尊さだけではなく、残酷さもあると思うが、ラストシーンもまた、風景は変わらない。時は過ぎ去っても。
そう。
想いと自然。環境やテクノロジーは変わっても、変わらないものの尊さ。ここに本作のメッセージはあるのではないか。
83分と、さほど長くはない上映時間だが、しっかりと素敵な余韻を残す。大作志向では決してなく、夏に似合う小品である。