「羊が生んだのは、ただの羊ではなかった……アイスランドを舞台に描かれる現代のフォークロア。」LAMB ラム じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
羊が生んだのは、ただの羊ではなかった……アイスランドを舞台に描かれる現代のフォークロア。
公開当初は、なんとなく辛気臭そうなのでスルーするつもりでいたが(失礼)、北米でA24が配給した映画だと訊いて、「それなら観とかないとなあ」と、慌てて渋谷に観に行ってきた。
ちなみにいつもの通り、映画館で予告を観ただけで、予備知識は一切なしでの鑑賞。
フォークロアと象徴性。ホラーと文芸の融合。シネフィル的な感性。
うーむ、たしかに、こいつはいかにもA24が好みそうな映画だ。
内容も、なかなかに面白かった。
そこに落とすんだ! みたいな。
「くだん」という妖怪をご存じだろうか。
この映画の予告編を劇場で観たとき、最初に思い浮かんだのが「くだん」だった。
「くだん」は、半人半牛の存在で、牛から産まれてすぐ人語を発し、豊凶や疫病、兵乱などを予言する、いわゆる「予言獣」である。江戸時代から長く語り継がれるなかで、もともと「人頭牛身」だったのものが(例:内田百閒『件(くだん)』)、第二次大戦末期からは、「牛頭人身」の牛女のパターンも現れたという(例:小松左京『くだんのはは』)。
「件のごとく」の語源(人+牛)になったとの俗説もあるくらいの、有名な予言獣である。
この手の半人半獣の伝承や神話、都市伝説が世界中で語り継がれてきた背景として、畜産業において一定数産まれる、「人面」の奇形獣の存在があるのは間違いない。
今回観た『LAMB/ラム』では、まさにアイスランドの羊農家がこの「奇瑞」に遇して、人生を狂わせてゆくことになる。
テーマが「羊」というのも、意味深だ。
「羊」という動物は古来、人間と深く結びついてきた家畜だけに、登場するだけでいろいろなコンテクストを喚起する。
まずは、アイスランド土着の最も一般的なリアルの産業としての「畜産」のイメージ。
それから、「人間に従順」で「頭の弱い」「群れを成す」動物としてのパブリック・イメージ。
「神の子羊」からくる、キリスト教の宗教的イメージ。
アルゴ探検隊が求めた黄金羊の毛皮からくる、「ギリシャ神話」の連想。
(これはイコール「星座」の連想をも喚起するし、ギリシャと言えばミノタウロスのイメージも本作と密接につながってくる)
近接種である「山羊」からもたらされる、悪魔的なイメージ。
その他、これまで「羊」が登場してきた様々な創作物のイメージが、続々と流れ込んでくる。
どうでもいい話だが、東洋人にとっては、「干支」の連想なんかもあるよね。
映画を観ながら、「干支ホラー」の打順って組めるのかなあ、とか思わず考えてしまった。
『ベン』『ホワイト・バッファロー』『バーニング・ブライト』『アス』『アナコンダ』『スリーピー・ホロウ』『LAMB/ラム』『モンキーシャイン』『鳥』『クージョ』……ああ、「辰」と「亥」が思いつかん(笑)。
とか思って検索かけたら、韓国ホラーに『人喰猪、公民館襲撃す!』とかあるのね……。
閑話休題。
本作『LAMB/ラム』を語る視座として、個人的に重視したいのは、以下の3点だ。
その1、ジャンル映画と文芸映画の融合。
その2、現代のフォークロアとしての「アイスランド」との密接なつながり。
その3、思いがけない展開と、思いがけないオチ。
その1については、なんといっても監督のヴァルディミール・ヨハンソンは、あの『ニーチェの馬』のタル・ベーラ監督の弟子筋にあたるというから、いわゆる「ジャンル映画」の人ではない。
実際、どこまでも静謐でありながら、大地に根付いて生きる民衆の人間臭さが常に漂っているという点で、師匠の影響(あるいは共通する映画哲学)を感じ取ることは、決して難しくない。
『LAMB/ラム』の舞台となる、灌木と牧草に覆われた、てっぺんの平たい丘陵を後背に有する草原地帯って、カール・テオドア・ドライヤー(とくに『奇跡』)やベルイマンの映画に出てくる風景を想起させるところがあるし(どっちも北欧圏だから、そりゃ似てて当然なんだが)、人間の描き方も、ホラーというよりは文芸映画のそれに近い。
