「百合子の黄」百花 asaさんの映画レビュー(感想・評価)
百合子の黄
映画のテクノロジーはおいといて、原田美枝子ってやっぱり美人だな。
予告で期待したようなナニかが無かったぶん、少し肩透かし感は否めません
が、原田美枝子を見る映画として結果、ヨシでした。
内容は母と息子のヒズミをエモーショナルなかたちで
敢えてなのか?ドラマ(物語)に反映していない(出来なかった?)ので、「いいお話」どまりで終わりました。
その要因は「病が進行して社会生活できなくなっていく母と、それを静かに受け止め看病する息子」という広がりをもたない鬱展開にあったように感じました。
息子は一様には記憶の「断片」に苛まれはしますが、きほん状況に対して受け身でいて波風たてない模範的な息子です。
ある問題を有した主人公が棚ボタ式に解決へと導かれてヨシとされる、
こういう日常系、窓辺系?は邦画の流行りなのか、伝統になりつつあるのかどうか?
冒頭でも百合子が呟く薔薇の蕾ならぬ、「半分の花火…」も
結局、息子は本当の意味で追いかける(辿っていく)ことをしてません。
「起こった状況に対して賢明な対処する」でした。
施設に入れてからの家の始末で”百合子の部分”を見つけることはあっても、それは偶然でしかありませんでした。
結構重要な部分が全て「断片」で説明されるだけなので、冷めた見方をすると「でしょうね」としかなりませんでした。
この場合でいう、見たかったヒズミとは、、
百合子の「母親として、いち女性としてのはざま」や、その「とどめて置きたいけど忘れてしまうこと」だし、泉の「捨てられた?という忘れたいけど忘れられない沸々と潜む情念」だったし、、
それを病と格闘する「日常」のなかでの、二人のせめぎ合いを真正面から見たかったです。
また、分かりやすい色使いの演出はよかったのですが、
もし百合子が百合子であることを黄色とするのなら、、
ラストの縁側で、転嫁か輪回なのかで初孫に黄色をまとわせるも良いのですが、
不治の病に陥り、もう戻ってこない百合子を白と表現するのはどうかと思いました。
そこに映画の語り部である作者の、病気と対峙する及び腰な姿勢(描き方)を感じました。
もし最後百合子に白をまとわせるのなら、
息子である泉は、あの時この場所に確かにあった”半分の花火”に(偶然ではあるが)”気づけた”わけなので、、
少なくとも彼の目の中にだけは、花火の光で全身黄色で照らされる母像を映してほしかったです。
そうでないと泉は「気付き」だけで、母百合子を「受け入れ」られたように見えないと思いました。