「なぜ冒頭のラジオにだけ字幕訳が付いているのか?」LAMB ラム しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
なぜ冒頭のラジオにだけ字幕訳が付いているのか?
冒頭のシーン。
羊舎の扉が開き、羊が画面のほうをじっと見つめている。
“なにか”が入って来たのだ。
ラジオが鳴っている。
アナウンサーは、この日がクリスマスイブだと告げる。
鳴っているラジオに字幕の訳が付くのはここだけである。
なぜか?
クリスマスはキリストの誕生日である。
そして、キリスト教における羊は犠牲の象徴だ。
キリストは人類の罪を背負う者とされ、その象徴が羊なのである。
たびたび映るアイスランドの大自然。
そのカメラは単に自然を映していたのではない。
その中に棲む人智を超えた存在を映していたのだ。
自然の中に棲む“なにか”は雌羊を孕ませ、自分の子を産ませた。
ところが、雌羊が産んだ“なにかの子”は人間が奪ってしまう。
その雌羊を飼っている人間の夫婦のイングヴァルとマリアは子どもを早くに亡くしていた。その埋め合わせをするかのように、夫婦は、その“なにかの子”を自分たちの子どもとして育て始めてしまったのだ。
亡くした子どもと同じ「アダ」という名前を付けて。
アダを産んだ雌羊は、我が子を返せと夫婦の家の近くに来て、訴えるように鳴く。
思い余ったマリアは、その雌羊を殺してしまう。
やがて、夫婦の家に夫の弟ペートゥルが現れる。
彼はマリアに言い寄る。
すなわち、この映画には聖書にある十戒のうちの3つの罪が描かれている。
汝、盗むなかれ。
汝、殺すなかれ。
汝、姦淫するなかれ。
上に書いた疑問に戻ろう。
なぜ、冒頭のラジオにだけ字幕訳がつくのか?
それは、その内容が本作に関係するからだ。
つまり、この映画はキリスト教の知識を念頭に置いて読み解く必要がある、ということである(妻の名前がマリアであることにも注意)。
夫婦の家は、大自然の中に抱かれるように建っている。
そして、彼らが飼っている羊もまた、自然の一部だ。
イングヴァルは、アダのことを不審に思ったペートゥルに対して「あれは幸せだ」と説明した。
だが、それは人間の側の勝手な都合に過ぎない。
その勝手で犯した罪を、自然は見逃さなかった。
そう、本作のテーマは「罪と罰」なのだと思う。
ラストを「羊の復讐」と捉える向きもあるだろうが、僕は違うと思う。
あの「なにか」は、人間や羊も超越した存在で、むしろ自然に近い、神のようなものだろう。
だから、神の存在を「見せる」ために、たびたびカメラは自然の風景を映し、嵐の中の儚い存在として彼らの家を描いた。
だから、あのラストは犯した罪に対して、罰が下ったのだと解釈したい。
いや、現実に雌羊を殺したのはマリアではないか、という指摘があるだろう。
いや、だからこそ、「犠牲」というモチーフが生きるのではないか。
羊から生まれた子を可愛がり、暮らしたイングヴァルとマリア。
だが、その過程では盗み、殺すというおぞましい罪を犯していた。
繰り返しスクリーンに映される美しい自然。
だが、それはいつでも人間を超えた存在であり、人の暮らしの都合など気にも留めない。
人間は、自然を開発し、破壊し、奪い、文明を発達させてきた。
それらすべては、どこまで行っても人の身勝手に過ぎない。
イングヴァルとマリアのしたことは、冷静に捉えれば身勝手としか言いようがない。
身勝手が度を越したとき、罰が下ったのだ。
さて、本作。
上記のメッセージを伝えるにあたり、この不気味さと可愛らしさのミックス具合が絶妙だ。
アダ、そして、アダと日常生活を送る異様なビジュアルはインパクト十分。
しかも、それはペートゥルが現れて初めて描かれる。その異常さを見せるために、ペートゥルの視点が上手く使われているのは巧みだ。
夫婦を演じた俳優の演技には、狂気を帯びながら淡々と日常生活を送る不気味さを感じさせた。特に妻マリアを演じたノオミ・ラパスが素晴らしい。
ホラーやスリラーというよりも、どちらかというと「怖い民話」のような味わい。
本来はアダも、羊たちも、そして何よりこの夫婦も相当不気味なはず。
それだけに、アダの異様なビジュアルや、群れでいる羊の気持ち悪さも活かしきれていないのが残念。