「羊人間」という異形を物語の中核に据えながらも、この映画で描かれているのは、
子供を亡くした両親の苦悩と葛藤、
継子育てを介しての「家族とは何か」という根源的な問い、
「人間と自然/人間と動物」のせめぎ合い、
そして、アイスランドの農地に孤絶して生活する一家の、孤独とバイタリティだ。
言葉も交わさない、吐息だけが響くしじまのなかで、ひりひりするような夫婦のドラマが紡がれてゆく。
彼らを支配するのは、取り返しのつかない後悔。
ぽっかり空いた心の穴を埋められない虚無感。
それでもなお生き続けなければならない理不尽。
そんな彼らの心を埋めてくれたのが、「アダ」の存在だ。
彼らは、喪われた我が子の「代替物」として、家畜から子供を「簒奪」する。
それを可能にするのは、ある種の「認知の歪み」だ。
アダは我が子。アダは生まれ変わり。アダは私たちのために生まれてきた。
そう自分たちに暗示をかけることで、いつしか新たな「擬似家族」が形成されてゆく。
(弟の第三者的な視線が介入するまで、アダには「彼ら夫婦二人にしか人間に見えておらず、その正体はただの羊に過ぎない」という可能性すら、うっすら残っていたことにも留意したい。)
要するにヴァルディミール監督(アイスランド人に姓はなく、後ろの●●ソンというのは、●●の息子というだけの意味らしいので、敢えてこの表記にする)は、ジャンル映画的な要素をフックに用いながらも、ベルイマンやドライヤーやタル・ベーラやアンゲロプロスやラース・フォン・トリアーあたりとそう変わらない、張り詰めた「まっとうな映画」――「感情のありよう」と「生きることの意味」を問う「究極の人間ドラマ」を撮ろうとしているのだ。
ー ー ー ー
その2。本作の「土着性」について。
アイスランド人監督が、アイスランドを舞台に、アイスランド人俳優を用いて撮る。
題材は、アイスランド人にとって最も親しみがあって誇りにも思う産業である「牧羊」。
本作は、言い方は古いが、ある種の「国民主義的」な映画なのだと僕は思う。
ハリウッドで研鑽を重ね、サラエヴォでタル・ベーラに学んだヴァルディミール監督が、地元の俳優ふたりにノオミ・ラパスを加えて、アイスランド・ロケでわざわざ撮った映画だ。
ノオミ・ラパスは国際派のスター女優だが、スウェーデン人かと思っていたら、5歳から7,8歳まではアイスランドに住んでいたらしい。どうりでアイスランド尽くしの映画でアイスランド語の台詞をちゃんとしゃべってるわけだ(流暢にしゃべれているかどうかは我々にはわかりませんが)。
ある意味、ノオミ・ラパスもまた、ヴァルディミール監督同様、この映画で「故郷に錦を飾っている」のだといえる。
アイスランドは決して大きな国ではない。人口35万人の小さな島国だ。
人の出入りの極端に少ない、国家レベルで遺伝子実験に用いられるくらい国民それぞれの先祖が辿れてしまうような、閉ざされた集団。
それでもこの国の人々は、文学や音楽の分野でこれまで高い成果を挙げつづけてきた。
われわれにとっては、なんといってもヨハン・ヨハンソンとビョークを輩出した国だし、近年ではアーナルデュル・インドリダソンの『湿地』やイルサ・シグルザルドッティルの『魔女遊戯』など、ミステリーの紹介も盛んだ(実際には、ほとんど殺人の起きない土地柄らしいが)。
映画産業も、僕はこれまでちゃんと観たことはなかったが、この国の規模からすればびっくりするくらい発展しているようだ(どちらかというと、個人的にはSFのロケ地ってイメージが強いけど)。
ヴァルディミール監督は、こうしてアイスランドの素材と人材だけで固めて、世界に発信できる映画を撮ることで、自らの母国の文化的な高みと成熟を世に知らしめようとしているのだ。
だから、本作のテーマがなぜ「羊」なのかというと、第一義的には、やはりこれが「アイスランドの映画」だからなのだと思う。
監督の祖父母も羊牧場を営んでいたそうだし、主演男優も牧場で馬を飼っているらしい。
監督いわく、「農場の仕事というのは男の仕事も女の仕事もない」。
つまりは、牧場経営の過酷さこそが、アイスランドの名高い「男女平等」の礎になっているという指摘だ。本作におけるマリアとイングヴァルの結びつきとせめぎ合いもまた、孤立した生活環境と苛烈な労働が背景となっているのだろう。
監督は述べている。「本作には特定のものではなく、多くのアイスランドの民話が織り交ぜられています。私たちが作りたかったのは、現実的なストーリーの中に一つの非現実的な要素が存在し、一方で、特にその非現実的要素に触れることをせず、他と同様に現実的にしてしまうような物語です」
つまり、本作はアイスランドの「今」を舞台に語られる「フォークロア」なのだ。
現実と地続きで、現実のなかに非現実が不可分に溶け込んだフォークロア。
それは、神秘的な自然に包まれたアイスランドの「今」そのものなのかもしれない。
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その3。オチについて。
ネタバレはしないが、本作のオチは結構、意想外のところから襲ってくる。
少なくとも、僕はしょうじき予見していなかったので、かなりびっくりした。
いや、冒頭シーンの意味さえ間違いなく理解できていれば、じつに順当といえば順当な展開ではあるのだ。だが、大半の観客は、冒頭シーンの曖昧さと不確実さに翻弄されるし、文芸映画ふうの語り口や、擬似家族に焦点を当てた地味な展開(および、そのせいで間歇的に襲ってくる睡魔)のせいで、巧い具合に「そうじゃない方向に」誘導されてしまう。
むしろ僕なんかは、「人と羊」という組み合わせから、「神の子」と「悪魔の子」(キリストとアンチキリスト)という「反転」のテーマを扱った作品だろうと、はなから勝手に決めてかかっていたので、「ああいうこと」になって終わるとは、まったく想定していなかった。
要するに、『グレムリン』におけるギズモとグレムリンのような話――あるいは、『オーメン』や『エクソシスト』や『ローズマリーの赤ちゃん』みたいな話の展開を考えていたので、見事に背負い投げを食わされたのだ。
ていうか、あの空気感の映画に敢えて「アレ」をぶち込んでくる感覚は、相当にキッチュだし、アナーキーだし、半分ギャグだし、シュールでリアルだ。
本作がキリスト教的なテーマを内包しているのは、間違いない。
他の名前はさておき、ヒロインの名前が「マリア」というのはあきらかに意図的だ。
アダが聖夜に生まれてくるのも、「神の子羊」としてのイエス・キリストと紐づけられているからだ。まさにヤン・ファン・アイクの『神秘の子羊』祭壇画の世界である。
ラストで流れるヘンデルのサラバンドも、宗教曲ではないにせよ、宗教的な気分にはさせてくれる。
ただ、必要以上に宗教的なメタファーを導入していないのも、作り手の匙加減の巧さといえる。
むしろ、中盤の「子育て」シーンは、ごく一般的な北欧の家族映画を観ているかのような仕上がりだ。
アダは羊頭だが、それ以外はいたってふつうの、内気でけなげな女の子。観ているうちにこちらの違和感もなくなってゆく。考えてみれば、ディズニーやら『メイプルタウン物語』やら『ビースターズ』やら、童話やアニメの世界では「動物の頭と人間の身体」をもつ存在はむしろ「居て当たり前」なのであり、観ているわれわれが「だんだん慣れて当たり前に思えてくる」のも、きっと作り手の計算のうちなのだろう。僕なんか、結局この話って、オーソドックスな「継子」話であると同時に、なんらかの障碍をかかえたお子さんをもつ親が、いかにわが子を受け入れていくかをファンタジーに事寄せて描いた話なのかもと思っていたくらいだ。
だからこそ、あの唐突で暴力的な終盤の展開は、しょうじき予期していなかった。
物語の「空気感」が、物語のギミックの隠蔽に作用する好例だ。
総じて長くて退屈な印象はあったし、途中何度か軽く寝落ちもしてしまったものの、個人的には観てよかったと思う。なんか、すげーアイスランドに行ってみたくなりました。